最新の頁   »   新芸術派(石川信雄・斎藤史・前川佐美雄)  »  石川信雄と斎藤史 その六
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 斎藤史「歌集『シネマ』」が引く歌の二首目は、次の歌だ。
 

嬰児(みどりご)のわれは追ひつかぬ狼におひかけられる夢ばかり見き

  石川信雄『シネマ』



 石川信夫「斎藤史:人と作品」(『短歌』1959年8月号。原本はタイトルを「斉」と誤植)によれば、『短歌作品』1巻3号初出の歌である。

 一首のテーマは、「われ」の探究。「東京の都市文化や風俗を担う語」を「きらめくイルミネーションのごとく撒きちらしている」(島田修三「新しい都市文化と短歌」、『昭和短歌の再検討』砂子屋書房、2001年7月)などと評される『シネマ』の、これは別の一面である。

 「追ひつかぬ狼におひかけられる」は永遠に狼に追われ続けるといった意味に取れるが、それにしてもいささか表現の仕方がねじれている。しかし、このねじれこそが悪夢の恐怖に迫真性を与えるのだろう。

 さて、この歌に示唆を受けたとおぼしき作が『魚歌』にある。
 

アクロバテイクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

  斎藤史『魚歌』



 初出は『短歌作品』2巻2号(1932年2月)。石川信雄「斎藤史:人と作品」も、この史の歌の「夢ばかり見き」について、「どうも聞いたような語句だと思って調べて見たら」自分の歌に先蹤があった、と記している。

 ただ、こちらは「われ」の夢ではない。代わりに登場するのは「アクロバテイクの踊り子」。西欧風の風俗に取材している点は、石川の一首よりもモダニズムらしい。「白い蛭」という気色の悪い味付けはあるものの、「われ」は消去され、目立った表現のねじれもないので、印象はかろやかだ。

 石川の歌は、嬰児時代の回想という設定で過去の助動詞「き」を使用する。対して、史の歌の方には、過去の助動詞で歌い納める必然性がない。石川の歌を史なりに咀嚼して新たな一首を作ったが、やや消化不足の感もある。

 斎藤史「歌集『シネマ』」が「ポオリイ」「嬰児」の二首に付したコメントは次のとおり。
 

 これらの歌を読んで、あはあはと笑つた人が居た。なんとも変てこだ、と云ふのである。かういふ歌といふのは無い。と云ふのである。たしかに、今迄はなかつた。だがその人だつて、ほんたうに若くてしなやかな、純粋なくせに複雑な、併も野放しな感覚の、或る一時代は持つたであらうから——結局、おしまひまですつかり、この歌集を読むことになつたのであつた。



 「若くてしなやかな、純粋なくせに複雑な、併も野放しな感覚」というところに、史が石川信雄の歌をどう理解していたかということが表れている。そして、この感覚をみずからのものにしようと試みたのが「アクロバテイクの踊り子」の歌ということになろう。


(2014.8.18 記)

関連記事
NEXT Entry
『塔』2014年8月号(1)
NEW Topics
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(3)
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(2)
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(1)
ご挨拶
できんくなるかもしれん考
第一回BR賞並びに石井大成「〈ほんまのこと〉への機構」メモ
山崎聡子「わたしたちが身体を所有すること」メモ
「意志表示せまり声なきこえ」の解釈
『現代短歌』2020年5月号(特集 短歌と差別表現)について(9)
『現代短歌』2020年5月号(特集 短歌と差別表現)について(8)
コメント
Trackback
コメントを書く
 管理者にだけ表示を許可する
ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930