私は森本平さんのものの考え方だとか、その歌の読み方だとかを信頼していて、雑誌などで森本さんの文章を見つけたら何をおいてもまず読むことにしている。ただ、今回の選後評はどうか。
「世評が高くても私は認めていない人」とか「人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人」とか、いったい誰のことだろうと想像する楽しみはあるし、
という一文には勇気付けられる思いがした(「それ」とは東日本大震災のこと)。しかし、全体としては、この選後評の文章はうまくないと思う。
「一切」心掛けていないとは、相当思い切っている。この言葉を裏付けるように、今回の「平成百人一首」には、よく引用される歌、つまり私でも知っているような歌が少ない。どの歌も、森本さんが幾多の歌集を読んで、そこから自分の手で採ってきたものだと思える。
しかし、どうだろう。「一切」とまで言い切るのはたしかに突出していると思うが、公正でないこと自体はもともと当然のことではないか。いまだかつて、だれもが納得できる選歌などあったためしはない。ところが、この文章は「とりあえず言い訳……から」と言いながら、結局大半をこの言い訳に費やしてしまうのだ。
公正で客観的な選歌などあり得ないということを心のうちで思いつつも、そうは言わずに公正、客観を装うのが正しいやり方だと思う。そうであってこそ、私たちはその選歌を褒めたりけなしたり、あれこれ言って楽しむことができる。公正でないと開き直るのは、要するに選者のほうが先手を打って、読者の楽しみを封じているわけだ。そうするくらいなら、初めに原稿依頼を断ればよいのに。今回の百人一首の選を喜んで引き受ける人(口では、ヒドいなどと言いながら)はいくらでもいるだろう。
それともう一つ、選後評を書くなら、選んだ理由を書くべきだと思う。選んだ理由が明示されていれば、私たちはより一層「あれこれ」言いやすくなる。今回の文章には、この理由が書かれていない。
私一人の意見ではないはずだ。同じ掲載誌に関悦史撰「平成百人一句」もあって、その選後評は私が望むような形になっているのである。
森本さんは
と言うが、一人遊びなら自分のノートのなかで楽しむのがよいと思う。
(2014.4.20 記)
「世評が高くても私は認めていない人」とか「人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人」とか、いったい誰のことだろうと想像する楽しみはあるし、
それで短歌観が変わるなら、しょせんその人はそのレベルで短歌と付き合っていたということである。
という一文には勇気付けられる思いがした(「それ」とは東日本大震災のこと)。しかし、全体としては、この選後評の文章はうまくないと思う。
とりあえず言い訳、もしくは選歌基準から記しておこう。(略)今回は公正で配慮ある、誰もが納得するような百人、百首などというものは、一切心掛けていない。
「一切」心掛けていないとは、相当思い切っている。この言葉を裏付けるように、今回の「平成百人一首」には、よく引用される歌、つまり私でも知っているような歌が少ない。どの歌も、森本さんが幾多の歌集を読んで、そこから自分の手で採ってきたものだと思える。
しかし、どうだろう。「一切」とまで言い切るのはたしかに突出していると思うが、公正でないこと自体はもともと当然のことではないか。いまだかつて、だれもが納得できる選歌などあったためしはない。ところが、この文章は「とりあえず言い訳……から」と言いながら、結局大半をこの言い訳に費やしてしまうのだ。
公正で客観的な選歌などあり得ないということを心のうちで思いつつも、そうは言わずに公正、客観を装うのが正しいやり方だと思う。そうであってこそ、私たちはその選歌を褒めたりけなしたり、あれこれ言って楽しむことができる。公正でないと開き直るのは、要するに選者のほうが先手を打って、読者の楽しみを封じているわけだ。そうするくらいなら、初めに原稿依頼を断ればよいのに。今回の百人一首の選を喜んで引き受ける人(口では、ヒドいなどと言いながら)はいくらでもいるだろう。
それともう一つ、選後評を書くなら、選んだ理由を書くべきだと思う。選んだ理由が明示されていれば、私たちはより一層「あれこれ」言いやすくなる。今回の文章には、この理由が書かれていない。
私一人の意見ではないはずだ。同じ掲載誌に関悦史撰「平成百人一句」もあって、その選後評は私が望むような形になっているのである。
森本さんは
要は楽しみたい、楽しませてくれ。
と言うが、一人遊びなら自分のノートのなかで楽しむのがよいと思う。
(2014.4.20 記)
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