最新の頁   »  2019年03月24日
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 『現代短歌』4月号の特集「花のうた」では、瀬戸夏子選のアンソロジーが楽しい。一歌人一首の決まりで、明治以降の個人歌集から花を詠み込んだ歌を二百首選んでいる。歌人二百人となると、正岡子規から私の知らない最近の新鋭まで、とにかく色々な人と色々な歌が集まる。かつては有名だったが今はほとんど言及されない歌人の一首があるかと思うと、つい二、三ヶ月前に出たばかりの歌集の一首がある。それらを隣り合わせるような、網羅主義と選者の個人的好みを掛け合わせたような、何と言えばよいか、大網羅主義で圧巻。

 こういった企画は選歌に偏りがあるとつまらなくなる。有名歌人の有名歌ばかりだと退屈。かといって選者の特殊な好みだけが目立つと、私などは「そう?よかったね」としか思わない。瀬戸選のアンソロジーはその辺りの匙加減がうまいのだろう。

 大御所を追ってゆくと、

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

  釈迢空『海やまのあひだ』(1925年)


のように有名過ぎるのがある一方、

泡青と薔薇いろのあぢさゐの玉を配す花は配材のためにゆめみる

  葛原妙子『朱霊』(1970年)


はあまり知られていない一首。この「そうだよね」と「ほーーそうくるか」の行き来が楽しいのだ。選がしっかりしているから、その選に漏れた歌を探すおもしろみも出てくる。自分の気付いたところでは、

君こそ淋しがらんか ひまわりのずばぬけて明るいあのさびしさに

  佐佐木幸綱『群黎』(1970年)


とか、

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ

  成瀬有『游べ、櫻の園へ』(1976年)


とかがない。瀬戸さんはどちらにもよい評価を与えなかったということか。

もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに

  加藤治郎『サニー・サイド・アップ』(1987年)


も選んでいない。近ごろの加藤さんの問題発言「女性歌人は……自由に空を翔けていくような存在」「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズ」が影響したわけでもないだろうけど。

 会津八一も入ってないなー、と思いつつ『南京新唱』(1924年)を読み返してみると、奈良の歌篇には

はるきぬといまかもろびとゆきかへりほとけのにはに花さくらしも


以外にほとんど花の歌がないのだった。今まで気が付かなかった。選ばれなくて惜しいと自分が思う一首は、

みどりごの夜半(よは)おのづから眼をあきてポリアンサスの白きかがやき

  柴生田稔『春山』(1941年)


 これが選に入らないのは、瀬戸さんが「いつ読んでも新鮮に鳥肌が立つ」(「白手紙紀行」vol.12、同誌同号)と激賞する、

みどりごは泣きつつめざむひえびえと北半球にあさがほひらき

  高野公彦『汽水の光』(1976年)


と印象が幾分重なってしまうからか。しかし、柴生田の歌の方がずっと早い時期の作であるし、当時としては嬰児と花の取り合わせも、その花の幻想的印象も、またその印象を生み出している結句の句法も斬新な気がするので、やはり惜しい。

 私の知らない歌人が何人もいた中では、

水深をもらえば泳ぎだす犬に花降りそそぐ季節があるの

  宇都宮敦『ピクニック』


がよいと思った。「水深をもらえば」と「季節があるの」は限りなく無意味に近い。こういった、韻律に奉仕するような、はかない歌が好きだ。


(2019.3.24 記)

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Author:和爾猫
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