最新の頁   »  2018年09月
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 また、八一に「槻の木」という、1932年執筆の随筆がある。

 もうかれこれ、余つぽどまへのことになるかも知れない。第一学院の講師室の御ひる時、今迄見えなかつた窪田君が忽ち目の前に立ちあらはれて、例のにこやかに
「オイ一つ御願ひがあるのだがね」
 此人から、かう出られると、たいていろくな事で無いから、先づ以つて困りながら聞いて見ると、果せるかな字を書けである。
「頼まれて来たのだが、槻の木といふ三字を、横に書いて見せて貰ひたい」
(略)間もなく其三字を表題に刷つた雑誌が送られて来た。窪田君の家来共の出す雑誌である。(十二巻本『会津八一全集』第七巻、103頁)


 空穂と八一が初対面で歌について論争したのが1925年の4月前後。同じ4月、八一は早稲田大学早稲田高等学院教授に就任。7月以降に「孤雲還」の額が空穂宅に入り、その書をおもしろく思った空穂が「槻の木」の題字を書くのを八一に依頼した、という流れだろう。表紙に八一の字を得た『槻の木』の創刊は翌26年2月である。空穂は八一の才能を認め、八一は年長で学芸に通じた空穂に八一なりの心配りを示した。八一の随筆からは、二人のそんな関係が窺われる。

 八一の没後に、空穂は次のように回想している。

 同君長逝まで廿数年に亘る親交であつた。親交というのは、会心という意味で、双方安心して、心中に思つていることを何でも話し合える交りだつたのである。その間私達は、一度も厭やな思いをしたことはなかつた。互いに気ごころをのみ込み合つていたから、おのずから限界を守り合えたからである。(「秋草道人の思い出の一部」、九巻本『会津八一全集』附録第七号、1959年4月)


 「何でも話し合える交り」とは言うものの、全てに気を許し合う親友というわけでもない。「おのずから限界を守り合えた」といった辺りに大家同士の関係の取り方をかいま見ることができる。しかし、また、空穂は次のようにも書いている。

 会津君はおりおり私の住宅を訪うてくれた。(略)長座となり、飯時となると、
「おれにはもり蕎麦二つ」というのであつた。そして、「それが一番良い」と云い添えもした。
 このように云うと、会津君という人は、いかにも無遠慮な、何もかまわない人であるかのように見えようが、これは同君の演出で、内実は反対に、細心な用意を持つてのことなのである。それは同君自身、後日、つくづく述懐したので知られる。
「君、何が面倒だつて、知人の家へ、ふらりと尋ねたという恰好で尋ねるくらい面倒なことは無いねえ」(同)


 これを見ると、空穂が八一のよき理解者であったことは間違いない。八一は付き合う相手としては相当に面倒くさそうな性格の持ち主だったが、生涯にわたって師や先輩、友人、門弟に恵まれた。人を引き付ける本質的な個性を八一が持っていたということだろう。もう一つ、二人に関して、私の好きなエピソード。

 「槻の木」の新刊紹介欄で、空穂先生が秋艸道人と小杉放庵の歌集について書かれたことがある。共に原稿紙半ピラで三枚までの短いものだったが、それを秋艸道人は、来訪の学生たちの前で読み、両方の行数を数えて、俺の方が何行沢山書いてある、それに俺の方が先になっている、小杉放庵より俺の方がいいんだ、といって喜んだそうである。ぼくは秋艸堂へは行かないから、この話も、行ったものが空穂先生に報告しているのを聞いたのだが、その時先生が「子供みたいだ」と笑っていられたのを憶えている。(山崎剛平『老作家の印象』238-239頁)


 空穂の文章とは、『槻の木』1934年3月号掲載の〈新刊の二歌集:「南京余唱と放庵歌集」〉。この話がなぜ好きかというと、空穂のことを八一が内心信頼していたことが分かるし、空穂がその信頼に気付いていたらしいことも分かって、楽しい気分になるからだ。


(2018.9.29 記)

 こうして初対面から激論を交わした空穂と八一であったが、間に入った山口の人柄のゆえでもあろうか、その後は互いに一目置き合う仲になったようだ。早稲田出身で窪田門下の岩津資雄が『会津八一』(南雲堂桜楓社、1962年)に次のように記している。

 私が道人の存在を知ったのは、早稲田大学文学部の学生時代のことで、道人の親友山口剛教授から講義時間の挿話として、道人のうわさを聞いた時に始まる。それはたしかに大正十四年で、道人の「南京新唱」が出版された翌年、道人の大学における美術史の講義が始まる前年であったと思う。私は山口教授の話しを聞いて、早速「南京新唱」を手に入れて愛読した。一方やはりその頃、窪田空穂教授の家に伺うと、客間の壁間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が懸っていた。空穂教授はその額を指して、「これは弘法以来天下に書家なしと豪語している会津八一の字だヨ。ちょっと梯子をはずしたようなところがあるネ」といった。字の面白さはさりながら、その比喩のうまさに私は感心したものである。(177-178頁)


 『南京新唱』刊行が大正13年、八一が早大で東洋美術史の講義を始めたのが同15年。その間の同14年、つまり1925年の話ということで間違いないだろう。空穂宅の客間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が掛かっていたという。「梯子をはずしたような」という空穂の評に岩津は感心しているが、情けないことに私にはこの比喩の意味が分からない。ともあれ、同じ額のことを篠弘も書いている。

 大学時代のわたしは、雑司谷にある空穂邸にしばしば出入りしていた。(略)その客間に、八一の書が掲げられていた。「乙丑七月」とあるから大正十四年に書かれたもので、「孤雲還」という作品である(略)
 あるとき空穂が、この書の来歴について語ってくれた。「これは会津さんが額に入れて、もってきてくれたものですよ。若いころの作品で、昭和のはじめごろだった。空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえるのではないか、と言ってね。案の定、吉江喬松や岩本素白らの諸君が、これで八一の書が好きになったよ」と、たのしげに話された。

(「「孤雲還」のイメージ」、十二巻本『会津八一全集』月報10、1983年1月)


 篠の大学時代というから、はるかに下って1950年代の初めだ。八一は「空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえる」と言って持ってきたという。空穂は「昭和のはじめごろだった」というが、「乙丑七月」との書入れと岩津の話を併せ考えると、八一が空穂宅に「孤雲還」の額を持ち込んだのは1924年7月か、そのすぐ後だったのだろう。そして空穂は八一の書が気に入った。その後二十数年、額がずっと同じ客間の壁に掛かっていたのが何よりの証拠だ。

 もっとも異伝もあって、窪田門下で砂子屋書房創業者の山崎剛平『老作家の印象』(砂子屋書房、1986年)には、

 空穂先生のところの二階に初め(大正年代)木堂の「楽性天」の額があった。それが秋艸道人の「孤雲還」に代り、後仝「廓寂」になった。(235頁)


とある。「廓寥」になったというのは八一が早稲田大学を辞する以前、つまり戦前戦中のことだろう。あるいは一度「廓寥」の額に掛け替えた後、再び「孤雲還」に掛け替え、それを戦後に篠が見たものか。そうだとしても、空穂が八一の書を好んだことに変わりはない。


(2018.9.18 記)

 ところで、八一の「私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた」という言葉はいやにアッサリとしているが、そこは八一のこと。「大いに論じた」というのは、つまり大声で激しく自説を主張したということにほかならない。植田前掲書に

 これはもうほんとうに会津伝説となってしまったことであるが、ある日、道人は山口剛の家にぶらりと遊びにいった。放談数時間おれが万葉集の講義をすれば日本で最高だなどと熱を吐いているところへ、窪田空穂が遊びにきて、歌について大激論を行なったらしい。延々数時間に及ぶ大論戦であった。空穂の弟子の山崎剛平が訪ねると、「今、会津八一と論争をしているが、どうもわしの方が歩がありそうだ。あと十五分もすれば、帰宅するから家で待っていよ」といって二階へ上がっていった。やがて、二人の大声がさかんにきこえてきたという。(365頁)


などとあって、植田は特に注記も付けていないが、これは八一の随筆と同じ出来事を伝えているのだろう。


(2018.9.17 記)

 というのも、村崎の文では空穂と八一がいかにも親しげに感じられる。しかし、八一本人の言によれば、二人は『南京新唱』刊行後に初めて顔を合わせたのだ。八一の随筆「凝つた小冊子」は『南京新唱』にまつわる思い出を記したものだが、そこにこうある。

 私はその頃まだ窪田空穂君と知り合つてゐなかつた。ある日山口剛君の宅で初めて会つた。そのまへに一冊寄贈しておいたので、自然その話になると、窪田君は改まつて、どうも私の歌が面白くない。つまりたいへん下手な歌だと批評してくれた。なるほど窪田君あたりから見たらそんなものであつたのであらう。しかし私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた。するとそれから十日も経たないうちに相馬御風君が『早稲田文学』で、それから思ひもかけぬ斎藤茂吉氏が『女性』といふ雑誌でだいぶ褒めてをられたのを、わざわざ持つて来て見せてくれた人がある。(十二巻本『会津八一全集』巻七、中央公論社、1982年、156頁)



 御風「砂上漫筆:此の一篇を『南京新唱』の作者におくる」を掲載する『早稲田文学』は1925年4月1日発行、茂吉「痴人の痴語」を掲載する『女性』も同月同日発行である。したがって、『南京新唱』刊行の翌年、1925年の3月か4月のことだったのだろう。当時、空穂と山口の家は雑司ヶ谷で隣同士で、この二人も親しく交流していた。それで、山口宅で空穂と八一が初対面という次第になった。廓言葉の話は、おそらくその席上で空穂に披露された。それが後年になって村崎に伝わり、ああいった書き方になったものだろう。


(2018.9.16 記)

 会津八一の最初の歌集『南京新唱』(1924年)の書名は、原案では「南都新唱」だったという。植田重雄『秋艸道人会津八一の芸術』(恒文社、1994年)がその辺りの事情に触れている。

 春陽堂に原稿を渡して、一まずほっとしたところで、親友山口剛のもとにぶらりと遊びにいった。剛に跋も書いてもらっている間柄である。その歌集の名は何であるかたずねた。奈良にちなんで、「南都新唱」という本だと語った。すると、山口剛は即座に膝を打ってカラカラ笑い出したのである。何が可笑しいかと問いつめると、「『なんとしんしょう』は廓言葉では、お太夫さんが客に口説かれたとき、何と申し上げたらよいでしょう、どうしましょうとはじらう文句なのだよ。会津君、こりゃ困ったことになりんしたわえな」。あわてたのは道人である。脂汗を流し、巨体をゆすって、その足で春陽堂にかけつけ、「南京新唱」に改めたのである。(386頁)


 山口剛は近世文学の研究者で、八一と同じ早稲田大学出身。また明治末年から早稲田中学で、後には早稲田大学文学部で八一の同僚だった。この山口の指摘によって、書名を改めたというわけだ。また、植田の著書以前、村崎凡人『窪田空穂』(長谷川書房、1954年)には次のようにある。

 文学部で顔を合わせている会津八一が、今度、歌集が出たからといつて、一冊を空穂に贈呈した。四六長判、赤地に鹿の古瓦の拓本があつて『南京新唱』と題してある。春陽堂から出ている。八一が云つた。
「はじめ、奈良の歌だから『南都新唱』としてみたのだ。そうすると、ほら、なんとしんせう、というのは、歌舞伎の廓言葉だろう。それで『南京』にしたのさ。ははは」
と大きな體をゆすつて豪放に笑つた。(296頁)


 窪田空穂もまた早稲田出身で、1920(大正9)年から早稲田大学の教員となっていた。八一が同大に勤務するようになったのは1926年で、そこからこの二人も同僚の関係だった。

 さて、植田と村崎の文を並べると、八一が廓言葉の話を山口から教えられた後、空穂のところに行って同じ話をした、という風に解される。ところが、もう少し調べてみると、村崎の方はどうも誤伝が混じっているらしい。


(2018.9.16 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の四つ目。川野芽生「私達が聴かなかった声」について。

 当ブログの8月14日付の記事で取り上げた北村早紀の文章に続き、高島裕の時評「抵抗の拠点」(『未来』7月号)に反論しようとしたものだ。しかし、この川野の文章もまた、反論としては成立していない気がした。高島は元財務次官のセクハラ疑惑の一件をめぐって次のように記していた。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。ここに露呈しているのは、言語観の貧しさである。生きた会話の中で出てきた言葉を、一切の文脈抜きで一義的に意味づけ、「セクハラ」の定義に照合するという手続きの過程では、言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性が、すべて切り捨てられてしまう。誰も反対できない正義の名において、生きた言葉が殺されてゆく。


 このうち〈会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまった〉の主語が省略されているが、この引用箇所の前を読むと、報道と報道に押された財務省が、ということだろう。こうした高島の主張に対して、川野は次のように述べる。

 しかし「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。ハラスメントはむしろ、言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈を最大限利用して振るわれる暴力だからであり、その文脈に見ぬふりをしての、「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまうのがこの社会だからだ。


 高島のいう「生きた言葉」を「聞こえのよい言葉」と捉える川野は、明らかに高島を批判しようとしている。しかし、高島と川野の文章を何度読み返しても、私には両者が遠く隔たっているようには思えなかった。「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈」を見る必要があるという点では、両者は一致しているのだ。

 だから、高島に対する川野の批判には無理があると私には思われる。

「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。


といった言い方は論理を超越している。川野自身の立場に徹するなら、「生きた言葉」の検証を通して差別や暴力を糾弾することになるはずだ。また、高島は常識的にはセクハラ発言としか思えない元次官の言葉について「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場」などを考慮してセクハラか否かを認定すべきだと主張したのだが、川野の

「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまう……


は、その一言だけではセクハラ認定の判断が分かれるかもしれない○○発言について述べており、高島への反論にはなっていない。

 川野はいわゆるMe Too 運動を考える上で注意すべき点として、司法などの制度に頼れない現状が背景にあること、その分世論の支持を得る必要があるが、そのためには「理想の被害者」でなければならないこと、の二点を挙げつつ、文章全体の結語として「文学の役目」に言及する。

 制度でもポピュラリティでもない言葉をどこに求めればよいのか。それこそが文学の役目だろう。(略)自分の足元の深淵を覗き込む覚悟で、他者の言葉に耳を傾けること、文学の未来はその先にしかない。


 まっとうな文学論だと思う。ただ、元次官をも、またその告発者の職業倫理を問う者をもまずは「他者」として遇するべきだ、というのが高島の意見なのだ。とすれば、川野の文学論は、やはり高島への反論にはなっていない。

 思うに、両者の間にあるのは文学論の対立ではない。その件では、二人の言葉は奇妙なまでによく似ている。では、何の対立か。結局のところ、川野は元次官のセクハラ認定に賛成であり、高島がその認定に消極的であるということが許せないのだろう。


(2018.9.5 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の三つ目。染野太朗「異化について」について。

 嵯峨直樹『みずからの火』(KADOKAWA、2018年)のブックレビュー。これを読んで嵯峨直樹という歌人の名を初めて知った。ウィキペディアを見たら四十代半ばの人で、『みずからの火』以前にすでに二冊の歌集があるとのこと。自分に現代短歌の知識が無いことを再認識する。引用歌がとてもいい。

枝ふとく春夜をはしる絶叫をあやうく封じ込めて静寂

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く


 言葉のつなげ方が上手。『未来』所属の由だが、近代短歌(戦後短歌?)の修辞法をしっかり学んで自己のものとしているように感じられる。枝が太く「はしる」とか、「〜て静寂」で止めるところとか。あるいは、花の群落全体のイメージを出した後に助詞「の」をはさんで「ところどころ」の部分に転じる、その「の」の使い方とか。

 染野は、

 ことばによる現実空間の異化、ということをつよく意識させる。対象をめぐる〈異化以前/以後〉という二段構えが見えてくる。


という。また、

 おもしろいのは、しかし、その異化に至った動機の部分が見えにくいこと。


とし、「歌があらわすのは、情や批評ではなくあくまでも景だ」と指摘する。写実派のよき後継者ということになろうか。

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

内側にしおれて四肢はあかつきの光をかえす湖水のようだ


 こちらの歌について染野は、

 「家具」「四肢」をめぐる二段構えが見えにくい。このとき、ことばはもはや異化のための〈道具〉ではない。


という。前の二首などの発展形として、後の二首の方をより高く染野は評価しているようだ。しかし、「異化以後」と二重写しで「異化以前」の景も想像できる前の二首の方が、私にはおもしろい。この辺りは好みの問題だろうか。
 

(2018.9.4 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の二つ目。瀬戸夏子「デザインの書」について。

 手に取る雑誌などに瀬戸夏子の文章があれば、喜んで読むのが近ごろの私だ。文中に必ず何かの主張があり、しかもその主張に借り物っぽさがないので、読んでいてまず単純におもしろい。行儀の良さ、悪さのバランスも取れている。俗な言い方をすれば短歌の世界にはあまり見かけない、お金の取れる文章だと思う。

 これは加藤治郎の最新歌集『Confusion』のブックレビュー。しかし、今どきの歌集評には珍しく、一首の歌も引用しない。もちろん、意図してそうしたのものだろう。瀬戸は、

 みずからが選ぶレイアウト(引用者注—たとえば、どこで改行するか)そのものが、詩が詩である所以を露呈してしまうのが現代詩である……


と規定した上で、現代詩よりも「加藤の短歌のほうが圧倒的にプレーンなテキストだ」とする。そして、それゆえに「いぬのせなか座」によるブックデザインが映えるのだという。加藤のテキストは何だが、「いぬのせなか座」のデザインはよい……と言っているようにも見える。たぶんこれは辛口というか、悪口なのだが、適度にぼかしが入っているので、読んだ後味はそれほど悪くならない。

 さて、この歌集は、詩人野村喜和夫との対談「詩型融合のクロニクル」が全体の三分の一以上の頁を占める。巻末には「詩型融合」の年表まで付いていて、そこには与謝野鉄幹『東西南北』(1896年)から江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』(2016年)に至る四十四点の本が記載されている。そして、タイトルは融合をひっくり返した「混乱」。ところが瀬戸は、

 この本は《詩型融合》の書ではない、というのが私の認識だ。


という。「加藤の念頭に置かれている相手は現代詩」だが、加藤の短歌は「プレーンなテキスト」であり、

 現代詩の生命線であるレイアウトに、加藤は参加していない。


というのが理由だ。ここは断言調で、爽快。ただ、断言の内容には疑問が残った。「詩型融合」の定義を加藤は、こう明示している。

 1冊の著作/作品に、複数の詩型を融合。(132頁)


 かつ、詩型としては音数律詩・自由詩・短歌・長歌・旋頭歌・俳句に加え、散文・挿絵・講演録までを挙げる。この定義によれば、短歌のほかに俳句・エッセイ・時評・対談の記録まで含む『Confusion』は明らかに「詩型融合」の範疇に入るだろう。

 瀬戸は加藤とは異なる「詩型融合」の定義を立てて、加藤の歌集はそれに当てはまらないと主張しているように思われる。そうだとすれば、それは瀬戸自身以外には関心の持ちにくい話題だ。

 また、別の疑問もある。仮に瀬戸の定義に従うとしても、『Confusion』は「詩型融合」の範疇に入ってしまうのではないか。短歌・俳句・散文の混在はただそれだけでも——つまり「いぬのせなか座」によるレイアウトが無かったとしても——、それ自体がレイアウトの結果ということになるのではないのか。
 

(2018.9.3 記)

 『現代短歌新聞』78号(2018年9月5日付)を一見しての感想をいくつか。まず大井学「浜田到の百年」について。

 浜田到生誕百年だという。没後も作品が読み継がれる歌人は多くない。到の作品にそれだけの力があるということ、そして到に言及し続けた人たちの言葉に力があったということだろう。

 これは『浜田到:歌と詩の生涯』(角川書店、2007年)の著者が到を紹介する記事。塚本邦雄の「多様な喩法による歌の拡張」と到の詩性は「相似であっても、相同ではない」とした上で、

 塚本、浜田から時代を経た現在において、両者を統合した方法論が受容、展開されているようにも思われる。


と述べ、現代の若手歌人の作二首、

すいみんと死とのあはひに羽化の蟬。翅のみどりに透いてあるはも
  吉田隼人


わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘鋭からむに
  睦月都


を挙げているところに興味を引かれた(私は現代短歌の知識がないので、この二首の出典がわからない。大井の文章からの孫引きです)。「すいみんと死とのあはひに」「わが生まぬ少女薔薇園を」といった世界の把握の仕方、あるいは世界の作り方がどこか浜田到に似ている気がする。しかし、では具体的にどこが似ているのかというと、私には説明できない。大井のもっと詳しい解説を読みたいと思った。


(2018.9.2 記)


ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930