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 2 東直子 VS 加藤治郎 

 加藤さんのなかではニューウェーブの歴史というのは、この4人の作品を考えるということですか。
加藤 はい、そうです。
 4人一人ひとりは違うのかなと思うんですが。
加藤 今の段階ではそうですけど、今後もっと議論すべきところですね。
 そうだと思います。穂村さんはどうですか。

 (『ねむらない樹』vol.1、80頁)


 この辺りは、当ブログの過去の記事に載せた私のメモと重複する箇所だが、比較してみるとそれぞれの言い回しが少しずつ違う。私のメモは当然、東や加藤の発言の一言一句を漏らさず拾えているわけではない。一方、『ねむらない樹』の記録の方もあちらこちらに細かな省略はあるようだ。座談会の記録とはそういうものだろう。

 加藤の「今の段階ではそうですけど」の「そう」は、文字で読み返してみると、その指示対象が何なのかが分かりにくいようだ。しかし、会場で聴いていたときにはそれほど分かりにくく感じなかった。「今の自分はニューウェーブ=四人と考えているが、今後も議論を続けるべきだ」といった意味なのだろう。

 なお、末尾の「穂村さんはどうですか」は司会の荻原の発言だった気がする。東がそこまで話の進行を取り仕切っていたわけではない。


 3 穂村弘 VS 東直子

穂村 冒頭にあったお話ではニューウェーブは同人誌「フォルテ」発で荻原さんが書かれた「現代短歌のニューウェーブ」経由という定義が先にあったんでしょう。そこにあげられた人たちが、偶然性に乗ってエスツープロジェクトをつくり、『岩波現代短歌辞典』に項目ができたという。だからこの質問はやっぱり、ニューウェーブの定義の問い直しってことだと思う。個別の人の価値評価に関しては、僕すごく一人ひとり論じているよね。
 そうですよね。
穂村 でもこれらをニューウェーブと呼びましょうと誰かが言っても、いままでの歴史的な経緯から見直さないと変になるんじゃない? ニューウェーブ世代を私は「わがまま」という言葉で捉え直そうとしたけど、それは一人ひとり信じているものが違いすぎて運動体ではありえない、という意味合いを持っていたと思う。

 (同頁)


 『ねむらない樹』の記録で、実際の発言と最も大きく違っているのはこの場面の穂村の言葉だろう。当ブログの記事に掲載済みの私のメモを再掲しておこう。

 穂村 ここで言っているニューウェーブって、先に荻原さんの新聞記事発の定義があったんでしょ? それで、そこに推された人たちが偶然性に乗って……。だから、その質問は何となくニューウェーブの定義返しみたいなところがあると思うんだけど。今名前が出た一人一人の女性の価値評価に関しては、僕、すごく論じてるよね。でも、じゃあそれをニューウェーブと呼びましょう、と僕らの間で言っても、今までの歴史的な経緯があるから、それは変になるんじゃないの?


 ここは、私のメモの方が実際の発言に近いはずだ。『ねむらない樹』の記録は、校正段階でかなり加筆されたのだろう。主な変更は四点。

(1)「荻原さんの新聞記事発の定義」→「同人誌「フォルテ」発で荻原さんが書かれた「現代短歌のニューウェーブ」経由という定義」

(2)「定義返し」→「定義の問い直し」

(3)「いままでの歴史的な経緯があるから、それは変になる」→「いままでの歴史的な経緯から見直さないと変になる」

(4)末尾「ニューウェーブ世代を私は」以下を追加。


 元々の発言の主旨は明確だった。つまり、荻原の記事がニューウェーブを定義した。それ以後、同時期の女性歌人はニューウェーブとは呼ばれてこなかった。だから、今になってそれら女性歌人をニューウェーブと呼ぶのも変だ——といったところで、ニューウェーブは荻原・加藤・西田・穂村の四人との説を肯定しているのだ。

 ところが、まず(1)記録に「フォルテ」の名を追加したことで、ニューウェーブの定義の根拠はいくらか曖昧になった。次に(2)「定義返し」は再定義の意で、東を「従来の定義を否定する者」、つまり従来の定義を肯定する自分にとっての論争相手と見なしていたのだが、「定義の問い直し」はせいぜい再定義の検討程度の意味だ。東との対立の度合いは弱まった。さらに(3)元々の発言は「歴史的な経緯があるから定義の変更は不可能」との意味だった。記録の方は「歴史的な経緯から見直すなら定義の変更も可能」との含意があるように思われる。

 (4)は「ニューウェーブの再定義は変になる」ということの論拠であるべきだが、それにしては飛躍がある。その飛躍を埋める作業は不可能ではなさそうだが、それをするのはひどく面倒に感じられる。なんだかよく分からない話にしてしまうのが真意ではないかと勘ぐりたくなる。

 いずれにせよ、ニューウェーブ四人説から穂村はひそかに離脱しようとしているのではないか。一方でニューウェーブの人数を増やして考える立場とも距離を置いている。自分の見解を巧妙にぼやかそうとしているように私には見える。


(2018.8.16 記)

 知人にすすめられて高島裕の時評に対する北村早紀の反論を読んだが、反論としてはうまく成立していない気がした。双方の話題の中心は、前財務次官のセクハラ疑惑である。高島「抵抗の拠点」(『未来』7月号)の主旨をごく簡単にまとめると、次の三点。

(1)現時点ではセクハラを認定できない。
(2)次官を一方的に断罪する報道は課題解決にはつながらない。
(3)短歌は一方的な物語の生産・消費に抵抗する手段になる。


 このうち(1)は暗示にとどまり、(2)(3)が話の過半を占める。対する北村「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」(ブログ「「詩客」短歌時評、8月2日付)の主旨は次の二点だろう。

(a)現時点でセクハラを認定できる。
(b)高島の(3)には同意する。


 つまり、北村は(1)の暗示への反論に精力を傾け、(2)には言及しないのだ。例を挙げよう。高島は、

 報道は、次官本人と財務省を断罪し、麻生大臣の責任と不見識を言い立てるばかりで、テレビ局側が、かねてから嫌がっていたという女性記者をあえて次官の取材に差し向けた理由や、取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させたことの職業倫理上の是非を問う声はかき消されてしまった。「セクハラは許せない」という、誰にも反対できないお題目の前に、すべての疑問が封殺された形だ。こんな粗雑な手法が、ジェンダーとセクシュアリティをめぐるさまざまなコンフリクトを風通しの良い方向へ導きうるとは到底思えない。(「抵抗の拠点」)


と書いている。ここは、被害者とされる記者が「取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込ん」だ後の新聞やテレビの報道について、(2)を主張していると見るのが自然だろう。ところが北村は、

 上記の文章からは高島さんが、今回の事件の対応は強引であったと考えていることがわかります。(略)今回の対応は確かに強引だったかもしれません。しかし、どんなことにも最初があり、続けていくうちに内容が洗練されていくのだと私は思います。むしろ、今回に関して言えば、強引な方法をとることでしか状況を動かすことができなかったのではないでしょうか。最初にこの事件について知ったとき、私も多少強引だと感じましたが、それ以上にこれは正当防衛だとも思いました。(「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」)


と記す。被害者である記者が「取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させた」行為は「正当防衛」だ、ということだろう。つまり、北村は高島の引用文をもっぱら(1)の主張と捉え、それへの反論として(a)を出すだけなのだ。これでは議論が噛み合わない。高島としては(2)を乗り越える一手段として(3)を述べているので、(2)とは無関係のまま(3)にだけ同意されても困るだろう。

「セクハラは許せない」ということを「お題目」と表現したことも気になります。(「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」)


と批判するくだりも同様だ。「お題目」の「お」は「皮肉やからかいの気持ちを表す」(大辞林)ものだが、高島は一方的な報道に反対する(2)の立場からことさらにこの「お」を使用しているのだから、(2)の中身を取り上げることなくその言葉遣いだけを取り上げても仕方がないと思う。

 ところで私自身は記者の職業倫理等は別に考えるべき問題だと思うものの、前次官のセクハラ自体は認定できるのではないかと思っている。では、高島とはどう対話すればよいのか。

 私なら(a)を表明しつつも、一旦は高島が(1)の立場に立つことを受け入れる。そうしなければ、(2)について議論する段階に進めないからだ。

 その上で、仮に前次官のセクハラを完全に認定すべき状況になったとしても(2)の立場を保持すること——すなわち多様な言葉を許容すること——が可能かどうか、それが可能であるとしたら、たとえばどのような言葉を想定できるか、を問う。

 そして、私もまた文芸の世界が一方的な言論によって覆い尽くされる事態は御免被りたいので、自分でもそれらの問いの答えを考える。


(2018.8.14 記)

 「ニューウェーブ30年」の記録で、ほかに気付いたことをいくつか挙げておこう。


 1 西田政史 VS 穂村弘

(佐々木朔の歌の「埠頭で鍵を拾った」という内容について、穂村が「いいところでいいものを拾いすぎている」と批判したところ、寺井龍哉から「そういう批評は今は無しなんですよ」と逆に批判されたという話題を受けて)

西田 いいところでいいものを拾いすぎというのはそもそも穂村さんがやっていたことじゃないですか。そんな人がどうしてこんなこと言うのかなと思いますけど。
穂村 うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないかと。

 (『ねむらない樹』vol.1、76頁)


 西田のこの発言は、西田が穂村の初期の作風をどう見ていたかを窺わせる。加藤・荻原が穂村に切り込む場面が全然見られなかったこともあって、私には当日、最も印象深い場面の一つだった。

 私のメモでは、西田に答えた穂村の言葉は、

 いや、だから、この作者はさりげなく拾ってるんだよ。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないか。僕、全然さりげなくないでしょ。


 自分が「さりげなくない」ことを、穂村はたしか、このような言い方で強調した。「いや、だから」という受け方や「さりげなく」の連発は、虚を突かれてよろめいた姿勢を強引に立て直した、といった印象を与えた。会場は大いに沸いた。ライブのおもしろみが出た場面だから、当然の反応だったと思う。

 記録中の「うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの」は、私の記憶にはない。『ねむらない樹』の校正中に追加したものなのだろう。その追加によって発言の意図まで変わるというわけではないようだ。ただ、ここでもやはりライブ感は失われた。「うん」「これでもくらえ」には虚を突かれた感じがない。

 ただ、記録を読んであらためて気付いたことがある。歌の傾向を判断する基準「さりげないか否か」は、この場面より前の穂村の「埠頭で鍵を拾った」評には出てこない。西田と穂村のこの問答中に初めて出てくるのだ。ただおもしろおかしいだけでない、意義のある問答だった。


(つづく)


(2018.8.12 記)

 今月1日創刊のムック『ねむらない樹』(書誌侃侃房)を買って、先々月のシンポジウム「ニューウェーブ30年」の記録を読んだ。編集部による前書きに、

 討議の内容は極力記載した……(『ねむらない樹』vol.1、62頁)


とあるのは本当だ。まず、全体の構成は組み直すことなく、当日の流れのまま記している。また、個々の発言も、大半は省略せずに収めている。ことに女性歌人をめぐる加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘の発言をカットしなかったことは、この記録の、記録としての価値を保証するものだと思う(それはいかにも批判を招きそうな内容だったから、カットした方が無難との考え方もあったはずだ)。

 ただ一つ残念なことは、当日の現場のライブ感が誌上の記録からは失われていることだ。たとえば、加藤の発言「女性歌人は(略)自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」に対して、東直子が

 空を翔ける天女のような存在ということですか。(同、80頁)


と返す場面。文字で読むと、東が静かに問い質しているかのようだ。しかし、「天女のような」は、私の記憶では一オクターブ上の笑いを含んだ声で、その場では「エエッ、加藤さん、そんなこと言うの!?」という東の気持ちがよく感じ取れた。

 また、このシンポジウム屈指の重要な問答、

 (略)4人でニューウェーブは完成されているということでよろしいんですか。加藤さんのなかではということなんですけど。
加藤 はい、それはもう4人です。

 (同頁)


 これも文字で読むと、加藤が冷静に言い切っているように感じられる。しかし、実際の加藤の発言は「はい……それはもう……4人……」というような具合で、東に責め立てられてしどろもどろ(?)な様子が会場の笑いを誘っていた。私などはむしろ加藤の無防備さに好感を持ったほどだ。その感じを誌上に再現するのが難しいことは分かるが、残念。


(2018.8.11 記)

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