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 このように考証をしてみると、田中の「四十町という具体に感銘がある」との評価はやはり誤読に基づいているような気がする。掲出歌の下句で重要なのは四十町の実体などではなく、四十町という言葉そのものだ。その言葉の選択が掲出歌の眼目なのだ。

 そして、そう考えてこそ田中の

 ……「立ち」「砂町」の「chi」の連続から、さらに近似の「四十町」の「chyo」へ伸びて調べを形成している。これは隠れた修辞と言える。


との見解も生きると私には思われる。


(2018.7.29 記)


 砂町四十町について、土屋文明本人は、

 あれは砂町四十町という地名なんです。実際の、区役所に載った正式の行政区画じゃないかもしれませんがね、あのへんの俗称なんですね。(『歌あり人あり:土屋文明座談』片山貞美編、角川書店、1979年)


と説明している。その後、近藤芳美はこの一首の鑑賞文中で、

 砂町は東京湾につづく城東区の一地劃の地名。(『土屋文明』、おうふう、1980年)


とだけ記して「四十町」には触れていない。

 新貝雅子も上記の文明の発言を引くだけで、それ以上に詳しい考証に踏み込んでいない(「土屋文明短歌研究」12、『アララギ』1992年10月)。

 鎌田五郎『土屋文明秀歌評釈』(風間書房、1999年)は「模範新大東京全図」(九段書房、訂正29版、1936年)を見たものの、

 " 四十町 " の地名は発見し得なかった……


という。

 さて、砂町は元々南葛飾郡下の町だった。それが1932(昭和7)年10月に東京市に編入され、城東区となった。同時に大字も再編されて四十町の区域は南砂町七丁目となり、地図上から四十町の名が消えたのである。

 次の地図1は、1931年5月発行の高岡正次「東京近郊地図」(訂正八十二版、龍王堂、部分)。旧葛西橋の南側に「四十町」の三字が見える。

 (地図1)
IMG_1125.jpg

 一方、次の地図2は、1934年8月発行の小林又七「大東京市地図」(川流堂、部分)。前の地図の四十町を含む区域に「七丁目」とある。

 (地図2)
IMG_1129.jpg

 掲出歌の初出は『短歌研究』1933年1月号。城東区の新設直後の作で、砂町四十町はすでに「正式の行政区画」ではなくなっていた。だが、土地の言葉はそう簡単には変わらない。住民は従来通り、その区域を「四十町」と呼び続けていたのだった。

 『短歌研究』同号の企画「大東京競詠短歌」は、東京市の周辺五郡編入を記念したものだった。変貌する大東京の現在を歌に詠ませる意図が編集部にはあったことだろう。しかし、文明は現代的な風物とともに、旧来の風物や言葉も歌に取り込んだ。「砂町四十町」はその一例だ。

 ついでに言えば、同時に発表された歌に次の一首がある。

砂村の火葬場近くなりてより葱に漬菜に青き家したし
  (歌集本文とは異同がある)


 この「砂村の火葬場」は四十町の北に位置しており、地図1にも載っている。旧砂村が砂町に移行したのは大正年間の1921年。ところが、火葬場はその後も変わらず「砂村」と呼ばれていた。この古い呼び名もまた文明によって記録されたことになる。


(つづく)


(2018.7.28 記)

 『短歌往来』7月号掲載の田中教子「短歌と修辞の本来の関係」が土屋文明の高名な一首、

小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
  (『山谷集』1935年)


を引き、

 「小工場」「溶接」のウの連続、「立ち」「砂町」の「chi」の連続から、さらに近似の「四十町」の「chyo」へ伸びて調べを形成している。これは隠れた修辞と言える。


と記しているのは穏当な指摘だと思う。しかし、

 この歌は、近代科学の発達から機械化の進む町と、人の営みを壮大なアングルから捉え、今しも夕闇の手が砂町の四十町めに届いたことをあらわしている。アングルと四十町という具体に感銘がある。


としているところはよく理解できなかった。「壮大なアングル」というほど、これは壮大な景色の表現だろうか。

 小市巳世司もかつて「上句の鮮明な微視的な影像と、それを包み込む下句の巨視的な大らかな影像」と発言していた(「土屋文明短歌研究」12、『アララギ』1996年10月)。「微視的」も「巨視的」も「壮大」も大仰に過ぎるように、私には思われる。

 「四十町という具体」なる評言も難解だ。実在する町に取材しているのだから「具体」には違いないが、ことさらに「四十町」の語を抜き出してそのように言う理由が分からない。

 もし私の勘違いだったら申し訳ないことだが、ひょっとして田中は江戸八百八町というのと同じように、「四十町」を多数の街路くらいに解しているのではないか。「砂町の四十町め」の「め」も衍字のようで衍字でなく、実は四十番目の街路というほどの意味で使っているのではないか。それなら、「壮大」の一語も腑に落ちる。

 ただ、もちろん「四十町」はそんな意味の言葉ではない。それは砂町の大字の名に過ぎない。しかし、少し調べてみて、気が付いた。先行研究も案外この「四十町」の考証に手を付けていないようなのだ。


(つづく)


(2018.7.27 記)


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