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 「数値からみる『サラダ記念日』」は、

 形態素解析など計量的手法を活用した検証を行う。


と宣言していた。文語を識別する浅野基準は「形態素解析」の結果をもとに作成したものと思われる。私は言語学を知らないので、形態素解析という用語自体を聞いたことがなかった。だからこの「計量的手法」に関わる問題かどうかは分からないが、浅野基準は、ある言葉を使用しない、という現象に注意を払わない。たとえば、浅野の調査で『サラダ記念日』より文語の使用率が低いとされている穂村弘『シンジケート』に、

台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し


という一首がある。「来ることを」などとあるべきところを「来るを」とするのは、「古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない」規則に従っているという意味で紛う方なき文語だが、浅野基準ではこれを文語に数えることができない(もっとも、この歌の場合は「熱し」が条件(4)に該当するから、浅野の調査でも文語の歌として数えることになる)。

泣きながら試験管振れば紫の水透明に変わる六月


 同じく『シンジケート』より(以下も同じ)。助詞を使用せずに「水」という主語を出す言い回しは古典にならったもののように見えるが、浅野基準ではこれも文語に数えない。主語に助詞を付けない例は『シンジケート』に少なからずあり、それらを文語に数えれば、文語の使用率の値は跳ね上がる。

 なお言えば、助詞を使用せずに「試験管」という目的語を出す言い回しも古典和歌や近代短歌にならった文語の一種と見なせるかもしれない。『シンジケート』にはこのように目的語に助詞を付けない例も多数ある。

 ただし、この「水透明に」や「試験管振れば」を文語に認定する作業が簡単ではないことも確かだ。

街じゅうののら犬のせた観覧車あおいおそらをしずかにめぐる


 この「観覧車」を「めぐる」の主語と取れば、主語に助詞を付けない一例になる。だが、もしかすると「街じゅうののら犬のせた観覧車——。あおいおそらを……」なのかもしれない。

「唾と唾混ぜたい?夜のガレージのジャッキであげた車の下で」


 助詞を使用せずに「唾」という目的語を出しているが、これはもちろん形式張らない現代の話し言葉を再現したものだろう。鍵括弧の中にこの語法がある場合は、そのように解する方がよいようだ。だが、鍵括弧がない場合は、それが伝統短歌風の文語なのか現代の話し言葉なのかを、どうやって見分ければよいのか。その判断の基準を明快に示すのは難しい。誤認が一定数あることを受け入れつつ、全てを文語に数えるか、あるいは全てを文語に数えないかのどちらかにするのがよいのかもしれない。

 浅野基準が「水透明に」や「試験管振れば」を文語に数えないことは、『Tri』6号の浅野の論考ではやはり有効だったと思う。文語の使用率の高い歌人の場合、そのような語法の例は枚挙にいとまがないほど多くなると予想される。しかし、それらを文語に数えても、文語の使用率の値が100%に達してしまったら、それ以上は増えない。対して、穂村の場合は上に述べた通りだ。それらを文語に数えれば、穂村と他の歌人の文語の使用率の差が縮まり、他の歌人に比べ文語の用言や助動詞の使用が少ないという穂村の特徴が幾分見えにくくなっていただろう。

 一方、『シンジケート』と今日の二十代歌人の歌集とを比較する際には、試みに「水透明に」や「試験管振れば」を文語に数えることを私は提案したい。そこに明確な差が見えるかもしれないと思うのだ。


(2018.5.21 記)

 拙い感想の結論から先に言えば、浅野基準は『Tri』6号の浅野の論考では有効だと思う。しかし、調査対象が変われば、この基準が機能しない可能性もありそうだ。

 理由は基準の精度だ。浅野自身が認めるとおり、この基準は必ずしも「厳密ではない」。まず気になるのは、明らかに「古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない」文語であるにも関わらず、基準から漏れてしまうものがあることだ。『サラダ記念日』を見ると、

落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し


の「欲し」は、用言を対象とする条件(4)に当てはまらない。

消しゴムを八十円で新調す 時計のベルト変えて二学期


の「新調す」もまた条件(4)に当てはまらず、

ふるさとに住む決意して眼閉ずればクライクライとこっそり聞こゆ


の「閉ずれ」「聞こゆ」もしかり。要するにシク活用の形容詞の終止形、サ行変格活用の動詞の終止形、上二段活用や下二段活用の動詞の終止形、已然形などは、浅野基準では文語に数えられないわけだ。

 次に、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの語義が失われている言葉、も気になる。古典と同じ語義でもって使用されていれば、それを文語と見なしてもよさそうな感じがする。だが、「現代の話し言葉で一般に使用されない」ことを文語の必要条件とする浅野基準からは、やはり漏れてしまうようだ。一例を挙げれば、助詞の「ば」だ。同じく『サラダ記念日」に、

鳴り続くベルよ不在も手がかりの一つと思えばいとおしみ聴く


という歌がある。「鳴り続ける電話のベルよ、不在の事実も君について知る手がかりの一つと思うので、そのベルの音を愛おしんで聴くのだ」というほどの意味だろうから、第四句の「ば」はいわゆる原因・理由を表す「ば」。予備校生になじみの用法でもって使用されたこの「ば」が、助詞を対象とする条件(2)に当てはまらない。

 ちなみに、条件(2)が例示する助詞「ぞ」は、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの用法が失われている言葉、だろう。しかし、条件(2)はこれを単に「現代の話し言葉で一般に使用されない助詞」と見なしている。

 さて、『サラダ記念日』では、ここに挙げたような言葉の用例はごく少数にとどまる。仮にそれを文語に数えるとしたら、文語の使用率が高い歌人の場合、その使用率がさらに上がると予想される。俵万智の文語の使用率が同時期の他の歌人よりも相当低いとの結論は変わらない。ならば、基準の精度をそこまで高める必要もなく、浅野基準はむしろ簡潔で利用しやすい。

 しかし、比較対象を2018年の二十代歌人にするときはどうだろう。厳密な基準に比べ、浅野基準は俵万智の文語の使用率を低く見積もる。一方、そもそも「欲し」も「閉ずれ」も使用しない口語派の歌人の場合は、基準をどう取っても文語の使用率の値は変わらない。浅野基準では、両者の文語の使用率の差がいくらか小さく見えてしまうのではないか。


(2018.5.18 記)


 末尾の部分を少し書き換えました。


(2018.5.19 追記)


 浅野大輝「数値からみる『サラダ記念日』」(『Tri』6号、2017年11月)が俵万智らの文語の使用率を調べるにあたり、ある語が文語かどうかを判定する基準を立てていた。すなわち、

 ある語が現代の話し言葉に一般的に登場するかを検討することで、どのような言葉が使われている場合に「文語」の使用があると言えるのか考えることができる。


との立場から、次の条件のいずれかに当てはまるものを文語と判定するものだ。

(1)「ず」「ぬ」「き」「けり」「なり」「ごとし」など、古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない助動詞がある場合

(2)「ぞ」「や」など、古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない助詞がある場合

(3)「をり」「あり」など、古典語に特徴的な補助動詞の使用が見られる場合

(4)「行きて」「好みて」「働きて」など、現代では一般に音便化する動詞などの活用が音便化せずに残存している場合


 なお、名詞については「古典語に特有か/現代でも使用するかという判断」に「恣意性が生じやすくなる」とし、条件には含めていない。この基準に従って調査し、一首に一語でも文語がみとめられるものを「文語を使用」として分類した結果、俵万智・加藤治郎・穂村弘の三名は、同時期に『短歌』『短歌研究』の新人賞に応募した者の中で特にその割合が低かったという。

 この浅野基準に対して、『Tri』のメンバーらは概ね賛同し(同号「つっこみ座談会+コメント」)、久真八志のウェブ上の記事「「数値からみる『サラダ記念日』」を読みました&計量的な文芸批評のすすめ」も「妥当」とした。

 これらの好評を受けて、浅野は最近ツイッターで、

 個人的な実感をベースにしているので、もっと良い基準の立て方はあるかもしれません。


と言いつつ、

 わりと有用なのかもしれないと思ったので、(略)よければご活用ください。


と呼びかけ、上の四条件をあらためて提示した(ツイッター上の発言は、知人のスマホの画面で確認した)。

 さて、この浅野基準は妥当だろうか。


(つづく)


(2018.5.16 記)

 同時代の歌集評では、収録歌の初出までさかのぼって論じることはほとんどない。特集「歌集の作り方」の一編、丸山順司「歌集編集の有り様を思う」は、松村正直『風のおとうと』(2017年)の収録歌と初出形を比較しているところがおもしろかった。

ランドセルにすすきを差してゆうぐれのいずこより子は帰りきたるか


 この歌の初出形(『塔』2013年1月)は、

ランドセルにすすきを差してのんびりといずこより子は帰りきたるや


だったという。「のんびりと」を「ゆうぐれの」に改めたことについて、丸山は

 「子」を距離を置いて描くことにより、「子」がまとう気配に奥行きをもたらしているかと思う。


と述べる。的確な読み取りだと思う。

 親が知らない子どもの領域への心寄せが一首のモチーフだろう。ただ、「のんびりと」した子はいつもの子であり、親はその子がどこですすきを取ってきたのかを知らないだけだ。この「のんびりと」が消えると、子の表情のイメージは不意にぼやけ始める。「子」自体が不可解な者のように感じられてくる。「ゆうぐれ」の時間がその不可解さを増幅する。子がまとう気配に「奥行き」が生まれるのだ。

足裏を子に踏まれつつ目つむれば身体の芯が遠くなりゆく


 この一首は、初出(『塔』2013年2月)では、

足裏を子に踏まれつつ目つむれば身体の芯は遠くなりゆく


だった由。助詞「は」を「が」に変えただけだが、丸山は

 「遠くなりゆく」感覚が、理屈ではなく実感的に受け止められる。


とする。これもまた穏当な理解だと思う。

 「身体の芯は」の方は、足裏を踏まれ目をつむった後に身体の芯がどうなったか、を述べ表す。その際、身体の芯はあらかじめ話題として選ばれている。このことは、出来事を後になって整理して記述したような印象を与える。つまり、「理屈」だ。

 一方、「身体の芯が」の方は、足裏を踏まれ目をつむった後にどうなったか、を述べ表そうとする。「身体の芯」はそこで突如、主語の位置に浮上する建て前だ。それが「実感」の表現と感じられる理由だろう。

 理屈を避け、現実味を尊ぶ写実派の伝統が『風のおとうと』にも生きているようだ。

メイもサツキもほんとは死んでいるんだと子はジャムパンを食べながら言う


の初出形(『塔』2013年7月)は、

メイもサツキもほんとは死んでいるんだと子がトーストを食べながら言う


であるとのこと。丸山は、

 「ジャムパン」となれば、上句が子供っぽい無邪気な思いつきのように感じられる。元の「トースト」だと、上句は「子」の確信めいた批評という気がする。


という。「ジャムパン」と「トースト」が喚起するイメージは、なるほど、確かにそれぞれ違う。丸山の指摘は、ここでも堅実だ。

 なお、初出形の「子が」が、歌集では「子は」になっている。前の引用歌では「は」を「が」に改めていたが、こちらはその逆だ。これについては丸山の言及がない。

 思うに、初出形は子の歌ではない。その折の作者の興味は、「メイもサツキもほんとは死んでいるんだ」という発言の内容に向いていた。あえて言えば、発言者は誰でもよかった。

 他方、歌集の形ならば、子の歌だ。まるで深遠な哲学のような、不思議な発言をしたのがほかならぬわが子であることに作者の関心は傾いていた。


(2018.5.13)

 『塔』今月号は読みどころが多く、一結社の機関誌の域を出ていると思う。すばらしい。

 特集は「歌集の作り方」。歌の作り方は商業誌に毎月のように載っているが、歌集の作り方の特集号は従来あまり無かった気がする。

 掲載されているのは花山多佳子さんを中心にした座談会、二頁ずつの文章三本、歌集出版経験のある会員の短文集。主な内容は歌集をまとめるきっかけ、編集の仕方、装幀の実際、これから歌集を出す人へのアドバイスなど、バランスがとれている。優れた編集スタッフがいるのだなと思う。

 梅﨑実奈「夢みる世界の構築法」はおそらく会員でない人の寄稿で、「紀伊国屋書店新宿本店」という肩書が短歌の専門誌には珍しい。同店の詩歌関係の棚が充実していることは、一部の読書家に知られている。『塔』編集部としては書店が歌集をどう取り扱っているか、書店員が歌集をどう見ているか、といった内容を期待して執筆を依頼したものだろう。ただ、その狙いは若干外れたようだ。「夢みる世界の構築法」は書物愛好家による哲学風の書物論といった趣で、それはそれでもちろん興味深いのだが、書店員という筆者の特殊性が今ひとつ強く押し出されなかったのは惜しい。

 なお、編集後記にこの筆者の紹介がないのは、今号の唯一の瑕疵かもしれない。


     §


 座談会「歌集をまとめる」では、花山さんの第一歌集『樹の下の椅子』に関する発言が印象に残った。

花山 (略)ただもう自分が勝手に選んで、すごく歌数を削り過ぎちゃったのね。その頃の一連の中から二首、三首だけみたいな格好で取ってきた。
 それは未だに後悔ね。つまり膨らみがないわけ。


花山 一連からいいのだけ引いてくるみたいな作り方をしちゃうと、すごく痩せちゃう。歌集がつまらない感じになるんですよ。


 次の発言も似たことを言おうとしている。

花山 (略)コンクールの特選歌みたいなのを並べても全然よくないんだよね。反対に普段目立たないのに、歌集にしてみるとその人の世界が立ち上がってくる歌っていうのはあるのよ。


 近現代の個人歌集にはたいてい目立つ歌と目立たない歌が併存している。それは歌集の読者が体験的に知っていることだ。歌集がそのように編集されていることの効能がここでの話題だろう。これについては以前、東郷雄二氏も次のように書いていた。

 連作には秀歌ばかりが並んでいるということはない。それは当たり前だ。他の歌より優れている歌が秀歌なのだから、秀歌の隣にはつまらぬ歌がなくてはならない。ではつまらぬ歌には存在価値がないのかというとそうではなく、秀歌を秀歌たらしめているのはつまらぬ歌である。だから一冊の歌集には少数の秀歌と大多数のつまらぬ歌があることになる。(略)
 歌集を読み始めた頃の私にはそのことがわからなかった。だからどの歌も同じように力を込めて読んでいたので、そのうち疲れてしまい一冊を読み通すことができなかったのである。歌集を読むときには、集中力を6割くらいに下げて並んだ歌に目を走らせる。秀歌センサーはオンにしてあるので、センサーに引っかかる歌が出て来たときに集中力を一挙に上げて秀歌をしばし味わい付箋を付ける。これが正しい歌集の読み方である。(「歌集の読み方」)


 花山さんと東郷氏では、目立たない歌の評価がいくらか違う。専門家の花山さんには、目立たない歌から「その人の世界」を読み取る能力がある。しかし、普通の読者は多分、東郷氏の言う「集中力を6割くらいに下げて並んだ歌に目を走らせる」読み方に賛同するだろうと思う。

 問題は、目立たない歌が歌集内に多数あることの効能だ。花山さんは積極的にそれを認めているようであり、東郷氏もまた効能自体は否定していないようだ。しかし、その仕組みについては、まだ議論の余地があると思う。私などは、効能の有無もまだよく分からない。


(2018.5.4 記)

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