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4 初出時の歌壇の状況


 単行本『現代短歌 美と思想』から再収の論文十一本のうち、六本の初出が1965(昭和40)年とその翌年だ。この時期の歌壇の状況がどんな具合であったかは、本文の端々からも窺い知ることができる。たとえば、「楯としての前衛歌集」に

 前衛短歌時代の終わりは何時か、と言えば、「短歌」の編集者が更迭になった、昭和三十九年のなかばごろまで、ということになるであろう。(98頁)


とある。また、65年初出の「ゆがめられた戦後短歌史」には

 前衛短歌退潮説は、いまや前衛短歌否定説にまで堕ちこんだ観がある。(159頁)


とある。65、66年頃、商業誌を中心に反前衛の動きが顕著になっていたということだろう。

 角川書店発行の専門誌『短歌』の編集長は63年12月以前が冨士田元彦、64年1月から6月までが神崎忠夫、7月以降が片山貞美、というように変遷した。「更迭」とは、直接的には神崎から片山への交替を指す。これを機に塚本邦雄や寺山修司ら、いわゆる前衛派が『短歌』に執筆する機会が減少した。当時、寺山は次のような発言を残している。

 歌壇では、この一年と言うものの「前衛狩り」が行われて来た。「前衛短歌は終った」と言うことばさえちらほら聞かれている。(略)今や『短歌』も『短歌研究』も、目次から前衛という活字をあっさりと消し去りつつあるというのが現状のようである。(「怪文書と歌壇の現状」、『図書新聞』1965年6月26日)


 「前衛短歌否定」の動きを寺山らしく「前衛狩り」という物語めいた物言いで表現したわけだ。65年版『短歌年鑑』(『短歌』増刊号、1964年12月)掲載の「短歌年表:昭和38年11月より昭和39年10月まで」には、

 総合雑誌「短歌」編集者交替、それに伴い「短歌」の編集方針が変わり、6月号より前衛短歌は同誌面からほとんど消え、それを機会に、前衛派の後退が云々されるに至った。


という注記が見える。『短歌』編集部の手になる年表だ。菱川の指摘(「編年戦後短歌史」昭和三十九年の項、『現代短歌 '78』1978年1月)の通り、前衛排除の編集方針をみずから明かしたことになる。商業誌が先頭に立って反前衛の運動を展開していたわけだ。そこには短歌論の対立があり、商業誌の誌面の争奪戦があり、商業の論理とナイーブな文学主義との衝突もまたあったのだが、今その詳細には立ち入らない。

 もともと誰の言葉だったか、菱川善夫を「前衛短歌の伴走者」などと呼ぶ。あるいは、「前衛短歌の理論的支柱」(篠弘、『日本文学』1991年7月)との位置付けもあった。次のような説明も同じ見方に沿ったものだ。

 この頃(1954年頃—引用者注)から歌壇にも新しい短歌活動が広がり、それが前衛短歌運動となる。菱川はその運動を強力に支え、理論的リーダーとして活躍。(三枝昂之、『現代短歌大事典』三省堂、2000年6月、菱川善夫の項)


 だが、どうだろう。前記の十一本中、「前衛短歌時代」の著作は「戦後短歌史論」の一本にとどまる。残りはすべて「前衛短歌時代の終わり」以後の執筆なのだ。それらはみな前衛否定への反論、および反論の基礎になる短歌史論の提示と見なすことができる。遅れて登場したと言ってはもちろん言い過ぎだが、「伴走者」という秀抜な名付けに対しては若干の解説が必要だ。

 そして、前衛擁護を前提とする文章は、その前提ゆえに、著者本来の主張よりもいくらか高く前衛を評価してはいなかったか。注意しておくべきだろう。


(2018.3.31 記)

3 初出の時期


 収録論文を初出順に並べ替えると、次のようになる。

1962年 9月 戦後短歌史論
1965年 3月 ゆがめられた戦後短歌史
     7月 短歌批評の可能性
1966年 3月 昭和十年代短歌史評価の問題
     6月 現代短歌史論序説
     7月 実感的前衛短歌論
     10月 続戦後短歌史論
1967年 1月 昭和短歌史
1968年 1月 美と思想
1969年 11月 楯としての前衛歌集
1971年 2月 現代短歌と近代短歌
1994年 1月 現代短歌における美と思想
1999年 11月 『新風十人』の美と思想
2000年 9月 昭和十年代の花(講演)

 
 このうち、1971年「現代短歌と近代短歌」以前が単行本『現代短歌 美と思想』からの再収録、1994年「現代短歌における美と思想」以降が新収録で、その間に二十余年の隔たりがある。前者と後者で論調に違いがあるのも当然なのかもしれない。

 ところで、本書を読むと、1960(昭和35)年に一つの画期をみとめる短歌史観がたびたび披瀝されている。たとえば、「続戦後短歌史論」には、

 安保以後五年を含む、戦後二十年という、やや息の長い視野で短歌史をかえりみた時、私は、やはり三十五年に、戦後短歌の一つの段落を感じとらざるを得ない。(77頁)


とある。『現代短歌 美と思想』の前著『敗北の抒情』は1958年刊行だった。そして、『現代短歌 美と思想』で初出の一番古い論文は、1962年の「戦後短歌史論」だ。同書には六十年安保改定前後の経験を踏まえない論考は収めなかった、と解してよいのだろう。


(2018.3.20 記)

 戦時中の『潮音』に登場する桐谷侃三と当時同誌を主宰していた太田水穂の関係について、私は昨年「誰が桐谷侃三だったのか」と題する小文にまとめた(『現代短歌』2017年11月)。『潮音』の今年の2月号に掲載の高木佳子「時評:他を見ること」がその小文を取り上げてくれている。

 今日の潮音社の人たちが拙稿にどのような感想を持ったか、正直なところ、気になっていた。高木の文章はありがたく、うれしい。

 さて、その内容を見ると、冒頭に「スリリングな論考だった」とあり、「緻密な調査と検証に基づき」云々とあるのは過褒とは言え、光栄で、これもうれしい。ただ、その後は拙稿への異論が続いている。私は中河与一宛水穂書簡を新資料として提出し、それを根拠に「水穂が桐谷である」と主張したのだが、高木は「本論考に提示された書簡の書面だけでは(略)決定打には欠ける」と言う。すなわち、

 この書面を精査すれば、書面の内容は自らが桐谷侃三であるという水穂本人の直接の告白がない、「桐谷の名をもって」などの水穂本人による確定的な記述が認められれば揺るがぬ資料であるわけなのだが、それがない。したがって、中河与一氏と太田水穂の親密さ、且つ水穂の血気盛んな戦争翼賛の度合いが改めて確認されるという事実のみがそこに認められるものの、それ以上でもそれ以下でもないことが惜しまれる。


と言うのだ。

 私自身はできるかぎりの論証を尽くしたつもりだ。だが、拙稿の内容が水穂の名誉に関わることは、もちろん理解している。だから、「決定打に欠ける」との指摘は、まず真摯に受け止めなければならないと思う。

 その上で一つ、高木への疑問を述べたい。確かに、水穂書簡の文面には、桐谷の名は一度も出てこない。しかし、土岐善麿の「反戦反国家思想」を「小生完膚無く剔抉いたし十一月号潮音に発表いたしおき候」とあり、「九ポ五頁(二段グミ)に候」ともあるのが「水穂本人による確定的な記述」だ、というのが拙稿の主張なのだ。書簡の一言一句をそのままの意味で素直に読めば、拙稿のように解されるのではないか。それを「確定的な記述」として認めないと言うのであれば、具体的に理由を示してほしいと思う。


(2018.3.17 記)

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