最新の頁   »  2017年07月18日
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 前の記事ですでににも言及しているが、その続きを少し。

 山田は現代における文語旧かなを「コスチューム」、すなわち言葉をキッチュに装うものと捉え、それを使用する短歌を「言葉のコスプレ」と呼びつつ、次のように記す。

 文語旧かなで書かれた時事詠や社会詠には(略)違和感をずっと覚え続けてきた。作者の「本気」が薄まっているように思えてならなかった。文語あるいは旧かなの文体を採用していながら今この時代のリアルを表現することは、もはや不可能になってしまったのではないか。


 「今この時代のリアルを表現することは、もはや不可能」という主張は、明治以来の「短歌滅亡論」や戦後の桑原武夫「第二芸術」を思い出させる。だから、次のような反応が出るのは当然の展開だ。

 山田は文語旧かなは「言葉のコスプレ」だと言うが、それを言うなら、そもそも五七五七七という定型に言葉を乗せている時点で、間違いなくコスプレだろう。同様に、俳句も詩もコスプレだろう。普段着の言葉ではないことはたしかなのだから。それを、いきなり短歌というジャンル内の文語旧かなと口語新かなの間で「コスプレ」か否かの線引きをしようというのは、いささか了見が狭いのではないか。(「五七五七七というコスプレ」)


 ウェブ上で見付けた文章だが、誰が筆者か、私は知らない。ともかく、短歌定型自体が古びた修辞法である以上、この反論に山田が再反論することは難しいだろう。

 そもそも、批評家が古い技術をけなすのはヤボだと思う。もしもモノクロ写真をけなしてカラー写真を褒める批評家がいたとしたら、滑稽だ。劣勢の方をわざわざ批判しても仕方がない。

 山田は短歌における文語旧かな使用から口語新かな使用への移行は時代の必然で、「もはや抗えない」と主張する。本当にそうであれば、時評に取り上げる意味はない。しかし、山田は意味があると考えた。

 だから、「もはや抗えない」というのは錯覚、もしくは意図的な嘘であって、山田の主張はいまだ強い抵抗にさらされているのだ。


(2017.7.18 記)


 「五七五七七というコスプレ」の筆者は『短歌人』の斎藤寛さんである旨、村田馨さんからお教えいただきました。また、斎藤さんご本人からも連絡をいただきました(ともに下のコメント欄)。村田さん、斎藤さん、ありがとうございました。


(2017.7.23 追記)

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Author:和爾猫
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