途中にて乗換の電車なくなりしに
泣かうかと思ひき。
雨も降りてゐき。
『悲しき玩具』のこの一首について小池は、
当時の都電は何時まで走っていたのかは分からないが、歌から漂う気分は深夜、午前零時を過ぎているようにも思われる。(153頁)
と記すのだが、明治に「都電」は……。ふらんす堂には編集者がいないのだろうか。そもそも市電ですらない。
岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』(筑摩書房、1985年)を見ると、1910(明治43)年10月20日付宮崎郁雨宛書簡の一節、
今夜は夜勤だつた。社を出たのが十二時十五分、やうやく赤電車に間に合つて乗つたが、乗換はもうない。雨の中を上野広小路でをりた、
を引いている(300頁)。銀座四丁目から東京電車鉄道に乗り、上野広小路で坊っちやんの街鉄に乗り換えて本郷三丁目で降りるのが帰宅の経路だったのだろう。赤電車は最終電車。時刻は小池の推測通り、午前零時代である。
小池は岩城の評釈を読まずにこの文章を書いたようだ。
(2017.6.30 記)
短歌を一行や二行でなく三行で表記するというまさに革命的方法は、友人土岐哀果のローマ字歌集『NAKIWARAI』に先例があるが、ローマ字でなく日本語文字で短歌を三行に書くのは啄木のまさに発明であった。(略)三行書きは啄木にはじまり、啄木に終わるので、啄木以降誰も三行書きを試みた歌人はいない。(解説「歌」の原郷)
と小池は書く。しかし、『NAKIWARAI』の影響はやはり大きかったのではないか。また、啄木を「日本語文字で短歌を三行に書く」ことの発明者とするなら、『黄昏に』(1912年、『一握の砂』刊行の一年余り後)の哀果はその後続者ということになる。「三行書きは啄木にはじまり、啄木に終わる」とか「啄木以降誰も三行書きを試みた歌人はいない」とかいったことは事実認定として間違っていると思う。
『一握の砂』には「かな」で終わる歌が多い。数えてみたら八十八首もある。五百五十一首の中の八十八首だから16%にもなる。(略)こんなに「かな」止めを多用した近代歌人は外にない。(91頁)
というが、『黄昏に』の場合も、「かな」止めは八十五首ある。「かなや」も含めれば、偶然にも『一握の砂』と同じ八十八首。そして、『黄昏に』の歌数は『一握の砂』よりずっと少ない三百五十二首だから、「かな」「かなや」止めの八十八首は『一握の砂』の場合をはるかにしのぐ25%。実に四首に一首の割合である。
小池は『黄昏に』をきちんと読んでいないのだろう。もっとも、小池に限ったことではない。哀果の歌をまともに読み、論じた人がこれまで幾人いたか。『黄昏に』の代表歌としてしばしば、
指をもて遠く辿れば、水いろの、
ヴオルガの河の、
なつかしきかな。
りんてん機、今こそ響け。
うれしくも、
東京版に、雪のふりいづ。
といった歌が紹介されてきたのは、この歌集にとって不幸なことだったと私は考えている。もっと刺激的な歌がたくさんあるのに、それを読まないのはもったいないことだ。
(2017.6.28 記)
小奴(こやつこ)といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
この一首について、小池は次のように解する。
その耳たぶを噛んだのであろう。(103頁)
しかし、そうとも限らないように思う。実際、次に引くように、別の見方を示す研究者もいる。
酒の席ゆえに、たわむれに小奴という芸妓の耳たぶにふれたことがあるのである。その柔らかい感触が忘れられない、というのだ。(木股知史註。和歌文学大系『一握の砂/黄昏に/収穫』明治書院、2004年)
「耳朶」からただちに「噛む」動作を連想する小池は、何かその手の本から知識を得た少年のようで、可笑しい。
つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ
キスが上手の女なりしが
この歌に対しては、
キスという行為にもまた上手、下手がある。たしかにそうであろうが、こんなことをふつうは歌にしない。(111頁)
と評する。「キスという行為にもまた上手、下手がある」という言い方がいやに大仰だ。そんな当たり前すぎることを「ふつうは文章にしない」。ここにも、まるで童貞のように初々しい著者がいる。
啄木の歌は、こういった大仰さとは無縁だ。その道は、年齢とは関係がないのだろう。
(2017.6.26 記)
いまは町角の喫煙所で人々が群がり、めいめい煙を吐き出しているのであるが、たいていは一人で、ものを言う人もいない。(略)私もその一人なのだけれど、そういう場所にあって一本の煙草を吸っているとき、きまって啄木のこの歌が思い出される。(21頁)
「この歌」とは「空家に入り/煙草のみたることありき/あはれただ一人居たきばかりに」。
「私もその一人なのだけれど」が小池らしい言い回しだと思う。小池の歌でも文章でも、たいてい自分自身を見つめる目が働いている。自己陶酔に陥ることがなく、他人を見る目に優しさがある。だから、読んでいて嫌な気分になることが少ない。
他方、その目が物事の奥底を鋭く剔抉するのもまた、小池の書くものの特徴である。
そうして帰ってきたら、遠くの方が火事であった。燃え上がる炎が遠くに見える。ふと立ち止まってちょっと眺め、また歩きだす。都会生活の分断された人間の孤独をつよく感じさせ、現代の短歌の中にまぎれていても何の違和感もないであろう。(115頁)
「やや長きキスを交して別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな」に付けたコメント。
農村の火事は、つまり知り合いの家の火事で、消火を手伝いに走ることになるだろう。ちょっとした町の火事なら、それは知り合いの家の火事とは限らない。しかし、そんなに遠い場所でもないから、手伝いの必要はなくても見物に行くだろう。都市にあっては、もはや見物にも行かない。
「深夜の街の/遠き火事かな」の素っ気なさは、たしかに異様だ。しかし、都市に暮らしているとこの状態に慣れてしまって、それが異様であることになかなか気付かない。私なども、この「深夜の街の/遠き火事かな」を読み飛ばしていた。小池の文章を読んで初めて気付かされた。
(2017.6.25 記)
年譜を調べると啄木は生涯に三度上京し、三度帰郷した。
(『石川啄木の百首』ふらんす堂、2015年、63頁)
著名な歌「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」を取り上げて、このように記す。ふーんと思いながら目を移すと、続く一文はこうだ。
三度目の帰郷は、骨となって帰った。(同頁)
襟を正す歌とは何の関係もないが、こう言われてみるとちょっとおもしろい。たった二つの短文なのに展開があり、オチがある。文芸だ。
(2017.6.24 記)
笹井宏之『ひとさらい』(2008年)
年下の友人から、掲出歌をどう解釈するか、訊かれた。その場でとっさに、
「真冬のある日、
散らばった楽譜が木枯らしに飛ばされた。
それをずっと、ずっと
追いかけているうちに、
とうとう
夏になってしまった。
もう走るほどでもなくなって、
田んぼのなかのあぜ道を歩いている。」
という意味の返事をしたら、黙っている。なんとか言ってくれよーーー。
§
なくした楽譜を追うこの人は、いまもどこかを歩いている、という気がする。
§
もし「水田を走る」だったら、凡庸なファンタジーだった。走らず「歩む」ところに、妙な現実感がある。明け方に見る夢がしばしばそうであるように。
(2017.6.10 記)
知らない言葉でもない。だから、わざわざ辞書で調べたりよく考えてみたりすることなく、それを今日通用している意味で読んでしまう。しかし、その言葉は、実はそれとは違う意味で使用されているかもしれない。
§
散文に比べ、短歌は一作当たりの情報量が少ない。そこでは、文脈から言葉の本当の意味に気付くといった機会もまた少なくなる。
§
現代と明治・大正期とで意味の全く異なる単語は、まだ読みやすい。現代の意味をそのまま当てはめると明らかに意味が通らない。そんなとき、私たちはすぐに「なんだかヘンだ」と感じる。それが本当の意味にたどり着くきっかけになる。
それに比べ、現代と明治・大正期とで意味が少しだけ違う単語は、むしろずっと読みにくい。現代の意味をそのまま当てはめても意味が通っているように見える。「ヘンだ」と感じることもなく読み過ごしてしまう。しかし、実はその単語の意味は違うのかもしれない。
そういった単語の一つが「ナツカシ」だと思う。
(2017.6.7 記)
人妻のすこし汗ばみ乳をしぼる硝子杯(コツプ)のふちのなつかしきかな
『桐の花』のなかでもとりわけよく知られた一首。今西の解釈は、
人妻が少し汗ばんで張った乳を搾っている。その乳が垂れるコップの淵の懐かしいことよ。若い人妻のもつ健康的な色気、官能性を伝える。(81頁)
というもので、「淵」は校正ミスだろう。それはともかく、ここでは「なつかしき」を元々の意味で取っているのか、新しい方の意味で取っているのか、いま一つ判然としない。あるいは解釈を保留にしたということか。
では、他の研究者や批評家の読み方はどうだろう。菱川善夫『歌の海』は、
汗ばむ乳房と、ひやりとしたコップのふちの輝き。歓楽の中にさしこむ哀愁は、コップのふちの思出によって鋭角的に磨かれた。(『菱川善夫著作集』1、沖積社、2005年、44頁)
「コップのふちの思出」とあるところから、「なつかしき」を新しい方の意味、つまり「過去が思い出されて慕わしい」の意味に取っていたことが分かる。また、高野公彦の解釈は、
乳首から走り出る母乳がコップのふちを濡らすのを見ながら、「なつかしきかな」と表現したのは、乳母に育てられた自分の幼児期を思い出しているのかもしれない。(『名歌名句大事典』明治書院、2012年、540頁)
「自分の幼児期を思い出して」云々とあり、やはり「なつかしき」を新しい方の意味で取っている。
しかし、菱川も高野も深読みし過ぎた、と私には思われる。掲出歌の第四句までを見ると、回想の文脈や過去・現在の対照の文脈を形作るような語句は一切無い。このような場合、結句の一語「なつかしき」は元々の意味、つまりただ「〜に心が引かれる」というような意味で解するのが穏当だろう。
「われ」は女の乳房がコップのふちに触れる光景を目にしつつ、生々しく乳房の感触を想像し、またガラスの感触をも想像した。「われ」の意識はガラスに同化しようとし、また逆に女の皮膚感覚にも同化して「なつかしきかな」の詠嘆になった、と私は読む。
(2017.6.6 記)
一匙のココアのにほひなつかしく訪ふ身とは知らしたまはじ
歌集の初めの方に出てくる一首だが、今西の解釈は「以前ご馳走になった(相伴にあずかった)いっぱいのココアの匂いを懐かしんであなたをお訪ねしたわが身とはまさかにご存じではないでしょう」(20頁)。これはつまり、「なつかしく」を新しい方の意味で取っているのである。なるほど。
その二首後にあるのが、
薄あかき爪のうるみにひとしづく落ちしミルクもなつかしと見ぬ
今西の解釈は「薄く赤みを帯び、しっとりとしたあなたの爪に、ひと滴落ちたミルクにも心惹かれることよ」である(20頁)。「一匙のココア」の歌のすぐ後で、「なつかし」も同様に新しい方の意味で使いそうなところ。それを元々の意味で取るわけだ。
仮に新しい方の意味だとすると、手の爪の上にミルクが一滴落ちるような場面が以前にあって、それと似た場面が今また繰り返されていることになる。しかし、こんな偶然はちょっと不自然だろう。今西の読み方は的確だと思う。
なつかしき七月二日しみじみとメスのわが背に触れしその夏
「明治四十四年の夏、蠣殼町の岩佐病院にて」という詞書の付く連作「昼の鈴虫」の冒頭一首。今西は「冷ややかなメスの感触もいまとなっては懐かしまれるのである」とする(85頁)。七月二日が相当程度の時間を隔てた過去であることを「触れしその夏」という言い回しが強調している。それで「なつかしき」も新しい方の意味で取ることになるのだろう。
ちなみに、当時葛原妙子の実父がこの岩佐病院の外科部長だったそうだ。葛原は父が白秋の手術を担当したと推測していた(「昼の鈴虫:『桐の花』小録」、『短歌現代』1981年4月)。
午前八時すずかけの木のかげはしる電車の霜もなつかしきかな
中村憲吉『林泉集』(1916年)に「篠懸樹(プラタヌス)かげを行く女(こ)が……」という歌があるとおり、当時からスズカケは街路樹として植えられていた。また、電車といえば路面電車のこと。そこで、今西は一首の大意を「街路樹の鈴懸の木の陰を走る電車、その電車の屋根にきらめく霜も興趣がある」と読み、「新鮮な写実歌」と評する(100頁)。ここでは「なつかしき」を元々の意味で取るわけである。
なつかしき憎き女のうしろでをほのかに見せて雨のふりいづ
上句に対する今西の解釈は「なお心惹かれながら、それでいて自分のもとを去った憎い女」で、「なつかしき」を元々の意味で取っている(118頁)。女への「アンビバレンツな気持ち」(今西、同頁)として「慕わしい」と「憎い」はしっくりくる。「過去が思い出されて慕わしい」と「憎い」ではバランスが悪い。
すべてなつかしすべてなつかし
「哀傷篇」で、出獄直前の「鳳仙花われ礼(いや)すればむくつけき看守もうれしや目礼したり」といった歌に付した詞書。今西は「いまとなっては一切合切が懐かしいだけである」と解する(163頁)。「なつかし」を新しい方の意味で取るわけである。なるほど、なるほど。
§
今西によるナツカシの意味の判別に、私は教えられるところが多かった。しかし、実は再考の余地があると思うところもある。
(続く)
(2017.6.4 記)