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 戰爭のたびに砂鐵をしたたらす暗き乳房のために禱るも

   塚本邦雄『水葬物語』(1951年)



 この歌を菱川善夫は高く評価していた。『戦後短歌の光源:現代歌人論』(桜楓社、1974年)所収の「塚本邦雄秀歌十首鑑賞」は『緑色研究』以前の五歌集から二首ずつ選んでいるが、『水葬物語』の二首は、

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ


とこの歌である。

 では、菱川はこの歌の意味をどんなふうに取っていたのか。「塚本邦雄秀歌十首鑑賞」には、

 戦争は、いくたびか愛を無惨に奪い破壊していった。のこされた乳房のうちにこもる怨念と悲歎、絶望の深さは、乳房の中から人間の暖かさを奪い、非情な砂鉄をしたたらす。(略)現代史は、こうした数知れぬ乳房の歴史によって埋まっているともいえる。(『戦後短歌の光源』70頁)


とある。また、『塚本邦雄の生誕:水葬物語全講義』(菱川善夫著作集2、沖積社、2006年)には、

 ……ざらざらとした黒い砂鉄、それが乳房からしたたり落ちるというイメージは、痛切な悲しみの形象化として強い印象を与えます。砂鉄という暗喩は、子供を失った母の嘆きだけではなく、夫や恋人を失った女の存在そのものの悲しみを喚起します。(69頁)


とあり、

 おそらく今、現在のこの時点でも、砂鉄をしたたらす乳房は、地球上にすくなからず存在しているはずです。(同上)


ともある。「乳房」をそのまま女の乳房と捉え、「砂鉄」を比喩表現と解するわけである。

 今、菱川のこうした解釈を否定しようというわけではない。しかし、解釈の可能性ということを考えてみるなら、これの逆もあり得るのではなかろうか。つまり「砂鉄」をそのまま砂鉄と捉え、「乳房」の方を比喩表現と解するのである。この場合、女とその「乳房」は、地球だとか大地だとかを指している。

 大地は人のために鉄を産出し、人は刀身や銃砲、弾丸を製造する。その兵器や武器は人自身を傷付け、やがては大地をも破壊し始めることになる。

 それでも母なる大地は優しく、どこまでも人の願いを聞き入れる。母の子のみならず、母自身もまた罪深い。だから、その母のために——というのである。

 砂鉄をしたたらす乳房のイメージは、異様ながら美しい。どちらの解釈を選ぶにしても、その前にまず感じ取るものは一種の美しさだろう。


(2017.4.30 記)

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 乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる

    辰巳泰子『紅い花』(1989年)



 「終はらす」は国語辞典の項目に採られるような言葉ではなさそうだ。しかし、不自然な感じはしない。日常会話で使うくだけた言い方で、いくらか舌足らずな印象を与える。また、方言のようでもある。

 辰巳の『紅い花』は私小説的といえばよいか。庶民の生活と感情を表現するようなところは、著名歌人の作品では珍しい気がする(短歌って高学歴っぽい「私」ばっかり!)。掲出歌の「ろくでなし」という設定など、いかにも『紅い花』らしい。一方で、下句は季節感を取り込んで、比較的「きれいな短歌」風に仕上がっている。しかも「終はらす」がいわゆるドレスダウンのような効果を持ち、上句と下句がうまくつながる。

 このバランス感覚が『紅い花』のもう一つの特徴だろう。掲出歌の上句的な世界と下句的な世界のどちらに偏るのでもない。両者を無理やり混在させるのでもない。

 辰巳の『紅い花』より後の歌集でもこの特徴が維持されたかどうかは議論の余地がある。


(2017.4.24 記)

 緑雨の言葉の意味を三日三晩考え続けてぼんやりながらようやく分かってきた気がする。われながら情けない。

 「箸」を「庶民」の意と取っていたのはおかしい。取り消す。「俗人」とか「生活者」とかならまだマシだったが、そもそも「人」と解する必要もなさそうだ。

 宍戸氏の言葉に対する私の解釈も取り消したい。


     §


 では「青蟬通信」の解が腑に落ちたかというと、そうでもない。


     §


 吉川さんが同じ話を「青蟬通信」以前にどこに書いていたのか、ウェブ検索で見付けることができた。2014年10月23日付『西日本新聞』掲載の随想「道ばたの短歌」第一回である。

 これと「青蟬通信」を読み比べて、自分なりに納得できた。吉川さんの文章を通じて店主の言葉を知るしかないのが残念だが、吉川さんはおそらく店主の言葉を幾分誤解している。

 「道ばたの短歌」によれば、店主はこんなふうに言った。

 「文学をしたいなら、定職をもつことですよ。ペンは一本、箸は二本と言いますからな」


 そして、吉川さんが「それはどういう意味ですか」と尋ねると、店主はこんな答えを返したという。

 文学だけで生活しようとすると、お金がからんでくるので、言いたいことが言えない、ということになりやすい。だから、金銭的に自立して、純粋に書きたいことを書くほうがいいのですよ。


 箸二本を使えば食えるが、ペン一本では食えない。そのペンで無理に食おうとすると、書きたくないことも書くことになる。そこで店主はペン一本の純粋さを守り抜くために定職を持つことを勧めた。この場合、ペンと箸の比較は、文筆業の収入だけでは生活できないことを強調する修辞に過ぎない。

 ところが吉川さんはこの店主の言葉を

 「筆は一本」というのは、文学だけで生活していくことを表している。それは一見よいことのようだが、書きたいことが書けなくなってしまう危険性も生じる。(略)「箸は二本」、つまり、職業と文学を両立させよ、というのである。(「青蟬通信」)


と捉えるのだから、ずれている。吉川さんは話の主旨を理解し、修辞を理解しなかった。

 そうだ。「それはどういう意味ですか」と吉川さんが尋ねたとき、吉川さんとしては「ペンは一本、箸は二本」の意味を尋ねたつもりだったのだが、店主は「文学をしたいなら、定職をもつ」べきことの詳しい理由を説明してしまったのだ。
 

(2017.4.21 記)

 知人から電話をもらった。吉川さんは別のところですでに「筆は一本、箸は二本」の話を書いていて、そちらは店主みずからこの言葉の意味を説明したとの内容だった、という。

 いつ、どこに載った文章かがはっきりせず、知人の記憶違いの可能性もある。しかし、仮にその記憶が正しいとすると、店主の言葉の意味は「青蟬通信」が説明するとおりだったことになる。

 店主は緑雨の言葉を自由に解釈したということか。


(2017.4.20 記)

 『塔』4月号で吉川宏志が三月書房前店主、宍戸恭一の死を悼み、生前の交流を回想する文章を書いている(「青蟬通信」)。かつて就職を前にした吉川に宍戸は「筆は一本、箸は二本と言いますな。」と言ったという。故人の人となりがかいま見えるようなエピソードだ。ただ、吉川の解釈は不思議な感じがした。

 「筆は一本」というのは、文学だけで生活していくことを表している。それは一見よいことのようだが、書きたいことが書けなくなってしまう危険性も生じる。たとえば、自分が経済的に利益を得ているところの批判は、なかなか書けない、ということが起きるわけである。(略)しかし、文学以外の収入があるのなら、恐れずに批判することができる。「箸は二本」、つまり、職業と文学を両立させよ、というのである。(同誌19頁〜)


 筆は一本也、箸は二本也。一本の筆は所詮二本の箸にかなわない。店主は斎藤緑雨の言葉を借りたのだと思うが、さて吉川の言うような意味だったか。自分はもっと単純に、箸は庶民だとかその生活だとかを表すのかと思っていた。

 そちらの意味だとしたら、店主は「一本の筆」よりむしろ「二本の箸」を危惧したのだと取れる。そして、激励の気持ちをひねった言い方で伝えたのだと想像される。「きっと日々の暮らしで手いっぱいになるでしょうな(でも、本を読んだりものを考えたりすることも忘れないでくださいよ)」というように。

 それは結局「職業と文学を両立」ということになるのかもしれないが、少し違う気もする。もちろん、その言葉の直接の受け取り手だった吉川の理解の方が正しいのだろう。それでも、ちょっと不思議な感じがする。


(2017.4.18 記)

anazawa-1.jpg


 本書の表紙カバーの「おもて表紙」側には、これまで見たことがない写真がプリントされている。困るのは、本書中のどこにもこの写真の説明がないことだ。いつ、どこで撮影したものか。写っているのは何歳の葛原妙子か。

 調べてみて、分かった。場所は軽井沢で、後ろに見えるのは今もそのままの形で建っている聖パウロ教会だ。撮影時期は1958(昭和33)年、葛原は五十代初めということになる。

 どうして分かったかというと、同じ人物(葛原)と背景を別の角度から撮った一枚が角川の雑誌『短歌』1958年10月号に載っており、キャプションに撮影場所が明記されていたからだ。

 これらの写真は『短歌』編集部に属するカメラマンが撮影し、同編集部が所有・保存するものだろう。撮影時期・場所の記録を本書に転記してくれればよいものを、してくれないのは案外管理がいい加減で、編集部内に正確な記録が残っていないということだろうか。


anazawa-2.jpg


 「うら表紙」側に印刷されているのは、構図が印象的な一枚。丸木を並べた小さな橋をはさんで画面の上半分に人物、下半分に水面が写る。その前後に撮った同じ構図の写真がすでに『短歌』2015年9月号(人物特集 没後30年 葛原妙子)に載っていた。

 これらの写真にもやはりキャプションの類がない。ただ、葛原の髪型や着物の柄が聖パウロ教会前の写真と一致する。同じ日に撮影されたものだろう。


     §


 ついでに言えば、聖パウロ教会の設計者は当ブログの昨年の記事で触れたグリーンハウスと同じ、アントニン・レーモンド。この建築家は某市に現存する公共施設を設計した人物でもあり、私事ながらその建設に私の遠い親類が関係していたということを父からよく聞かされた。だから、その名が私には何となく慕わしい。


(2017.4.16 記)

 穴澤芳江『我が師、葛原妙子』もまた、この元将校の件に言及している。貴重なのは、その内容が葛原妙子本人の直話を元にしていることだ。結城文の報告よりも一段、信頼性が高くなった。

 葛原はあるとき、穴澤さんに直接「戦中疎開先の軽井沢の近くに海軍技術研究所があり、縁あってそこの一人の将校と知り合い」云々と語ったという。

 この将校は敗戦後、妙子の山荘を訪れたことがあり、妙子は懐かしそうに私へ、その人の座っていた椅子の後ろの柱に、椅子が付けた跡があるのよと語ってくれた。(同書93頁)


 将校が敗戦後に葛原の別荘を訪問したというのは、これまで報告されていなかったことだ。柱に「椅子が付けた跡がある」というのは具体的で真実味のある発言だと思う。

 その将校が敗戦後引き揚げるとき、別れの為、妙子は夜道を一人で将校のもとを訪れた。そのとき美しい短剣を差し出され、大きいのと小さいのとどちらが良いかと聞かれ、私は大きいのを選んだと妙子。(同書94頁)


 短剣を贈られたこと自体は葛原自身がエッセイに書いていた。しかし、いつ、どのような状況でそうなったのかを明らかにしたのは『我が師、葛原妙子』が初めてだ。

 夜、子どもたちだけで留守番をさせ、自分は一人で真っ暗闇の山道を登って元将校と会ったという。年下の青年への思慕が確かにあったと認めなければなるまい。元将校もその思いを感じ取っていたことだろう。

 そして、元将校が「しっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え」たのは、この翌日ということになる。後日、そのことを知らせる手紙が葛原に届いたにちがいない。

さびしもよわれはもみゆる山川に眩しき金を埋めざりしや


 葛原は『孤宴』で元将校の峠越えに触れた直後にこの自作一首を引き、次のように記していた。

 頭がふつうではなくなったニーチェが或る時妹にむかい、「わたしは立派な本を書かなかっただろうか」と問うたという、それとは違い、私はいまたしかな頭でこの山家を去ろうとして「この山川に眩しい金を埋めなかっただろうか」とみずからに呟いたのである。(同書91頁)


 印象的な記述だが、峠越えの話との脈絡がよく分からない。穴澤さんは葛原に「金とは何ですか」と尋ねたという。葛原の答えは「私の恋しい人との出会いのことよ」だったそうだ。

 そのことを知った上であらためて引用箇所を読んでみると、「たしかな頭で」というところに深い意味が込もっていたことに気付く。みずからの思いがかりそめのものでなかったことをひそやかに、しかしきっぱりと誇り高く宣言したのが「たしかな頭で」の六字だったのである。


(2017.4.9 記)

 この元将校と葛原妙子の関係について、より具体的に報告したのが結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)である。

 当時女学生だった長女の葉子もこの地(軽井沢町沓掛—引用者注)に来て、近くの海軍の施設に勤めるようになり、妙子もそこの海軍軍人の一人と面識を持つに至った(略)、「始めは葉子のお相手にいいかと思った。」というのが、晩年妙子が漏らした言葉として伝わっている。(同書130頁)


 長女を通じて海軍技術研究所の職員の一人と面識を持ったという。しかも、それだけではない。結城によれば、葛原の歌集に未収録の、

明日しらぬ命の逢ひや高原の銀河は高し肩の真上に

  (『潮音』1944年11月)


といった歌の「対象がその海軍の施設の軍人だったことは、妙子の歌を読む人々のあいだでは知られている」(同書87頁)。つまり、元将校と葛原は戦時中から親しく交流し、葛原は元将校に思いを寄せていたというのである。

 葛原妙子の伝記研究の資料として、またその作品を解釈するための補助資料として、まことに興味深い。結城の報告の通りだとすると、元将校の話を葛原が知った経緯も具体的に想像できる。「貴ぶ人」という特別な呼び方の意味も理解できる。

 ただし、結城の報告には難点があった。その根拠が葛原の周辺の人々による間接的な証言であって、葛原本人の手記や直話ではないことだ。実際、明らかに事実に反するところもあった。たとえば『潮音』1943年5月号掲載で、歌集には未収録の一首、

から松の芽ぶきやはらに雪代のみづの信濃よわが恋のみに


 結城はこの「恋」の対象も例の将校と解している。しかし、海軍技術研究所が当地に疎開したのは1944年5月のことで(『軽井沢町誌』歴史編、軽井沢町誌刊行委員会、1988年)、それ以前の作品の背景に海軍将校の存在を想定することには無理がある。根拠の弱さとこうした部分的な事実誤認により、結城の報告全体に対する評価も留保せざるを得なかった。


(2017.4.3 記)

 その話を最初にエッセイに書き付けたのは、葛原妙子本人だった。葛原は戦時中、浅間山のふもとの別荘に子どもたちを連れて疎開し、戦後もしばらくそこにとどまっていた。近くに海軍技術研究所があり、若い将校たちが勤務していたという。

 ある日、彼等はやって来たアメリカ占領軍の人々に、従来みずからが配属していた研究所、他、一切の引渡しを行った。翌日、一人のもと海軍将校はしっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え、折からあらわれた草津白根の雪のいただきをみたのであった。(『孤宴』小沢書店、1981年、90頁)


 その元将校が詠んだ歌一首も記している。それは

峠路をわが越えくればましろにぞ草津白根は雪となりたり


というのである。まるで研究所の引き渡しや元将校の峠越えの現場に葛原自身が立ち会ったかのようだ。もちろん、そんなはずはない。では、どういう経緯で葛原がそれを知ることができたのか。エッセイは、その辺りのことには何も触れない。

 私はこの山で強くなって零下数十度の寒冷や飢餓に耐え、(略)精神が自由になって貴ぶ人に稀有な美しい短剣を乞うことすら出来た。(同書、91頁)


という、これまた具体的な情報を欠いた一節が同じ文章中にあって、その「貴ぶ人」と前の元将校がどうやら同一人物らしい。一編の詩のように現実から切り離されて、現実以上に鮮やかな印象を与える話、といえばよいだろうか。


(続く)


(2017.4.2 記)

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