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 岡崎裕美子「「土屋文明記念館」へ行った」は、この夏から秋にかけて開かれた「現代女性歌人展:そのまなざしは、今」のレポート。この企画展については、私もブログに感想を書いた。だから、岡崎が展示をどう観てどう感じたのか、興味深くその文章を読んだ。ちなみに、正しくは「土屋文明記念文学館」です。

 私も感銘を受けた阿木津英の書について、岡崎は、

 釘でなぞったようにがくがくと角張り、ぶっきらぼうで、見る人をあらかじめ拒絶するような激しさがあった。女性の字はやわらかく、丸く、美しいだなんて、誰が決めた? 阿木津の書はそういってわたしを呼びとめる。


という。私は阿木津のこの書をむしろ今回の展示中で屈指の美しさだと思っていた。つまり、私はもっと「ぶっきらぼう」な字を予想していたのに、実際は見事な字だったので意外に感じたほどなのだ。印象は観る人によって違ってくるということだろう。

 阿木津は、つきつけられた「現代女性歌人展」という企画をどう思ったのだろう。なぜ女性だけが取り上げられるのか。短歌結社の構成比を見れば、短歌をやっている人間の七割ほどは女性であることが明らかなはずなのに、こうしてわざわざスポットライトを当てられてしまう存在であることへの疑問はなかったのだろうか。


 岡崎のものの考え方が色濃く出た一節なのだろう。しかし、かつては女性歌人の勢力が弱く、彼女たちは例えば、自己の存在を主張するためにみずから女人短歌会を結成しなければならなかった。そうした時代が長く続いた後に女人短歌会が解散し、気付けば「短歌をやっている人間の七割ほどは女性」という状態になっていたのである。この短歌史の流れを振り返るためにも「現代女性歌人展」という企画は有効だったと思うのだが、如何。


(2016.11.29 記)

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 さて、このような魅力的な歌に出会う場を作ってくれた大松達知の文章であるが、正直に言うと、その文章自体の難解さにはちょっと困った。例えば、「たんぽぽ」の歌などについては、

 音韻だけでも十分に楽しめるけれど、意味の続き具合にも奥行きがある。


と言い、また、

 意味の必然性が担保されているからこそこういう遊びの歌が成立するのである。


とする。この「意味の必然性」という言い方の意味が私にはよく分からない。さらにそれが「担保されている」とはどういうことだろう。もし〈文脈が通るからこそ、音の響きまで楽しめる〉ということであるなら、簡単なことを随分と難しく言ったものだ。

 「なにゃどやら」の歌については、「二人の子がまだ幼いころ、沿岸北部の町に六年間住んだ。ヤマセの吹く寒い地だつた。お盆には近くの崖下の空地から盆踊りの唄が聞こえてゐた。」という詞書が付いていることを紹介した上で、

 これで作者がなぜこの「なにゃどやら」という奇怪とも言える盆踊り歌に取材したのか、必然性が明確になる。(略)単なる旅行者や研究者としての興味関心ではなく、その人でなくてはならない土着的な「必然性」が歌を補強する。


とする。「その人でなくてはならない土着的な「必然性」が歌を補強する」がやはり分かりにくい。もしかして〈ある歌の作者が旅行者であるよりもその土地の住人であった方が、その歌をよりよい歌と思える〉といったことが言いたいのだろうか。それとも、もっと高度な歌論がそこにあるのか。

 「たんぽぽ」の歌などについて、

 ぴたり三十一音で春の明るさを軽々と歌う……


と言い、「すねのかは」の歌などについて、

 結句六音で陰りと恐怖感を感じさせる……


と言う。どういうことなのか、一生懸命考えてみたが、私の頭は

  

のままだ。ああむずかし。


(2016.11.28 記)



 大松達知「柏崎驍二のおちゃめな連作。」では、引用歌の魅力にやられた。まず美しい一首、

月白(つきしろ)の馬の手綱を取りゐたる夢より覚めて惜しむあかつき


 読者の私は月白の馬に乗ったつもりになり、第四句の「夢」の一字に至って初めて「ああ夢だった」と気付く。夢を見て覚める過程をそのまま追体験するわけだ。短歌が時間芸術であることをよく心得た人なのだなと思った。「つき」の音の繰り返しも心地よい。そして、大松が称揚する「おちゃめな」歌。

たんぽぽは たんたんぽつぽ たんぽつぽ
とほいみやこで うつつづみ


 大松の言うとおり、たんぽぽの異名が「鼓草」であることから想を得ている。第四句「とほいみやこで」が慕わしい。これで都に憧れる田舎人の気分が生まれ、都が栄えた古代の雰囲気も生まれる。

すねのかは すねかのおにの くるよるは
くるよなよるは ほのほがゆれる


 「すねのかは」(脛の皮)が修辞のポイントだろう。この第一句が耳慣れない鬼の名「すねか」を引き出す枕詞のように機能し、異界らしさを増幅している。

なにゃどやらなにゃどなされのなにゃどやらなにゃどなされのやれなにゃどやら


 旧南部藩の領内に伝わる盆踊りの唄の言葉を借りた作。端正な歌の間にこのように弾けた歌が混じるのもおもしろい。今まで読んだことのない柏崎の歌集を猛烈に読みたくなった。


(2016.11.27 記)

 六花書林が初めて出した雑誌『六花』がよかった。装丁が簡素で、上品で、洒落ている。クリーム地の余白を大きく取った表紙と裏表紙は、必要な情報がパッと目に入ってくる。「六花」の二字の字体は小村雪岱の字をもとに作成した由で、暖かみがある。その字を刷るインクの色も何というのか知らないが、きれいだ。

 誌名のほかに「詩歌:気になるモノ、こと、人」という特集名が付いており、内容は評論・随筆のみ。こんなことをいうのもアレだが、短歌や俳句、現代詩の寄稿がないのがすごくいい。ことに短歌の専門誌はたいがい短歌の寄稿・投稿が多すぎるので、この際、文章にページを譲ってもバチは当たるまいと思う。『六花』、いいね。

 巻頭は松村正直「ツンデレからデレデレへ」。内田樹の発言、

 学生たちが授業を聞き流してしまうのは、先生が話していることは「自分宛てのメッセージじゃない」と判断しているからです。でも、「聞こえますか?」を「自分宛てじゃなくて、誰か別の人宛ての話なんだ」と思う学生はいません。全員が「これは自分宛てのメッセージだ」と受け取ってくれるメッセージには全員が耳を傾ける。

  (『塔』2014年11月)


を引用した後、千種創一の一首、

難民の流れ込むたびアンマンの夜の燈は、ほら、ふえていくんだ


を取り上げて、

 「アンマンの夜の燈はふえていく」であれば単なる描写の一本調子なのだが、「ほら」が入ることによって、突如、語り掛ける相手がその場に出現し、作者の肉声が立ち上がってくる感じがする。これは内田が例に挙げた「聞こえますか?」の役割と似ているのではないか。


と論じる展開が鮮やかだ。「ほら」の一語で読者もまた突如覚醒し、この歌に注意を傾ける、ということでもあろう。

 ただし、「聞こえますか?」という呼びかけ自体にとくに価値がないことは気になった。学生たちはきっと、その言葉に反応はしても、格別の刺激を受けたりはしない。千種の歌はどうか。

 松村さんのここでの目的は「ほら」の働きを明らかにすることにあり、それはよく果たされている。一首の評価はそれだけでは決まらないというのは、松村さんももちろん承知のことだろう。

 文章中に引用された千種の歌は計四首で、どれもおもしろい。千種の歌集を読んでみたい。


(2016.11.24 記)

 わずか数首について書くだけで二ヶ月かかり、フラフラ、ヘトヘト。残りは現時点での覚書のみ。

故知らず露兵は送られ戦ひしと我等聞かされき曾ての時は


 初出は『アララギ』1937年1月号。『春山』の初版本に収録されず、改版本では昭和11年の「つゆじも」十二首中の六首目である。歌意は〈ロシア兵は理由も知らされないまま戦地に送られ戦った、とわれわれが少年だったころは大人から聞かされたものだ〉。上句はロシアの王室や政府を憎んで前線の兵士を憎まない、といった考え方だろう。以前はもっと他国の民衆に対する同情があったのに、現在は——といった認識が作者のうちにあって、それを一首の言外に表そうとしている。愛敵思想と見られる恐れのあることが初版本に未収録の理由か。

にやにやと伯林あたりうろつきゐるその顔がまた眼に浮び来る


 初出は『アララギ』1939年10月号。『春山』の初版本に収録されず、改版本では昭和14年の「夏より秋へ」十二首中の四首目。誰の「顔」を指すのか、私はまだ読み取れないでいる。したがって、初版本に未収録の理由もよく分からない。引き続き、課題としたい。

帽高き青年将校に向ふときのその須臾の間(ま)の心のうごき


 初出を知らないが、『アララギ』以外の雑誌・新聞か。『春山』の初版本に収録されず、改版本では昭和15年の「屋根」十五首中の十二首目。「心のうごき」がどのような心情か、具体的に明かさないので検閲を気にかける必要もないように思えるが、軍人批判と解されることを恐れたか。一首の解釈については、これも引き続き、課題としたい。


(2016.11.22 記)

藤沢グリーンハウス


 葛原妙子に

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず

  (『短歌研究』1956年1月)


という著名な一首があるが、私は古い食堂の窓を見上げているだけで満ち足りた気分になる。画像は今月、藤沢のグリーンハウスにて。


(2016.11.20 記)

 書き始めると、いろいろと書きたいことが出てきてしまう。散漫な話にならないように、とりあえず基本的な事柄だけを押さえておこう。

年老いし教授は喚ばれぬ一生(ひとよ)かけし学説に忠良を糺(ただ)されむため


 この一首は、『春山』改版本で「断想」六首の一首目。その六首の初出はすべて『アララギ』1935(昭和10)年5月号である。初出・初版本・改版本の本文を比較してみる。

  a 初出

   競周容以為度
年老いし教授は喚ばれぬ一生(ひとよ)かけし学説に忠良を糺されむため
言挙をいやしとせりき尊きを言挙げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人もはやく逝きたり
時代(ときよ)経て人は説かむか昭和の代のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日(いくか)を経つつすでに凋みぬ


  b 初版本

   断想
言挙
(ことあげ)をいやしとせりき尊(たふと)きを言挙(ことあ)げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人も今は世になし
時すぎて人は説かむか昭和の代
(よ)のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日
(いくか)を経つつすでに凋(しぼ)みぬ


  c 改版本

   断想
年老いし教授は喚ばれぬ一生
(ひとよ)かけし学説に忠良を糺(ただ)されむため
言挙
(ことあげ)をいやしとせりき尊(たふと)きを言挙(ことあ)げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人も今は世になし
時すぎて人は説かむか昭和の代
(よ)のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日
(いくか)を経つつすでに凋(しぼ)みぬ


 この間の改作の主な点を挙げれば、

 ・初出時のタイトル「競周容以為度」を初版本で「断想」に改めた
 ・初版本に「年老いし教授」の一首を採らなかった
 ・改版本で「年老いし教授」の一首を補った

といったところだ。

 「年老いし教授」は当時の東京帝大教授、美濃部達吉。1935年2月の貴族院本会議で美濃部の天皇機関説が批判され、貴族院議員でもあった美濃部は自説の内容について釈明するための演説をおこなった。「年老いし教授」の歌はこの件に取材している。

 一首の立場に注意すべきだ。「一生かけし学説」という表現に美濃部に対する敬意と同情はまぎれもない。したがって、直後の「忠良」は括弧付きの「忠良」ということになる。ファシストがいうところの「忠良」か否か、今まさにファシストによって糾弾されようとして——といった文脈に下句はなるだろう。

 要するに、これは天皇の名を借りたファシズムが急速に力を得てゆく時代にそれを比較的明確に批判した歌と言ってよい。

 初出時のタイトル「競周容以為度」は、この一首の立場をさらに明瞭に示す役割を担っていた。それは屈原「離騒」からの引用で、「周容を競ひて以て度と為す」などと書き下す。「世間に媚びへつらうことを競って、それを当然と考えている」というほどの意味だろう。当時、美濃部を非難する者の勢いは激烈だった。同年4月には美濃部の著書『憲法撮要』等が発禁処分になった。その時流に反する意見を、作者はタイトルの字句のうちにも込めていたのである。

 初出の後、同年10月には当時の岡田内閣が声明を出し、天皇機関説は「国体の本義」からはずれたもので排斥すべきだ、とした。危険思想の最たるものと断じたわけである。天皇機関説を肯定しているとも読める「年老いし教授」の歌は、憲兵司令部の検閲で真っ先に問題視されることが予想される。作者が初版本にこの歌を採らなかった理由である。

 初出の二首目以降は、いずれも一首目の「年老いし教授」の歌と同じ事実を背景にしていたと考えられる。ただし、その事実と直ちに結び付く具体的な表現は無い。それゆえ、それらの歌は初版本にほぼそのままの形で採られたのだろう。ここでも、「年老いし教授」の歌を収録しなかったからこそ他の歌は収録できた、と見ることが可能だ。

 なお、同時にタイトルを「断想」に改めたことで、それらの収録歌はより一層特定の事実と結び付きにくくなり、検閲に対して安全になった。ただ、初出時の作者のモチーフを考えれば、一連の歌の内容は本来「断想」ではなかったはずだ。改版本で「年老いし教授」の歌を補いながら、「断想」のタイトルを初版本のまま残したのは、一種の韜晦だろう。あるいは、そこに作者の戦後の悔いを見出すべきなのだろうか。つまり、それは結局積極的な志を欠いた「断想」に過ぎなかった、というような——。


(2016.11.14 記)

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