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 では、第一の問いについて。

今夜(こよひ)なほくちびるふれし記憶さへこころに痛しまなこ冴えつつ


 この歌を初版本から外したのは、猥褻と見なされることを恐れたのだろう。歌の言葉から「くちびるふれし記憶」の具体的な事情を推定することは難しいが、いずれにしても一首のモチーフが青年期の心の痛みにあることは明らかである。これが風俗壊乱との理由で非難されるとしたら、いかにも単純で味気ない国だと思わざるを得ない。

 この歌以外の六首の収録見合わせは、みな危険思想と解されることを避けたものと考えられる。

借金に苦しむわが村に日露役記念碑は督促されてこのごろ建ちぬ

日本刀をサーベルに仕込みて下げたりと何にことごとしく人は語るか


 この二首は、改版本で「今日」と題する一連の一首目と三首目。関連する箇所まで含め、初版本の本文と比較してみよう。

  a 初版本

   手記
コルセツトしてをりと思ふおのづから鋪道の角を今まがりつつ
この夕べ二人
(ふたり)あゆめば言ふことのただ素直なるをとめなりけり
明日
(あす)にせまる仕事と思へばいらだたし彼女はいまは誰とか居らむ
年老いて時におもねる文章は今日もひきつづきて夕刊に出づ


  b 改版本

   手記
コルセツトしてをりと思ふおのづから鋪道の角を今まがりつつ
この夕べ二人
(ふたり)あゆめば言ふことのただ素直なるをとめなりけり
明日
(あす)にせまる仕事と思へばいらだたし彼女はいまは誰とか居らむ

   今日
借金に苦しむわが村に日露役記念碑は督促されてこのごろ建ちぬ
年老いて時におもねる文章は今日もひきつづきて夕刊に出づ
日本刀をサーベルに仕込みて下げたりと何にことごとしく人は語るか


 どの歌も初出は同じ、『アララギ』1932(昭和7)年12月号である。初版本はそこから四首を採って「手記」というタイトルで括った。改版本はさらに二首を追加し、内容の関連性によって「手記」三首と「今日」三首に分けたものである。

 「借金に苦しむわが村」は、中学時代から家族とともに住んでいた東京府の旧目黒村か。記念碑建立への反感は、歌の言葉に明瞭に表れている。『春山』の同傾向の歌のなかでも表現の省略や迂回が少なく、理解しやすい一首といえる。ただ、その分だけ反戦や反軍の思想を指弾される可能性も高かったはずだ。それが初版本未収録の理由だろう。

 「年老いて」の歌は、前の歌に比べると分かりにくい。誰が年老い、どのように時流におもねる言辞を弄しているのか。具体的な情報は慎重に排除されている。下句は、情報としてはほぼ無内容。一人の年配の評論家とその著作を批判しているらしいが、検閲官がその批判の対象を特定できないようになっている。それで、この歌は初版本に残ったのだろう。

 「日本刀をサーベルに」の歌もまた、分かりにくい。歌意は、「より実戦向きにすべく日本刀をサーベルに仕込んで下げていた、と人は何のために大仰に語るのか」。前の「時におもねる文章」と関連する内容と思われる。語る人への批判的な態度も同様である。ただ、それにしても誰がどのような状況でサーベルを下げていたのか。やはり、具体的な情報に乏しいのである。

 では、初版本に前の歌が採られ、この歌が採られなかった理由は何か。この歌には一点、前の歌と異なる要素がある。日本刀を仕込んだサーベルから容易に軍人への連想が生まれることだ。反軍の思想を読み取られる恐れのあることが初版本未収録の理由であったにちがいない。


(2016.9.29 記)

 柴生田稔の第一歌集『春山』は、戦中の初版本(墨水書房、1941年)のほかに戦後の改版本(白玉書房、1953年)がある。両者の本文には異同があり、その主要な箇所については著者自身が改版本の後記で次のように説明している。

 「春山」を出版した時、私は陸軍予科士官学校の教官をしてをり、規定によつて私の著書は憲兵司令部の検閲を受けた。この条件を顧慮してあらかじめ収録を見合せた歌が幾首かあつたのであるが、今度の機会にその七首を補ふことにした。それから同様の意味で辞句を改めた歌が一首あったが、それも今度原発表の形に戻すことにした。


 そして、改版本巻末の近藤芳美の解説によれば、補った七首は次の通りである。

今夜(こよひ)なほくちびるふれし記憶さへこころに痛しまなこ冴えつつ

借金に苦しむわが村に日露役記念碑は督促されてこのごろ建ちぬ

日本刀をサーベルに仕込みて下げたりと何にことごとしく人は語るか

年老いし教授は喚ばれぬ一生
(ひとよ)かけし学説に忠良を糺(ただ)されむため

故知らず露兵は送られ戦ひしと我等聞かされき曾ての時は

にやにやと伯林あたりうろつきゐるその顔がまた眼に浮び来る

帽高き青年将校に向ふときのその須臾の間
(ま)の心のうごき


 差し当たって二つ、基本的な問いを出すことができる。第一に、憲兵司令部の検閲を顧慮してあらかじめ収録を見合わせたとあるが、その顧慮はどのような種類のものであったか。第二に、近藤の解説は「同様の意味で辞句を改めた歌」一首の方は挙げていないが、どの歌か。

 少し調べたかぎりでは、これらの問いに答える先行論文等は見当たらなかった。難問というわけではないし、アララギの人などには常識で、ことさらに説明する必要もなかったのかもしれない。しかし、その基本的な事柄を文章の上に明示しておく意味もあろうかと思う。

 第二の問いの答えになる歌一首をまず挙げておこう。それは『アララギ』1937年1月号初出の

なほいまだナチスの民にまさらむと語り合ひにき幾年前(いくとせまへ)


である。これを『春山』の初版本に収録する際に改作して、

なほいまだナチスの民にまさらむと人は言ひにき幾年前(いくとせまへ)


とし、改版本で再び初出形に戻したのである。


(2016.9.23 記)


 『塔』に「風炎集」という欄があって、一人の作者による歌二十首が見開き二頁に掲載される。今号の空色ぴりか「コールドゲーム」がとてもおもしろかった。想定外の妊娠で退職を余儀なくされた女、の独白風の一編である。

妊娠のわかった夜はキッチンで桃剥きながらただ泣いていた


 一首目。散文風の簡潔な文体。桃は即物的で裏の意味を感じさせず、偶然にも桃太郎の桃だったという趣である。うれし涙なのか、悲しんで泣くのか、この歌だけでは判断できない。読者はただ女の泣く姿だけを想像する。

社会人三年目としてのこれからを一掃したるまさかのエラー


 二首目。「一掃」「エラー」は野球用語。試合を決定付けたエラー、それもありえないエラーとして、妊娠ないしは問題の性行為を捉えていることがこの一首で明確になる。二死満塁で外野手がフライを後逸したというようなイメージか。

 前の歌と合わせないとエラーの喩えの意味が読み取れず、一首の独立性は弱い。しかし、迷いなくエラーと断言する痛快さがこの歌の生命であって、まだるっこしい説明句の省略がその生命を支えているともいえる。

 ただ、自分の「これから」を一掃すれば自分に大量点が入り、ひいては自分の勝利になるはずなので、考えてみると複雑だ。

おめでたの言祝ぎとともにあっさりと宣告されたコールドゲーム


 三首目。前の歌の複雑さが解き明かされる。自分は九回まで行かずに終わるコールドゲームの勝者として祝福されるのだが、ゲームのこの先を経験することが許されないという意味では敗者なのである。

それからは会う人ごとに「よかったね、いつ辞めるの」と聞かれるばかり

ただひとり経理の武富さんだけがもったいないことしたねと言えり

こうやって不本意ながらわたくしは[二十六歳無職]となった


 四、五、六首目。ここでも、一首の独立性の弱さと言いたいことだけを言う小気味よさがコインの裏表のように同居している。連作中の歌なのだから、その小気味よさを喜びたい。

 なお、おなかの子の父親が全然登場しないことに注意すべきだ。妊娠して慌てて結婚届を出した、と一応解しておこう。「経理の武富さん」は職場の先輩で、独身女性だろう。

産むまでの半年たらずは退屈でほとんどなにも覚えていない


 七首目。出産まで「半年たらず」の時点で退職したということか。それまでフルタイムで会社勤めをしていたのが、何もしなくてよいことになったので「退屈」なのである。

 この歌で重要なのは「ほとんどなにも覚えていない」で、作中の現在が出産後、それなりの年数を経た時点であることがわかる。そのことが次の一首を準備する。

産むことと育てることとは別物とあなたを産んだ直後に悟る


 八首目。出産前の退屈さに比べ、育児は猛烈に忙しいので「別物」という感想になる。

 「あなた」という二人称の出現が衝撃的だ。作中の現在では、わが子はすでに対話が成立するほどに成長しているのだろう。しかも、この子どもは十分に愛されているようだ。「あなた」の一語により、すべてがオセロの駒のようにきれいにひっくり返り、現在の「わたくし」が出産とその後の歳月とをまず肯定していることが明らかになるのである。

 この後、九首目に唐突に

三年の潜伏をへて再就職しそして試合は延長戦へ


という歌が置かれ、さらにまだ十一首ある。

買ってきたダリアの苗を植え付ける "福わ内" というオレンジ色の

ナゴヤドーム帰りの子ども サイン入りメガホン首にぷらぷらさげて


等々、わが子が二十六歳を目前にしている現在の日常詠である。

 前半八首と比べ、残りの十二首はいささか興醒めに感じられた。「あなた」の一語が子育てのあれこれから再就職の可能性までを限りなく豊かに想像させた後で、この十二首は蛇足ではなかろうか。


(2016.9.19 記)

 松平修文の伝えるところによれば、大野誠夫は葛原妙子の歌について「つまらない遊び」と評していたという。

 私は大野さんに十五年師事しましたが、はじめの十年はまことにいい関係だったんです。でも途中から大野さんは少し変わってきて、年齢的なこともあったのでしょうが、写実派みたいな要素が強くなりました。(略)前衛短歌の悪口もしょっちゅう言うし。あるとき、私が思いついて葛原妙子の勉強会をしたら怒りだして、あんなつまらない遊びのどこがいいんだって言うんです。  (久々湊盈子インタビュー集『歌の架橋Ⅱ』砂子屋書房、2015年10月、241頁)


 先頃、近所の古書店で大野誠夫の1956(昭和31)年の歌集『胡桃の枝の下』を見付けて購入した。葛原妙子宛の献呈署名本だった。大野が葛原の歌に関心を持っていたことを示す一つの資料だと私は思った。だから、松平の証言はちょっと意外な感じだ。

 三省堂版『現代短歌大事典』の松平修文の項によれば、大野に松平が師事したのは1968年から84年まで。大野が葛原の歌を批判したのは70年代末から80年代初めにかけての時期ということになる。松平の言うとおり、大野はあるときから「変わった」のだろうか。


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(2016.9.12 記)

 西日本新聞の読者短歌欄における土屋文明の短評をいくつか見てみよう。転載された『熊本アララギ』1996年8月号と9月号から引く。

自衛隊に職を求めて二十年あはれ日蔭者の如き二十年
(評)君個人はそんな風に考へるに及ばず。


 「日蔭者」は吉田茂が防衛大学校の第一回卒業生に贈った言葉の中に出てくる。文明の評は手厳しい。元首相の言葉の借用に、一隊員としての生活を軽んじる似非思想を見たか。

安く売れといふありもうけよといふもあり都合よくやれといふ声もする
(評)オカメ評といふものはかうだ。かまはずやれと私も言はう。


 この一首を肯定しているのだろう。「かまはずやれ」は、文明の肉声が聞こえてくるようだ。

斯くきびしく生きゐる吾らある事を三島氏は知らず自決して果てぬ
(評)かういふ見方の者も少なくないだらう。私などもその側だ。


 この一首も肯定的に評価している。三島由紀夫の事件の直後に投稿された歌なのだろう。生活の実感から離れた思想に賛成しないのは、「あはれ日蔭者」への評とも共通する態度だ。客観を装うことなく、「私などもその側だ」と述べて発言の責任の所在を明示するところに誠実さを感じる。

数軒の借家を持てる女教師が「教育は趣味よ」と笑ひつついふ
(評)さういふ教師をもバカにしないのが真の教育者だらう。


 この文明の言葉にしびれた。「女教師」の同僚の作と見たのだろう。文明の態度は一貫している。

接木して五十余年の歳月がしだるる梅と吾とにありし
(評)梅と共なる五十年はめでたし。


 これは優しい。


(2016.9.9 記)

 昔、西日本新聞の読者短歌欄の選者は土屋文明だった。その欄での文明の評言を1996(平8)年の『熊本アララギ』がより抜いて載せているのだが、なかに

離れ住む長の娘が夢に顕ち冷めたき寝汗を拭きてくれたり


という投稿歌があり、文明の意見はこうだ(『熊本アララギ』1996年9月)。

 長女のことを長の娘とはいへない。長の娘なら自分の上長者の娘といふことだ。オサメなら昔の掃除女だらう。歌をつくるに学問はいらないがへんな知つたかぶりのことばは使はない方がよいことは私の日頃の主張である。


 「長の娘」はヲサノムスメ。ヲサは自分自身にとっての統率者や年長者の意で、ヲサノムスメは例えば村人から見た村長の娘、漁師から見た網元の娘だ、ということだろう。ちなみに「掃除女」のヲサメは平安時代の女官で、「長女」と書くが、これはもちろん私たちの言う長女とは別の語である。

 葛原妙子『朱霊』(1970年)に

なにぞそも長(をさ)のむすめは母なるわがまへにきはめてしづかにわらふ


という一首があり、小池光にも同じく長女の意でヲサノムスメと詠んだ歌がたしかあった。いずれも言葉の誤りということになろうか。


(2016.9.7 記)


 富小路公子と出会った夜のことを旧華族の女、烏丸瑤子が語る一節。

 あの子が立って、恥しそうに一礼して、私にも気まり悪そうに会釈して坐った。私は綾小路さんじゃないのが分って、富小路というのは、聞いたことないな、そういう苗字って昔からあったのかしらんと思ってね。ちょっと考えこんじゃったのよ。(新潮文庫六十刷、258頁)


 その後の二人の会話。

「私、綾小路さんのお嬢さんかと思ってたのよ。富小路って、変な苗字だね。京都の町みたいじゃないさ」
「本名は富本なんですけれど、平凡ですから、富小路と名乗ってますの。これだとすぐ名前を覚えて頂けますから。まず名を覚えて頂くのが大事なことでございましょう?」(同、258頁)


 また、瑤子の母の発言。

「……でもね、富小路という苗字は、明治以前には確かに公家にあった筈よ。昔の地図で見たことがあるわ。有栖川さんの御殿のすぐ傍に屋敷があったようよ」(同、263頁)


 富小路は一見華族風ながら、華族にない苗字だという。しかし、小説の外部の事実は(つまり、実際は)そうではない。終戦後まで富小路子爵が貴族院議員を務めていたし、著名歌人の富小路禎子はその家の娘だった。

 『悪女について』はもちろんフィクションだが、それにしても奇妙だ。有吉はどこでどう間違えたのだろうか。


(2016.9.5 記)

 離れて暮らす小学生の息子に主人公の富小路公子が高価な全集本を買い与えたことを、後年になって当の息子が語る一節。

 僕が、
「幼稚なものばかりだね、ママ。悪いけど読む気がしないよ」
 と言うと、
「まああ、義彦の成長は、私の想像していたより早いのね。嬉しいわ」
 で、次の週には「世界文学全集」「日本文学集成」「会津八一全集」などというものが、ドカンと届くという具合でした。

  (新潮文庫六十刷、2008年、424頁)


 小説が発表された1978(昭和53)年当時はまだ全集というものが出版される時代だったから、この母親の設定が成り立つわけだ。今なら成り立たない。

 「会津八一全集」は60年代末に出版された十巻本だろう。78年にはまだ品切れになっていなかったのかもしれない。有吉はたまたま目に留まった書名を書いたのだろうが、場面にぴったり合っているので、私は読みながら笑ってしまった。学術論文と短歌が中心の、まあその……お堅い個人全集だから、小学生にはつまらないにきまっている。


(2016.9.3 記)


 『悪女について』は時間の設定が精密にできていて、全編にわたって矛盾がないようだ。作中の現在は1978年で、富小路公子の長男は24歳。とすると、この長男が小学生だったのは60年代前半ということになる。これは十巻本『会津八一全集』の刊行前だ。公子が買い与えたのは50年代末に出版された九巻本の方だったか。

 「有吉はたまたま目に留まった書名を書いたのだろう」というのも取り消した方がよいかもしれない。


(2016.9.3 追記)



 三省堂版『現代短歌大事典』の尾山篤二郎の項を見たら、

 六三年、横浜市金沢区に七五歳の生涯を閉じた。


とあり、その地名に思い出すことがあった。

 私の恩師は東京の人だが、大空襲の後、北条氏ゆかりの金沢文庫の近所に転居した。同じ町内に学者や文人が何人か住んでいて、戦後しばらく、一番若かった師の家に定期的に集まり、互いに関心のあるテーマについて語り合ったという。尾山はひとり杖をついてやって来て、会が終わると、またひとり杖をついて帰って行ったそうだ。

 どんなことを、どんな調子で尾山が話したのか。師が亡くなる前に聞いておけばよかった。


(2016.9.1 記)
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Author:和爾猫
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