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 斎藤瀏歓迎会が開かれた天然自笑軒は、田端のいわゆる文士村の地域にあった有名店。芥川龍之介のファンには、芥川の結婚披露宴の会場になった店として知られている。田端在住の太田水穂がこの店を知っていたのだろう。斎藤史のエッセイに「自笑亭」とあるのは、寄せ書き帳の字をそのまま引き写したものと思われる。史自身はこの店のことはよく知らなかったのではないか。当然のことだが、瀏が史をどこにでも同伴したわけではない。


(2016.8.30 記)


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 「斎藤瀏歓迎会漫詠集」(『香蘭』1930年6月)によれば、会は同年5月18日夜に開かれたという。参加者を年齢順に並べ、所属結社の機関誌名を書き添えると次のようになる(年齢は数え年)。

  石榑千亦  61歳  心の花
  太田水穂  54歳  潮音
  宇都野研  53歳  勁草(信綱・空穂系)
  斎藤 瀏  52歳  心の花
  川田 順  49歳  心の花
  吉植庄亮  47歳  橄欖(薫園系)
  尾山篤二郎 41歳 (空穂・夕暮・牧水系)
  村野次郎  37歳  香蘭(白秋系)
  前川佐美雄 28歳  心の花

 これを眺めると、いろいろな人間関係が見えてくる。

 水穂から庄亮までがいわば同世代で、瀏はちょうどその真ん中にいる。庄亮は気心の知れた仲間の中で一番年下だから、笑いの対象にしやすかったわけだ。想像するに、この歓迎会は水穂・研・順・庄亮、さらに商業誌『短歌雑誌』の編集に携わっていた尾山篤二郎が声を掛け合って計画し、順が『心の花』の親しい先輩石榑千亦、後輩前川佐美雄を呼び、佐美雄は自分一人だけがとびきり若いことに引け目を感じて、芸術派の人脈で繋がりのあった村野を誘った、といったところか。

 非アララギ・非プロレタリア・親モダニズム、そして後年の国粋主義の肯定。会の参加者の傾向を大雑把にまとめれば、そんなふうになるだろう。

 水穂・庄亮と瀏がこの十年後、大日本歌人協会に対し連名で解散勧告を出し、解散に追い込んだことはよく知られている。村野の『香蘭』は1930年当時、新芸術派の拠点の一つだった。佐美雄は言わずと知れた新芸術派の旗手で、この会の二ヶ月後に第一歌集『植物祭』を出版することになる。尾山は戦後、中城ふみ子の歌を罵倒したことが短歌史に残って損をしているが、戦前は新芸術派の数少ない理解者の一人だった。また、瀏が二・二六事件に関係して収監されたときには、尾山が真っ先に斎藤家を訪れて史を励ましたという。

 私は以前からモダニズムと国粋主義の親和性が気になっている。この会の顔触れにも、それは表れているように見える。モダニズムを捨てて戦意高揚歌を作るのか、それとも元から二つは繋がっているのか。今後の短歌史研究の課題だと思う。


(2016.8.28 記)

 先日、この歓迎会に関する新たな資料を発見した。『香蘭』8巻6号(1930年6月)(註)掲載の「斎藤瀏歓迎会漫詠集」である。報告者名は記されていないが、同誌の編集兼発行人、村野次郎にちがいない。

 この「斎藤瀏歓迎会漫詠集」は、斎藤史のエッセイ「寄せ書き帳」が紹介する前書き・歌・句のうち歌一首を欠くが、残りは全て載せている上に、史の紹介の中には見えない歌七首も載せている。字句の異同があり、歌の順序も部分的に違っているところを見ると、寄せ書き帳とは別に村野が書き取ったもののようだ。歓迎会直後の報告であるから、一つの資料としてまず信頼してよいだろう。

 さて、これを調べると、史が紹介を略した「庄亮がさかなにされた」歌というのは、どうやら次の四首であるらしい。

吉植の千葉の印旛の草刈女ラムネつきにて十銭といふ  水穂

吉植は異論がありといひいでぬ十銭にあらずただといふなり  千亦

酒のめば印旛の沼の大なまづぬらぬらとして泥にねむれる  水穂

いん旛沼の庄亮なまづぬらぬらにひげはあらねど大鯰なり  順


 村野は前の二首に

 ややヱロの話になりたる折


と註を付けている。一首目の大意は、(東京の男は芸妓と酒を飲んだり、女給とコーヒーを飲んだりしているが)印旛の庄亮はラムネを二本十銭で買って、草刈りに雇った女と一緒に飲んでいるという——。二首目は、「いや、わざわざラムネなど買い与えないでも、女とよい仲になるのは簡単だ」と庄亮は言い返した——。別解もあるかもしれないが、一応こんなふうに解しておきたい。いずれにせよ、罪のない艶笑歌である。

 庄亮の歌集『開墾』を見ると、雇った娘たちを題材にした歌がいくつもある。

草掻くと胸わきあきて少女子のいまだをさなきまろ乳匂ふ

菅笠のうちに匂へる青田光
(かげ)田草かく子等みな笑ひゐる

早少女が紺の股引の足結(あゆひ)藁あまりは唇(くち)にもてあそびつつ

田上がりの股引ぬぎて少女らの夕くらがりを新鮮(あたら)しくなす


 いずれも健康的なエロスを感じさせて、退廃の匂いは全然ない。水穂たちも当然その辺りのことは理解している。だから、安心してからかうことができるわけだ。

 後の二首は深酔いした庄亮を笑ったもの。なぜ「大なまづ」なのかは、しばらく留保しておこう。

 庄亮を詠み込んだ四首の紹介を史が割愛した理由として考えられるのは、一つは瀏に関係したものでないということだろう。不本意なかたちで退職した瀏を歌人たちが暖かく迎えた、というのがこのエッセイの基本的な文脈なので、庄亮をからかう歌はそこから幾分脱線してしまう。

 そして、もう一つは、やはり「ヱロ」を避けたか。切り抜き帳はこの後、篤二郎と瀏による筍の絵、水穂の一句

みじか夜の大竹の子や露の玉


と続くようで、史はとくにためらうこともなく紹介している。ところが、「斎藤瀏歓迎会漫詠集」ではこの水穂の句の後に

 中々ヱロといふもあり


との註を付けているのがおもしろい。史は水穂の句の暗示には気付かなかったのかもしれない。


     §


 現代の歌人の宴会をよく知らないが、今も即興の寄せ書きといったことをするのだろうか。もしそういった遊びがなくなるとすれば、艶笑歌もなくなってしまうことだろう。


(註)『香蘭』8巻6号は群馬県立土屋文明記念文学館の佐々木靖章寄贈本のなかにあり、私もそれを閲覧した。


(2016.8.25 記)

 斎藤瀏が陸軍歩兵第十一旅団長を退いて予備役となり、熊本から東京に居を移したとき、親しい歌人たちが田端の会席料理店、天然自笑軒で歓迎会を開いた。集まったのは石榑千亦・宇都野研・太田水穂・尾山篤二郎・川田順・前川佐美雄・村野次郎・吉植庄亮と瀏の九名、1930(昭和5)年のことである。

 この会で、歌人たちは即興の歌や絵を残した。その寄せ書き帳は瀏に贈られたようで、後年斎藤史がエッセイ「寄せ書き帳」(『遠景近景』大和書房、1980年)で内容を紹介している。

任をへて剣を捨てたる将軍の大禿あたま夏の月照る  水穂

灯に照れる柱に寄れる禿あたまいづれあやめと引きぞわづらふ  順

あまてらすあたまのひかり神々しみきたてまつりわれは祝はむ  庄亮


 瀏の頭をからかって詠んだもので、笑いにまぶして瀏の退職を慰めいたわる気持ちが伝わってくる。順の一首は『太平記』の

五月雨に沢辺のまこも水こえていづれあやめと引きぞわづらふ


を踏まえて「柱も頭もきれいに光って見分けがつかない」とふざけたのだが、「異本撫でぞ」という書き込みもあるとのこと。場面を想像してみると、

  ——いや、将軍の頭は「撫でぞ」だ。(一同大笑)

といった感じだろう。史のコメントは、

 このあたりまでは、まずまずのにぎやかさだが、いよいよ興が乗り、印旛沼の近くに住む庄亮がさかなにされたらしい、


というもので、瀏の次は庄亮がからかわれたようだ。宴はさらに盛り上がり……。


     §


 史は「庄亮がさかなにされた」その歌自体は紹介しなかった。一体どんな歌だったのか——を探るのが実はこの記事の一番の目的である。瀏に対する歌人たちの友情に心が引かれて、つい前置きが長くなってしまった。


(続く)


(2016.8.24 記)

 生徒らに待ち居よといひて炎立つ街にいで行く真相知らむため


 同四首目。全歌集の年譜によれば、8月6日は校内に「生徒と共に一泊」、翌7日に「生徒の家族を尋ねて市内に」入ったという。そのときの模様を題材にした歌だろう。一連のなかでは前後の文脈をつなぐことが主目的と見える、比較的地味な作りの一首。

 山隅自身は教員の職務を遂行した結果、入市被爆したことになるが、生徒らを校内に留めた判断は正しかった。

 電柱は立ちながら燃ゆ枕木は煙をはなつわが行く道に


 同五首目。前の一首を受けて、市内の光景を描写する。「枕木」は山陽本線のものか、あるいは広島電鉄の鉄橋上の枕木か。立ちながら炎に包まれる木製の電柱も、煙をたちのぼらせる枕木も、一枚の写真のように印象鮮烈で、自ら目撃しなければ詠めないと思わせる。

 小区間電車けふより開通すかぐろきまでの蝿も運びて


 同二十二首目。上句は、広電の市内線の一部が8月9日から運転再開したことを指す。

 運転再開の一番電車には十代の女性運転士が乗務した。この運転士は広島市内で被爆した後、山隅の勤務校に避難していた(堀本春野「復旧後の一番電車に乗務して」)から、山隅とも顔を合わせていただろう。

 「蝿」は町なかの遺体にむらがっていたものか。「かぐろきまで」という強い言い回しから、一、二匹どころでないように感じられる。上句は希望の、下句は恐れと不安の象徴表現のようにも感じられる。


(2016.8.18 記)

残留の教師のみなる朝会に霹靂し爆づ青白き閃光


 「劫火」二首目。「残留の教師」は勤労動員の引率を担当せず、校内に残っていた教員の意。「朝会」は朝の職員打ち合わせの会。「青白き閃光」は爆発時のもので、多くの被爆者の証言と一致する。この閃光の異様さを表すことが一首のねらいだろう。

 第三句までは、平易な日常会話の用語、定型通りのなだらかな拍子で構成する。第四句からは一転、生硬な漢語、画数の多い漢字、字余りを含む息の詰まるような拍子等を用いる。それらの変化が原爆投下の前後を強調する。

ぼろぼろに皮膚ぶらさがれる避難者は西引御堂の呉服屋といひて斃れつ


 同三首目。山隅の勤務校は救護所となり、広島市からの避難者が続々と集まった。この歌の「避難者」もそのうちの一人だろう。第四句は「避難者」の言葉の再現で、「西引御堂」は広島市内の町名。定型から大幅にはみ出ることで迫真性を獲得している。

 人は見知らぬ者の前でひとり死ぬとき、最後に何を言うか。そのような場を体験したことのない私にはなかなか想像できないが、第四句の言葉にはハッとさせられた。一言しか許されないとすれば、多くの人はいずれ家族に伝わることを願って「自分が誰か」を言うのだろう。

 この「呉服屋」の氏名はもしかすると特定できるのではないかと思うが、まだ調べていない。西引御堂町の位置は爆心地の北西およそ六百メートルから千百メートルだから、おそらくはこの町内の店にいて被爆したのだろう。重度の熱傷を負いながら井口村の女学校まで約八キロを歩いてたどり着き、そこで力尽きたか。

(続く)

(2016.8.16 記)
 『山隅衛全歌集』の年譜によれば、山隅は1945年3月、二十年勤めた広島市内の小学校を辞し、4月から広島実践高等女学校に勤務。8月6日朝は校内にいたという。

 同校の所在地は広島県佐伯郡井口村。広島市内まで電車で十五分ほどの距離である。

 『山隅衛全歌集』で私がしばしば読み返すのは、やはり原爆を題材にした一連である。何首か紹介していこう。

空襲解除鳴るに出でゆく電車にて今日しも暑き朝空の青


 「劫火」二十三首中の一首目。「空襲解除鳴る」はラジオ放送でブザーが鳴り、防空警報の解除が伝えられたということ。「電車」は広島電鉄。

 その日は朝7時31分に警戒警報解除。人々は次の警報発令を聞くことなく8時15分を迎えた。その四十数分の間に詠んだ歌、という設定である。

 いつも通りの平凡な一日になるはずだった。そのいつも通りの朝の空気を伝えるのが一首のねらいだろう。私たち読者は直後に何が起こるかを知っているので、緊張してこの歌を読むことになる。

(続く)

(2016.8.14 記)


 「空襲解除鳴る」をラジオ放送のブザー音と書いたが、戸外の情景を詠んだ歌なのでサイレンと解した方がよい。訂正します。

(2016.8.16 追記)


 先日、川本千栄「希望の国の崩壊:満州国の理想と欺瞞」(『深層との対話』青磁社、2012年)を読んでいて「あっ」と思った。思いがけず、山隅衛(やまずみ・まもる)の一首が引かれていたからだ。

 山隅は1894(明治27)年広島県佐伯郡廿日市町生まれ、広島市内で小学校の教師をしつつ歌誌『晩鐘』を主宰し、1960(昭和35)年に没した。私は以前、会津八一の関係文献目録を作る際に、『晩鐘』同人の方から同誌の戦前の号に載った『鹿鳴集』評のコピーをいただいたことがある。その後、山隅の長女にあたる中村千代さんと電話でお話をしたり、手紙のやり取りをしたりする機会も得た。そんなことから、山隅衛は昔の人ながら、私にはとても近しい感じがする。

 川本の「希望の国の崩壊」が引いた山隅の一首は、

満州に何持ち越さんものやある税吏の前に貧しき荷を解く


である。「希望の国の崩壊」は短歌作品を資料として、満州国に関わった日本の庶民の心と言葉を探ったエッセイで、私はたいへん興味深く読んだ。ただ、山隅の名は広くは知られておらず、川本も詳しくは調べなかったようだ。そのため仕方のないことだが、引用歌の内容に誤解がある。

 日本政府は、この広大な「国」へ、二十年間に一〇〇万戸の移住計画を建てる。その政策に従って大陸に渡った者の多くは、この歌の作者のように、貧しい市民や農民たちであった。

  (「希望の国の崩壊」74頁、山隅の一首を引いた後の記述)


というのだが、山隅は生涯を広島で送った人で、満州に移住した事実はない。

 『昭和万葉集』第二巻(講談社、1980年)160頁の「満州にて」の項に「満州に何持ち越さん」の歌が一首だけ載っており、川本はそこから引いた由である。ところが、『山隅衛全歌集』(晩鐘社、1992年)113・114頁を見ると、同歌は「朝鮮」と題する十首のうちの一首で、他の九首には

案内のいふにぞ見つる柱には日清役の弾痕のこる(箕子廟)


というような、旅行詠とはっきり分かる歌が混じっている。ちなみに、箕子廟は当時の平壌の観光スポット。全歌集収載の年譜の1933(昭和8)年の条には、

 八月 十五日間の満鮮団体旅行に参加。


とあり、「朝鮮」十首はその折のものと見られる。「満州に何持ち越さん」の歌は移民の作ではなく、旅行者の作なのである。

 山隅は、旅行団体の一員として満州に入る以前に、朝鮮の税関かどこかで荷物の検査を受けたのだろう。また、その荷物は実際に簡素なものだったのだろう。ただ、それにしても、その簡素さを強調する表現「税吏の前に貧しき荷を解く」には若干の演出が感じられる。誤解を受ける要素が歌自体にもあるのかもしれない。


(2016.8.12 記)

 百人の女性歌人による色紙の自選一首はさすがに傑作、名歌揃い。それだからか、その一首について歌人本人が説明した原稿もほとんどすべて格調高く、立派な内容である。

 そんななかでは花山さんと栗木さんの原稿が平易で、逆に目立っていた。花山さんの色紙の一首は、

大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり

  (『木香薔薇』2006年)


 こういった題材の歌を選ぶことからして、ちょっと変わっている気がする。確かにしばしば引かれた歌だが、それにしても他の人が「全存在」「滝の裸体」「風花」などと歌っているときに、花山さんは「大根」。そして、説明文の冒頭は、

 夕食の支度にかかろうとして、買ってきたはずの大根がないのに気がついた。


である。この目線の低さ、肩の力の適度に抜けた感じが特徴だろう。読んでいる者の方が恥ずかしくなる、ということがない。しかも、花山さんの歌と文章は、そのただの大根が世界の秘密に通じる瞬間までつかまえてしまうのである。

 一方、栗木さんの一首は、

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)

  『水惑星』(1984年)



 みんなが知っている歌を選んでくれるのがうれしい。こういうときにわざわざ誰も知らない近作を選ぶのは、芸術家のつまらないプライドでカッコわるいと思う。その点、栗木さんの姿勢はすがすがしい。

 そして、説明文には、

 ……この観覧車は大阪の枚方パークのもの。型は変わったが現在でも乗ることができる。


などとある。「枚方パーク」云々は初出の情報ではないかもしれないが、昭和の家族や若者の身近な遊び場所で名歌が生まれたことが慕わしい。


(2016.8.10 記)

 現代の作家は手書きの原稿を書かなくなった。未来の文学館は何を展示すればよいのだろう。

 今回の展示の中心は、一つは歌人の色紙。そしてもう一つは、その色紙の説明を歌人本人が原稿用紙に書いたもの、だった。手書き原稿を日ごろ書かない歌人たちに、新たに展示用として書いてもらったわけだ。文学館の工夫だと思う。

 それらはいわゆるナマ原稿であると同時に、実際に出版の必要から作成したものでないという意味で、原稿というモノの模造品でもある。

 模造品は本物に近い方がおもしろい。尾崎左永子さんの原稿には一箇所、誤字を訂正した跡が残っていた。また、道浦母都子さんの鉛筆書きの原稿には、消しゴムで消して書き直した跡があった。いずれも新しい原稿用紙に一から書き直せばよいところを、そうしなかったためにむしろ本物らしくなった。

 ただ、その他のほとんどの歌人は、やはり展示用に清書してきたようだ。わざと朱書きで訂正の指示を書き入れて汚すなど、もっと模造品らしく遊ぶ人がいてもよかったかもしれない。

 ともあれ、現代歌人百人分のペン字の筆跡を一度に見ることができて、私はとても楽しかった。会期は9月19日(月・祝)まで。おすすめします。


(2016.8.8 記)

 前の記事にも書いたとおり、この企画展の中心は春日真木子から梅内美華子まで、現代の女性歌人百人がこの企画展のために寄せた自選一首の色紙、ならびに自註の原稿である。色紙で印象に残ったものを紹介しよう。


■観ることができてよかったと思った色紙 その一

 DSCN1126.jpg
  尾崎まゆみ(同展パンフレットより。以下同)

 百人のなかで、最も個性的。「水」まではごく普通の縦書き、右から左への散らし書きである。ところが、それ以降の三字が突然左から右へ横書きのようになり、最後の「杯」は初句末尾の「の」に近接している。視覚的に空の下に一杯の水があるようにも見え、また全体が円を描いて、湯飲み茶碗の口のようにも見える。


■観ることができてよかったと思った色紙 その二

 DSCN1133.jpg俵万智

 散らし書きにするときに、どう散らすか。空間のバランスを重視するか、単純に五つの句ごとに書くか、あるいは歌意を強調するように書くか。この色紙は歌意を強調するように書いているのだと思う。作者本人の書としておもしろい。自分の「寒いね」より相手の「寒いね」を目立たせたり、「あたたかさ」に焦点を当てたりしている。


■購入して自分のものにしたい その一

 DSCN1127.jpg阿木津英

 阿木津さんの字がこんな風とは知らなかった。美しい。


■購入して自分のものにしたい その二

 DSCN1129.jpg辰巳泰子

 こちらも麗しい。歌を中に寄せて、周囲に余白を大きく取っている。大胆に見えて怖がり(?)、繊細、優しい歌風に、この書き方がよく合っている。ポートレートも素敵。


(2016.8.6 記)


 梅内美華子『横断歩道(ゼブラゾーン)』(1994年)に

生き物をかなしと言いてこのわれに寄りかかるなよ 君は男だ


というよく知られた一首があるが、私は二十数年前、この結句「君は男だ」に「ああいやだ、いやだ」と思って以来、梅内の歌を何となく読まないようにしてきた。雑誌などでたまに見かける写真の梅内はスキのない麗人風であるし、とにかく苦手なタイプだと、まあ勝手に思い込んでいたのだった。

 ところが今週の日曜日、墓参の帰りに立ち寄った群馬県立土屋文明記念文学館でたまたま梅内の講演を聴き、印象一変。明るくハキハキと語ってゆくなかにときどきくだけた口調が混じるのがキュートで、ちょっとファンになってしまった。うーむ。

 この講演は企画展を記念して行われたもので、展示は春日真木子から梅内まで、ご健在の女性歌人百人による自選一首の色紙と自註の原稿。講演は、同じ百人の歌を梅内が別に一首ずつ選び、解説するものだった。会場はほぼ満席、熱気に驚いた。百人以上入っていたか。私が書き取った梅内の言葉を少し挙げておこう。

(日高堯子の一首「敗戦日 空また晴れて日晒しの青姦のやうな日本も見ゆ」を朗読して)かなり思い切った表現です。


 「青姦」という語を使って歌を作ることは、あるだろう。しかし、年配の方が大半を占めるフロアに向かい、マイクでもって朗々と「日晒しの青姦」を音読するのは、なかなか度胸が要る。この比喩の意味に関する解説がなかったのは残念だったが、さすがにはばかられるところか。

(小島ゆかりの一首《「死ぬときは一緒よ」と小さきこゑはして鍋に入りたり蜆一族》を朗読して)これ、「一族」がいいんですよ。「蜆の鍋」だったらつまんないです。「蜆の数十個」でもだめです。


 フロアの反応が一番よかった歌。「一族」という語を選択した作者は確かにすばらしい。でも、なぜすばらしいと感じるのだろう。

(俵万智『サラダ記念日』が刊行された三十年前、梅内自身が高校二年生だったことに言及して)自分のなかで三十年という歳月が流れたと思うと……めまいがしますね。


 その気持ち、わかる。私も梅内と同世代で、やはり高校生の時に『サラダ記念日』を買った一人だ。


(2016.8.4 記)


 終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

   穂村弘『シンジケート』(1990年)82頁



 『シンジケート』の中でもとりわけよく知られた一首。山田航は、

 甘やかな相聞歌である。(略)まさに幸福の絶頂にいるときの歌だ。

 (穂村弘・山田航『世界中が夕焼け:穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年)


という。確かに絶頂の後は下るのみであるし、山田は続けて、

 ……終バスの降車ボタンによってのみ照らされる。甘く美しいけれど、寂しい風景だ。終バスは、この先どこに行くのかわからないふたりの未来を暗示している。


と的確に述べてもいるが、そのことを承知した上でなお「幸福の絶頂」は違うかな、と私は思う。それは、私がこの歌を『シンジケート』の中で読んだからだろう。初めに一首単独で読んでいたら、また別の印象を受けたかもしれない。

 この歌は、『シンジケート』後半の文脈のなかにある。

朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜(79頁)

シャボン玉鼻でこわして俺以外みんな馬鹿だと思う水曜(80頁)


といった歌のすぐ後に、この歌は現れるのだ。

 紫のランプにわずかに照らされた二人の眠りは、決して幸福の絶頂にはいない二人にほんの束の間もたらされた安息である。彼らは間もなく目を覚まし、バスを降りるだろう。


(2016.8.1 記)

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和爾猫

Author:和爾猫
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