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プルトップうろこのように散る床に目覚めるとても冷たい肩で

  穂村弘『シンジケート』(1990年)70頁



 『シンジケート』のなかで註釈を要する歌の一例。プルトップは「缶詰で、つまみ(プル-タブ)を引き起こして開ける方式のふた」(『大辞林』)、ここでは缶ビールや缶ジュースの蓋のことだろう。

 缶の蓋の一部分を開いて飲み口にするのは、昔も今も変わらない。ただ、今の缶ビールや缶ジュースはその蓋の一部分を缶から切り離さないが、以前は引いて切り離す方式が一般的だった。掲出歌の「プルトップ」は後者で、切り離されたものが銀色の小さな楕円形なので「うろこのように」という比喩になる。

 日本の飲料メーカーがその切り離す方式に代えて切り離さない方式を本格的に採用するようになったのは、1990年だという(「空き缶のリサイクルと缶飲料の飲み口改善をめざして」六郷生活学校)。『シンジケート』の刊行年である。

 この歌集は刊行時からすでにレトロな雰囲気を醸し出していた。収録歌の素材の多くは時代の先端でなく、むしろ後方の文化文明だったように思う。そして、当時は気付かなかったが、缶から切り離すプルトップもまた、時代の後方の技術だったのだ。

 「床」は、ワンルームマンションのフローリングの床などと想像しておこう。「散る」とあるからには、うろこのようなプルトップはいくつも床に散らばっている。幾分すさんだ生活の一場面に缶ビールははまり過ぎのようだが、かといって缶ジュースではお話にならないので、やはり缶ビールなのだろう(まさか缶チューハイ?)。

停止中のエスカレーター降りるたび声たててふたり笑う一月(11頁)

悪口をいいあう やねにトランクに雲を映した車はさんで(20頁)


といった無邪気な日々も過ぎて、恋人たちの心はときにすれ違うようになる。歌集中盤以降の

俺にも考えがあるぞと冷蔵庫のドア開け放てば凍ったキムコ(44頁)

馬鹿はずっと眠っていろと温野菜にドレッシングで描く稲妻(73頁)

「まだ好き?」とふいに尋ねる滑り台につもった雪の色をみつめて(77頁)


などの歌であり、掲出歌もこの文脈に連なる一首と読みたい。


(2016.7.29 記)

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 前回、穂村弘『シンジケート』のスプライトの一首を取り上げて、

 2016年の若者はそもそもそのような自販機の存在を知らず、甘酸っぱい気分の元になる原体験を共有していない。彼らはこの歌を、かつて私が楽しんだようには楽しめないだろうと思う。


などと書いたが、この推測を裏付けるようなブログ記事(「巣/人生の意味/植毛」http://axetemple12.hatenablog.com/entry/2014/12/05/214535)を見付けた。私の見方とはやはりずいぶん違う。


(2016.7.27 記)

警官も恋する五月 自販機(ヴエンダー)の栓抜きに突き刺すスプライト

  穂村弘『シンジケート』(1990年)



 昨日横浜の元町の通りを歩いていて、昔なつかしいコカ・コーラの自動販売機を見かけた。「おっ」と思う人も多いようで、後でウェブ上で検索してみると写真が何枚も載っていた。月遅れで恐縮だが、それで掲出歌を思い出した次第。

 壜入り炭酸飲料の栓抜き付きの自販機がどこの町にもあったのは、1980年代までだったろう。掲出歌は甘酸っぱい気分を呼び起こす、やや時代遅れの小道具としてこの自販機のイメージを用いているとおぼしい。だが、2016年の若者はそもそもそのような自販機の存在を知らず、甘酸っぱい気分の元になる原体験を共有していない。彼らはこの歌を、かつて私が楽しんだようには楽しめないだろうと思う。『シンジケート』も、いつの間にか註釈が必要な古典になってしまった。

 ちなみに穂村弘・山田航『世界中が夕焼け』(新潮社、2012年)によれば、同じ歌集の一首、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」


に引用されている着ぐるみ劇「ブーフーウー」は「今や忘れられかけていて」、穂村自身が

 代表歌を一つ失おうとしている


と述べていたそうだ。

 言うまでもないが、「栓抜きに突き刺すスプライト」は青年期の無粋な性的行為の隠喩である。それをそのまま投げ出したのでは陰惨きわまりないので、「警官も恋する」メルヘンのオブラートに包むわけだ。わざわざヴェンダーなどという気取った読み方をさせるのも、同じ理由にちがいない。

 コカ・コーラではなくてスプライトであることにも、意味がある。コカ・コーラは、優雅にくびれた壜の形はもちろん、赤茶色の液体もむしろ女性的で、これを男根に見立てるのは無理なようだ。

 掲出歌は『シンジケート』が1990年の青春歌集であることを証明するような一首だと私は思う。


(2016.7.24 記)
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに


  石川啄木『一握の砂』(1910年)



 明治以降の短歌で人口に膾炙したものを十首選んだら、うち半分くらいは啄木の歌になってしまうのではないか。なかでもこの歌は有名。

 だが、自分にはひとつ、気になるところがある。格助詞「と」に助動詞「ごとし」を付けた形だ。こんな形は、この歌のほかに見たことがない気がする。文法上、破格のようにも思われる。ただ、そのように指摘した先行研究の類も不勉強で知らない。

 「泣けとごとくに」は名歌の結句として、内容的にも音楽的にも他とは交換しがたくて、困る。


(2016.7.21 記)


 前々回の記事について、松村正直さんからコメントをいただいた。『遠景』よりさらに後年の本では、例の詞書が「七月十二日」云々になっているという。私は本当にうっかりしていた。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』八雲書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』ぐろりあ・そさえて、1940年)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』甲鳥書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『遠景』短歌新聞社、1972年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史全歌集』大和書房、1977年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史歌集』不識書院、1988年)


 こうして並べてみると松村さんの指摘のとおりで、『斎藤史全歌集』から「十二日」に改められたようだ。

 では、結局、それ以前の本に「十三日」とあったのはなぜか。1936年7月12日に栗原安秀らの死刑が執行されたことは、同日中に陸軍省から発表され、新聞で報道された。史はその日付を知っていたと想定するのが自然だろう。

 別個にまとめられた『魚歌』と『歴年』のどちらにも「十三日」とあるから、おそらく誤植ではない。

 あるいは発禁等の処分を免れるために偽装した可能性もあるかと考えてみた。しかし、別の詞書には事件が起きた月日も記されており、それは『魚歌』以来、正しく「二月廿六日」で一貫している。死刑執行の日にちの方だけをずらすことは、はたして検閲をすり抜けるために有効かどうか、疑問だ。

 友の刑死は史の人生に重大な影響を及ぼした事柄であり、その日にちを間違えて記憶したとは考えにくい。ただ、例えば史が同年7月12日には日記を書かず、翌13日付の日記に友の刑死のことを書き付け、のちに『魚歌』『歴年』をまとめる際にそれを参照した、ということはあるかもしれない。考えにくいことではあるが、一つの可能性として記憶違いの線も残しておこう。


(2016.7.19 記)


 『遠景』は短歌新聞社「現代歌人叢書」の一冊。このシリーズは、巻頭に著者近影を載せる。本書は

長野市勤労福祉センター前にて(昭和46年8月)


とのキャプションが付く一枚である。明治生まれの人の装いとしてはスカートの丈が短いようだが、私の母によれば、当時の流行で「そういうのしか売ってなかった」由。

Fumi Saito 1971


(2016.7.17 記)

 昨日、七月十二日は、二・二六事件に関わった陸軍の青年将校らが処刑された日。ちょうど八十年前のことだ。周知の通り、その将校のなかに斎藤史の幼なじみ、栗原安秀や坂井直がいて、史はその死を悼む歌を残した。

 それらの歌は合同歌集『新風十人』(1940年)に収録され、ついで史の第一歌集『魚歌』(同年)、第二歌集『歴年』(同年)にも収められた。いずれも詞書が付いている。その詞書の一部を引いてみよう。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』)


 不思議なのは「七月十三日」という日付。「十二日」ではないのだ。後年の選集『遠景』でも「七月十三日、帰土。」となっており、単純な誤記でもなさそうだ。しかし、「十三日」とする理由はわからない。このことは、以前にも論文のなかで言及したことがあるのだが、いまだに見当が付かない。どなたか、よい考えをお持ちの方はいらっしゃいませんか?


(2016.7.13 記)

 『遠景』の年譜を見ると、冒頭の1909(明治42)年の「二月十四日。東京市四谷区仲町に生れた。」との記載以外では、1940(昭和15)年の項にのみ月の表示がある。他の年は、例えば二・二六事件のあった1936年も、父瀏が亡くなった1953年も月までは記していない。

 意識してそうしたのか、無意識なのかわからないが、第一歌集『魚歌』、第二歌集『歴年』が続けて出版された1940年は、史の記憶の中でもやはり格別だったのだろう。


(2016.7.11 記)


 『遠景』所収の年譜の話の続き。1930(昭和5)年の項に

 前川佐美雄、石川信夫らと「短歌作品」発刊。


とある。『短歌作品』創刊号は1931年1月1日付の発行。『遠景』以後の史本人以外の編者による年譜では、同誌創刊の記事は1931年の方に移っている。

 年譜に出版物を記載する場合、その年月はたいてい奥付の発行年月の記載に従う。だから、同誌創刊は1931年のこととして記すのが穏当で、『遠景』の年譜の記述は史の単純な記憶違いだと私は思っていた。しかし、あらためて考えてみると、雑誌が1月1日発行ということは、それにかかるさまざまな活動は前年のうちに進んでいたわけだ。史の心のうちでは、『短歌作品』の出発はあくまで1930年の出来事だったのかもしれない。

 ただし、この創刊号に史の名は見えない。史の作品の同誌掲載は第2号(1931年2月)の「夢魔」七首が最初である。この時点ですでに誌上で中心メンバーと同じ待遇を受けているので、創刊の相談には史も加わっていたか。


tankasakuhin1-1.jpg


(2016.7.9 記)

 斎藤史自選歌集『遠景』は1972年刊行なので、収載年譜の記述は1971年で終わっている。

 さて、この年譜にあって、その後に編まれた史の年譜には無い記事がある。末尾の1971年の項である。

昭和46年(一九七一)現在家族。夫堯夫。母キク(失明)。長女章子。……


 このように家族を紹介するのだが、夫や長女の場合は名を記すだけなのに、母についてのみわざわざ「失明」と付け足すところが一種異様だ。母の看護・介護がたいへんな負担であったことは察するに余りある。しかし、この「失明」の二字には、一般的な意味でのたいへんさを突き抜けた特殊な情念を感じる。

 それがあったからこそ、次のような強い印象を残す歌が生まれたのかもしれない。

ぬばたまの黒羽蜻蛉(くろはあきつ)は水の上母に見えねば告ぐることなし
  (『風に燃す』1967年)

埴輪の目ふたつ穴なしてわらへども母の見えざる眼は笑はざり
  (『ひたくれなゐ』1976年)



(2016.7.1 記)

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