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 今までうっかりしていたが、斎藤史の年譜では自選歌集『遠景』(短歌新聞社、1972年)所収のものが一番古いようだ。著者表示はないが、史本人が記したものだろう。のちの『斎藤史全歌集』(大和書房、1977年)、『原型』斎藤史追悼号(2003年3月)の年譜も、明らかに『遠景』の年譜を基礎資料にしている。

 1927年に『心の花』誌上に作品掲載、といった情報は後年になって佐佐木幸綱が誤りを指摘した(「『魚歌』に到る二年」、『現代短歌雁』1990年7月)が、元をたどれば『遠景』の年譜の記載事項だったのである。


(2016.6.28 記)

 山名 例えば桐谷侃三が善麿の『六月』を非難して書いたでしょう。善麿は篠弘の師匠さんなんだよ。そういうものを完全に忘れるということ無理だと思うんだな。
 平山 ただですね。青丘先生の追悼号に篠さんが書いてくれましたでしょう。非常に真摯な態度で桐谷侃三の事件を青丘先生が対処してくれたと。僕はあそこで凄い方だなあと思いましたが。
 鈴木 あれでこの問題を終りにしよう、と整理が出来たみたいなことを言ってるでしょう。でも僕は百パーセント否定はしないけど、追悼号だから書いたなあと思いますね。青丘先生の生前にどうして書かなかったのかなあ。

(座談会「二十世紀と潮音短歌、そして二十一世紀へ」太田絢子・蝦名五郎・山名康郎・藤田武・鈴木隆夫・平山公一・緒方恵美子、『潮音』1999年8月)


 私の知るかぎり、鈴木隆夫氏はただひとり、篠弘「青丘氏の犀利な歴史認識」への違和感を私以前に表明した人である。私とは視点が違うが、要するに、もっと早く書けばよいものを「どうして書かなかったのか」と。

 当然の疑問だと思う。


(2016.6.20 記)

 あれだけ桐谷侃三の正体にこだわっていた篠弘が1995年に「挫折と迷走の証明」を書いたとき、太田青丘の「T・K」説を失念していたとは考えにくい。

 可能性がより高いのは、「T・K」説の存在を篠がずっと知らないままだった、ということだろう。それで、「挫折と迷走の証明」では「侃三=水穂」説を維持したのだが、1997年に「青丘氏の犀利な歴史認識」を執筆する段になって初めて「T・K」説の存在に気付き、自説を撤回した——と考えればつじつまが合う。

 もっとも、関係資料を徹底して集めるのが篠の研究手法だったはずである。新情報を記すことが予想される青丘の文章、その青丘の主宰する歌誌『潮音』を見落としたというのも、にわかには信じられない。

 しかし、うっかり失念、よりはまだありうる話だと思う。「T・K」説を記した青丘の文章のタイトルは「潮音六十年史」で、桐谷侃三と直接はつながらない。篠の手元に掲載誌はあったはずだが、当該の文章は読み飛ばしてしまったのではないか。

 いずれにせよ、釈然としないのは、「青丘氏の犀利な歴史認識」が「侃三=水穂」説撤回の事実に全然触れようとしないことである。仮に撤回の理由が私の想像通りであったとしたら、私たちは参考文献欄から「挫折と迷走の証明」を抹消してよいことになる。しかし、その理由が明らかにならないため、篠が「T・K」説を知っていてなお「侃三=水穂」説を主張した可能性も捨てきれず、「挫折と迷走の証明」の内容も一応は検討課題として残さなければならないのである。

 なお、篠は中河与一に対しては謝罪したが、水穂に対しては一言もない。水穂はとうの昔に亡くなっているからかまわないということだろうか。

 私は篠の著作『近代短歌論争史』や『現代短歌史』等から多くを学んだものだが、桐谷侃三をめぐる一連の篠の発言を知って以来、その研究者としての姿勢に、一抹の疑念をぬぐい去れないでいる。篠がいくら否定しようとも、桐谷侃三の正体を探ることは、他人の「旧悪をあばく」ことにつながるだろう。そうである以上、研究はできるかぎり誠実でなければならないと私は思う。


(2016.6.18 記)

 水穂は同誌の「緊急消息」(「潮音」昭15・11)で言う。善麿を名指しこそしていないが、その「歌章の意味を二重乃至三重の曖昧なる表現を以て目先をくらまし(略)青少年の思想を反国家的危険に導かうとするものさへある」とする。これは、その共通する指摘と語彙からして、善麿を批難しているばかりではない。「桐谷侃三」が水穂であったことを裏書きするものであろう。

(篠弘「挫折と迷走の証明:戦後五十年をめぐる視点」四、『歌壇』1995年9月)


 これがその二十年ぶりの「桐谷侃三」への言及であるが、なんと桐谷侃三が「太田水穂であったこと」を断言している。青丘の「T・K」説が暗に「侃三=水穂」の可能性を否定していたにも関わらず、それには全然触れずに、逆に以前から篠自身がほのめかしていたその「侃三=水穂」の可能性をより強くうち出したのである。

 しかし、私が本当にいぶかしく思うのは、実はこのこと自体ではない。このさらに後、青丘が亡くなったときに、篠はその追悼文で桐谷侃三に言及した。そして、このときは青丘の「T・K」説を取り上げて、次のように述べた。

 青丘氏からの第三の応答(「T・K」説—引用者註)を熟読したところで、わたしの「桐谷侃三」詮索は締めくくられる。T・K氏とは、明治四十四年生まれで、昭和四年四月に「潮音」に入った、高橋勝次氏と推定されるにいたった。

(「青丘氏の犀利な歴史認識:「桐谷侃三」論議の決着」、『潮音』1997年11月)


 ここでは「侃三=水穂」説などどこかに消えてしまい、「T・K」説を素直に受け入れて、そのイニシャルが当てはまる特定の人物の名まで挙げている。前の発言からわずか二年後のことである。

 さて、これは一体どういうことか。

(続く)

(2016.6.10 記)

 「桐谷侃三」に関する篠弘の一連の発言で、ひとつ腑に落ちないことがある。篠は侃三の正体を追い求めて、一旦は太田水穂と結論付けた。ところがその後、いつの間にかこの説を取り下げたらしく、水穂とは別の人物の名を挙げることになった。この旧説から新説への変更の経緯が、私にはよく理解できないのである。

 桐谷侃三は、1940(昭和15)年、歌誌『潮音』に四回にわたって掲載された時評の筆者である。土岐善麿の歌集『六月』を取り上げた11月号掲載「転換期の短歌と称するもの:歌集「六月」の隠匿する思想を検す」が

 これが皇軍への軽視であり愛敵思想でなくて何であらう。


といった軍国主義的言辞の激烈さによってよく知られている。しかし、侃三の名はこの四回分以外に同誌上に見えず、本人を直接知る者もいなかったことから、誰の変名であったのかが後年研究者の間で問題にされるようになった。

 渡辺順三は中河与一と断定し、篠も「戦時下の歌壇論争」二十二(『短歌』1973年5月)ではそれに従った。この篠の文章に対し、中河本人が強く否定し(「あきれた文章:篠弘に与ふ」、『短歌』昭和1973年7月)、太田水穂の子息で『潮音』代表でもあった太田青丘もまた、侃三は中河でないとした上で「当時『潮音』の編輯を手伝ひ、精力的に論文をよく物してゐた「潮音」同人のT氏であらう」と述べた(「「春の夜の夢の浮橋」と「桐谷侃三」」、『潮音』1973年8月)

 結果、篠は自説撤回と中河への謝罪を余儀なくされた(「続「桐谷侃三」の補注:戦時下の歌壇論争・別記、『短歌』1975年1月)。ただ、篠としては、そのことに加えて、侃三の正体がなお隠された形になったこの間の経緯が相当不本意であったのだろう。1940年当時の『潮音』幹部・同人その他のうちでTのイニシャルを持つ者を九名までことさらに列挙し、さらに

 水穂の本名は「貞一」で、「ていいち」と訓まれている。


と記して、侃三が水穂の変名である可能性にまで触れた。潔くないといえば、潔くない。しかしまた、それは真実を追究してやまない、研究者らしい態度でもあった。

 一方、青丘は同じ1975年1月の『潮音』誌上でもう一歩踏み込んで、侃三は「T・K」であるとした(「潮音六十年史」)。こうなると水穂は当てはまらない。青丘は篠「続「桐谷侃三」の補注」を見る前にこの文章を書いたと思われるが、結果的に水穂の名誉を一定程度守ることになった。

 不透明なのは、この後の篠の言動である。篠は青丘の「T・K」説に対し、なぜか長らく沈黙した。私の知るかぎり、次に篠が桐谷侃三に言及したのは、二十年以上も経ってからのことである。そして、その内容が奇妙だった。

(続く)

(2016.6.6 記)
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