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コーヒーの黒き水面にふる雪の無音のなかに人は死にゆく

  松村正直


 この雪は粉砂糖などでなく(!)、本物の雪と読みたい。戸外でコーヒーのカップを手にしている図と解すると、まるでスーパーリアリズムの絵画のように静謐で美しい。

 「人は死にゆく」の状況がつかみにくく、やや唐突な結句と感じられるが、どうか。

美しき二枚の翅のはばたきの揺れるイランとサウジアラビア

  同


 ペルシャ湾を挟んで北側のイランと南側のサウジアラビアが対立して不穏なさまを「二枚の翅のはばたき」に喩えている。「はばたきの」の「の」は、「のように」と解すればよいだろう。こうした古歌のような言い回しを理知的に計算して使用するのか、あるいは計算以前に、自然に口ずさむものなのか、歌人に尋ねてみたい。

値の高きレタスの代わりに買いて来しキャベツはレタスの代わりにならず

  同


 たかだか数十円の差に(否、一円の差でも!)執着する庶民の生活の泣き笑い。私などももちろんその庶民の一人だ。

 二十代のほんの一時期キャベツ農家に住み込みで働いて以来、私はキャベツ贔屓で、そりゃあレタスとは違うよなと思う。あと、キャベツもいろいろで、レタスのように水気があってサラダ向きの品種もあるんですよ!


(2016.5.14 記)

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革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ

  塚本邦雄『水葬物語』(1951年)


 句跨りの例としてよく知られた一首。例えば三枝昂之『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店、2005年)は、この歌の意味内容について、「非現実的で暗示的な場面」の提示を通じて「革命への侮蔑」を表明したものと解した。浅野であれば、その意味内容のリズムを優先して定型の句のリズムは後回しにした結果の句跨りだと説明するにちがいない。しかし、三枝は句跨りのリズム自体にも注目していた。

 あえて読者に難渋さを強いる表現、それが「オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律」からの塚本的な脱出法であり、「三十一音を最後の限界とする短詩の『新しい調べ』」である。(三枝同書)


 つまり、「破調構造」になってしまったのではなく、ことさらに狙ってそうしたという理解だろう。

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて

  葛原妙子『葡萄木立』(1963年)


 こちらの歌の各句の音数は五・八・五・五・七か、あるいは第三句を欠いた五・八・十・七か。いずれにせよ、字足らずである。浅野は字足らずの分析をとくに示していないが、この葛原の一首をどのように読むのか、知りたいところだ。稲葉京子『葛原妙子』(本阿弥書店、1992年)は第三句を欠いた歌と見て、次のように述べた。

 ……第三句が全く消去されてしまっているのである。この大きな消去によって生まれ出た無韻の効果は絶大であると思う。(略)晩夏光がおとろえて、さびしく静かな夕ぐれ方の限りなく深い無韻感を、この欠落した第三句が大きく拡げているのである。


 稲葉もまた、字足らずの句のリズム自体に効果があることをみとめている。

 浅野は何が短歌かという問いに定型律という解を与えた上で、「破調構造」を持つ作をも短歌の領域内に含めようとしているのだろうか。そうであるなら、その試みは有意義だと思うが、同時に困難なものだという気もする。浅野とは逆に、近藤芳美や稲葉、三枝のように「破調構造」をそのまま破調として享受する読者がいるからだ。私なども、近藤たちとほぼ同じ読み方をする。

 葛原の晩夏光の一首のように明確な「破調構造」を持つ作を「短歌」としてみとめ得るのかどうか、私には分からない。ただ、少なくとも、このような作は歌集に収められることでおもしろく感じられるようになる、というのが私の考えだ。破調という概念も、そこに何らかの意義を読み取ろうとする読み方も、短歌定型という比較対象があって初めて成り立つと思うのである。


(2016.5.12 記)

 『塔』4月号掲載の浅野大輝「「定型っぽく読める」を考える」に私はおおいに刺激を受けた。討論のきっかけになり得る文章だと思うので、塔短歌会のサイト上で読めるようになるとよいと思う。

 いろいろと考えてみると、どうも浅野と私とでは破調の捉え方が違っているようだ。浅野は破調になることよりもならないことに意義をみとめるがゆえに、「破調構造」を破調でないと感じる例を強調しているように私には見える。

 句跨りは意味のリズムなどが句のリズムよりも優先された結果として生じている……(浅野大輝、同論考)


 この仮説の提示も同様で、句のリズムの乱れ自体には意義をみとめていない。

横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ


  土屋文明『山谷集』(1935年)


 こうした字余りの歌について、浅野ならば岡井隆の「字余りのときは少しテンポを早めて」「その句の基本時間量に、大体、合わせようとする」といった言葉を引きつつ、「自然な韻律で読み解ける」と主張するかもしれない。しかし、例えば、近藤芳美は次のように述べていた。

 こうした破調を生み出させる切実な内部衝動が作者の気持の中にあったというべきなのであろう。それは満洲事変の勃発を中心とする、時代の激しい動揺と、その中にいだかれていく不安な精神がおのずから歌い出す発想であったのだろう。(『土屋文明』桜楓社、1980年)


 ここで言う「切実な内部衝動」とは、歌の意味内容の上には表し切れないものであって、「破調構造」がもたらす破調を通してしか表せないものだろう。近藤は「破調構造」と破調自体に意義を見出していたのであり、私などはそれに納得するものだ。


(2016.5.5 記)

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Author:和爾猫
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