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 この論考は「読める」を「考える」というタイトルの通り、冒頭からほぼ一貫して歌の読み方に関する考察が続くが、末尾近くになって突然、

 第二に提示したいのは、「句のリズム優先仮説」を想定したとき(略)例えば、句跨りは意味のリズムなどが句のリズムよりも優先された結果として生じている、という風に破調構造を理解するという仮説である。


といった主張が出てくる。この箇所は、いわば歌の「詠み方」に関する話だ。「読み方」と「詠み方」の間を自由に往来するところが歌人らしい発想法といえようか。

 しかし、歌人でない私は、「読み方」における「句のリズムの優先仮説」が直ちに「詠み方」の問題にも適用されたところで、立ち往生した。もう少し丁寧な手続きを経てもらえるとありがたいのだが。


(2016.4.30)

 さて、浅野は藪内亮輔・千種創一・溺愛らの歌を引いて、「破調構造を含む歌」が破調でないように、つまり「自然な短歌定型の韻律」のように読めることがあるとし、その「読みの機構」を明らかにしようとする。しかし、私の感想の結論を先に言えば、浅野自身も言及している、

 もちろん、韻律感覚には個人差があり(略)いくら説明されても納得できない、ということはあると思う。


という大きな壁を、浅野の論考は結局越えることができていないように思われた。理由は三つある。

 第一に、引用歌が時間の審判に耐えた有名歌でないこと。もし有名歌を例に挙げることができていたなら、「破調構造を含む」のに破調でないように読めるという現象の存在自体はまず自明のこととなるはずだから、それについて読者を説得する必要はなく、「読みの機構」の解明に論考の焦点を絞ることができたはずだ。

 第二に、その「読みの機構」の結論が簡明すぎること。

 つまりこの現象は、増加している句のようなものを正規の句として捉えてしまう初読時の錯覚が韻律的な規定に残存しているために、その後破調構造に気づいたとしても初読時の規定にしたがって短歌定型的韻律で読めてしまう、という読みの機構の間隙をつく形で存在していたのである、……。


 私なりの理解で言い換えれば、初読の最中は句の増加を増加と認識することができず、正規の句として認識することになり、読み終えた結果として句の増加に気付いても、その初読時の認識は消えない、ということか。しかし、一人の読者としての私は、句の増加に気付いた後ではそれを定型とは思えない、としか言えない。

 引用された千種の歌は下句が字余りで計二十音であるのに対し、上句は三句十七音のきれいな定型である。仮に上句が下句同様の大幅な字余りであっても、浅野の主張は成り立つのか。その辺りに考察の余地がないか。

 第三に、「破調構造のどこまでが自然な短歌定型の韻律として読めるのか」という問いを出しながら、それについては論じていないこと。難しいことかもしれないが、そのように読める限界を示すことができれば、感覚の「個人差」を乗り越える契機になり得るような気もする。

(2016.4.27 記)
 不勉強な私には未知の筆者だが、若い人だろうか。

 なお、本論中では字余り・字足らず・句跨りなどの破調を発生させ得る歌中の構造を「破調構造」、実際に自然に読むことが困難である可能性が高い歌の韻律を「破調」と呼び、両者を区別する。


 研究論文的な書き方で、短歌関係の文章ではあまり見かけないタイプだ。

 しかし(余程の純粋短歌論者というわけでもない限り)歌人はある程度の字余り・字足らず・句跨りなどを許容して歌作・鑑賞を行っている。


 しかし……、短歌の読み方に関する文章であるはずなのに、主語が「歌人は」となるところに、どうしても歌人集団の閉鎖性を感じてしまう。


(2016.4.25 記)


分別はまづ判別で、これは木か木に偽装したプラスティックか

  花山多佳子


 フンベツは……と読み始め、結句に至ってやっと気付いて、ブンベツは……。

(2016.4.20 記)

逢ふたびに「おひさしぶり!」といふひとが夫となりて七日目のあさ

  田中律子


 こんな歌が届いて、ほんとうにうれしい。おめでとう!

 長い夢から覚めたときのように茫然としている。


(2016.4.18 記)


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和爾猫

Author:和爾猫
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