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 斎藤史「歌集『シネマ』」は、石川信雄『シネマ』について

 さてその歌については何も云ふ必要もなかつた。全く、どの頁を開いても、覚えのある知つた作品ばかりだつたから。といふのは、石川氏がそれを発表された時、私がいかに懸命にそれを読んだかと云ふ事でもあり、又彼の歌が、どんなに独自の美しさで私をとらへたか、といふことでもあつた。


と述べ、

ギイヨオム・アポリネエルは空色の士官さん達を空の上に見き


などを引いた上で、

 人の作品ながら、これはもうその頃の私にはいつも髪にさす花のかんざしのやうに身近いものに思はれた。


と讃えた。「空色の士官さん達」の歌の初出(『短歌作品』1932年1月)の時から史はそれに魅了されていたということだ。事実、そうであったからこそ、史はすぐ後に

春はまことにはればれしくて四ツ辻のお巡査(まわり)さんも笛をひびかす(1)

  『短歌作品』1932年3月号初出。『魚歌』(1940年)所収。


の一首で、さん付けの「お巡査さん」という話し言葉も使用できたのだろう。ちなみに、『魚歌』に、

びらびらの花簪のわが母にずつと前の春まちで出逢ひき(2)


という歌があるが、第三句「わが母に」は初出(『短歌作品』1932年3月)では「母さんに」だった。ここにも同様の影響関係を認めることができるかもしれない。


 (1)ルビ「まわり」の仮名遣いは原本のまま。
  (2)「簪」は、原本では竹冠の無い字。


(2016.3.27 記)
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 ギイヨオム・アポリネエルは空色の士官さん達を空の上に見き

   石川信雄『シネマ』(1936年)



 私の愛唱する歌だが、では一体何がおもしろいのか。説明しようとすると、なかなか難しい。上句は、詩人の名をそのまま口にしただけだ。空色の士官が空の上にいるというのも、言ってみれば、アポリネールの詩の趣向を引き写したに過ぎない。

 私はこの歌の無意味さを愛しているのだと思う。ギイヨオム……という音の響きそのもの。原詩の文脈を削ぎ落として、青空に何もないようなイメージ(空に空色というのだから、何も見えないような……)だけを採ったところ。

 もっとも、その無意味さを徹底させた先に、もう一つ何かがあるという気もする。斎藤史「歌集『シネマ』」(『日本歌人』1937年9月)は、この歌などを引きつつ、

 若くてもかるがるしくはない、透明でも単一では決してない、優しくても弱々しくない品性……


と評した。このような印象が生まれてくるのは、なぜだろう。

 石川の書棚にあったと想像される堀口大学訳『アポリネエル詩抄』(第一書房、1927年)と掲出歌とをあらためて比較してみると、一箇所、石川が出典の表現をみずからの表現に言い換えたと見られるところがある。

青空いろの士官どの
クリスマスから日がたてば
やがてやさしい春が来て
お前に美事なお日さまの
勲章をさへあげるだらう


  (同上書「白雪」より)


 堀口大学の訳詩では「士官どの」。それが、石川の歌では「士官さん」となっているのだ。訳詩の士官は天上でもなお威厳を保ち、「お日さま」の勲章で飾られる。一方、石川の歌の「士官さん」は、さん付けであることにより、メルヘンの世界の優しき住人に変身している。

 この歌の心が若々しく、かつ自由であることに私は引かれる。


(2016.3.21 記)

 小川太郎の著書によれば、中城ふみ子が「自らに課せられた過酷な運命」をはっきりと自覚したのは、癌が再発し、二度にわたる手術を受けたときだった。幼なじみの親友を病室に呼び、しみじみと語り合う中で、ふみ子は

「離婚したこと、中絶したことも、乳癌の原因だったかもしれないわね」


と言った、という(『聞かせてよ愛の言葉を:ドキュメント・中城ふみ子』本阿弥書店、1995年。154頁)。

 このふみ子の発言に明瞭にみとめられる罪の意識は、『乳房喪失』(1954年)の一首、

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ


につながるものとして興味深い。

 ただし、発言内容がそのまま歌の内容になっていないことには注意すべきだろう。両者はつながりつつ、同時に遠く隔たってもいる。

 病室での発言に沿って考えるなら、中絶や離婚の罪は、乳癌という罰を受けることで許されるのかもしれない。しかし、歌において、胎児と病とは因果関係を持たない。罪の象徴としての胎児は闇の中に残り、ことごとに母をとがめるだろう。


(2016.3.12 記)

 結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)は短文ながら葛原妙子の夫君、輝の直話を書き留めていて、こればかりは今日の葛原研究の第一人者である川野里子さんももはや成しえない貴重な成果である。輝氏いわく、

「自分は千葉県安房の出だが、学生時代には(略)海もきれいで海水浴もできた。妙子の実家、山村家とは、妙子の兄と自分とが友人でもあり、もともと親しい間柄であったので、妙子の家も夏になると海の家を借りて遊びに来ていた。妙子のことは、旧府立第一高女の頃から知っていた。(略)学校を出たら一緒になれというように、自然とそうなった。」


 これによれば、妙子の実兄と葛原輝が友人同士だったので、女学校時代の妙子はすでに輝のことを知っていた。妙子と輝の結婚は、見合いの席で初めて顔を合わせるような、純然たる見合い結婚ではなかったわけである。二人にはむしろ結婚前に互いに恋愛感情を育む時期があったかもしれない、と私は勝手に想像している。


     §


 葛原妙子自選歌集『雁之食』(短歌新聞社、1975年)所収の年譜は著者表示がないが、おそらく本人によるものだろう。これを見ると、1927(昭和2)年20歳の項に

 一月、医師、葛原輝と結婚、


とあり、その翌年21歳の項には

 八月、長女葉子出生。


とあって、以後の各種年譜はすべてこれに従っている。長女誕生の年月に、まさか誤りはあるまい。しかし、結婚の年月の方は、『雁之食』の年譜以外に何か確かな根拠があるのだろうか。というのは、別の年月を推測させる資料も存在するからである。

 それは妙子の卒業した東京府立第一高等女学校の同窓会誌、1927年7月発行の『鴎友』37号である。葛原妙子研究の場でまだ紹介されていない新資料だろう。

 この『鴎友』37号に妙子のクラス、三十八回「は組」の級会報告が載っている。そこに、

 山村様、岸田様は共に来年三月頃は御祝の由。


などと記されており、「山村」が妙子の旧姓なのである。級会は同年5月、三年ぶりに開かれたとのことで、その間に結婚した同級生については別に記されているが、そちらに山村妙子の名は見えない。かつ、この時期に妙子はまだ長女をみごもっていなかったはずである。とすると、「来年三月頃」に「御祝」という記述は、やはり婚約の事実を伝えたものと解するのが自然なように思われる。

 『短歌現代』1988年2月号(特集・葛原妙子)に妙子の「結婚式記念写真」とされるものが載っており、「昭和2年」と付記されているのだが、本当のところ、この写真の撮影年月はいつだったのだろうか。正しくは「1928年1月」頃であったのに、妙子本人が結婚と出産の時期の近さを気にして、年譜の記載を意図的に前にずらし「1927年1月」にした——というのはつまらない憶測か。


(2016.3.7 記)

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Author:和爾猫
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