陰(ほと)に麦生(な)り尻に豆生りし比売をりて男神に殺さえましし
(短歌新聞社版、377頁、『をがたま』)
陰(ほと)に麦生(な)り尻に豆生りし比売をりて男神に殺されましし
(砂子屋書房版、519頁、同)
短歌新聞社版の字句は初出(『短歌現代』1978年2月)と同じ。砂子屋書房版の「殺され」は担当者の入力ミスにしては文法が正確で、むしろ奇妙に感じられる。あるいは、これは同書凡例の次の項を適用したものか。
一、明らかな誤植と認められる箇所については、校正の段階で訂正を加えた。
しかし、初出及び短歌新聞社版の「殺さえ」は、明らかに誤植ではない。この歌は、いうまでもなく古事記のスサノヲの話に取材したものだ。原文に「所殺神於身生物者」とあるのを、たとえば1977年刊行の『新訂古事記』(角川文庫、武田祐吉訳注、中村啓信補訂・解説)は、
殺さえましし神の身に生れる物は
と書き下している。「え」は耳慣れない言い方かもしれないが、要するに上代の受身の助動詞なのである。
葛原の一首の「殺さえ」は、「陰に麦生り尻に豆生り」といった言い回しや「比売」の用字と同じく、古事記の世界の雰囲気を醸し出す効果をねらって、その書き下し文の字句を借りたものと考えられる。もし砂子屋書房版の「殺され」がことさらにした「訂正」なら、それは不要な作業だったと思う。
(2016.1.29 記)
わがこゑのカセットより流れいでわが生前の声となりゐつ
(短歌新聞社版、370頁、『をがたま』)
わがこゑのカセットより流れいでわが生命の声となりゐつ
(砂子屋書房版、509頁、同)
短歌新聞社版の方は初出本文(『短歌現代』1978年2月)と一字一句同じ。砂子屋書房版の「生命」は、担当者によるワープロ原稿作成時の単純な入力ミスだろう。
(2016.1.25 記)
さて、この切抜き帖をあらためて繰ってみると、例の
幽暗の林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばむしはいかに
を含む「天童」五首の切抜き(『短歌』1979年1月)もきちんと貼ってある。注意すべきは、この切抜きに作者本人による書入れがあることだ。その内容は次の三点。
①「の」を「に」へ修正
②「し」を削除
③「は」と「い」の間にダッシュを挿入
実際の書入れは、校正記号を使用してこれらを示している。③で挿入されているのは一字分に相当する長さの縦直線一本だが、ダッシュの記号と解してよいと思う。ダッシュの用例は『鷹の井戸』『をがたま』に数例ある。この書入れの指示通りに字句を修正すると、次のようになる。
幽暗に林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばむは——いかに
その大意は、《闇夜に林檎が実ったら近寄って行って「月の女王よ」などと呼びかけるというのは——どうだろう》。これならばきれいに意味が通る。文法上の疑問点も残らない。仮に葛原が生前に自分で『鷹の井戸』に次ぐ新歌集をまとめ、この歌を収録していたとしたら、読者はきっとこの訂正後の歌を見ることになっただろう。
では、この歌の初出時の形は、本来どうなっていたのだろうか。切抜き帖の書入れが削除した「し」の一字はダッシュの誤植だった可能性が高い、と私は考えている。「し」の字の書き終わりを右に曲げず、真下に伸ばす書き方は一般に行われている。元原稿にダッシュの記号があって、植字の段階でそれが真下に伸ばす「し」の書き方に誤認された、ということではないかと思うのである。もしその推測の通りなら、歌の形は
幽暗の林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばむ——はいかに
となる。文法・意味ともに、疑問点は見当たらない。元原稿の内容の推定としては、短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』の本文よりも穏当と思われる。
(2016.1.18 記)
さて、この『をがたま』は当然、雑誌掲載時の字句をそのまま採ることを原則としているのだが、まれにその雑誌掲載時の字句と一致していない箇所がある。目に付いたところを挙げると、次の四箇所である(不一致の字・記号に下線を引いて示す)。
①歌
硝子戸のうちに寒気のうち響き壁なる鋲のなべて光り来
(『短歌研究』1978年3月)
硝子戸のうちに寒気のたち響き壁なる鋲のなべて光り来
(短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』373頁)
②歌
幽暗の林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばむしはいかに
(『短歌』1979年1月)
幽暗の林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばしむはいかに
(短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』378頁)
③歌
おほあれちのぎくを踏みて立ちゐたり 勇ならずやもをのれ立つこと
(『短歌』1979年10月)
おほあれちのぎくを踏みて立ちゐたり 勇ならずやもおのれ立つこと
(短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』383頁)
④連作のタイトル
大河、夢ならず(歌誌『をがたま』1982年8月)
大河夢ならず(短歌新聞社版『葛原妙子全歌集』404頁)
このうち、①と④は『全歌集』の誤り、③は初出誌の誤字を『全歌集』が訂正したものに違いない。
難解なのが②である。初出形「呼ばむし」の意味が取れないので、『全歌集』はこれを誤植と判断し、「む」と「し」の字を入れ替えたものと一応考えられる。しかし、この入れ替えは適切だろうか。
「呼ばしむ」は「呼ばせる」の意だろうが、そうであるなら文法的には「呼ばしむる」にしたい。しかも、「呼ばせる」と解したところで、なお一首全体の意味は曖昧模糊としたままだ。呼ばせる相手は誰か。林檎の実に寄りゆくのは自分か、相手か。
初出形の「呼ばむし」は明らかに誤植を含む。しかし、訂正後の「呼ばしむ」もまた、元原稿の形を復元できているかどうか、あやしい。
(2016.1.14 記)
・短歌新聞社版(1987年)
・砂子屋書房版(2002年)
の二種がある。どちらも編者は森岡貞香で、巻末に森岡の「解説」が付く。その「解説」冒頭はそれぞれ、次の通り。
《短歌新聞社版》
本集は歌集『橙黄』、『縄文』、『飛行』、『薔薇窓』、『原牛』、『葡萄木立』、『朱霊』、『鷹の井戸』の各各の歌集の原本、及び第九歌集(未刊)『をがたま』を加えて、葛原妙子の歌集のすべてを収録したものである。
《砂子屋書房版》
本集は歌集『橙黄』、『縄文』、『飛行』、『薔薇窓』、『原牛』、『葡萄木立』、『朱霊』、『鷹の井戸』の各各の歌集の原本、及び第九歌集(未刊)『をがたま』、『をがたま』補遺、それに昭和四十九年に刊行された三一書房版『葛原妙子歌集』に収録された『橙黄』を異本『橙黄』として加えて、『葛原妙子全歌集』とした。
これを見ると、後者は前者を利用し、それに手を入れたものであるということが分かる。そこで気になるのは、砂子屋書房版が実際に「各各の歌集の原本」を底本としているのか、ということだ。もしかして、短歌新聞社版を底本とし、そこに同版未収の歌集・歌篇を追加しただけ、ということはないだろうか。
結論をいえば、砂子屋書房版の底本はおそらく短歌新聞社版であって、「各各の歌集の原本」ではない。
石鳥よソドムの森より翔びきたりしかもきらめく尾羽をもてりき
『飛行』(1954年)の一首。短歌新聞社版ではこの第一句に誤植があり、「石鳥ら」となっている。そして、砂子屋書房版もまた、「石鳥ら」なのである。
砂子屋書房版は短歌新聞社版を底本とし、その誤植まで引き継いだと見るのが自然だろう。
(注) 短歌新聞社版の奥付に編者の記載はないが、「解説」に「葛原妙子様の御夫君輝様が本集の刊行にご賛成くださり、万事おまかせ頂いた……」とあり、実質的に森岡が編集の任に当たったと考えてよい。
(2016.1.10 記)