最新の頁   »  2015年07月
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 宮柊二『山西省』の著名な一首、

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す


について、第三句に過去の助動詞があるから結句がル形でも「宙ぶらりん」にならない、といったふうに松村さんが判定するのは理解できる。文末の語形を含む一首全体の表現が出来事感に影響するというのが松村さんの考え方だからだ。しかし、文末の語形と出来事感の有無により密接な関係をみとめようとする東郷氏が、

「刺ししかば」ですでに過去の表示があるため、「伏す」はそれを受けての結果となり、かえって迫真性が増しています。


と記す(6月30日付記事へのコメント)のは、よく分からない。


     §


 私は以前から高村光太郎の「智恵子飛ぶ」は何か不思議な言い方だと思っていたが、東郷氏の「スポーツ中継のル形」という解釈ですっきりした。確かにその解釈でよさそうだ。


(2015.7.19 記)

 何を状態動詞とし、何を動作動詞とするかの区別に自信がないので、とりあえずその辺りは気にせず、動詞の終止形で言い切る短歌作品を思い付くまま挙げてみよう。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

  石川啄木

椎の葉にながき一聯の風ふきてきこゆる時にこころは憩ふ
  佐藤佐太郎

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
  中城ふみ子


 停車場にふるさとの訛を聴きに行くのは、習慣的動作のようだ。風音が聞こえるときに緊張を解くのも習慣かもしれない。胎児らが闇の中で蹴り合う幻想は、この女の脳裏から常に去らなかったものだろう。

枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
  土屋文明

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  斎藤茂吉

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく
  佐藤佐太郎

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
  山中智恵子

一夏(いちげ)過ぐその変遷の風かみにするどくジャック・チボーたらむと
  小池光


 だが、汽船が速力をおとすのは? 百房の葡萄に雨が降りそそぐのは? 私には現在進行の出来事のようにも感じられるが、よく分からない。牝猫が畳をあるくと言い、鳥髪に雪が降ると言う。習慣的動作とも未来の動作とも思われないが、どうだろう。夏が過ぎるのは季節の循環かもしれないが、一夏が過ぎるのは?


(2015.7.17 記)

 東郷説の「未決定の浮遊感」も松村説の「宙ぶらりん」も、現実味に欠けて物足りない印象、を意味する言葉として私は受け取った。もしそれで間違いないとすれば、その印象は「ル形」だけから来るものか。「ル形」を含む作品の表現全体から来るものではないか、というのが私の一番の疑問だ。

夏草に汽缶車の車輪来て止る

  山口誓子『黄旗』(1935年)


 この「止る」を私は一度限りの出来事のように感じていたのだが、仮に循環する季節の中で繰り返される事柄だとしよう。それでも、この一句が喚起するイメージの鮮烈さに「未決定の浮遊感」や「宙ぶらりん」といった評言がそぐわないことは、東郷氏も松村さんもみとめるのではないか。


(2015.7.15 記)

 東郷氏の言を再度引けば、

 「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(略)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。(『橄欖追放』第164回)


とのことだ。現代日本語の話者の一人として、「動作動詞」の終止形止めが反復・習慣や未来を表わすことは私ももちろん知っている。ただ、その上で、そうでない場合もあるのではないかと疑っている。

 東郷氏の説明は、現代語に限定したもののようにも思える。漢文訓読の肯定文の文末は一般に終止形だ。和文でも終止形の文末が頻出する文学作品がある。たまたま手元にある『雨月物語』の「菊花の約」から引こうか。

 いひもをはらず抜打ちに斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立騒ぐひまに、はやく逃れ出で、跡なし。



 この「一刀にてそこに倒る。」の末尾を「倒れけり。」にしたら出来事感がより濃くなる、などと考えてみても無益だという気がする。もっとも、「菊花の約」には「十日を経て富田の大城にいたりぬ。」といった言い回しもあって、その使い分けについて考える必要はあるだろう。

 なおまた、詩的言語は同時代の一般的語法に制限されなければならないものか。


(2015.7.14 記)

 松村正直さん、ならびに東郷雄二氏から前の記事に丁寧なコメントをいただいた。お二人に感謝しつつ、あらためて私の疑問を整理することにしたい。


     §


 東郷説はあくまで《ル形は基本的に「未然・習慣」の出来事を表す》という一点から出発しているように見える。その基礎理解が揺るがないので、

 引用された土岐善麿の歌で、もし結句を「いひき」か「いひにき」としたら、それは過去の一度きりの出来事になります。(6月30日付の記事へのコメント


といった説明になる。

 一方、松村説は東郷説に賛意を示しつつも、実際の表現からその解釈を考えるという立場のようだ。それで次のような言い方になるのだろう。

 「落ちる」と「落つ」、「食べる」と「食ぶ」を比較した場合、その出来事感には明確な差があるように感じる。(「口語短歌の課題」、『現代短歌新聞』40号)

 出来事感については、もちろん、動詞の「ル形」(略)だけの問題ではなく、歌の中に時を限定する言葉があるかどうか、固有名詞などの「濃い」(?)言葉が使われているかどうか、といったことも関係していると思います。(6月30日付の記事へのコメント


 東郷氏は「落ちる」と「落つ」の差をみとめないのではないか。


(2015.7.13 記)

ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031