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 次は、角川『短歌』の編集長であった冨士田元彦の証言。

 それは昭和四十六年のことである。アンソロジー『現代短歌72』の編集にあたって、史さんと葛原妙子さんに対談していただきたいという企画を企てた。たぶん史さんには承けていただけるだろうという気持ちからまず葛原さんにお願いしようということで、うかがったところ、夏には軽井沢に行っているので史さんのご都合のよろしい時にお訪ねすることではどうでしょう、という返事だった。その上で史さんにこの話を持っていったのだが、にべもなく断わられてしまった。もっとお若い方となさったら、というのが史さんの返事だった……
 (「「原型」創刊の頃二、三」、『原型』2003年4月号)


 「もっとお若い方と」というのは体のいい断り方で、要するにその人とは対談したくないというのだ。なぜそんなことになってしまったのか。冨士田は続けて、

 その年はちょうど葛原さんが迢空賞を受賞された年であった。史さんは順序から言うと遅れをとって受賞されたのは、六年後になる。


と書いていて、その辺りに史が対談を嫌がる理由があったと見ているようだ。

 前に引いた史の講話に、「賞もお取りになって、先輩面」する歌人の話が出ていた。ほかでもない、1971年の迢空賞の発表後に史を憤慨させる出来事があったものか。


(2015.4.30 記)

 河野裕子は『密閉部落』(1959年)の一首、

標本瓶のこの脳髄も考へしや永遠といふやうな漠たることを


を取り上げて「長らく私は葛原妙子の歌とばかり思っていた」と書き、さらに、

 葛原の方が、美意識の先鋭化において、より顕著であるけれども、彼女の持つ、ふと人生を空虚に見てしまう視座の遠近法は、史に多くの影響を与えただろう。


と述べている(『斎藤史』鑑賞・現代短歌三、本阿弥書店、1997.10、77-78頁)。これが史の誇りをいたく傷つけたらしい。おそらく河野の著作が出版された直後のことだろう。カルチャーセンターの講義で、史は次のように語ったという。

 初め会った時には腰低く後輩として挨拶をして、次に有名になってから会うと、向うの方が賞もお取りになって、先輩面。さすがに気が咎めるから「わたしのほうが年上でね」って必ず言う。私は、一地方歌人には、一年に歌を注文してくる数だって滅多にありやしません。あちらは毎月のようにご注文があるから出来るはじから出していく。向うの方が先輩に見えますよ。私はそれを見て真似して書いたようになる。そう思ってます、今度出した河野さんの『斎藤史論』もそう。(「斎藤史講話」36、『原型』2009年4月)


 これまでに引いた史の発言と同じような内容で、先輩・後輩の関係や中央・地方の格差を強く意識するさまが目に付く。史が常に同時代の歌風に敏感だったのは確かだろうから、河野の指摘にも一旦は耳を傾ける価値があるはずだが、史本人はそれを断固として拒絶する。

 森岡貞香さんもわりに古いんです。ところが今の人は葛原妙子の方が先輩だと思っている。(同上)


 1930年代前半、二十代の史と十代の森岡貞香はともに『心の花』に出詠していた。だから、史は森岡に親近感を持っている。厭う相手は同じころ、まだ結社に属して定期的に歌を発表するということをしていない。そこで引用文のような言い方になる。

 ただ、何といっても、森岡は『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社、1987年)の編者である。その森岡をやや強引に自分の側に引き込んでまで、尊大な後輩を落としたかった、ということか。


(2015.4.27 記)

 近藤芳美が記した文章のなかに、その言葉と、それを言ったという歌人の名が出てくる。

 戦後間もないころ、葛原妙子と云う無名の潮音の歌人が、「私は有名になりたい」と、叫ぶように訴えていた、と、ひどく感心した風に一人の編集者が来て私に告げたことがあつた。詩人でもあつたその年若い編集者は、新らしい短歌と、それをになうにふさわしい激しい個性とを待ちうけていたのであろうし、その無名の女性の思いつめた言葉に、きつと一種の爽快さを聞きとつたに相違ない。(「葛原妙子」、『短歌』6巻13号、1959年12月)


 「有名になりたい」という言葉にひどく感心した年若い詩人とは、中井英夫のことだろう。「私にとつてなつかしい、年長の女性の友人である。」と文章を結ぶ近藤もまた、聞きようによっては軽薄にも聞こえるその言葉にむしろ好意を寄せている。

 詩人が近藤にその者の名を告げたころ、『橙黄』と題された歌集が出版された。それを読んだ近藤は、著者に手紙を出した。

 あなたはこの次には嫉妬され憎悪されますよ


といった意味のことを書いた、という。近藤や中井のような支持者ばかりではないということだろう。実際、近藤が予想したとおりであったようだ。その者よりも年下ながら歌壇では先輩格の斎藤史が、やがてその者に冷ややかな目を向けるようになったわけである。


(2015.4.22 記)

 もう一つ、別のインタビューでの史の発言(インタビュアー、水原紫苑。「この人に聞く」第6回、『歌壇』1995年9月。)。

 生活は基本ですから。生活抜きで人間、飲まず食わずで鉛筆を持っているわけにはいかない。でも、そう強い人もありますよ。(略)亭主にパンツまで洗濯させて、自分は歌をやっていて「あなた、うるそうございます」と言ったのも知っている。地方にいると、逆訴えがあるの。私が探っているんじゃないのに、耳に入ってくるさまざまがある。「有名になりたい」っていうその執着にも感心する。それほど短歌に打ち込めるってことは見事じゃない。私はそう思って見ていますよ。


 「亭主にパンツまで洗濯させて」おいて、「あなた、うるそうございます」と言い放ったという。なかなかおもしろいエピソードで、それを紹介すること自体、悪口といってよいだろう。

 家庭生活を省みずに歌に執着する女性歌人への違和感。あるいは羨望。前の記事に引いた談話と、話の筋が似ている。同じ歌人について語ったものと思われる。史は、その人物の名は明かさない。

 しかし、こちらの発言には、一つ大きなヒントがある。「有名になりたい」という言葉だ。私の知るかぎり、史と同世代の女性歌人で、こういうことを言ったと伝えられているのはただ一人。


(2015.4.20 記)

 雨宮雅子『斎藤史論』(雁書館、1987年)に史本人の談話が付載されていて、そのなかに同時代の女性歌人について語った一節がある。聞き捨てならない内容で、興味深い。

 お年はわたくしより上だけれど、歌壇に出たてのころはひじょうにへりくだっていたのが、その後評判が出て、お会いしてもむこうが見くだすような態度になってしまった方。その方が、お家をほっぽって歌ひと筋だったので、歌をとったら悪妻しか残らないじゃないかといわれたとか。——でも、そうまでしてご自分を貫こうと一生懸命だったのだから、歌に賭ける執念でいえば、別の意味ではこれもご立派だと思うの。


 「歌に賭ける執念」を讃えたいのであれば、「見くだすような態度」「悪妻」などと言わなければよいと思うのだが、それを言わずにいられないということは、やはりその歌人のことをこころよく思っていなかったのだろう。

 「お年はわたくしより上だけれど、歌壇に出たてのころは」と言い、「その後評判が出て」と言い、「お家をほっぽって歌ひと筋」と言う。ここに、自分より歌歴が短いのに自分より高い評価を受ける者への嫉妬心を私は読み取る。

 さて、史がそこまで意識していた相手は誰だろう。


(2015.4.16 記)

 私の本棚に『昭和短歌史』の著者署名本がある。二十年近く前、神保町の古書店で手に入れた。注意したいのはその献呈先で、「五島茂様」と読める。五島美代子と結婚、改姓した茂である。

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 木俣は同書中、例の論争の註として、

 石榑茂は小杉茂の名によって『アララギ』に歌を出しはじめたのは大正十一年十月からであって、第一欄作者として有力な位置をもっていた。(72頁)


と記し、『アララギ』同号掲載の茂の一首を次のように写していた。

はつはつに触れしものから汝がいのちかくもさびしく吾れにこもりけむ


 ところが、引用元の『アララギ』では「はつはつ触れし」なので、「はつはつに」の「に」は不要な字なのである。古歌に「はつはつに」となる例があり、むしろその形の方が自然な気もするが、ともかく茂の原歌には「に」が付かない。

 さて、いま手元の本を見ると、この不要な「に」を赤線で消してある。ほとんど知られていないこの歌に関し、一字分の衍字に気付き、なおかつそれを訂正せずにいられない者は誰か。茂本人をおいてほかにあるまい。

osamu-goto-02.jpg

 この訂正の跡こそ、茂吉と茂の論争を取り上げた『昭和短歌史』の一節を茂本人が確かに読んでいた証拠であると思われる。流行りの思想にかぶれ、先輩歌人に未熟な議論をふっかけて完膚無きまでに叩きのめされた青年時代の自己を、茂はどんな気持ちで振り返っただろうか。


(2015.4.7 記)

 斎藤茂吉と石榑茂の1928(昭和3)年の論争は、木俣修『昭和短歌史』(明治書院、1964年)に詳しく紹介されている。茂がマルクス主義の流行の影響をまともに受けつつ、『赤光』『あらたま』を「世紀末的小ブルジョア的なもの」に過ぎないと決め付け、アララギのあり方を「封建的師弟関係」「忍従主義」「反動化」といった用語でもって批判したのに対し、茂吉は激しく反論した。そのさまを木俣を次のように評している。

 茂吉の反撃のすさまじさは石榑の攻撃の比ではなかった。(77頁)

 茂吉はマルクス主義者でもなければ、またマルクス主義文学論を専門としているものでもないにもかかわらず、該博な知識をもって立ちむかっている。(83頁)

 茂吉が純理方面の闘争の他に相手の石榑の作品はいうに及ばず、その師匠、およびその父や妻の、つまり一家眷属の作品を詳密に批判して、いわば水陸空のあらゆる方面から攻めたてていったに対して、石榑はわずかに反撃してたまさか小銃弾をうつといったような態で、相手の茂吉作品、それにつながる『アララギ』作品の批判などは一度たりともなし得なかった。(84頁)


 木俣の判定の通り、論争は茂の完敗に終わったと見るほかない。とくに印象的なのは、プレハーノフやブハーリンといったマルクス主義の理論家に関する知識においても、茂吉が茂を圧倒していたことだ。歌人のなかで茂吉が抜きんでた知識人であったことを認めないわけにはいかない。


(続く)


(2015.4.5 記)

 先月は更新をお休みしました。その間に資料探索に精を出していた……というわけでもなく、したがって記事の材料の在庫が増えたわけでもなく、ただ怠けていただけですが、今月からまた少しずつ書き散らしていくつもりです。どうぞよろしくお願いします。
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