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 清原日出夫の生年は1937(昭和12)年であるのに、1936年とする誤記が『清原日出夫歌集』(国文社、現代歌人文庫、1980年)から『現代短歌全集』第十五巻(筑摩書房、1981年)、『現代短歌大事典』(三省堂、2000年)まで引き継がれた、と松村正直さんのブログの記事「清原日出夫の生年」(2010年6月26日付)が指摘していた。最近、この指摘に関連する資料に気付いたので、心覚えに記しておく。

 角川短歌25巻10号(1978年9月臨時増刊)のことである。『現代短歌辞典』と銘打たれたこの一冊を繰って「清原日出夫」の項を見ると、

 昭和12年1月1日北海道生れ。


と正しく書いてある。項目執筆者は永田和宏。塔短歌会の中では、清原が1937年生まれであることが知られていたのだろう。国文社版現代歌人文庫の編集責任者である福島泰樹は、塔の人ではない。「1936年」の誤記は、松村さんの指摘のとおり、この現代歌人文庫辺りから始まった可能性が高いと思われる。

 なお、その誤記を引き継ぐ三省堂版『現代短歌大事典』の「清原日出夫」の項は、吉川宏志が書いている。塔の内部でも、新しい世代には必ずしも清原に関する基本的な知識は受け継がれなかったようだ。このときすでに塔を退会していた清原は、塔の会員にとってやや距離のある存在になっていたか。

 もっとも、角川や短歌研究社が毎年発行する短歌年鑑には正しい生年が載っていたのだから、「不思議」(上記の松村さんのブログ記事)な誤記ではある。

 昨年発行の『塔辞典』の「清原日出夫」の項は川本千栄の担当で、正しい生年を記している。


     §


 角川短歌『現代短歌辞典』は誤りが多いという話もあるので取り扱いに注意が必要だが、一時代前の短歌事典として興味深い本だ。近年の事典に載らない田島とう子、村磯象外人、鷲尾酵一といった人たちの項もある。この辞典が成瀬有の「有」に「たもつ」とルビを振っていることを、私は『游べ、櫻の園へ』に関する拙文で指摘したことがある。


(2015.2.22 記)


 
 エピラフさんのコメントによれば、晩年の笹原常与は「四行詩」を多く書いていた由である。『假泊港』(港の人、2002年)では、掉尾近くに「四行のダンス・デッサン」「紙飛行機」「影踏み」といった四行詩が収録されている。『假泊港』が制作順に詩を並べているとしたら、この三作は『假泊港』出版に比較的近い時期の作ということになる。同書出版を挟んで、四行詩制作への熱意が続いたものか。

踊る人に誘い出された踊りは
踊る人の肉体を下敷きにして
その上にひろげられた「生」の白いページに
精神のデッサンを 描いたり消したりしている。


  「四行のダンス・デッサン」より


 描くだけでなく「消したり」するのが味わい深いところ。より生き生きとした動きが、命が、そこに生まれている。


(2015.2.20 記)

 岡野弘彦の代表歌としては、/ うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし 『冬の家族』/ すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり 『滄浪歌』/ などをあげるべきであろうが、個人的には…… (16頁〜)


といって本書が取り上げるのは、

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

  岡野弘彦『飛天』(1991年)


である。永田は、

 「ごろすけほう」がわずか三十一文字のなかに三度も繰りかえされる。じつに思いきった用法であり、端正な歌を多く作る岡野弘彦であるが、ときにこのような思い切った力業を敢えてするのである。


という。穏当な評だと思う。

 藤井常世の直話によれば、この歌がまだ歌集に入らないころ、「ちょっとおもしろい歌ができたよ」と岡野がうれしそうに話していたそうだ。高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫、1991年)の自選歌のなかにも、この歌がしっかり収まっている。永田がこの一首を採ったことを、岡野は案外喜ぶだろうと思う。

 私見を付け加えるなら、「ほう」と「ほほ」が同音の繰り返しで音楽的な効果を上げていること、「しんじつ」というやや古風な話し言葉が非日常の世界へ読者をいざなうこと、に注意しておきたい。

 なお永田の解釈では、人が心ほおけて「しんじついとしい」と思う、となるようだ。異論を唱えるわけではないが、梟が……という解も成り立つのでは? あるいは、両方の意味が曖昧に溶け合っているのでは?


(2015.2.18 記)

 国立国会図書館の蔵書検索システムで安永蕗子『冬麗』を探したら、初刊本(砂子屋書房、1990年)はなぜか所蔵なし。文庫本(短歌新聞社、1994年)を所蔵していることが分かったのだが、その書誌情報に

 タイトルよみ フユウララ


とあって、驚いた。

 フユウララという季語の漢字表記は確かに「冬麗」である。では、安永の歌集名はフユウララであろうか。しばらく考えてみたが、腑に落ちない。やはり音読みのトウレイが正しいのだと思う。

 安永の自叙伝風の随筆集『風のメモリイ』(熊本日日新聞社、1995年)に、

 『冬麗』の名は辞書にはない。冬の朝もやの中で明けゆく湖の美しさから浮かんだ言葉である。(186頁)


とある。フユウララであれば、「辞書にはない」などと書くはずがない。この歌集名は、収録歌の

朝靄のうすれゆくまま江津とよぶ冬麗母のごとくみづうみ


から採っている。朝靄の薄れてゆくのにまかせ、江津という名の「冬麗」は母のような湖である——ということだろう。このとき冬麗は冬の美というほどの意味である。これがフユウララ、すなわち冬の日光に照らされてのどかなこと、では意味が通らない。

 フユウララという読み方は、国会図書館の担当者がたまたま季語の存在に気付いたというだけのことで、確かな根拠に基づいているわけではないのだろう。

 なお、同館には、別の著者による『冬麗』というタイトルの単行本が数点ある。そちらはすべて句集である。それぞれの書誌情報を見ると、タイトルの読み方はトウレイだったり、フユウララだったりする。それらの情報に根拠があるのかないのかは知らない。


(2015.2.16 記)

 本書の「旅」と題された章を読んで、永田和宏という人は邪気のない人なのだなあと感じ入った。邪気がないから自分の考えていることを素直に文章にする。他の人なら用心深く隠しそうなことでも。

 私がアメリカに留学したのは昭和五九年(一九八四)のことであったが、その頃はまだ外国というのは遠い存在であった。

(略)斎藤茂吉のヨーロッパ留学(当時は洋行と言った)の際には、「アララギ」の主要歌人が集まって壮行会(壮行歌会)を催したことが記録に残っているが、実は私たち家族が旅立つ時にも、北海道や九州からも、世代を越えて、数十名もの歌人たちが集まって、送別会をしてくれたのである。たぶん歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例だと思っている。そのくらい外国というハードルは高かった。

 しかし、現在、年間一千万人を超える人たちが、観光のため、ビジネスのため、あるいは勉強のため外国へ出てゆく時代になった。隔世の感があると言うべきだが、当然のこととして外国への旅行詠が多く作られるようになる。

  (160頁〜)


といった話を枕に安永蕗子『冬麗』(1990年)の一首、

薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃


を取り上げているのだが、どう読んでも、セレブやエリートでない庶民が簡単に海外に出かけ、海外詠を大量生産するようになった代表例として安永を挙げているとしか読めない。永田は実際、安永の歌についてそんなふうに考えているのだろう。しかし、もう少し心のねじ曲がったエリートなら、そう考えたこと自体を恥じて、何も書かないものだ。

 上の引用文の内容は、全くもって正しい。安永の一首は1988年の作で、永田のアメリカ留学からわずか数年遅れているに過ぎないが、その間にプラザ合意とバブル景気があり、海外に渡航する日本人が激増していたのである。そうなっていなければ、安永の中国旅行も実現していなかったかもしれない。

 『冬麗』の海外詠には、実は、

遠国にウラルアルタイ手をあげて人呼ぶことも狼煙(のろし)のごとし
砂のほか何も見えねばゴビ砂漠こころづくしの蜃気楼
(かいやぐら)立つ


といったように、いくらか解説を要する歌もある。しかし、庶民による海外詠の例としてはもっと平明なものが望ましく、永田の選歌はまことに適切だ。

 そういうわけで私に言えることはほとんど何もないのだが、ただ一点、「歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例」というのは正しくない。2011年の初め頃だったか、黒瀬珂瀾氏の洋行の際に「数十人」が集う送別会があった。このときは歌人だけでなく、小説家や詩人も出席した。

 考えてみれば、ある年に一千万人以上の日本人が海外に渡ったとして、次の年に別の一千万人が海外に渡るわけではない。永田のようなリピーターがいる一方で、パスポートすら持っていない者もいる。後者から見れば、外国留学や外国旅行は今日でも格別のものだ。


(2015.2.14 記)

 笹原常与本人の書き入れがある本を古書店で見つけた、と教えられた。自分でも少し調べてみたところ、確かに笹原さんの旧蔵書などが古書店に出回っている。御家族が遺品を整理されたのだろう。

 しかし、書き入れ本まで処分されたというのは、やや心配な情報だ。原稿や草稿、ノート類は散逸していないだろうか。遺稿集の出版の話は順調に進んでいるのだろうか。

 昨年12月14日付と15日付で笹原さんに関する記事を書いたところ、未知の方々からコメントをいただいた。笹原常与に関する情報がウェブ上にほとんど存在しないことにあらためて気付くとともに、笹原常与詩集に熱心な読者がいることを再認識した。

 遺稿集の出版が実現することを願う。


(2015.2.12 記)

 春日真木子『北国断片』(1972年)から、本書は次の一首を採る(214頁)。

憐れまるより憎まれて生き度し朝々に頭痛き迄髪ひきつめて結う

  『北国断片』「寡婦の章」


 この歌は春日自選の『自解100歌選春日真木子集』(牧羊社、1988年)に見えず、所属結社水甕の会員がまとめた『春日真木子101首鑑賞』(ながらみ書房、2007年)にも入っていない。従来の評価に関わらず、とくに永田の好みで採った一首ということになろうか。

 しかし、初句「憐れまるより」は助動詞の活用がおかしい。あえてこの歌を引っ張り出してこなくてもよいのに、と思う。作者本人も不本意だろう。

 第二句以下にも注意すべきところがある。「憎まれて生き度し」は中城ふみ子に先例がある。

大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生きたし

  『乳房喪失』(1954年)


 「頭痛き迄髪ひきつめて結う」は、

こめかみがきしめるほどに梳きし髪こころもはらに涼しからねば

  葛原妙子『飛行』(1954年)


の類想句だろう。春日の自筆年譜(『短歌』2006年6月号)によれば、『乳房喪失』と『飛行』が刊行された1954年に、

 夫が癌により闘病の末死去。夫の死がきっかけとなり作歌を始める。


 そして、久々湊盈子『インタビュー集 歌の架橋』(砂子屋書房、2009年)には、

 中城ふみ子の歌に触発された……


という春日本人の発言も記録されている。要するに、永田が採った春日の一首は、同時代の女性歌人からの影響を色濃く受けた作なのである。「寡婦」の歌であるはずなのに、どこか離婚した女の歌を思わせるのは、中城ふみ子の表現に学んだためでもあろうか。

 影響を受けること自体は自然なことで、単純に批判されるべきでない。しかし、影響関係がこれほどあからさまな一首を、わざわざアンソロジーに収載するのはいかがなものか。

 『北国断片』から採るなら、ほかにいくらでも候補を挙げられそうだ。

垂直に麦穂たつ畝走る子の母が希う程には俊敏ならず


はどうだろう。母の愛とエゴのつつましさに現実味がある。もっと強いインパクトを求めるなら、

髪の根迄も風は曝せり芯強き女と云われつつ株買いに行く


はどうか。株を買う女の珍しさだけを評価するのではない。経済的自立こそ、精神的自立の基盤だ。その真実に照明を当てた作は現代短歌に案外少なく、記憶に値する。

 
(2015.2.10 記)

 六〇年安保闘争詠として、本書は岸上大作の歌とともに、清原日出夫の一首、

何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ


を採る。清原の作風を評して、

 岸上とは対照的に、自己の思想表現を厳しく抑えつつ、客観的に社会の動きを詠む……(139頁)


としているのは大方の賛成するところだろうが、上の一首について、

 ここではいっさいの感情を交えず、車の薄闇のなかに「無電に話す口」が見えたことだけが詠われる。(140頁)


と読み解くのはどうか。よいもの、うれしいもの、ありがたいものを主語にして「つきまとう」とは言わない。

 デモの周辺で警察が警備に当たるのは、その限りでは公共の安全と秩序の維持のために当然のことだろう。まして現場の警官一人一人は、職務命令に従ってそこに来たに過ぎない。それを「何処までもデモにつきまとう」と見るのはデモ参加者の側の視点であって、その表現には彼らの感情が入り込んでいるように思える。

 当時の状況から、デモ参加者が警察を敵視したであろうことは理解できる。他の学生歌人の歌と並べてみるとき、この一首が比較的客観描写に傾いていることも確かだろう。しかし、「いっさいの感情を交えず」は、作品の解釈としてどうか。


(2015.2.8 記)

 福島泰樹の省線電車の歌でよく分からないのは、「左折」の意味である。

 「左折」には当然「左翼」という場合の「左」、すなわち「革新」という意味が含まれていよう。(140頁)


という永田の解釈にとくに異論はない。しかし、そもそも電車の左折とはどんな動きを表わしているのか。自動車の左折は交差点を左に曲がることで、左カーブの道を進むことではない。とすると、この「左折」は、電車としては本来あり得ない動きを表わそうとしているのか。


(2015.2.6 記)

 さる歌人のポートレートにターバンを巻いた後頭部だけが写っていたことを思い出した。あんなふうに顔を写さないことにも意味があったとみとめなければならないだろう。

 だからといって、

 今や「有事」はもう、そこまで来ているのではないか。(松村由利子「日々のクオリア」2月2日付)


などという言い方は単純素朴に過ぎて、とても同調する気になれない。平和も戦争も、常にそこここにあったはずだ。それよりも、たとえば、

 海外はもともと十分に危険を伴う地域があることは日本人はみんな知っている。(略)今まで通り安全に配慮し、旅行に行きたければ行き、取材したければ取材したらいい……(長谷川豊「本気論本音論」2月1日付)


というような冷静な見方に学びたい。


(2015.2.4 記)

 
 福島泰樹の歌から本書は、

ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車

  『バリケード・一九六六年二月』(1969年)


を採る。これも著名な一首。永田の評は、

 若い学生である福島にあって、「省線電車」などという明治時代の呼び名が出てくるところがおもしろいが、彼が江戸っ子であることにもかかわっていよう。(140頁)


 アラ探しをするようで恐縮だが、「明治時代の呼び名」はひどい。鉄道省は1920(大正9)年発足で、その前身は鉄道院だから、省線が明治時代の呼称であるはずはない。かつ、国有鉄道が省の直轄でなくなったのは1949(昭和24)年からで、それまでは名実ともに省線であったわけだから、全く耳遠い言葉ということでもなさそうである。呼び名は新しい「国電」より使い慣れた「省線電車」の方がしっくりくるという人も、60年代にはまだいたのではないか。

 そう考えると、「江戸っ子」の指摘がむしろ興味深い。福島の周辺に「省線電車に」云々とおしゃべりをする大人たちのいたことが推測できるからである。「若い学生」である福島自身が日常会話のなかでこの語を使っていたわけではないだろう。この語の使用には、時代遅れか何かの気取りを読み取ってもよいのかもしれない。


(2015.2.1 記)

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