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 前川佐美雄の一首として、本書は『大和』(1940年)から

春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ


を採っているが、その解説中にさらに次の歌を引いている(186頁)のが目を引いた。

ひじやうなる白痴の我は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる


 『植物祭』の、これも著名な歌である。ただし、1930年の初版本では第二句が「白痴の僕」になっていた。そして私の知るかぎり、この歌は後年、多くのアンソロジーにその初版本の形で入り、多くの論文・評論・随筆にもその形で引かれてきたのである。

 では、「白痴の我」という見慣れない本文は一体どこから? 『植物祭』には、1947年に出た改版本がある。実はその本では「白痴の我」なのである。奇妙な話だが、永田は従来ほとんど問題にされたことのないこの改版本、もしくはそれを底本にする文庫本の類(未確認)からわざわざ引いてきたもののようだ。

 思うに、この「僕」と「我」の違いは、一首全体の内容に大きく関わるものだ。そもそも、白痴を自覚する人は白痴らしくない。「白痴の我」は綺麗に整理された言い回しで、白痴本人の物言いとは到底感じられない。ところが、「白痴の僕」になると、この「到底」がちょっと揺るがないだろうか? 格調高い伝統文芸のうちに、大真面目に話し言葉の一人称を使用する。その落差がとぼけた印象を生み、彼の正気を一瞬疑わせないだろうか。

 「白痴の我」は作者自身が歌をつまらなくした改悪だと私は思う。


(2015.1.31 記)

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 「てのひらに」の歌について解説するなかで、皇后陛下の歌をもう一首、永田は引いている。

かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ

  『瀬音』


 平成七年の文化の日の題詠とのことだが、これもまた背景に物語を想像できる歌である。永田は、

 当然のことながら、それは皇太子妃になるかどうかという選択であったことだろう。(15頁)


と推測する。なるほど、そう解するとまことに印象深い歌になる。

 なお、「分去れ」について永田は、

 広辞苑には「別され」として、分家、わかれの意味をあげているが、私は、文字通りの分かれて去っていく道ととっておきたい。(同頁)


と説明している。後の解釈はもちろん正しいが、前の広辞苑云々は、あらら……。私の狭い部屋にはないが、永田家か塔事務所の書架には『日本国語大辞典』があるはずだ。その第二版第十三巻の1255頁に、方言で

 追分。


の意味だと書いてある。

 想像を広げれば、この語の向こう側には軽井沢の記憶がひそんでいるのではなかろうか。かの「テニスコートの出会い」をした町には中山道と北国街道の追分があり、その追分をとくに「分去れ」と呼ぶ。関西に生まれ育った永田は、軽井沢になじみが薄いのかもしれない。

 「いづこ行きけむ」が惜しい。副詞として「どこへ」の意味で使うなら、「いづこ」より「いづち」の方が自然だ。


(2015.1.29 記)

 本書は現代百首のうちに皇后陛下の一首を採っている。文春新書『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(2013年)などが皇后陛下の歌を最初に採ったアンソロジーかと思うが、永田和宏はその選者の一人でもあったので、二書に採られたと単純に数えることはできない。アンソロジーに定着するかどうか、今後さらに別の選者の選を経ておのずから定まってゆくだろう。


     §


 本書が採った歌は、

てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて

  『瀬音』1997年


 実際には小さくて軽い桑の実一粒を「重み」のあるものとしたところが眼目である。御成婚の年の作とのことだから、背景に物語を想像することもできる。つまり、記憶に残る詩歌の条件を備えているのである。ただし、永田は

 美智子皇后の歌には、常に韻律が強く意識されている……(13頁)


というが、「重みのありて」の「の」の辺りは調べがやや緩んでいないだろうか。実を言うと、『新・百人一首』が採った歌についても、私は同様のことを感じた。そちらは、

帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

  平成二十四年歌会始


というのだが、「季のなく」の「の」でやはり調べが緩んでいるようだ。同書に載る別の一首、

(こと)の葉(は)となりて我よりいでざりしあまたの思ひ今いとほしむ

  『瀬音』


の韻律にそのような瑕はない。選者の意見を聞いてみたい。


(2015.1.27 記)

 1890年代、つまり明治22年からの十年間だが、この年代生まれはそもそもどのような顔触れなのか。『名歌名句大事典』から生年順に抜き出してみよう。

・今井邦子(1890年) ・植松寿樹(1890年)
・土屋文明(1890年) ・杉浦翠子(1891年)
・水町京子(1891年) ・芥川龍之介(1892年)
・斎賀琴(1892年)  ・西村陽吉(1892年)
・大熊信行(1893年) ・望月麗(1893年)
・結城哀草果(1893年)・岡山巌(1894年)
・小泉苳三(1894年) ・橋本徳寿(1894年)
・渡辺順三(1894年) ・土田耕平(1895年)
・松倉米吉(1895年) ・松田常憲(1895年)
・山下陸奥(1895年) ・岡野直七郎(1896年)
・川上小夜子(1896年)・館山一子(1896年)
・宮沢賢治(1896年) ・中村正爾(1897年)
・早川幾忠(1897年) ・藤沢古実(1897年)
・鹿児島寿蔵(1898年)・五島美代子(1898年)
・高田浪吉(1898年) ・阿部静枝(1899年)
・筏井嘉一(1899年)


 専門歌人でない芥川龍之介や宮沢賢治らはしばらく措く。直前の1880年代生まれに斎藤茂吉・北原白秋・若山牧水・石川啄木・吉井勇・釈迢空といった面々が揃っているのに比べると、およそ地味な印象であることは否めない。土屋文明だけは別格だが、世代としてはむしろ1880年代組の掉尾に加えるべき人か。


     §


 さて、なぜ1890年代生まれの歌人にいわゆる大物がいないのだろうか。推測するに、1880年代組の茂吉・白秋らがあまりに偉大であったため、1890年代生まれは先達を敬愛すること厚く、自身は結局小さくまとまってしまったものか。また、彼らが新進・中堅であった時期にプロレタリア文学運動が盛んになったこと、それがほどなく弾圧されたことも影響しているのかもしれない。


     §


 それにしても、『現代秀歌』に1890年代生まれが二人のみとは、他のアンソロジーと比べてもことに少ないようだ。選者によっては、例えば1940年代生まれの歌人を永田が好むほどには好まず、代わりに永田の選ばない結城哀草果や筏井嘉一を選ぶだろう。


(2015.1.25 記)

 例えば『名歌名句大事典』(明治書院、2012年)の収録歌の作者で、生誕が1860年以降の者は247人。『近代秀歌』『現代秀歌』の合計人数の二倍弱を選んでいることになる。その内訳を見ると、

 1860年代生まれ:5人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:43人
 1890年代生まれ:31人
 1900年代生まれ:26人
 1910年代生まれ:19人
 1920年代生まれ:31人
 1930年代生まれ:26人
 1940年代生まれ:29人
 1950年代生まれ:29人
 1960年代生まれ:17人
 1970年代生まれ:6人
 1980年代生まれ:1人

である。ここでは1890年代生まれの歌人はむしろ多い。

 『日本名歌集成』(学灯社、1988年)で同じ条件の作者は204人。その内訳は、

 1860年代生まれ:5人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:39人
 1890年代生まれ:34人
 1900年代生まれ:34人
 1910年代生まれ:24人
 1920年代生まれ:26人
 1930年代生まれ:18人
 1940年代生まれ:8人

 
 1890年代生まれの歌人は、ここでも決して少なくない。

 では、『近代秀歌』『現代秀歌』の二編とほぼ同じ人数を選ぶアンソロジーではどうか。『現代の短歌』(高野公彦編、講談社学術文庫、1991年)は105人を収載。昭和まで生きた歌人が対象で、それ以前に亡くなった子規や啄木、赤彦らは対象外なので、これまでに言及したアンソロジーとは条件が若干異なるものの、結果に影響するほどではないだろう。105人の内訳は、

 1870年代生まれ:5人 
 1880年代生まれ:11人
 1890年代生まれ:3人
 1900年代生まれ:12人
 1910年代生まれ:10人
 1920年代生まれ:19人
 1930年代生まれ:13人
 1940年代生まれ:13人
 1950年代生まれ:15人
 1960年代生まれ:4人

 なんとここでは、1890年代生まれが前後の年代よりも明らかに少ない。永田和宏の選とほぼ同じ結果である。

 もう一つ、『短歌俳句川柳101年』(『新潮』1993年10月)は収載歌集101冊、その著者101人。明治から平成までの各年1冊ずつ歌集を選ぶという趣向のものである。内訳は、

 1860年代以前の生まれ:6人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:18人
 1890年代生まれ:6人
 1900年代生まれ:11人
 1910年代生まれ:8人
 1920年代生まれ:14人
 1930年代生まれ:7人
 1940年代生まれ:8人
 1950年代生まれ:4人
 1960年代生まれ:3人

 前後の年代に比べ、1890年代生まれの人数がやはり少ない。収載人数が200人を超えるアンソロジーでは前後の年代とあまり変わらず、100人から130人程度のアンソロジーでは前後の年代より少なくなるということだろうか。つまり、人数は揃っているが、大物は少ないということか。


(続く)


(2015.1.23 記)


 岩波新書、2014年刊。同じ著者による既刊『近代秀歌』(岩波新書、2013年)の姉妹編。

 歌人の生年に注目して前書と本書の収載の範囲を見ると、前書は落合直文(1861年生まれ)から明石海人(1901年生まれ)までの31人、計100首。本書は五島美代子(1898年生まれ)から梅内美華子(1970年生まれ)までの100人、計100首を選んでいる。この二冊でもって、永田和宏の選による明治・大正・昭和の短歌のアンソロジーということになろう。


     §


 では、永田が選んだ歌人はどんな顔触れか。生年順に並べてみよう。


『近代秀歌』(括弧内は生年)

1860年代生まれ
・落合直文(1861年) ・伊藤左千夫(1864年)  
・正岡子規(1867年)
 
1870年代生まれ
・佐佐木信綱(1872年)・与謝野鉄幹(1873年)
・太田水穂(1876年) ・尾上柴舟(1876年) 
・島木赤彦(1876年) ・窪田空穂(1877年)
・与謝野晶子(1878年)・長塚節(1879年)  
・山川登美子(1879年) 
 
1880年代生まれ
・会津八一(1881年) ・川田順(1882年)  
・斎藤茂吉(1882年) ・前田夕暮(1883年)  
・北原白秋(1885年) ・北見志保子(1885年)  
・土岐善麿(1885年) ・若山牧水(1885年)  
・石川啄木(1886年) ・木下利玄(1886年)  
・古泉千樫(1886年) ・吉井勇(1886年)  
・釈迢空(1887年)  ・原阿佐緒(1888年)  
・岡本かの子(1889年)・中村憲吉(1889年)  
・松村英一(1889年)
 
1890年代生まれ
・土屋文明(1890年)  
 
1900年代生まれ
・明石海人(1901年)
  


『現代秀歌』

1890年代生まれ
・五島美代子(1898年)
 
1900年代生まれ
・山田あき(1900年) ・前川佐美雄(1903年)
・木俣修(1906年)  ・坪野哲久(1906年)
・真鍋美恵子(1906年)・葛原妙子(1907年) 
・窪田章一郎(1908年)・渡辺直己(1908年) 
・斎藤史(1909年)  ・佐藤佐太郎(1909年)
 
1910年代生まれ
・宮柊二(1912年)  ・近藤芳美(1913年) 
・高安国世(1913年) ・大野誠夫(1914年) 
・前田透(1914年)  ・山崎方代(1914年) 
・岡部桂一郎(1915年)・加藤克巳(1915年) 
・清水房雄(1915年) ・森岡貞香(1916年) 
・田谷鋭(1917年)  ・宮英子(1917年)  
・浜田到(1918年)  ・武川忠一(1919年) 
 
1920年代生まれ
・竹山広(1920年)  ・塚本邦雄(1920年) 
・安永蕗子(1920年) ・中城ふみ子(1922年)
・上田三四二(1923年)・岩田正(1924年)  
・大西民子(1924年) ・岡野弘彦(1924年) 
・玉城徹(1924年)  ・相良宏(1925年)  
・山中智恵子(1925年)・春日真木子(1926年)
・富小路禎子(1926年)・前登志夫(1926年) 
・尾崎左永子(1927年)・岡井隆(1928年)  
・馬場あき子(1928年)・高瀬一誌(1929年) 
 
1930年代生まれ
・石田比呂志(1930年)・田井安曇(1930年) 
・来嶋靖生(1931年) ・石川不二子(1933年)
・篠弘(1933年)   ・皇后美智子(1934年)
・志垣澄幸(1934年) ・寺山修司(1935年) 
・奥村晃作(1936年) ・小野茂樹(1936年) 
・清原日出夫(1936年)・秋葉四郎(1937年) 
・小中英之(1937年) ・春日井建(1938年) 
・佐佐木幸綱(1938年)・浜田康敬(1938年) 
・岸上大作(1939年) ・辺見じゅん(1939年)
 
1940年代生まれ
・玉井清弘(1940年) ・柏崎驍二(1941年) 
・高野公彦(1941年) ・成瀬有(1942年)  
・村木道彦(1942年) ・伊藤一彦(1943年) 
・佐藤通雅(1943年) ・福島泰樹(1943年) 
・大島史洋(1944年) ・小高賢(1944年)  
・三枝昂之(1944年) ・沖ななも(1945年) 
・河野裕子(1946年) ・香川ヒサ(1947年) 
・小池光(1947年)  ・道浦母都子(1947年)
・池田はるみ(1948年)・花山多佳子(1948年)
 
1950年代生まれ
・阿木津英(1950年) ・島田修三(1950年) 
・永井陽子(1951年) ・今野寿美(1952年) 
・栗木京子(1954年) ・内藤明(1954年)  
・松平盟子(1954年) ・渡辺松男(1955年) 
・小島ゆかり(1956年)・坂井修一(1958年) 
・加藤治郎(1959年) ・川野里子(1959年) 
・谷岡亜紀(1959年) ・水原紫苑(1959年) 
・米川千嘉子(1959年)  
 
1960年代生まれ
・大辻隆弘(1960年) ・俵万智(1962年)  
・穂村弘(1962年)  ・東直子(1963年)  
・吉川宏志(1969年) 
 
1970年代生まれ
・梅内美華子(1970年)


 なお、永田本人も各種アンソロジーの常連の歌人だが、さすがに自分で自分を選ぶことはしていない。


     §


 各年代の人数を二書で合算してみると、

1860年代生まれ:3人
1870年代生まれ:9人
1880年代生まれ:17人
1890年代生まれ:2人
1900年代生まれ:11人
1910年代生まれ:14人
1920年代生まれ:18人
1930年代生まれ:18人
1940年代生まれ:18人
1950年代生まれ:15人
1960年代生まれ:5人
1970年代生まれ:1人

となる。


     §


 各年代の人数がまずまず揃っているところが多いのを見ると、やはり年代ごとに選ぶ人数を調整しているようだ。また、その中では1920年代、30年代、40年代生まれの歌人——つまり1947年生まれの永田から見て、二回りほど年長から同年代まで——を比較的高く評価していることが見て取れる。

 その分、それより上の年代、例えば1900年代生まれの歌人などはやや割を食った形か。この年代の著名歌人で選ばれていないのは吉野秀雄(1902年生まれ)・柴生田稔(1904年生まれ)・生方たつゑ(1905年生まれ)等だが、選者が違えば選に入ってもおかしくない。

 注意されるのは、1890年代生まれの歌人をわずか2人しか選んでおらず、前後の年代に比べ突出して少ないことだ。これは他のアンソロジーでも同様なのだろうか。それとも、永田の評価が独特ということなのだろうか。


(続く)


(2015.1.19 記)

 本書で数頁にわたって茂吉が登場せず、代わりに別の人物が主役になるところがある。1944年12月から翌年1月にかけての条である。これがケッサク。本書中の白眉と言ってもいい。

 当時、田中家に女中が一人いた。あるとき、この女が田中と結婚すると一人で勝手に決め込んで、田中の母にそう告げた。ほかにもいろいろおかしな物言いがあるということで、田中が付き添って茂吉の診察を受けた。茂吉は「精神分裂病」の診断書を出した。

 ところが、この診断書を以てしても工場への徴用が免除にならなかったので、女は本鵠沼から平塚まで、小田急と東海道線を乗り継いで通うことになった。三日目、女は帰ってこなかった。警察に捜索願いを出して数日経っても消息なく、やがて皆が女のことを気遣わなくなったある日、女はヒョッコリ帰ってきた。工場からの帰途、東海道線の上り列車に乗るべきところを誤って下り列車に乗った女は、診断書の写しをふところに、そのまま無賃乗車で郷里の山口県まではるばる里帰りしてしまったのである。

「いくら博多行に乗つても、途中の検札で下されてしまふぢやないか。」
「いいえ、それが運が好(え)かつたんでせう。車掌が来たことはありましたが、検べられませんでした。広島の近くまで来た時に、始めて検べられました。定期を見せたら、広島でおろされてしまひました。駅員が沢山寄つて来て本鵠沼平塚間の定期を見て、これで広島まで来とる、づうづうしいなう、又なして今まで検札で見つからんぢやつたらうと云うちよりましたが、その中あの帽子に金のすぢの入つた、あれは何ですかねえ、駅長さんですかねえ、あれが来て、定期入れの中にあつた工場の証明やら何やらを見ちよりましたが、もうここまで来たんなら仕方がない、ついでに国に帰りなさいと云うて、その晩は駅に泊めてくれ、翌朝の汽車に証明を書いて乗せて、国に帰してくれました。丁寧でしたいね。」
(228頁)


 広島駅の様子など、ありありと目に浮かぶ。不思議な話術だ。この引用箇所の後、しっかりオチまで付いて、痛快この上ない。

 金線入りの制帽をかぶった「駅長さん」は、定期入れの中にあった診断書の写しを見たのだろう。茂吉自身の意図せぬことながら、一人の女に束の間の幸福をもたらしたという意味で、茂吉の書いた一枚の診断書の効能は『赤光』にも『あらたま』にもまさるものだった。
 

(2015.1.14 記)

 1944年6月26日の茂吉と田中の会話。

「『つゆじも』の原稿を写しませうか。」
 私は実は早く見たいからかう云つたのだが、しかし先生は直ぐにそれを見抜かれた。
「いや駄目だ。見せない。」
「誰にもお見せにならないんですか。」
「誰にも見せない。をかしいんだ。乱作ばかりだから恥かしい。」
「欧羅巴旅行中のは。」
「あれは日記みたいなものだから、歌は駄目だ。」(186頁〜)


 『つゆじも』云々は、原稿を疎開させるために写しを作っておくという話である。この十日前、6月16日に最初の本格的な本土空襲である八幡空襲があり、20日の訪問ではそれが話題に上っていた。しかし、引用した会話の内容から想像するに、東京空襲の危険はまだ差し迫ったものとは考えられていなかったようだ。

 『つゆじも』や留学中の作品に対する茂吉自身の評価の低さが可笑しい。全てが本心からの言葉とも思えないが、逆に全てが謙遜でもないのだろう。

 僕は古事記伝を箱に入れて蔵つてゐる。(略)版下は本居春庭が書いてゐる。たしか宣長の子だらう。うまい字だ。宣長に吸収されたんだ。(187頁)


 こちらは同日の茂吉の言葉。「宣長に吸収された」の意味が取れないが、田中の聞き違いだろうか。


(2015.1.12 記)

 1944年12月12日。東京大空襲の三ヶ月前、茂吉自身が山形県に疎開する四ヶ月前である。もう一人の来訪者が「特別攻撃隊の人達の歌でも、真心は入つてゐても歌としてはいかがなんでせう」と質問したのに対して、茂吉の返答は、

 さうだ、あれは決してまづいと云つてはいけない。真心が入つてゐるからな。褒めなければいけない。しかし歌としては別だからな。(209頁)


 茂吉に対してこんなことを言うのもナンだが、歌の良し悪しについて冷徹な批評眼を失っていない。


     §


 もっとも、本書が戦後の刊行であることは、一応考えに入れておく必要がある。本書の内容は事実。しかし、元資料である田中のノートに記されながら本書には採られなかった挿話や発言記録が、あるいはあるかもしれない。あくまで仮定の話だが、それは戦後の時勢に合わない内容だったかもしれない。なお、当然ながら、田中が元々茂吉との会話を全てノートに書き留めていたわけでもない。

 例えば、1941年12月23日。

 戦争の話になつた。去る八日には米英両国との間に戦端が開かれた。私はその翌九日に徴兵検査を受けて第二国民兵役丙種合格になつてゐた。
「それはよかつた。君はまだ無理は出来んからな」と先生が云はれた。(14頁)


 当時は「第二国民兵役丙種合格」ならまず招集されることはなかったから、病後の田中を心配する茂吉は「それはよかつた」と言ったわけだが、その前の「戦争の話になつた」ところでは茂吉の言葉が記されていない。茂吉がそこで鬼畜米英的な発言をしていた可能性もあろう。


(2015.1.11 記)

 1943年3月2日、茂吉と田中の会話。

「今度又僕のが出る。又買つて読んでくれたまへな。」
「『白桃』に先行する歌集ですか。」
「いや、『寒雲』以後だ。日本主義だから面白くないだらう。山水の歌は殆ど無い。」
「名は何ていふんですか。」
「『のぼり路』だ。……」(98頁)


 「日本主義」は戦意高揚歌や紀元二千六百年の奉祝歌の類を指すか。「日本主義だから面白くない」などという言い方は、ゴリゴリの国粋主義者のものではない。

 次は、同年5月25日の茂吉の発言。

「……語学は君必要だからね。歌人が歌論をすると自分ばかり偉くなるのはつまりそれだ。語学ができない。従つて外国を知らないからだ。……現代はpathologisch(パトロオギツシユ)な時代だからね。戦争中だから病的なんだ。インキといふのが君無くなつたさうだね。何といふんだ、墨汁とでもいふのかな。君そんな時代なんだからな。」(116頁)


 「pathologisch」はドイツ語で「病的」という意味の形容詞。田中がドイツ語を学ぶ一高生なので、茂吉も会話の中にそんな単語を挟むのである。

 かつて日米開戦の際に日記に歓喜の言葉を記したのも茂吉なら、今ここで歌人の視野の狭さを指摘し、戦時の世相を「病的」と評するのも同じ茂吉である。単純には捉え切れない。

 「インキ」云々は、敵性語がまた一つ排斥されたという話のようだ。このインキの話は、翌月22日の会話にも出てくる。

「君インキという詞が無くなつたさうだね」と先生が云はれた。「日本主義新浪漫主義を唱へるんだから。」
 先生は保田与重郎一派を非難してゐられるやうである。
「君のも新浪漫主義ぢやないか」と先生は鉾先を向けて来られた。
「いや僕のは彼等とは違ふでせう。」
「さうか、新浪漫主義などと意識せないがいいな。」(120頁)


 写生を標榜する歌人として日本浪蔓派に批判的であるのは分かるとして、茂吉はもっと広義の「日本主義」にもやはり冷淡だ。

 そもそも敵性語の排斥などは戦時において庶民を指導する方便の一つであって、軍人や官僚、知識人の生活上で真剣に実行されたものではない。敗戦の前年になっても、茂吉と田中の会話にはニユウス・カバア・ベル・レストラン・メニユウ・ホテル・ボオイ・テエブルといった語が頻出していた。

 一人の人間、斎藤茂吉の中にさまざまな傾向が混在している。本書はその一端を伝えてくれる好資料だと思う。


(2015.1.10 記)

 1943年7月13日、田中の兄の歌を見た茂吉は、

六月(みなづき)の雨にぬれゆく青萱の葉末するどく地(つち)に垂れたり


を採って、

草道を分けて来ぬれば目の前に暮れ残りたる白き石橋


を採らず、次のように言う。

 『暮れ残りたる』は新古今調だねえ。大学を出た者はすぐ象徴といふんだ。

  (122頁)


 これはもちろん、「暮れ残りたる」に否定的なのだ。前の歌の構成だとか調子だとかが緊密なのに対して、後の歌の上句が弛緩しているのは私にも分かる気がするが、「暮れ残りたる白き石橋」はおもしろく感じられるので困ってしまう。安易な幽玄に走るのはつまらないということなのだろうが。


(2015.1.8 記)

 筑摩書房、1960年刊。

 1941(昭和16)年から47年まで、二十代の著者が茂吉に面会して歌の指導を受けた際の茂吉の発言等を記録したものである。茂吉の平生の態度や言葉遣いが時代背景とともに生き生きと再現されていて、興味深い。

 1941年10月28日、田中の一首「寄りきたる鴉をみつつ牡牛はも啼かざりしかもおのれ身じろがず」に対して、

 「赤光調だな」と云つて笑はれた。(11頁)


とある。なるほど、「牡牛はも」や「啼かざりしかも」がいかにも赤光調だ。

おのづからうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日の赤きに

  『赤光』


を引くまでもない。

 「●●調」などと自分の旧作の名を挙げてサマになる歌人は、そうはいないはずだ。現代歌人の中には、いるだろうか。


(2015.1.7 記)

 それで『名歌名句大事典』に採られている平賀元義の歌だが、百十数頁にわたる「全歌全句索引」に目を通して、やっと次の三首を拾い出すことができた。

妹が家の板戸押し開きわが入れば太刀の手上(たがみ)に花散りかかる
吾妹子が手なれの琴のことさらに家路恋しき今宵にぞある
わぎもこに別れてゆけば眉引の横山の上に月ぞ残れる


 悪い歌ではないだろうし、人によって評価はいろいろだとも思う。ただ、一つ注意したいのは、この三首に対して「五番町」の一首がどこか異質であることだ。

 この三首には登場しない吾妹子その人が「五番町」の一首には登場する。生きることのかなしみを切々と感じさせる者として。

 ハナウタ風の「眉引」をわざわざ採って、「五番町」の絶唱を落とす学者先生は、よほど恋の道に通じているのだろう。


(2015.1.5 記)

 平賀元義の著名な歌、

五番町石橋の上にわが麻羅を手草にとりし吾妹子あはれ


  *五番町—ごばんちやう
  *手草—たぐさ
  *吾妹子—わぎもこ

の解説文が読みたくて『名歌名句大事典』(明治書院、2012年)を開いてみたら、この一首は収載していないのだった。

 では元義のどんな歌を代わりに採っているのか見ておこうと思ったら、今度は作者索引がない。せっかく巻末に「作者略伝」を付けているのだから、そこに作品の掲載頁を添えておけば便利になるのに、どうしてそうしないのだろう。

 「全歌全句索引」はある。編集段階では電子データにしているのだろうから、それを作者索引に作り替えるのはたいした手間でもないと思う。もったいない。


(2015.1.4 記)

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Author:和爾猫
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