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彼岸花あかきを見たり寝過ごしてふた駅分をもどる道すじ

  『午前3時を過ぎて』175頁



【語注】

 彼岸花——
季節は秋の彼岸のころ。同じ花でも、「曼珠沙華」と言えばその梵語由来の異様な音調が華麗な色彩と形象を呼び起こすし、「彼岸花」と書けば幾分地味な印象になる。

 ふた駅分をもどる——終電に乗って寝過ごし、戻る電車はないので歩いている。


【鑑賞】
 

道ほそくなりたる先に変電所ありてシロバナタンポポが咲く (150頁)
「休館」のふだ垂れ下がる前に来てまた引き返す小雨降る道 (184頁)



などと同様に、無意味な道のりに意味を見出だす歌だろう。そして、「彼岸花あかきを見たり」には、夜道の脇にあの世の入口が開いているのをふと見てしまったような、そんな恐さもちょっと感じられる。


(2014.11.29 記)

箸の先に黄身を割りつつすき焼きにときめくという思いを持たず

  『午前3時を過ぎて』135頁



【語注】

 箸の先に黄身を割りつつ——
現にしつつある動作。卵の黄身を少し崩す程度で、完全には溶いてしまわないのだろう。人それぞれの好みがある。 

 すき焼きにときめくという思いを持たず——取り鉢の中で黄身を崩しているときに頭をよぎった感想。


【鑑賞】

 単にときめかないだけなら、それを自覚することもないはずだ。わざわざ「ときめくという思いを持たず」というからには、その自覚を促すような存在——つまり、逆にすき焼きにときめく人——が身近にいるにちがいない。

 なるほど、私なども、すき焼きと耳にするだけで大いに「ときめく」。母が父と結婚するときに実家から持ってきたすき焼き用の鉄鍋があって、私が幼かったころ、週末の夜などによく家族みんなでその鍋を囲んだものだ。そう、すき焼きは家族の記憶とつながっている。湯豆腐やキムチ鍋もわるくないが、子供心にもより贅沢な感じがしたすき焼き。大人になってもときめくわけだ。

 人がそうであることを知っていて、自分はそうではないという。それが「ときめくという思いを持たず」だ。

 黄身を割る動作が、溶く動作に比べて小さく、遅く、静かであること。ひとりひとり取り鉢の中ですることであり、鍋の上ですることではないこと。どちらも、すき焼きにときめかない人の孤独を印象的に浮かび上がらせる効果がある。

 ささやかな感情の波を表す歌としては、「思いを持たず」がややきっぱりと言い切り過ぎていて惜しい。


(2014.11.27 記)

窓ガラスに映るあなたはあなたよりやや年老いて全集を読む

  『午前3時を過ぎて』135頁



【語注】

 窓ガラスに映る——
場面は夜か。

 あなたはあなたより——ガラスに映るあなたは実際のあなたより、の意。だが、「実際の」「現実の」「うつつの」などと言葉に出さないところに妙味があるのだろう。

 全集を読む——知的な読書家が想像される。


【鑑賞】

 実際よりもガラスに映る影の方が真実に近い、ということを示して私たちの素朴な直感を転倒させるのがこの歌の第一の狙いなのだろう。ただし、物語の世界では、鏡に真実が映ることはむしろお約束であるとも言える。

 それより注意したいのは、やはり「窓ガラスに映るあなた」のこちら側を「うつつのあなた」などと表現していないことだ。そのことで、「あなた」と「あなた」の距離は、実際と影の関係以上に遠くなるようだ。あなたのなかにもう一人の別のあなたがいて、日ごろ会うことのないその別のあなたに不意に会ってしまった、という具合に。

 この感覚は「しらかみはしめりをおびて何年ももうあなたではない人と住む」(37頁)などとも共通するところがある。

 また、もう一つ注意したいのは、「全集を読む」という結句。これは、ある特定の時間・場所の光景を具体的・直接的に述べ表すという写実主義の表現にほかならない。この一首の造りはその近代短歌風の骨格の中に、別のあなた、という非合理的なアイデアを注入した形になっている。

 そして、アイデアの披瀝だけで終わらず、この歌のようにした方がおもしろいと感じる読者の私が確かにいる。写実主義は、まだその耐用年数を超過していないということか。


(2014.11.24 記)

狂うことなくなりてより時計への愛着もまた薄れゆきしか

  『午前3時を過ぎて』(2014年)208頁



【語注】

 狂うことなくなりて——
 1970年代から普及したクォーツ時計のことだろう。前田康子は、

 電波時計のことだろうか。誤差を自動修正する機能があり時刻を狂わずに表示してくれる。



と記している(「日々のクオリア」2014年5月12日付)が、電波時計はもっと最近の品物で、歳月の流れを感じさせる「薄れゆきしか」の語感に合わない。

 それに、時計への愛着などは、電波時計の普及以前にすでにほとんど失われていた。かつて、機械式時計が主流だった時代には、置き時計は結婚祝いに贈られ、腕時計は勤続何十年の記念品だった。それがクォーツ時計の時代になり、時は移って、駅前の地下通路の仮設店に一点千円の格安腕時計が並ぶことになった。電池交換に千円かかるので、電池切れのたびに新しい時計を買うようになった。

 薄れゆきしか—— 文末の「か」に詠嘆の意を込めている。


【鑑賞】

 一首のテーマは、進歩することの寂しさ、正確であることの寂しさだろう。もちろん、単に値段の問題だけでもない。機械式はよく進み、よく遅れ、よく止まった。始終ネジを捲かねばならなかった。しかし、手間がかかる分だけ、愛着も湧いたのだった。
 

 この時計と人間の関係が現代のさまざまなことの関係性へも関連して歌が読める……



という前田の鑑賞(同上)に賛成だ。この歌は具体的であると同時に、寓話的でもある。「狂」の字から歌い起こし、「時計」の一語を第三句まで出さないことが、寓話性を高めているようだ。


     §


 『塔』8月号に掲載された拙稿の続きです。


(2014.11.23 記)

 では、1940年は? 「私の中の昭和短歌史」の同年の項(『林間』1977年7月号)には、確かに翌1941年の項と同様に、戦時統制の話も歌集の出版件数増加の話も出てくる。しかし、それは、

 そうした情勢の中にも歌書の出版だけは前年に倍するものがあった。



といった書き方であって、前者と後者を因果関係で結ぶものではない。

 そもそも、茂吉日記の記事は、直接には1941年の歌集出版に関する資料と見るべきだろう。1940年の歌集の出版件数増加の理由を明確に伝えるような資料は、いまだ発見されていないのである。

 (2)で述べたとおり、それぞれの歌集には出版に至ったそれぞれの理由がある、というのが私の基本的な理解である。ただ、それを前提にしていえば、1940年に日中戦争の長期化に対する苛立ちと皇紀二千六百年の高揚感が国の各層に広がって現状打破の一大気運を生み、歌壇にあっては「中堅新人層の擡頭」(木俣修『昭和短歌史』465頁)と呼ばれる現象につながった、とも考えている。『新風十人』刊行も佐美雄・哲久・佐太郎・史らの個人歌集刊行も、一面ではこの現象の一部である。茂吉の久方ぶりの歌集刊行、歌壇の圏外にいた八一の歌集刊行も、あるいは同じ気運の影響と見なすことができるかもしれない。

 1940年の歌集の出版件数増加は、「来年には歌集出版どころでなくなる」などといった消極的な理由によるものではなかったと私は思う。これについて、実証研究の余地はまだ十分にある。同時に、1940年の歌集出版を現代短歌の一つの原点として位置付ける構想も、さらに検討を進める価値があろう。

 そして、もう一つ。1940年の歌集を特別視し過ぎないほうがよい。柴生田稔『春山』が翌年の刊行であったことは、1940年が戦中「自由な内面を表現できるぎりぎり最後の年」でなかったことを証明している。

 

国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
なほいまだナチスの民にまさらむと人は言ひにき幾年前か
戦ひて傷き死ぬのは現実なりこのいきどほり遣らむ方なし


  『春山』より




 一体、「明年ニナレバ事情急迫」の「事情」とは何を指していたのだろうか。現代の私たちは、1941年といえば12月の真珠湾攻撃と日米開戦を想起するが、茂吉が一年以上前にそれらを予想していたはずはない。

 歌壇内では当該の茂吉日記の直前、1940年11月6日に、大日本歌人協会解散という事件が起こっているが、ここからただちに歌集出版を急ぐべきだという認識につながるものだろうか。

 直後の12月に国の情報収集・宣伝活動を担う情報局が設置され、関係機関の日本出版文化協会も発足。翌年7月には出版用紙配給割当規定が施行され、書籍・雑誌を発行する際に日本出版文化協会に企画届を提出して用紙の配給を受けることになった。

 こうした事柄を茂吉が事前に細かく察知していたということはないにしても、言論統制が一層強化されていく雰囲気は感じ取っていたということだろうか。

 1941年前半の言論統制強化が歌壇にどのように影響したかについては、当時商業誌『日本短歌』の発行人として歌人と密接に交流していた木村捨録の回想記「私の中の昭和短歌史」の同年の項(『林間』1977年8月号)が参考になる。やや長くなるが、該当箇所を引こう。

 短歌雑誌を各府県庁の協議で全国二、三十種に統合整理するという話を聞いたのは五月頃である。それより前に演劇、美術、音楽等々の都内誌(東京府内で発行されていた雑誌の意だろう—引用者註)が統合を命じられていたから、いずれ短歌雑誌も免れえないと自覚していたが、当局の方針が明確にわからず内心不安のまま推移した。それがようやく統合方針の軸みたいなものを掴むことが出来た。そして理念が紙材の節約にあるのではなく、近年の結社歌誌が主宰と近親の名誉欲の如きものに偏在している観念を旧体制として是正し、更に自由主義的色彩誌を絶滅するのが指針である点が明瞭となった。そこで流派や中央地方を問わず、歌人の話はこの問題で持ちきりとなり、統合の話が乱闘寸前に及んだのすら見られたようだ。(略)しかし東京府からは未だに通達がなく二、三の歌人を招致して事情を調査したにとどまった。但し、歌集歌書出版用紙の配給統制はすでに六月から実施されていたから、紙材のすべてが漸く窮屈になって来たし、印刷工場も軍需関係の印刷物を優先させた。例えば発行日にしても毎月一日発行とあるものは一日以前の発行を許さず、店頭の陳列また発送も必ず一日厳守を実行せねばならなかった。



 短歌雑誌の統合は当然『アララギ』にも関係することで、茂吉にとって大問題だった。それは5月以前から予想されていたとのことだから、あるいは茂吉日記のいう「事情」のうちに含まれていたのかもしれない。実際、「私の中の昭和短歌史」には、1941年前半の言論統制強化と歌集の出版件数との関わりを示唆する箇所がある。

 そうした気運が出版の氾濫を促したといっては云い過ぎだが、この年における歌集出版は相当活発であった。歌集でいえば、十年も二十年も自重して来たものが戦争で不可能になったら生涯の痛手と考えて幾分焦慮したのも当然だったろう。



 「幾分焦慮した」のが誰なのかは明記されていないが、根拠のない記述ではあるまい。「事情急迫」の認識は、1941年には茂吉以外の歌人にも共有されていたようだ。


(続く)

 ところが、『前川佐美雄』刊行と同じ1993年、別の著作で三枝はすでに次のように述べてもいた。

 高まる時代圧力の中で最後の芸術的な花を咲かせようと考えたのだろう。十五年(昭和15年—引用者註)は昭和史屈指の成果がいくつもあらわれた。佐美雄、哲久、佐藤佐太郎たちによる合同歌集『新風十人』、哲久歌集『桜』、そして『大和』がその成果の代表。

(『新潮』1992年10月臨時増刊号「短歌俳句川柳101年」219頁)



 収録本の発行日はこちらの方が『前川佐美雄』より二十日余り早いが、執筆時期はこちらの方が遅いのではないかと思う。「高まる時代圧力の中で最後の芸術的な花を咲かせようと考えた」とは、1940年の歌集出版について共通の理由を想定しているようにも読める。『前川佐美雄』における控え目で手堅い主張は、ここで早くも、微妙に変化していたのである。

 この変化は、2005年刊行の『昭和短歌の精神史』にも引き継がれた。

 それでは昭和十五年はなぜ名歌集多出の年なのか。この年が自由な内面を表現できるぎりぎり最後の年、歌人たちがそう直感し、危機感を深くしたからである。そう意義づける以外にない質をこの年刊行の歌集は持っていた。

(『昭和短歌の精神史』本阿弥書店、2005年、108頁)



 ここではより明確に、歌集出版の理由の話になっている。元々偶然の出来事と説明されていた歌集の出版時期の集中が、「最後の年、歌人たちがそう直感し、危機感を深くした」ことによる必然の出来事として捉え直されたのである。ただ、それが文学史家による「結果」の解釈に過ぎないこと、筆者自身それをそう意識していたことは、「そう意義づける以外にない」という言葉にかろうじて窺うことができた。

 それが、2010年の論考「明年になれば事情急迫:昭和十五年、歌の光芒をめぐって」になって、決定的に変化する。例の茂吉日記を、三枝はここで初めて引用した。

 昭和十五年はなぜ名歌集多出の年となったのか。斎藤茂吉日記昭和十五年の次の一節は、時代に対する歌人の意識を示す貴重な資料である。

  十一月十八日 月曜 クモリ
 ○山口茂吉君ノ歌集発行イソグコトヲスヽム。明年ニナレバ事情急迫スベケレバナリ

 来年には歌集出版どころではなくなる。昭和に入ってから新歌集を出していなかった茂吉はこの年二冊刊行しており、こうした危機感がこの年の歌集出版ブームを生んだのである。

 (『歌壇』2010年5月号)



 1940年の歌人たちに歌集を出版させた理由は、ついに茂吉日記という「貴重な」証拠を得て、現に存在した共通の「事情」であると主張されることになった。自由な解釈の試みが生真面目な実証に変質したともいえようか。

 その陰でいつの間にか主張されなくなったことがある。1940年の歌集出版を現代短歌の一つの原点として位置付ける構想である。あえて言えば、実証主義が事柄を矮小化して捉え、ある年に起こった特殊な事柄ということにしてしまったのである。

(続く)

 そもそも、三枝の早い時期の著作には、もっと別の見立てが示されていた。1993年刊行の『前川佐美雄』には次のように記されている。

 佐美雄、哲久、史、佐太郎という現代短歌の代表歌人は、自身を代表する歌集を期せずして、昭和十五年に出したことになる。この足並は個々人にとっても、もちろん期せずして、だろう。しかしながらこれだけ重なればそこには、”期せずして”を越える史的契機が生まれてくる。(略)昭和二十三年の宮柊二『小紺珠』、近藤芳美『埃吹く街』も、二つ並べばそこに戦後短歌の出発という気配が確かに立ちのぼる。では、佐美雄や哲久たちの”期せずして”はどのような史的契機として位置付けることができるのだろうか。

  (『前川佐美雄』五柳書院、1993.11、201頁)



 要するに、こうである。宮柊二や近藤芳美がおのおの「戦後短歌の出発」などということを意図して歌集をまとめたのではない。しかし、二人の歌集が偶然同年にそろって出たことで、結果的にそれらを「戦後短歌の出発」と位置付けることが可能になった。同様に、佐美雄らが何らかの共通の事情でもって1940年に歌集をまとめたのではない。しかし、彼らの歌集が偶然同年に出そろったことで、結果的にそれらを一つの「史的契機」として位置付けることができるだろう——。

 現在の三枝説はそこに何らかの共通の事情を見ようとするものであるから、それとの違いは明らかである。

 このときの三枝は、1940年の佐美雄らの歌集にどんな「史的契機」を見ようとしていたのか。同書において、三枝は『新風十人』を現代短歌の出発点として評価する菱川善夫「現代短歌史論序説」(『現代短歌:美と思想』)を引用し、次のように述べている。

 時代の危機が個人と詩を追いつめた時に、すぐれた歌人たちの歌にあらわれた象徴的美の表現、人間の危機と詩の危機の重なりの中から生まれた危機美学の成立、これこそ現代短歌の出発点に据えるべきものである、と菱川は主張している。菱川のこうした観点からは、佐太郎の本質は、〈茂吉——佐太郎〉という師弟の系譜の方にではなく、〈哲久・佐美雄・佐太郎〉という同時性の方にあるということになる。
 (略)短歌史の問題としての近代と現代の境界は、前衛短歌説を中心に据えながらも、それを『新風十人』説で補強する観点、そういったアウトラインを私は大切にしたいと思う。



 つまり、1940年の佐美雄らの歌集出版を現代短歌の一つの原点として位置付けようというわけである。

 その位置付けの根拠となる「危機美学の成立」は、ここではあくまで作品内部の出来事として捉えられている。そして、1940年に歌集の出版時期が重なったことは偶然ではあるものの、それらの歌集の傾向が共通することから、その共通性を象徴する出来事と見なし得る、というのだろう。

(続く)

 昭和十五年は名歌集多出の年である——と三枝昂之「分水嶺としての昭和十五年」(『歌壇』11月号)は言う。三枝が挙げるのは、次の歌集である。

  会津八一『鹿鳴集』・筏井嘉一『荒栲』
  川田 順『鷲』  ・北原白秋『黒檜』
  斎藤 史『魚歌』 ・斎藤茂吉『寒雲』
  佐藤佐太郎『歩道』・坪野哲久『桜』
  土岐善麿『六月』 ・前川佐美雄『大和』
  『渡辺直己歌集』 ・合同歌集『新風十人』

 確かに有名な歌集が並んでいる。なぜこの年に有名歌集が集中しているのか、という疑問が出てくるのも当然かもしれない。三枝がその「理由を教えている」資料として引くのは、同年11月18日付の茂吉日記の次のような記述である。

 山口茂吉君ノ歌集発行イソグコトヲスヽム。明年ニナレバ事情急迫スベケレバナリ



 山口茂吉『赤土』刊行は翌年1月1日。そして、同じアララギの有力歌人で山口と同世代、つまり当時四十前後であった鹿児島寿蔵・吉田正俊・堀内通孝・柴生田稔の第一歌集も同年に刊行されている。なるほど、歌集出版を急ぐべき何らかの事情があったように見える。「急迫」の語感から、時局に関係する事情のようにも思われる。そして、茂吉はそれをよく理解していたらしい。

 しかし、三枝が挙げた1940年の歌集は、本当に同じ共通の事情から急ぎ出版されたものなのだろうか。私には、実はどうも納得し切れないところがある。

 第一に、事情とは何なのか。三枝は具体的な説明を何もしていない。

 第二に、上に挙がった1940年の歌集中、急迫する事情なるものとは関わりなしに企画・出版されたと判断できるものが複数ある。『鹿鳴集』は八一の還暦に合わせて企画されたものとされているし、『六月』出版は善麿の退職の記念であることがその後記に記されている。『渡辺直己歌集』は前年八月に戦死した著者の遺歌集である。

 その他の歌集出版の事情については不勉強でよく知らない。ただ、注意しておきたいのは、『新風十人』はもちろん、『寒雲』も『黒檜』も『魚歌』も『大和』も商業出版だろうということだ。そこに共通の出版事情があったと考えるのは難しいのではないか。

(続く)

 『歌壇』11月号を読んで、もう一つ驚いたこと。この号の特集は「圧力の時代、昭和十年代の歌を読む」で、その巻頭に総論と銘打って三枝昂之「分水嶺としての昭和十五年」を掲載しているのだが、ほぼ全編にわたって同じ著者の発表済みの著作、

・『昭和短歌の精神史』
 (本阿弥書店、2005年)第一部6

・「明年になれば事情急迫:昭和十五年、歌の光芒をめぐって」
 (『歌壇』2010年5月)

から切り貼り(いわゆるコピペ)した文章なのである。雑誌を買って読む読者としては、いささか損をした気分。

 もっとも、同じ筆者が同じテーマで違う文章を書くのは簡単ではない。そもそも、違う文章を書いたら、前の文章は何なのかという話にもなる。この特集の総論は、例えば黒瀬珂瀾さんなどに依頼すれば新しい切り口のものになっただろうと思う。

 今号全体は充実していておもしろかった。こういう硬派な特集が好きだ。田中綾さんとか松村さんとか、自分の信頼している人たちが執筆陣に名を連ねているのもうれしい。


     §


 すみません、標記の件までたどりつきませんでした。次回にします。


(2014.11.3 記)

 ついでにもう一言。二・二六事件を題材にした「濁流」について、篠さんは

  『日本短歌』1937年1月号

を初出と見做しているが、私の調査では、これは初出ではない。それより早い、

  『現代代表女流年刊歌集』第二輯(1936年12月)

に「濁流」と題する歌篇が掲載されていることを、私はすでに報告している(共著『殺しの短歌史』水声社、2010年)。篠さん、読んでくださっていないのですね。


     §


 斎藤史の父で陸軍の第十一旅団長だった瀏は、済南事件の後、予備役に編入された。このことについて、篠さんが「不運な扱いを受ける」と記しているのが印象的だ。篠さんの今回の文章は全体的に史に寄り添うような書き方になっているが、ここに限っては、自身の政治信条と歴史認識から「不当な扱い」とは書けなかったのだろう。


(2014.11.2 記)

 その七で取り上げた篠弘「戦争と歌人たち」(13:斎藤史と抽象技法1)について、ひとつ失望したことがある。それは、篠さんが先行研究に敬意と注意を払っていないことだ。

 昭和二年の十八歳の時に、父瀏が出詠をしていた「心の花」に作品を発表する……



という記述は『斎藤史全歌集』(大和書房、1977年)所収の年譜に拠っているが、この典拠の記載が本文中のどこにもない。年譜も研究者による研究成果なのだから、記載すべきだと思う。

 さらにこの年譜の記事の内容は、実はその後の研究によって否定されている。上の引用文は、旧説の方に拠っているのである。

 その研究というのは、佐佐木幸綱「『魚歌』に到る二年」(『現代短歌雁』15号、1990年7月)のことである。佐佐木論文は、次のように報告している。

 私は、とある一日、昭和二年の作に出会えるかと思って、「心の花」のバック・ナンバーを繰ってみた。毎号百ページを越しており、年間千百数ページにもなるので、もしかしたら見落としがあるかもしれないが、昭和二年の「心の花」には、斎藤史作品を見つけることができなかった。ついでに見た三、四年にも見つからなかった。
 斎藤史の名前が「心の花」に見え、作品が見えるのは、昭和五年からである。



 私は報告の正否を確認するため、1927(昭和2)年から1929年に至る『心の花』の全ての号、全ての頁を見た。斎藤史の名はこの間、確かに一度も掲載されていなかった。この事実を報告したことは、佐佐木論文の大きな功績というべきだろう。

 ところが、1927年の『心の花』に作品発表との記載は、佐佐木論文と同じ『現代短歌雁』15号掲載の年譜にも残り、なんと『原型』斎藤史追悼号(2003年4月)掲載の年譜にまで引き継がれている。だから、篠さん一人がいい加減なわけではもちろんない。

 ただ、篠さんが短歌史研究の権威であるから、私は失望するのだ。


(2014.11.1 記)

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Author:和爾猫
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