最新の頁   »  2014年09月22日
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 松村さんから教えられた大辻隆弘と吉川宏志の論争を青磁社のサイトで読んだ。同社刊行の単行本『対峙と対話』に収録されているようだが、そちらは未見。いずれ購入したい。

 論争のテーマは吉川の一首、
 

旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月でる



の「行けるなり」という表現の是非である。口語調の「行ける」に文語の助動詞「なり」が付いているわけだが、これについて大辻は、
 

 グロテスク以外の何ものでもない。



という。理由は「口語と文語の無秩序な混交」である。大辻によれば、
 
 

「行けるなり」は1文節の語句である。その1文節の語句のなかに口語文法に支配された「行ける」という可能動詞と、文語助動詞が、シンタックスを無視して接続されているアナーキーな状態。思えば、そのアナーキーな状態を私は「グロテスク」という語句で表現しようとしたのだった。



 これに対して、吉川の主張は次のとおり。
 

 作者としても、壊れたような奇妙な感覚を生み出すことが狙いだった。上句のやけっぱちな気分は、「行けるなり」という型破りな言い方でしか表現できないものだったのだ。だから、下句もまがまがしいイメージで作っている。



 「グロテスク」で「アナーキー」という大辻説に吉川も反対はしていない。ただ、「壊れたような奇妙な感覚を生み出す」ためにあえてそのような表現を用いたというのである。

 双方の主張がよく噛み合っていて、意味のある論争だと思う。しかし、私はどちらにも説得はされなかった。前の記事にも書いたが、「なり」は今日の小学生でも理解できる言い回しであって、口語調とも容易に馴染むような気がする。だから、「行けるなり」をグロテスクともアナーキーとも思えないのだ。これがもし「行けるならむ」であったなら、文句なしにアナーキーだが。

 こういうことは、個人個人の感じ方なのだろうか。大辻は「行けるなり」の「なり」について、

 「口語脈をきりっと引き締めている」などとは、到底思えないはずだ。



というのだが、この「口語脈をきりっと引き締めている」は案外当たっていると、私などは思ってしまう。

 「行けるなり」は吉川の意図とは逆に、文語風味の語句として、「やけっぱちな気分」を抑制して伝えているのではないか。つまり、対象にベッタリと張り付くのでなく、一歩下がった位置から余裕をもって対象を表現しているのではないか。その余裕がむしろ読者の共感を誘うのではないか——というのが私の感想。

 口語調の「行ける」と文語調の「なり」の接続をどう評価するか。結局はそこである。


(2014.9.21 記)

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Author:和爾猫
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