最新の頁   »  2014年09月
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 前の記事の補足。

 あっかんべいをするということは、道連れにはしないということ。



 「漾々」は、心の漂うさまを言うか。
 

赤い傘さしてうつむきゆくをんな新宿十二社春の雨降る



 「十二社」はジュウニソウ。「三業地として知られた」という作者の注が付く。文語調の一首なのだから「赤い傘」は「赤き傘」でもよさそうなものだが、歌謡曲風、はたまた荒木経惟の私写真風の軽みを出そうとしたか。雨の向こうに歓楽街の灯が見えるようだ。赤い傘の女もまた幻かもしれない。
 

三婆の黄、桃、みどりのパラソルが伊勢丹本店にのみこまれゆく



 デパートと聞くと不景気を連想する今日でも、伊勢丹だけは何か特別高級な感じがする。「三婆」には侮蔑的な響きがあるが、この場合はまあ許されるだろう。作者も、読者である私ももう少し下流の庶民なのだから。
 

紀伊国屋書店二階に若きらの歌集三冊けふこそは買ふ



 前に迷って結局買わなかったことがあるから、「けふこそは」となる。作者の注によれば、この三冊は木下龍也『つむじ風、ここにあります』と堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』、そしてごっさんの歌集だ。ごっさん、やったね。
 

母に抱かれ背後をみてゐる他所の児にあつかんべいをしてわれは去る



 あっかんべいは拒否のしぐさ。ここでは、赤子の未来を祝福する「われ」なりの表現だろう。


(2014.9.28 記)

 松村さんから教えられた大辻隆弘と吉川宏志の論争を青磁社のサイトで読んだ。同社刊行の単行本『対峙と対話』に収録されているようだが、そちらは未見。いずれ購入したい。

 論争のテーマは吉川の一首、
 

旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月でる



の「行けるなり」という表現の是非である。口語調の「行ける」に文語の助動詞「なり」が付いているわけだが、これについて大辻は、
 

 グロテスク以外の何ものでもない。



という。理由は「口語と文語の無秩序な混交」である。大辻によれば、
 
 

「行けるなり」は1文節の語句である。その1文節の語句のなかに口語文法に支配された「行ける」という可能動詞と、文語助動詞が、シンタックスを無視して接続されているアナーキーな状態。思えば、そのアナーキーな状態を私は「グロテスク」という語句で表現しようとしたのだった。



 これに対して、吉川の主張は次のとおり。
 

 作者としても、壊れたような奇妙な感覚を生み出すことが狙いだった。上句のやけっぱちな気分は、「行けるなり」という型破りな言い方でしか表現できないものだったのだ。だから、下句もまがまがしいイメージで作っている。



 「グロテスク」で「アナーキー」という大辻説に吉川も反対はしていない。ただ、「壊れたような奇妙な感覚を生み出す」ためにあえてそのような表現を用いたというのである。

 双方の主張がよく噛み合っていて、意味のある論争だと思う。しかし、私はどちらにも説得はされなかった。前の記事にも書いたが、「なり」は今日の小学生でも理解できる言い回しであって、口語調とも容易に馴染むような気がする。だから、「行けるなり」をグロテスクともアナーキーとも思えないのだ。これがもし「行けるならむ」であったなら、文句なしにアナーキーだが。

 こういうことは、個人個人の感じ方なのだろうか。大辻は「行けるなり」の「なり」について、

 「口語脈をきりっと引き締めている」などとは、到底思えないはずだ。



というのだが、この「口語脈をきりっと引き締めている」は案外当たっていると、私などは思ってしまう。

 「行けるなり」は吉川の意図とは逆に、文語風味の語句として、「やけっぱちな気分」を抑制して伝えているのではないか。つまり、対象にベッタリと張り付くのでなく、一歩下がった位置から余裕をもって対象を表現しているのではないか。その余裕がむしろ読者の共感を誘うのではないか——というのが私の感想。

 口語調の「行ける」と文語調の「なり」の接続をどう評価するか。結局はそこである。


(2014.9.21 記)


 吉川宏志インタビューについて、続き。

 歌一首の中に文語調と口語調が混在するのが私は好きではないのだが、今日では有名歌人の作にもそういうものがある。そのことについてたまたま少し考えていたところだったので、吉川さんが
 

 文語と口語が混じるのもね、自分ではそんなに嫌いではないんですよね。



と発言しているところに興味を引かれた。しかし、残念ながら、それに続く会話はうまく噛み合っていない感じだ。
 

荻原 吉川さんの歌では、〈旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る〉(『海雨』)なんかもよく引かれますよね。
吉川 そうだね。それに、文語だけだとちょっと嘘っぽくなるときにふっと口語が入っちゃうというか、それはわりに自然なことなので、そういうのは大事にしたい。



 「旅なんて」の一首には、

  ・なんて
  ・死んで
  ・でも
  ・行ける
  ・赤い
  ・出る

という口語調の言い回しと

  ・なり

という文語調の助動詞が混在しているわけだが、「なり」は現代の小学生でも理解できる語で、口語調ともよく馴染む。だから、例歌としてこれを挙げるのは、今一つおもしろくない。

 一方、それに対する吉川さんの回答もずれている。この一首の基調は、明らかに口語調。したがって問題は、なぜそこにわざわざ「なり」という文語調を入れなければならないのか、口語調だけではいけないのか、ということだろう。「文語だけだとちょっと嘘っぽくなるときにふっと口語が入っちゃう」という発言は、引用歌の説明にはなっていない。


(2014.9.14 記)

 今号の特集は吉川宏志インタビュー「見えないものを見つめるために」。吉川さんは来年から塔短歌会の主宰になるそうだが、その歌との出会いから現在の問題意識まで、一人の歌人の全体が浮かび上がるような構成で、おもしろく読んだ。
 

吉川 ……他の人が使えない言葉遣いをしているということによって、そこに一人の人間に対する信頼性とか存在感が生じてきて、そこに歌われていることが真実なんだろうと思わせる。そういうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。
荻原 つまり、誰もが言うような言い方でその対象について詠むのではなくて、その人独自の何かがあるときに、これは本当だというふうに人間は思うものなんですね。



 個性的な修辞が「真実」を保証するということだろう。吉川さんは「全く理解できないというものではたぶんリアリティを感じない」「共感性と意外性が混じったときに、やっぱりリアリティを感じる」とも語り、バランスを取っているものの、主眼は「意外性」の方にある。明治の新派歌人は個性を重視したが、その態度自体は現代でもまだ通用するようだ。
 

吉川 永井祐さんが以前書いていたと思うんだけど、やっぱりいまの若い人たちには修辞を使うことにすごく恥ずかしさがあると。つまり、レトリックを使うことが人工的だということをとても意識しているんじゃないですかね。きっと突出した表現はすごく作り物的だからよくないというふうな考え方があるんだろうな。



 「いまの若い人たち」の感覚が吉川さんの見立ての通りだとして、その修辞の否定は個性の否定にまで突き抜けるだろうか。突き抜けるのでなければ、それは結局様々な意匠の一つにとどまるだろう。もし突き抜けるなら、鉄幹・子規以来の大変革だ。


(2014.9.12 記)

春風を受けつつゆるき坂道を跳ねのぼりゆくぎんの空き缶

   松村正直



 一瞬「ん?」となった後、「お!」。ただ音が聞こえているだけではない。「ぎんの空き缶」とあるからには、もちろん見えているのだ。何がって、空き缶を蹴りながら坂道を登ってゆく少年の姿が、さ。


(2014.9.10 記)

父の日も母の日も無いあの頃は父の座があり母の座があり

  阪上民江



 『塔』に載るこの人の歌を、毎号楽しみにしている。今号では上の一首が印象に残った。時代認識の裏に回想の気分を潜ませる一首だが、何よりそのテーマを支える口語調のレトリックが手堅い。日と座の字の入れ替えだけでなく、「も」と「が」の響きの差、一回だけの「無い」に対して二回繰り返す「あり」。それらがいずれも軽薄な現代と重厚な過去の対照を強調する。


(2014.9.8 記)

ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930