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 斎藤史「歌集『シネマ』」が引く歌の二首目は、次の歌だ。
 

嬰児(みどりご)のわれは追ひつかぬ狼におひかけられる夢ばかり見き

  石川信雄『シネマ』



 石川信夫「斎藤史:人と作品」(『短歌』1959年8月号。原本はタイトルを「斉」と誤植)によれば、『短歌作品』1巻3号初出の歌である。

 一首のテーマは、「われ」の探究。「東京の都市文化や風俗を担う語」を「きらめくイルミネーションのごとく撒きちらしている」(島田修三「新しい都市文化と短歌」、『昭和短歌の再検討』砂子屋書房、2001年7月)などと評される『シネマ』の、これは別の一面である。

 「追ひつかぬ狼におひかけられる」は永遠に狼に追われ続けるといった意味に取れるが、それにしてもいささか表現の仕方がねじれている。しかし、このねじれこそが悪夢の恐怖に迫真性を与えるのだろう。

 さて、この歌に示唆を受けたとおぼしき作が『魚歌』にある。
 

アクロバテイクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

  斎藤史『魚歌』



 初出は『短歌作品』2巻2号(1932年2月)。石川信雄「斎藤史:人と作品」も、この史の歌の「夢ばかり見き」について、「どうも聞いたような語句だと思って調べて見たら」自分の歌に先蹤があった、と記している。

 ただ、こちらは「われ」の夢ではない。代わりに登場するのは「アクロバテイクの踊り子」。西欧風の風俗に取材している点は、石川の一首よりもモダニズムらしい。「白い蛭」という気色の悪い味付けはあるものの、「われ」は消去され、目立った表現のねじれもないので、印象はかろやかだ。

 石川の歌は、嬰児時代の回想という設定で過去の助動詞「き」を使用する。対して、史の歌の方には、過去の助動詞で歌い納める必然性がない。石川の歌を史なりに咀嚼して新たな一首を作ったが、やや消化不足の感もある。

 斎藤史「歌集『シネマ』」が「ポオリイ」「嬰児」の二首に付したコメントは次のとおり。
 

 これらの歌を読んで、あはあはと笑つた人が居た。なんとも変てこだ、と云ふのである。かういふ歌といふのは無い。と云ふのである。たしかに、今迄はなかつた。だがその人だつて、ほんたうに若くてしなやかな、純粋なくせに複雑な、併も野放しな感覚の、或る一時代は持つたであらうから——結局、おしまひまですつかり、この歌集を読むことになつたのであつた。



 「若くてしなやかな、純粋なくせに複雑な、併も野放しな感覚」というところに、史が石川信雄の歌をどう理解していたかということが表れている。そして、この感覚をみずからのものにしようと試みたのが「アクロバテイクの踊り子」の歌ということになろう。


(2014.8.18 記)

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 『短歌』7月号掲載の今井恵子さんの時評「地方からの目」には、いまひとつ納得できなかった。今井さんは「石川信夫論という課題を掲げて文献をあさり、調査考察し、評論を書いて実績を積んでゆこうという姿勢」を批判的に捉える一方、「地縁による親和性や、歌業への曇りないリスペクト」をもとにしたアプローチを肯定している。そして、その上で次のように記す。

 今わたしは、モダニズム運動に触れて、「前川佐美雄らとともに」と書いた。それは前川佐美雄の名前が、モダニズムを語るとき、欠かすことの出来ない歌人として第一に挙げられる名前であるからだ。その時すでに、わたしの中には、前川佐美雄→石川信夫という既成の語り口が用意されている。



 要するに「前川佐美雄→石川信夫」と「石川信夫→前川佐美雄」の両方の視点が必要だという、それ自体はごくまっとうな意見である。しかし、なぜこの意見を通すのに文献の調査・考察という研究手法を批判しなければならないのだろう。

 初期の『日本歌人』は国立国会図書館や各地の文学館が所蔵しているので一応誰でも閲覧できる資料だが、それらに少しでも目を通せばすぐに分かる。前川佐美雄・田島とう子・松本良三・早野二郎・斎藤史といった面々が集うなかで、石川信雄の存在感は格別だ。

 つまり、「前川佐美雄→石川信夫」という視点の偏りを避けるためには、資料を見るのが有効なのだ。「地縁」などという特権がなくても少しもかまわない、と私は思う。


(2014.8.17 記)

 斎藤史「歌集『シネマ』」が真っ先に引いているのは、次の歌である。
 

ポオリイのはじめてのてがみは夏のころ今日はあついわと書き出されあり

  『シネマ』



 この歌の初出は私は未見だが、おそらく1931(昭和6)年の『短歌作品』1巻3号。「ポオリイ」という西欧風の人名はアララギ式リアリズムへの軽いジャブにすぎない。それよりも当時、まだ珍しく衝撃的だっただろうと思われるのは、「今日はあついわ」という若い女性の話し言葉が短歌定型のなかに入り込み、見事に収まっていることだ。

 その話し言葉の内容にとくに重要な意味はない。ただ「暑中お見舞い」とも「盛夏の候」とも違う、その表現が女の風貌や気質——相手に初めて出す手紙なのに作法にこだわらないモダンガール——を想像させる。つまり、そういう言葉遣い自体に意味があるのだ。

 そのことに史は当然気付いたはずだ。『魚歌』には次のような歌がある。
 

飾られるシヨウ・ウインドウの花花はどうせ消えちやうパステルで描く



 こちらの初出は『短歌作品』2巻2号(1932年2月)。これ以前の史の歌に若者風の話し言葉が全然見られなかったわけではない。しかし、「どうせ消えちやう」といった言い回しを歌に取り込もうとしたとき、石川信雄の「今日はあついわ」は史にとって頼もしい味方であったことだろう。


(2014.8.14 記)

 1937(昭和12)年の『日本歌人』9月号は、前年12月に出版された石川信雄歌集『シネマ』の批評号。『短歌作品』以来の仲間である斎藤史も文章を寄せている。石川信雄研究においても斎藤史研究においても、従来あまり引用されていないようなので、内容を少し紹介しよう。
 

「『シネマ』どうです?」
と前川氏が云つた。
「えゝ」うなづいて、さてその歌については何も云ふ必要もなかつた。全く、どの頁を開いても、覚えのある知つた作品ばかりだつたから。といふのは、石川氏がそれを発表された時、私がいかに懸命にそれを読んだかと云ふ事でもあり、又彼の歌が、どんなに独自の美しさで私をとらへたか、といふことでもあつた。
 それで、私は云つた。
「あの御本、開けるときたのしいのね。一枚に数字づゝしかない頁が、ぱらぱらと出て来て。まるで字幕(タイトル)ぢやないの」

  (斎藤史「歌集『シネマ』」)



 史が若き日にいかに石川信雄の歌に惹かれていたか。そのことがはっきりと告白されているという意味で、貴重な資料だろう。

 『シネマ』は一ページ二首組みで、本文の頁数は八十頁余り。余白が多く、頁数も少ない。それを「字幕」、とはうまいことを言う。これはもちろんサイレント映画の中間字幕のこと。石川信雄も斎藤史も、熱心に観ていたのはトーキー以前の映画だった。


(2014.8.13 記)

 グリーン車アテンダントは夏草のほほゑみをうかべわれに近づく

   小池光(『短歌』2013年9月号)



 おもむろに近付いてくるその人の微笑みが、何かひどく怖い一首ではないか。

 グリーン車はJRの優等車両。「アテンダント」は、
 

 東日本旅客鉄道(JR東日本)の普通列車・特急列車のグリーン車に乗務する客室乗務員。JRではなく日本レストランエンタプライズの従業員である。

  (ウィキペディア「グリーンアテンダント」の項)



とのこと。このアテンダントの大半が女性だから、掲出歌でも女性アテンダントを想像してよいだろう。

 そのアテンダントが「夏草」のような微笑みを浮かべて、乗客たる「われ」に近付く。夏草のような微笑みとは? グリーン車の「緑」が夏草の語を引き出すのだろうが、それにしてもアテンダントさんは微笑みにどんな意味を含ませたのだろう。夏草のイメージは、濃厚・盛ん・たくさん・生命力・太陽・暑い・ギラギラ……。

 アテンダントの一般的なイメージ——優雅?——よりも、それはもっとずっと強烈なもののようだ。しかし、アテンダントさん本人としては、ただ職業的に訓練されたとおりの表情を作っていただけかもしれない。そのイメージは、むしろそれを受け取る「われ」の感情が反映したものだったかもしれない。

 列車は宇都宮線や常磐線あたりの普通列車か。「われ」はグリーン券を購入した客ではなく、乗るつもりのなかったグリーン車に何かの拍子に飛び乗ってしまった客、と私は見る。プラットホームの一番乗りやすい位置にグリーン車が停まっているというのは、よくあることだ。怖いけど、可笑しい。

 誤解だったらごめんなさい、小池さん。


(2014.8.12 記)

 松村さんから教えられた忍足ユミ「石川信雄の偉業:ジャン・コクトーに導かれて」(『短歌往来』2013年9月号)をようやく入手して読んだ。忍足氏はこの論考のなかで、斎藤史『魚歌』の一首、
 

春を断(き)る白い弾道に飛び乗つて手など降つたがつひにかへらぬ



の「下敷き」として石川信雄『シネマ』の一首、
 

プリマスが流して来れば飛び乗つてもう何処(どこ)へゆくわれさへ知らぬ



がある——と指摘している。当ブログの7月7日付記事「石川信雄と斎藤史」で同様の指摘を私もしたが、この点については忍足氏にプライオリティーがある。私は氏の論考を引用すべきところをしなかったわけで、おわびしたい。

 もっとも、私は忍足氏の論考以前に前川佐美雄の一首、
 

そのへんで拾うた自動車(くるま)にとびのつてどこへ行くのかもう分らない



との関連も指摘していた(「斎藤史『濁流』論」)。忍足氏の目に留まらなかったようだが、本来なら氏にも拙論を引用してほしかったところだ。

 ここに挙げた石川信雄と前川佐美雄の歌を比べてみると、第三句は前者「飛び乗つて」、後者「とびのつて」。表記の点では、前者が史の歌と一致する。

 他方、第二句からの繋げ方をみると、前者「〜ば飛び乗つて」に対して後者「〜にとびのつて」。こちらは、後者が史の歌と同じ形である。

 史の一首に直接影響を与えたのが石川信雄なのか前川佐美雄なのかは直ちには判断しがたい、と私は思う。


(2014.8.12 記)

 本書の項目に採られている塔の会員を見てゆくと、生年が早いのは、

  福森葉子(202頁)——1908(明治41)年
  早川 亮(185頁)——1910(明治43)年

といった人たちである。斎藤史や佐藤佐太郎が1909年生まれで同世代に当たる。もちろん項目に採られていない会員でもっと早い生まれの人がいるかもしれないが、1913(大正2)年生まれの高安国世より5歳年長といったあたりが塔の会員の大体の上限と考えてよさそうだ。


     §


 本書によれば、1970(昭和45)年刊行の早川亮の歌集のタイトルは『荏苒』。漢検準一級レベルの字にまずとまどう。当時としても古めかしい漢語だったはずで、今日ではこういった漢文風?の歌集名はまず見ない。これに比べれば『黄金分割』や『無限軌道』、『綺羅』など、分かりやすいものだ。こんなところにも言葉の文化の変遷を見て取れるだろうか。

 1907年生まれの井上靖が1975年に出版した小説『北の海』の一場面。舞台は1926(大正15)年の沼津……。
 

「それも書くんですか」
 洪作が言うと、
「黙って書きなさい」
 宇田はまたビールのコップを取り上げた。仕方ないので、洪作は宇田の言う通りに書いた。
「——再三、決意を変更、約束を違え、荏苒日をむなしくして、初夏の渡台が秋気漂う頃となりました」
 ここで宇田は言葉を切って、
「じんぜんという字を知っているか」
「知っています」
「意味は?」
「何も為さないでのびのびに日を送ることです」
「ふむ。そういうことはさすがによく知っているな。——遠山君は知っているか」
「じんぜん、ですか」
 遠山の方は頭をかいて、
「ぜんぜん知らんです」
と、言った。



 
 巻末「塔短歌会年表」の「主要記事」欄が詳細で、まことにありがたい。私は以前、会津八一の関係文献目録をまとめたことがあるが、『塔』1981年5月号に高安国世の講演記録「『あかきくちびる』など:会津八一の歌」が掲載されていることは、この年表を見るまで知らなかった。目録の補遺の部にこれも追加しておかなければ。


     §


 同じ年表の2010年の「主要記事」欄にある、
 

「健吉と赤彦—初期の交わりに見る運命的な出合い」藤原勇次



の「健吉」は当然「憲吉」の誤りだろう。同年の動向欄には、
 

五月 永田和宏『日和』が山本健吉文学賞



とあるが、塔事務所のパソコンがその「健吉」の漢字変換を学習してしまったものか。なお、本編の「中村憲吉の文学風土」の項(174頁)で、藤原氏が2008年に青磁社から『評伝中村憲吉』を出版していることを初めて知った。ぜひ読みたい。


     §


 上記「中村憲吉の文学風土」の一つ前の項「中西泰子」に、
 

 ニューヨークに戦前から住む日系人に、精力的かつ根気よくインタビューを重ね、貴重な活字資料として「母国は遠く」を残したが、残念ながら未完となった。



とあるが、「活字」なのに「未完」とはどういうことだろうか。もしテキストデータになっているという意味なら、なんとかウェブ上で公開できないものだろうか。


 一つの短歌結社がみずからの事典を編纂するというのは、前例のない事業だろう。しかも中身は質・量ともにすばらしい。この結社の過去と現在の人材の豊富さにあらためて驚く。

 坂田博義は名前だけ知っていた歌人だが、本書の「坂田博義」の項を見ると、1961年に24歳で自死の由。また、「『坂田博義歌集』」の項を見ると、十九歳のときの作に、
 

歌よむこと我の唯一の積極にて決意に蒼ざめしこと過去にありしか



の一首があるとのこと。さらに「坂田博義ノート」の項を見ると、永田和宏が『塔』誌上に初めて発表した評論は1967年12月号掲載の「坂田博義ノート」であり、その末尾において
 

 常に「消極的、傍観的」であった坂田の「唯一の積極」として、〈おとめのごと手をふる妻よ今すこし淡々として生きたきものを〉などの相聞歌を引いて……

  (同項より)



いるという。「おとめのごと」は硬派の男性の羞じらいが目に浮かぶような、印象的な一首だと思う。短歌に関するよい評論は、必ずよい歌を引く。これもよい評論なのだろう。

 そしてまた、ここで思い出さずにいられないのは河野裕子『森のやうに獣のやうに』(1972年)の一首、
 

青林檎与へしことを唯一の積極として別れ来にけり



 この歌の「唯一の積極」について、どこか変わった言い回しだとずっと思ってきたが、上記の項を読んで謎が解けた。坂田の歌から永田の評論を経て河野の歌へ、表現の受け渡しがあったのだ。塔の人にとっては常識なのだろうし、どこかにだれかがすでに書いていることだろうが。

 なお、「坂田博義」の項で、没年に「一九六一(昭46)年」とあるのは昭和の年の方が誤記のようだ。


(2014.8.5 記)

 今から三十年前、角川『短歌』1984年10月号は中城ふみ子特集号だった。目次には渡辺淳一・磯田光一・中井英夫・三好行雄・塚本邦雄・大塚陽子・中村苑子・菱川善夫・永井陽子・斎藤史など、今は鬼籍に入っている人たちの名が並んでいる。執筆者に歌人でない人が多いのは歌人一般の場合より中城ふみ子の読者層が幅広いためか、あるいは80年代は今日よりももっと文芸のジャンル間の垣根が低かったのか。

 同号掲載の渡辺淳一のエッセイ「思い出すこと」は短文ながら印象深い内容で、わけても次の一節が注意を引く。
 

 「冬の花火」の出版に当って、銀座の旭屋でサイン会をしたが、そのとき会場に、初老の細面の、少しくたびれた感じの男性が現れた。
 本を差し出され、名前をきいて、それがかつてふみ子をめぐって、恋に燃えた男性と同一同名であることに気がついた。
 「もしや……」とおききすると、まさしくその人自身で、よく見ると若いころの写真の面影がある。



 「ふみ子をめぐって、恋に燃えた男性」で、「小説を書くに当って、探したが会え」なかった……となれば、これは当時消息不明とされていた若月彰以外の男ではあるまい。若月彰はペンネームだが、このペンネームで名のったのか、それとも本名で名のったか。ふみ子をモデルにした小説『冬の花火』の出版は1975年。ふみ子の死から二十年余り、若月はその幻影を追い続けて、渡辺淳一の前にも姿を現したものか。
 

 しかし、センセーショナルな登場をして一世を風靡した存在は、場合によっては一過性のものとして忘れ去られてしまうこともあるのだが、中城の作品は、時代が変わっても色あせることなく、常に新しい読者を得続けている。(東直子「映像的技法による情感の表現」、『短歌研究』8月号)



 この十数年、いや数十年、中城ふみ子研究の大きな流れは、スキャンダラスで「センセーショナル」なイメージからふみ子の歌を救い出し、再評価しようとするものだったといえるだろう。引用した東直子の文章なども、その型を踏んだものだ。ところが、人は若月彰とその著書『乳房よ永遠なれ』についてはこれを置き去りにし、相変わらずスキャンダラスで「センセーショナル」なものと見なすか、あるいは不当にも無視した。たとえば、佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』は、『乳房よ永遠なれ』を手に取って読むことなく、伝聞情報だけを鵜呑みにして「小説」と断定している(同書248頁)。小説、すなわち嘘だというのだ。

 『乳房よ永遠なれ』もまた再評価されるべきだと思う。中城ふみ子研究の重要資料として、である。一頁でも実際に読めば、それが若月にとっての真実を記したドキュメンタリーであること、ふみ子の作品成立の背景をよく伝えるものであること、ふみ子の歌人としての性質に迫るものであることは明白だ。

 昨日は、ふみ子の六十回目の命日。冒頭で触れた角川『短歌』の特集号はふみ子の没後三十年を記念したものだったが、そこからさらに三十年が経ったわけだ。

 
(2014.8.4 記)

 会津八一は八月一日生まれだから八一。ついでに生年は西暦の1881年で覚えやすい、とは八一本人も口にしていたとのこと、吉池進『会津八一伝』だったか、あるいは宮川寅雄の本だったかで読んだ記憶がある。
 

しげりたつかしのこのまのあを空をながるゝくものやむときもなし

  『南京新唱』(1924年)



 八一の歌について、永田和宏『近代秀歌』(岩波新書、2013年)は「この一首といったときの決め手に乏しい」と書いている。なるほど、ここに引いた歌なども、言葉の音のリズムは滞りなく、内容はとくに事件が起こるわけでもない自然の景物の描写で、現代人の好む刺激が足りないかもしれない。ただ、その一見退屈な世界に、微妙に不思議な何かがひそんでいないだろうか。

 下句は「空を見上げると雲が流れていて、しばらくしてからまた見上げるとやはり雲が流れていた」というようなことを述べ表しているわけだが、それを「ながるゝくものやむときもなし」というと、突然そこに「永遠」が立ち現れる。人が死に、草木が枯れ、ただ雲だけが流れ続けるというような。

 八一の歌にはしばしば、このような仕掛けがある。私などは、その魅力に嵌まって熱心に八一の歌集を読んだ口だ。もう一ついえば、八一の歌は音調も内容も古くさいようでいて、どこか近代風のものを含んでいる。上の歌でいえば「かし」がそれで、単に木の間でもよさそうなところを細かく具体的に表現せずにはいられないところが写実主義的であり、近代風だ。

 では、近代風の仕掛けを全開にすればもっとおもしろくなるかというと、必ずしもそうでもないらしい。

 本日は八一の、数えで134回目の誕生日。


(2014.8.1 記)

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Author:和爾猫
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