私は同性として中城さんのいたましい死に素直な同情を寄せるし、その作品の気魄、自信には敬意を表してゐる。併し実のところあれが短歌の——女人歌の新しい在り方の方向とはどうしても思へない。
たしかに中城さんの歌は、赤裸々な女の声と思はれよう。が、実際には演技の殻をつけた裸だ。
今後、女人歌に、中城ふみ子流の作品が流行したらやりきれないと思ふ。
中城さんの歌には、自虐に陶酔した様な面がある。かざりけのない、女性本来の真実といふものとは程遠いのではないか。かうした異常な作品が、若い世代の女人歌の指針となる様であつたら、これは大変なことだ。
女流歌人の多数が精神的ストリツパーになつたら男性の多くは喜ぶかもしれない。しかし私は断じてその流れに捲き込まれまい。晴隴な気品と、ほのぼのとした抒情を失つて、何の女人歌であらうか。
(以上、抜粋)
松田さえこ、すなわち、当時まだ二十代の尾崎左永子。もちろんこの文章は若書きであって、六十年後の尾崎左永子はこんなに率直には書かない。しかし、今度の『短歌研究』に寄せた「月光下の沈黙」の次のような箇所を読むと、結局尾崎さんは中城ふみ子をあまり好きではないのだなと思う。
時事新報記者だった若月彰がふみ子にぞっこんで(略)
ジャーナリスト三人(引用者注—若月・中井・山名康郎)を身辺に配して、ふみ子は自らの終焉を思うままに飾ったといえるのかもしれない。
「ぞっこん」という品のない(?)言い回しからは、軽蔑と若干の嫉妬とが感じ取れる。そして、「ジャーナリスト三人」の一文からは、おおいなる嫉妬が……。
(2014.7.31 記)
中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)
中城ふみ子の代表歌だと私が思っている一首。初出は『短歌研究』1954年4月号の五十首詠応募作品で、そこでは第二句が「あばかれてゆく」だった。
佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』(短歌研究社、2010年)はこの改作について、
メスが「ひらく」のは癌ではなく過去だからだろう。振り返る景色の、夫も、結婚生活も、貴重な体験だったと気づいたふみ子は、汚さ、醜さを意味する「あばかれて」という言葉を葬った。
と解している。『短歌研究』8月号の特集に掲載されている佐方の「歌人中城ふみ子の誕生:中井英夫との往復書簡にみる」における
多分、メスが切るのは「過去」であり、負のイメージの「あばく」を使いたくなかったためだろう。
という記述も、前の著書の記述と同じことを述べたものだろう。中城ふみ子に関する佐方の著作はふみ子の家族・親族が安心して読めるものを書くという姿勢で一貫しており、この歌の解釈もまたその一例と言えそうだ。
しかし、私にはどうも納得しがたい。この歌の「過去」は「闇」と同義であり、生まれることのなかった子どもたちが暗闇の中でいつまでも互いに足をばたつかせているような世界である。これが負のイメージでなくて何なのか。
そのイメージはもちろんみずからの過去のもろもろに対する罪の意識の象徴的な表現に違いないが、同時にそこに快楽のための性愛とその結果としての堕胎に対する罪の意識を見ることはたやすい。佐方は触れようとしないが、小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)がすでにふみ子の書簡(1948年、鴨川寿美子宛)の
赤ちゃんはもう絶体生まない、方法を用ひてるの。
や、日記(1950年1月7日)の
私は五日に抓把した。これ以上子沢山ぢゃやって行けない。
という一節を報告している。実生活での「過去」の一部である。もちろん他人が単純に罪と見なすべきことではないし、当然女一人の責任でもない。現代人の感覚では、それらはむしろ女性の権利だ。しかし、そうだとしても、「貴重な体験だったと気づいたふみ子」などという想像は、一見中城ふみ子を健全な心の持ち主のように捉えるかに見えて、実は浅はかな女としておとしめるものではないか。
「あばかれてゆく」を「ひらかれてゆく」に改めても、「過去」が正のイメージに変わることはない。ただ、この改作によって、過去を振り返る作中主体の態度がより理性的なものに変化する。感情的な人物に、読者はみずからの感情を重ねにくい。理性のある人物こそ、読者に向かって開かれている。そう考えるとき、この一首の改作を肯定することができる。
(2014.7.30 記)
田中は『乳房喪失』と『花の原型』を出版した作品社の社主。そして、中井のパートナーだった。写真は、若き日の中井と田中が並んで写っている。田中は想像していたとおりの美青年だった。
(2014.7.29 記)
中井の札幌滞在は1954年7月29日から8月1日まで。以前の尾崎の発言には、中井がふみ子からの「電報で呼び出されて」ともあり、さすがに初対面の日にそういうことにはならないだろうから、中井が病室に泊まったのは、30日か31日。
今はまことに便利な世の中で、六十年前の月の満ち欠けもウェブ上でたちどころに知ることができる。「こよみのページ」というサイトで調べると、なんと1954年7月30日は新月。この日も、次の日も、実際は闇夜であったわけだ。
おそらくは、暗闇にほのかに浮かんだふみ子の姿が中井の記憶のなかで無意識のうちに美化されて、現実とは異なる「美しい月夜」の話になった。そして、この夜の思い出が中井にとって必ずしも美しいものではなくなった後も、すでに一つの真実として記憶に定着していた月光という舞台装置は、取り外されることなく残ったのだろう。
(2014.7.28 記)
深夜に到って中井はベッドの傍の床に敷物を敷いて横になった。折から、美しい月夜であった。しばらく沈黙がつづいたあと、月光の中でふみ子は身を起こし、ベッドから下りて中井の傍らに身を横たえた。中井が女性に対しては恋愛感情を持たない性癖だったことは周知のことだが、中井自身、この時はちょっと怯んで、「妹だって言ったじゃないか」と改めて言ったそうである。しかしふみ子は沈黙のまま、臆する風もなく隣に身を横たえた。ともに月光に照らされた二人は、黙ったまま、ただ時が過ぎて行った。
同じ話を尾崎はかつて座談会の中で語っていた。
中井英夫から聞いたんだけど、彼女から電報で呼び出されて、病院に行ったら、どうしても泊まっていってくれと言うので、夜、病室のベッドの下に寝ていると、月光のなかで隣に降りてきた……
(『短歌』1992年10月号)
この発言は小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)も引用している。しかし、若干軽々しい印象を与える話し方でもあり、私はもしや尾崎の記憶違いもあるかと疑っていた。今回のエッセイはずっと落ち着いた語り口で、内容もより詳しく、具体的だ。「妹」云々という中井の発言は、ふみ子宛中井書簡の内容と符合する。中井、尾崎ともに嘘を言う理由もない。大筋において、事実を伝えるものとして信頼できる。
もっとも、中井がふみ子の死後もずっとふみ子のことを妹のように思っていたなら、このような話を尾崎に明かすことはなかっただろう。やはり、どこかの時点で中井の心は変わったのだ。
ふみ子の伝記の空白を埋めるピースが一つ見つかったようだ。尾崎のこの文章を掲載したことだけでも、今回の特集は価値がある。
(2014.7.26 記)
いのち凝らし夜ふかき天(あめ)に申せども心の通ふさかひにあらず
および、
天地(あめつち)にただ一つなるねがひさへ口封じられて死なしめにけり
という歌がある。これらについて、雨宮雅子『斎藤史論』(雁書館、1987年)は『魚歌』(1940年)から削除されていて『斎藤史全歌集』(1977年)で復活させたものだとし、次のように書いている。
これはあくまでも想像でしかいえないことだが、前歌はおそらく「天」→「天子」となり、奏上、天に通ぜずと曲解されてしまう危険をはらんでいたためか。また後歌は、「口封じ」という天皇の判決に対する非難はとうてい許されなかったためか。まったくの見当ちがいかもしれない。(35頁)
前の歌の真意はまさしく「奏上、天に通ぜず」だと思われる。「曲解」という言い方は正確でない。また、発行禁止等の処分を恐れてこの二首を『魚歌』に入れなかったと雨宮は推測しているようだが、そうではない可能性もあるだろう。なぜなら、この二首は確かに『魚歌』初版本には収録されていないが、同年刊行の『歴年』や合著歌集『新風十人』にはすでに収録されているからである。雨宮はそのことに気付かなかったようだ。
『魚歌』、『新風十人』、『歴年』はそれぞれ別の出版社から出版されている。上記の二首が『新風十人』と『歴年』に入り『魚歌』には入らなかった理由として一つ考えられるのは、各版元による自主規制の基準の違いだろうか。ただ、もしも『新風十人』が発禁になったら、共著者にまで迷惑がかかる。そちらの方に入れているのだから、史本人は発禁処分の恐れはないと判断していたのではないか。
佐伯裕子が史にインタビューした記録中に、雨宮の本を取り上げたところがある。
佐伯——そうですか。雨宮雅子さんが丁寧な『斎藤史論』をお書きになって、そこで指摘されているんですが、『魚歌』のなかで、当時は入れられなくて、あとになって全集のときに入れた歌が二首あるということですね。
斎藤——覚えていない。
佐伯——「おそろしや言ひたきことも申さずろげにはびこれる夏草の色」は通ったんですね。そして、「いのちこらし夜深き天に申せども心の通ふ境にあらず」のほうは当時はずされていて、たぶん「天」というのが天皇陛下を指しているのではないかというふうに書かれています。
斎藤——そうなんです。日本という国は、あの事件のことで、雲の上にちょっとでもさわったら、全部抹消です。(後略)
『ひたくれなゐに生きて』(1998年)(64頁)
佐伯もまた『新風十人』や『歴年』を見落としているらしいのが不思議だ。いかにも記憶に残りそうな事柄を史が「覚えていない」というのは不自然で、「当時は入れられなくて」といった事情が実際には存在しなかったことを示唆している。私の見立てのとおりとすれば、後の「そうなんです」云々はインタビューアーに誘導された発言ということになる。大事なことを忘れてしまっていたと史は思ったはずで、気の毒なことだ。
(2014.7.20 記)
ただし、例外もある。父と少数の友人に向ける視線は常に温かいのである。二・二六事件で刑死した栗原安秀は、もちろんこの友人のなかに入る。そして、私の見るところでは、石川信雄もそうだ。
手を振つてあの人もこの人もゆくものか我に追ひつけぬ黄なる軍列
『魚歌』1940年
「石川信雄氏を送る」という詞書の付いた一首。非常時の作とはいえ、敬愛の心は紛れもない。
晩年の史を佐伯裕子がインタビューした際、話題が石川に及んだ。
佐伯——私が拝見したところによると、前川さんの系列で、モダニズムといっても、石川信雄さんのほうにつながるのと、斎藤史さんのほうに短歌の血筋が流れていくのと、ちょっと違う気がするんです。
斎藤——そう?
佐伯——私は石川信雄さんの歌はあまり好きになれないんですが、斎藤史さんの歌は好きなんです。なぜ違うのかというと、それは重大な事件の歌があったからとかではなくて、底のほうに前川さんがモダンと一緒に持ちあわせていた日本的なものを、斎藤史さんのほうが石川さんより多く継がれていったように思うんです。
斎藤——石川信雄というのは早稲田の英文なんです。だから、彼ももっと長生きをして歌をつくっていたら、どういうものになったかしら。歌がまだ若いところで終わっちゃっていますよね。本当の血というよりも。
(斎藤史『ひたくれなゐに生きて』河出書房新社、1998年。)
史は話し相手にうまく調子を合わせることのできる人だったようで、佐伯のインタビューに対しても概ねそのようにしている。だから、引用箇所のような応対はちょっと珍しい。石川の歌を「好きになれない」という佐伯に、史はついに同意しなかったのである。
(2014.7.9 記)
斎藤史『魚歌』1940年
二・二六事件を背景にした連作「濁流」のなかにある著名な一首。事件が起こった1936年の作である。拙稿「斎藤史「濁流」論」には、次の歌からの影響を感じさせると書いた。
そのへんで拾うた自動車(くるま)にとびのつてどこへ行くのかもう分らない
前川佐美雄、『短歌作品』2巻3号(1932年3月)
ところが最近、筑摩書房版『現代短歌全集』第七巻を読んでいたところ、これまで自分が見落としていた歌があるのに気が付いた。
プリマスが流して来れば飛び乗つてもう何処(どこ)へゆくわれさへ知らぬ
石川信雄『シネマ』(初刊本は1936年12月)
「プリマス」とは、すでに日本にも輸入されていたクライスラーの大衆車。歌の内容から、タクシーで使用されていたものと見える。

(ウィキペディアより、当時の広告。ウィキ、すばらしい。)
さて調べてみると、こちらの歌の初出は佐美雄の歌より早い『短歌作品』2巻1号(1932年1月)で、歌集との異同は
初出「くれば」→歌集「来れば」
の一字のみ。佐美雄に対して、この年下の同行者が影響を与えていたことは間違いない。しかも、両者を比較すると、石川の一首により多くの魅力があるようだ。佐美雄の一首が単純明快なのに対し、石川の方は下句に若干屈折がある。「もう」の使い方、第四句から第五句にかけて一旦切れるところ、「われは」でなく「われさへ」であるところ、等々。加えて、固有名詞のプリマスが近代文明の香りを演出してもいる。
結局のところ、史の「春を断る」歌に直接影響を与えたのが石川なのか佐美雄なのかは断定できないにしても、元をたどれば石川のこの一首にたどり着くのである。この点、拙論の記述を修正したい。
なお、佐美雄が後に上記の歌を『白鳳』(1941年)に収める際に
そのへんで拾うた自動車(くるま)に飛び乗るもいづく行くはてのある春ならむ
と改め、一首の内容をほとんど正反対に変更してしまったことは同じ拙論で指摘した。いま考えてみると、この大幅な改作は、できるかぎり遠く石川の作から離れるためのものだったかもしれない。歌集から落とせばよさそうなものだが、そうしなかったのは、作者なりの思い入れがあったということだろうか。ともあれ、逆向きの内容になったことで、この歌は石川の作に対する返し歌の趣を含むことになり、歌集に入る資格を得た。
(2014.7.7 記)
しかし、どうだろう。これ、「シシチョウ」と読むのではないか。九九だって、ヨンヨンジュウロクとは言わない。斎藤茂吉の最初期の歌論「短歌に於ける四三調の結句」もシサンチョウと読ませるのだろう。
「四四調」という語の用例として、『岩波現代短歌辞典』は1935年の川田順『利玄と憲吉』の一節を挙げる。これより早い例として大熊信行「利玄調」という文章があって、たしか『日光』か何かに載っていたと思うが、いずれにしても大正末から昭和初期。旧制の「四高」を決してヨンコウとは呼ばないように、当時の「四」はシと読むのが普通だ。
もっとも、現代の研究者や歌人の間ではヨンヨンチョウと読むのが通例になっているのだろうか。そうだとしたら、辞典の項目がそうなるのも仕方ないのかもしれない。
(2014.7.6 記)