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 『塔』6月号掲載の大森の時評は

 いま、男性歌人による妊娠・出産の歌が面白い。



と述べて、パートナーの妊娠・出産に取材した大松達知・黒瀬珂瀾・光森裕樹の歌から不妊治療を「断念する物語」だという山田航の歌までを取り上げている。

 読みながら、なにか心がざわついた。山田の歌も含め、これらはみな未来を信じることができる人々の物語であり、その意味で幸福過ぎる物語である。この時評の筆者は、そのことの特殊性に気付いていないのだと思う。それはおそらく、筆者自身が幸福だからだろう。

 もちろん、私は大松らの歌自体を否定したいわけではない。ことに、ここに引用されている山田の歌は胸を打つものがあった。この時評が山田の歌を教えてくれたことをありがたく思っている。


(2014.6.26 記)

振り向けばみんなの貌があふむきて輝いてゐた いのちの桟敷
はぐれてもどこかで会へる 人混みに結び合ふ指いつかゆるめて



 この歌集の著者は宮城県気仙沼市出身で、いまも同じ県内在住の由。歌集は

  Ⅰ 以前   Ⅱ 以後

の二章から成っている。2011年3月11日以前と以後である。

 掲出歌は Ⅰ の方の「桟敷——大曲花火大会」と題する一連のなかにある。「振り向けば」は人々が一斉に花火を見上げる図、「はぐれても」は花火大会の雑踏中を歩いてゆく図である。どちらもハッとするほど「以後」との対照が著しい。もう戻らないあの日、みんなの命が輝いていた。そして、はぐれてもすぐにまた会えるということを決して疑わなかったのだ。

 この二首は「以前」の作そのままなのだろうか。それとも「以後」の手が入っているのだろうか。前者だとすれば、恐い。「いのちの桟敷」というところが後者の表現だとすれば、これは作意がやや出過ぎたか。


(2014.6.24 記)

 一昨日の記事で触れた石神井書林の目録に、同じく塚本邦雄の『燦花帖』という本が載っている。価格は162,000円で、注記は次のとおり。

 小色紙大の装飾和紙(13.5×12cm)に毛筆にて短歌を記す。全12葉を布装の折帖に貼り込み肉筆歌集としたもの。(略)昭和58年11月に開催された「塚本邦雄筆趣展」に際して極少部数(あるいはこれ一部のみか)作られたもの。



 これを目にするまで忘れていたが、十数年前に同じ題の本を見たことがある。実家を探せば、コピーも残っているだろう。持ち主はいまもその本を手放していないはずで、つまりそれは今回売りに出ている本ではないから、『燦花帖』が「一部のみ」ということはないと思われる。


(2014.6.24 記)

 実は私の手元にも一冊、『感幻楽』著者献呈本がある。葛原妙子に宛てたものである。どこの古書店からであったか忘れてしまったが、数年前に通販で購入した。もしかすると石神井書林だったかもしれない。値段は今回目録に載っている本よりは安いものの、やはり高値だった。

 この本にはヌード写真の貼付など一切ない。見返しにペン書きで「献呈 葛原妙子様  塚本邦雄」とあり、はがきより一回り大きい紙が一枚挟んであって、そこには同じペンで

奥附の重陽節会にぴたりと届くやうに
手配しましたが
    あるひは十日の菊になるやも

 長月七日           邦雄



と書いてある。原文はいわゆる正字である。本書奥付の日付は「昭和四十四年九月九日」で、跋文の日付が三月前の「六月六日」。作り物めいているところが歌の世界とよく通じ合う。ちなみに一つ前の歌集『緑色研究』の発行は「昭和四十年五月五日」、端午節会だった。

 本文頁を繰ると、何首かの歌の頭に葛原が書き入れたらしい丸や点がある。また、著名な一首、

馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ



の「こころ」を赤で囲み、脇に「まで」と書き込んでいる。筆跡は葛原のものと見て間違いない。添削案のようだが、これは良案とはいえないだろう。


(2014.6.23 記)

 数日前に届いた『石神井書林古書目録』93号に『感幻楽』が二冊収載されていて、値段は一冊が 9,720円、もう一冊がなんと64,800円である。後者のほうには、次の注記がある。

 著者はホモセクシャルで知られるが、少数の同好の士に送った『感幻楽』に、男性の裸体写真(3×3cm、生写真)を各章扉などに貼り付けた(20枚)ものがある。本書はその一冊。巻末には著者自身の近影(裸体ではない)が貼られる。また表紙、裏表紙にも裸体写真が貼られている。私家版の趣で作ったもので、一部写真はいわゆる無修正である。



 私家本で、視覚的なアピールポイントがあって、しかも塚本の性的嗜好が窺えそうだということでこの高値になるわけだ。「著者自身の近影」は「裸体ではない」との添え書きが可笑しい。

 「少数の同好の士」とは、中井英夫、三島由紀夫、春日井建……?

 「著者はホモセクシャルで知られる」というが、そんな話は初めて知った。男性愛は作品の上での演技だと私は思っていた。しかし、ホモセクシャル説に何か根拠はあるのだろうか。『感幻楽』には男性美をテーマにした歌が少なからずあり、他の歌集にはたしか「パパと呼ぶなら愛してやらう」という歌もあったが、もちろん歌だけでは根拠にならない。

 目録には写真を貼り付けた表紙の画像も掲載されている。モデルはギリシア彫刻のような美青年で、照明の当たり具合も美しい。「生写真」だとしても、塚本自身が実際に男性モデルを撮影したものでなく、グラビア雑誌の頁等を撮影したものだろう。


(2014.6.22 記)

 道徳の問題に直結する「剽窃」「盗用」といった語を使うのを避けて、比較的穏やかな(?)「無断引用」という語を使ったのだが、この「無断」は「著者」に断らずに、という意味になってしまうか。引用元を明示せずに引用することを表わして、しかも道徳の問題には直結しない語、はないだろうか?

     §

 新聞は研究の場ではない。その道の専門家でない読者にその道のことを分かりやすく伝えるのが新聞の役目の一つだから、文章を煩雑にしないために引用元の記載を省略するという考え方はあってよいと思う。しかし、全国紙に署名入りで意見を載せることがささやかな名誉であるとすると、引用元に敬意を払うことなく自分だけがその名誉を得るのはどうなのか、とも思う。

 18日付の朝日新聞13版に、中村真理子という記者の署名入りで「「こころ」論 時代の空気映す:石原千秋・早大教授が読み解く」という記事が載っていた。記者が石原氏に話を聞いて記事をまとめるという体裁だ。

 夏目漱石『こころ』で、先生から届いた遺書は封筒に入れる便宜から「四つ折」に畳んであったが、この記事には次のようにある。

 石原教授は、『三四郎』などの前期3部作に比べて、『こころ』を含めた後記3部作は視点の揺らぎなどあらが目立つ、と指摘する。そもそも先生の遺書は長すぎて四つ折りにできるとは思えない。



 先生の遺書は『こころ』の「下」全部であるから、確かにそれを四つ折りに畳むことは不可能だろう。しかし、この指摘はこの記事が最初にしたことではもちろんなく、石原氏のオリジナルですらない。

 私は専門家ではないので、この「四つ折り不可能説」を誰が最初に提出したのか知らないが、すぐに目に入るところでは三好行雄「こゝろ」(『鑑賞日本現代文学』5、角川書店、1984年)に同じ指摘がある。三好は、漱石の当初の構想では先生の遺書がもっと短かったと推定し、「四つ折」にその痕跡をみとめたのである。

 当該記事の文責は中村記者にあるが、話の出所は石原氏。記者相手に、先行研究の存在を強調することなく、気楽におしゃべりを楽しんだのだろう。氏の得る名誉はわずかなものにちがいないが、だからといって先学の分まで得てよいことにはならない。


     §


 今年は『こころ』が朝日新聞に連載されてから百年だそうで、朝日新聞は『こころ』を再連載しつつ、漱石関係の記事に力を入れている。同日付の別面に、もう一つ漱石関係の記事がある。「リレーおぴにおん 漱石と私」という連載コラムの第4回で、話し手はサンキュータツオ氏。初めてこの人のことを知ったが、「漫才をやりながら、お笑いの学術的研究もする「学者芸人」」で、一橋大学非常勤講師の由。そして、この記事もまた「聞き手・中村真理子」である。

 さらにすごいのは「草枕」にはプロットがないこと。物語の筋よりいかに良い文を書くかを究めました。唐突に雲雀の描写が始まり、しばらく続く。何これ?って思いますが、漱石は意図してやっている。主人公が本を前にして「開いた所をいい加減に読んでるんです」「それが面白いんです」と言う場面があります。



 プロットという語の使い方はともかく、意見自体はまず穏当なものだと思う。しかし、『草枕』の主人公による読書論がそのまま漱石による『草枕』の読み方論になっているという指摘は、前田愛『文学テクスト入門』(筑摩書房、1988年)にすでにある。サンキュータツオ氏が得る名誉の一部は、やはり先学の分であるはずだ。


(2014.6.21 記)

 A氏が『赤光』の歌について書いた後、B氏がやはり『赤光』の歌について書いたところ、A氏がB氏の論考は自分の論考の無断引用ではないかと指摘し、B氏はA氏の論考が先行論であることを認めた上で、その存在を知らなかったと釈明した——という話を人から聞いた。

 後段はウェブ上でのやり取りらしいので、ちょっと検索してみたが、それらしいものを探し当てることはできなかった。短歌の世界で研究者同士の対話らしい対話を聞いたり読んだりすること自体、あまりない気がするので、無断引用の有無をめぐる対話でも興味を引かれる。A氏もB氏も不本意で不愉快だろうが。


     §


 無断引用のことでは、自分にもにがい経験がある。「斎藤史「濁流」論」という論文で、史が晩年に宮中歌会始の召人になったことについて、権力との「和解」と書いたのだが、この「和解」という表現を岡井隆がすでに使っていたことに後日気が付いた。私は拙論を書く前に、どこかで岡井の言葉を読んでいて、しかもそのことを忘れていたのである。

 私の文章は岡井の言葉を無断引用したことになる。そうならないための作法は簡単で、「岡井隆が述べたように」という文言を付け、その出典を記すだけだ。私はそれをしなかったばかりに、にがい思い出を一つ増やしてしまったわけだ。

 ちなみに、この私の件については、これまで誰からも指摘されたことはない。拙論が人に読まれていないことに救われた感じである。


     §


 無断引用をなぜしてはいけないのか、ということについては論点がいくつかあるだろう。他方、個々の署名は記憶されず、芸や知そのものの集積と展開だけがなされる——そんな世界が存在し得るのかもしれない、と私は夢想することもある。ただ、研究の場では無断引用をしないほうが全体の利益になる、ということは確かなようだ。引用元の記載が知のネットワークの構築に貢献するからだ。

 この点では、創作の場と研究の場とで事情が異なるかもしれない。論文から論文への無断引用はしないほうがよいが、皆が了解すれば、例えば歌から歌への無断引用はしてもよい、となることはあり得る。


(2014.6.18 記)

 表紙カバーの文字の字体がなんとなく変わっている。やや細身に造った「さ」の字がことに美しい。漢字は明朝体の一種にちがいないが、仮名はどこの何という字体なのだろう。


 梶原さい子ーリアス椿
 画像は表紙カバーの一部。



 五年があひだに金を儲けて帰らむと渡り来し教師は多く語らず

   土岐善麿『六月』(1940年)



 松村正直さんが「樺太を訪れた歌人たち」第18回(『短歌往来』6月号)でこの歌を引き、「期限を決めた出稼ぎと割り切って仕事をしている教師」とコメントを付しているのを読んで、教師という職業がよい稼ぎになるものなのかとちょっと不思議に感じたが、考えてみれば樺太は外地扱いだから、公務員には特別に手当てが出たにちがいない。それを目当てに樺太に渡った人の手記などもどこかにあるのだろう。

 漱石の『硝子戸の中』に高校時代の同級生Oとの交流を記した段がある。頭脳明晰で、しかも鷹揚なOの人物像が印象的で、私は折に触れて読み返す。このOも、樺太の中学の校長に赴任してからは案外生活にゆとりがあったのかもしれない。


(2014.6.7 記)

 敬愛する人から『短歌往来』6月号をいただいた。この雑誌は近所の書店にも図書館にも置いていないので、うれしい。

 田中さんの逗子八郎研究、松村さんの連載「樺太を訪れた歌人たち」、森本さんの歌、大森静佳の歌など充実した内容。

 塚本青史の随想「ご」、平仮名一文字のタイトルに興味を引かれて読む。「御挨拶」でなく「ご挨拶」と表記するのは、マスコミが定着させた「愚劣な文字遣い」だという。私自身、手紙などでよく「ご挨拶」を使うので、「愚劣」という表現の強さに驚く。そう見なす理由は何かと読み直してみると、結局
 

 「ご」は訓ではなく音であるから、「御」と表記するのが自然である。



とのことだ。非難の言葉が激しい割に、根拠はおとなしいので拍子抜けする。

 氏の文章を私は初めて読んだが、文字遣いなど父君よりもむしろ凝っているようだ。
 

 ・……をもって(よし)とする……
 ・莫迦馬鹿しくも……
 ・不断、政府の方針にも真正面から是非を挑むマスコミが……
 ・為体(ていたらく)



等々。「莫迦」と「馬鹿」の使い分けの仕方など、不勉強な私には見当も付かない。

 もっとも、テイタラクは元々形容動詞に由来するのだろうから、氏の音訓表記の原則からすれば、むしろ「体たらく」ではないか。私自身は、別にどちらでもよいと思うが。
 

 「ご存じ」のような用例は、残念ながらプロにも浸透している。/マスコミのミスリードは、遂にここまで来ているのだ。



 こう自信たっぷりに書かれると、つい信じてしまいそうになるが、仮に「ご存じ」が「愚劣な表記」であるとして、では愚劣でない表記は? 私には皆目分からないのだ。御存じ? 御存知? 音訓の表記の話なら、取り立てて言うほどのことでもない。また、字音語「存知」と「存ず」の名詞形「存じ」の比較なら、それは簡単に決着の付く問題ではないはずだ。

 いずれにしても、理由や根拠を明示しないことによって自説の優位を確保しようとするのは、趣味の悪い弁論術だと思う。



(2014.6.1 記)

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Author:和爾猫
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