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 中井の死が報じられたのが1993年。その翌年か翌々年のことだったと記憶している。『短歌研究』編集者時代の中井を直接知る人からたまたま当時の話を聞く機会があった。若月彰が中城ふみ子の評伝『乳房よ永遠なれ』(1955年)を書いたことに中井が激怒し、以後若月は中井の編集する商業誌に寄稿できなくなり、やがて歌壇人の前から姿を消したという。

 実際、私がその話を聞いたころまでずっと、若月は「消息不明」ということになっていた。だから、同じころ、小川太郎『ドキュメント・中城ふみ子:聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年8月)が若月へのインタビューに成功し、近影とともに報告したことは大きな功績だったのである。

 ただ、若月の失踪が事実であったことはよいとしても、その原因についてはなお検証の必要がありそうだ。中井自身が書いたものを読むと、若月とは別の話で対立することがあったようだ。

 若月彰だけがようやく中城を一人の作家として語り合える仲間の筈だったが、続いて十一月号の、第二回の五十首募集の特選に私が寺山修司を推し、若月がこんな俳句の焼き直しをする奴に中城を継ぐ資格はないといって排撃して廻るという事態を生じてから、急速に遠ざかることになり、折角の労作『乳房よ永遠なれ』も、私にはしらじらと醒めた眼でしか捉え得ないものとなった。(『底本中城ふみ子歌集』跋、1976年)

 本来ならそこで特選を取り消し、不明を謝して辞任してもよかったのだが、模倣攻撃の急先鋒が若月彰と知ると考えが変わった。(略)それこそ中城ふみ子が体当たりでひらいた道なのだから、そこに続こうとする才能豊かな十八歳の少年を君がこづき廻すのは、中城の仕事も無駄にすることになるだろうと、若月彰と私は何遍か議論したのだが、彼女の精神より悲劇的な運命に関心の深かった彼の耳には入りそうもなかった。(「無用者のうた:戦後新人白書」1961年) 


 他人の言より本人の言を信じたい。ただ、ここに一つ奇妙な事実がある。若月と疎遠になった中井が故人に対しても「しらじらと醒めた眼」を向けるようになったことだ。

 思うに私にとって中城ふみ子は、本人が演出し創作した作中人物のようなもので、その死の間際、飛行機に乗って札幌へ会いに行った「私」もまた、ひととき作中人物に化してみせた気しかしていない。私が病室のドアの前に立ち、その来訪が告げられると、折から中で発作を起こして苦しんでいた中城は、一声かん高く「いや!」と叫んで、そのあといつまでも私を外に待たせて化粧を続けたが、そんなこともすでに彼女の小説の中に入りこんだ私には、べつだん胸打たれることでもなかった。

 (『黒衣の短歌史』1971年)



 中井が飛行機に乗って札幌へ行ったのは確かであるし、病室の外で待たされたのも事実だろう。しかし、中井自身の感情に関する箇所は虚言だ。仮にこの「作中人物に化してみせた」云々が本当なら、中井はふみ子の生前からすでに、醒めた眼でふみ子を見ていたことになる。しかし、前回取り上げた「唖の歌」にしても、ふみ子宛中井書簡にしても、そのような「眼」を感じさせるところは一切ない。この引用文は結局「ふみ子の生前に中井がふみ子のことをどう見ていたか」ではなく、「これを書いた時点で中井がふみ子のことをどう見ていたか」を示すものだ。ふみ子の死後、中井はどこかの時点でふみ子に親しい感情を持てなくなったのだ。

 中井が『乳房よ永遠なれ』の出版に怒ったという真偽不明の証言を私が忘れられないのは、それによって、中井と若月の対立の原因だけでなく、死後のふみ子に対する中井の一見不可解な態度まで同時に説明できるからだ。『乳房よ永遠なれ』に記された有名なエピソード——ふみ子の病室でふみ子と若月が同衾したという——を読んだ中井が若月とふみ子の両方から裏切られたと感じたことは、想像に難くない。

 さらに時代が下って、晩年の中井はふみ子について次のように書いた。

 いま改めて思うのは、中城がそんな病状の中でよくもまあ歌を作ったなというその一事で、それが傑作であるかどうかはもはや私には問うところではない。田中(引用者註—『乳房喪失』『花の原型』を出版した作品社の社主田中貞夫)もまた窓をあけてくれといいしめてくれといい、カーテンをあけろといいしめろといい、テレビのリモコンスイッチを絶え間なく押しても、看護婦を呼ぶベルだけは押すまいと我慢してつい押してしまう苦しみの中で、死の朝きちんと遺書をしたためたが、いま私はこういいたい。
 ——神様、中城は歌を作りました、と。

 (「死の朝:中城ふみ子追悼」1984年)



 同じ文章中で中井は「作品以外のことはほとんど関心がなく」とも述べているが、人物への愛を元々持っていなかった者に、この最後の一行が書けるだろうか。かつて妹と呼んだ女性へのわだかまりの感情を時間が洗い流したのだと私には思われる。

 ともあれ、中井の「唖の歌」から「鍵」への改稿の内容、およびその不自然さは、ふみ子に対する中井の感情の変化に対応しているのではなかろうか。


(引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』第10巻に拠る。)

 
(2014.5.26 記)
 「唖の歌」で妹に宛てた賢治の詩が引用されていたのは、中井が望むふみ子との関係が兄と妹のようなものだったからだ。ふみ子の死の半月前、1954年7月17日付のふみ子宛中井書簡に、

 僕はソレカラ、中城ふみ子のことを妹のように愛し、そのためにもふみ子と呼びたいことを提案します。


 
とあり、また、

 僕の誕生日(略)九月十七日なんです。僕のはうがすこしでも兄貴だといいんだけれど——何だか四月生れのやうな気がしてならない。何時ですか、教へて下さい。


 
ともある。ふみ子と中井は同年生まれだが、ふみ子の誕生日は11月15日だった。中井が願ったとおりだったわけだ。

 「唖の歌」では、前に引いた一節に続けて、さらに次の数行がある。

*それにしても、と私は思ふ。多くの人の死を、なぜ死刑執行人のやうに迎へてきたのだらう。舌の上のこの苦さは何なのだらう。囁くやうに手紙の一行が蘇る。
  何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。
*その朝、果実屋の店先に始めて若い葡萄を見た。通りすぎようとして思はずふりかへると、漆黒の一房はやはり皿の上に静まつてゐた。—中城さんに—


 
 「何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。」というのは、1954年5月30日付の中井宛ふみ子書簡の一節。

 中井はふみ子に対して私信では「ふみ子」と呼んだが、人前ではもちろんそうは呼べなかった。だから、末尾の言葉は「中城さんに」。これと「鍵」の「中城ふみ子に」とを比べると、後者は明らかに詩の題名として作品化されたものだ。

 「鍵」に添えられた「54・8」は、この詩の完成した年月を意味しているのだろうか。そうだとすると、この記載は正確だろうか。「鍵」と当時の雑誌に実際に載っていた「唖の歌」の間には、やや距離がある。私たちが現在見るような形で「鍵」が完成したのはもっと後のことだろう、と私は推測している。


(書簡の引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』巻10、2002年2月、に拠る。)
 
(たぶん、続く)

 この詩の初出は、『短歌研究』1954年9月号だろう。ふみ子の死の直後に出た号である。ただし、ここでは詩と呼ぶべき態のものではなかった。それは、編集後記と奥付の間に埋め草のように置かれた「唖の歌」と題する短文だった。

*オルゴオルのとまらうとするたゆげな響きの中、うつうつと瞼を閉ぢてゐるその人の前で心は水鳥のやうに叫んでゐた——どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ! その日、からだの中ですべては終つた。薔薇は髪からころげおち、素早い手が灯りを消してしまつた。
  けふのうちに遠くへ行つてしまふ妹よ
  霙が降つておもてはへんに明るいのだ(無声慟哭)



 引かれている宮沢賢治の詩は「無声慟哭」でなく「永訣の朝」の一節だが、ともかくその引用のなかの「妹よ」が「鍵 中城ふみ子に」では作中主体自身の言葉となり、それに伴って初出の「その人」は「お前」という二人称で呼ばれることとなった。

 そして「どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!」は、初出では病床のふみ子を前にして他を見回す余裕もなく、気付けばすでに「叫んでゐた」言葉であった。

 初出とヴァリアントと、どちらが生々しく、どちらが切ないか。いうまでもないだろう。詩として再構成された後者は、いろいろと字句を入れ替えるうちに本来意味すべきところを見失った失敗作のようにも見える。


 (続く)

 『中井英夫詩集』(現代詩文庫、思潮社)を読んでいて、次の詩に目が留まった。

  
   中城ふみ子に

オルゴールがとまらうとするときの
たゆげな響きのなか
妹よ
お前の手で鍵はもつとも輝いた

水鳥のやうに叫んでゐよう
「どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!」
いま襲はうとするものが誰かを決して考へぬ死よ
せめて少女だけは踏んでゆくな

その日
からだのなかですべては終つた
薔薇は髪からころげおち
素早い手が灯りを消してしまつた   54・8


 一読して、この詩はどこか自然でないという気がした。不審な点はいくつかあるのだが、一番は第二連冒頭の「叫んでゐよう」だ。これは作中主体が自身に呼びかけた言葉と解するほかあるまい。しかし、わざわざ「叫んでゐよう」とみずから確認しなければ叫べないとは、いかにも醒めている。叫ばれる言葉——どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!——の切実さとそれとは、まるで釣り合っていない。

 なぜこんな詩になったのだろうか。


(続く)

 『北冬』15号(2014年4月)が届く。好きな雑誌なのでうれしい。

 ごっさんが「私と職場」というタイトルの作品を寄せている。またしても職場詠で、やっぱり余暇がないんだろうなあと思う。俳句?二句、短歌?二首、旋頭歌?二首のうち、俳句?がよいと思う。
 

チョーク入れのチョークの大半が氷柱
「素でばか」のその「素」のように雪の庭


 
 それにしても、荒涼としているね。

 今号の特集は「生沼義朗責任編集[関係]の現在——。」。昨年3月に開かれたという、生沼歌集『関係について』批評会の記録を読む。司会の石川美南さんが
 

 これだけたくさんの方に来ていただいて、たいへん申しわけないのですが、指名させていただきますので、お一人三分をめどにお願いいたします。


 
 おっと、またこれ。「指名させていただきますので」はつまり、指名しない人間は発言できないよ宣言であり、なんというか非常に閉鎖的で、内輪のお遊び的だな、と指名されない庶民は思ってしまう。結婚披露宴の挨拶は指名方式。では学会は? 普通は「質問・意見のある方、挙手を」だろう。歌壇の集会は披露宴みたいなものか。


(2014.5.7 記)
 広辞苑第六版の「しずもる」の項に「明治時代に造られた歌語」との註記がある、ということを少し前に松村正直さんから教えられて、びっくりした。中学時代にたまたま山口誓子の句、

一湾の潮(うしほ)しづもるきりぎりす



を知って以来、「しづもる」は長らく私のお気に入りの「古語」だったから、それが案外新しい語かもしれないなどということは、考えたこともなかった。松村さんは、広辞苑の編集担当者だった増井元の著書『辞書の仕事』(岩波新書、2013年10月)を読んでそのことを知った由だ。

 ただ、第六版の掲げる用例が若山牧水の歌、

うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花



であることは少し気になった。これが大正12年刊行の歌集『山桜の歌』に収録されていることは、牧水ファンには常識であるし、そうでなくとも簡単に調べられる。「明治時代に造られた歌語」としながら明治の作を引かないのはなぜか、と思ったのだ。

 ところが、今月3日付の松村さんのブログの記事によれば、『白珠』5月号の安田純生「しづもる・うつしゑ」がこの「明治時代に」云々の説そのものに異論を述べている、とのことだ。

 私も松村さんにすすめられて、安田論文を読んでみた。「しづもる」の用例は、江戸時代の賀茂真淵『万葉考』や『楫取魚彦家集』等にすでにあるという。広辞苑第六版の説を見事に修正したわけだ。

 この一件で、広辞苑に寄せる私の信頼は、幾分減じてしまった。新たな証拠によって説が修正されること自体は仕方がない。学問とはそういうものだ。しかし、牧水の歌の引用から推測するに、第六版の「しずもる」の註記はそもそも確かな調査に基づいていなかったようだ。

 長年の改訂作業のなかで、記述内容を厳しく吟味するプロセスが失われたのだろうか。


(2014.5.5 記)

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Author:和爾猫
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