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 今の一部の歌人や研究者は、斎藤茂吉の歌をよほど異常な歌のように思っているらしい。そのような読み方を広めたのは、塚本邦雄『茂吉秀歌』だろう。同書は「名歌」という評価をいったん留保して、自由に茂吉の作品を読み味わうことを促した。そのこと自体は意義深いことだったと思う。しかし、いまや塚本流の読み方が一つの標準となり、それが作品の誤読を誘うこともあるのではないか、と私は疑っている。『赤光』の歌に対する品田悦一さんや大辻隆弘さんの奇妙な解釈については、以前当ブログに書いた。

 昨夏ウェブ上に発表された田中濯「うなぎ」(「詩客」短歌時評)もまた、塚本流の読み方が一首の解釈を誤らせた一例のように私には思われる。
 

隣室に人は死ねどもひたぶるに帚(ははき)ぐさの実食ひたかりけり

 (『赤光』初版、1912年)



 田中さんはこの歌について「まちがいなく異常な歌である」という。そして「他者の死に近いときに食欲は湧くものだろうか」と問い、藤島秀憲『すずめ』(2013年)の歌二首、
 

四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は
手をつけぬままの弁当捨てにゆくふたたび冷えている白い飯



を引用したうえで、次のように述べる。
 

 なるほど、異常な状況のときに特定のものに対する異常な執着、この場合は食欲が生まれる、というのは「ありそう」ではある。しかし、それは藤島の場合のように実のところない、のではないだろうか。せいぜい、咽喉がかわいて飲み物が欲しくなる、程度のように思う。



 田中さんの主張を私なりに整理していえばこうだ——。


 (1)人の死に際して食欲が生まれるのは異常である。
 (2)そのような内容をもつ茂吉の歌は異常であり、現実性を感じない。
 (3)茂吉の歌が後続の歌人に影響して「死の定型的表現」になっている。

 (4)藤島の歌の作中主体は人の死に際して食欲を失う。
 (5)それゆえ、藤島の歌は「死の定型的表現」を免れている。


 (3)の「死の定型的表現」説を検討するためには短歌史をたどらなければならないので、ここではしばらく措こう。(2)は茂吉の歌に対して否定的な意見を述べたものだ。しかし、その意見の前提になっている「異常」という解釈は間違っていると私は思う。だから、(4)の藤島の歌との比較も、とくに意味のあるものとは思えない。

 実際、茂吉の歌はどのような状況を述べ表わしたものなのか。初版『赤光』では、この歌は「分病室」と題する四首連作中の一首であり、前後はそれぞれ次のような歌だった。
 

この度(たび)は死ぬかも知れずと思(も)ひし玉ゆら氷枕(ひようちん)の氷(ひ)は解け居たりけり

熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら稚な児のごと物を思へり



 作中主体は自身が死を意識するような熱病で入院し、いまそこから回復しつつある。隣室の「人」という表現はそれが肉親でも友人でもないことを伝えているが、さらに一連全体をみれば、それが隣りの病室にいる別の入院患者であることは疑う余地も無い。

 帚ぐさの実の歌が述べ表わしているのは、病室の壁を隔てて他人が死ぬときに自分は生き残るという現実であり、その生の実感なのだ。見ず知らずの人の死をさほど悲しく思わないとしても、それが人情というものだろう。回復期にある患者であれば、食欲が生まれるのはむしろ自然なことだ。「食ひたかりけり」は本能的な生存欲の表現として理解できる。

 ここまで確認すれば、肉親の死を題材にした藤島の歌が比較の対象になり得ないことは明らかではないか。しかも注意すべきは、茂吉の歌の態度である。人は死ねども——。この逆接の「ども」は、食欲が生まれて当然の状況でなお、そのことに違和感を持つ主体の感情を表わしている。隣りで人が死んだのに不謹慎だ、というわけだ。この主体が斎藤茂吉その人だとすれば、茂吉は常識ある社会人であったと見なければならない。

 塚本邦雄『茂吉秀歌:『赤光』百首』は、
 

 「人は死ねども」の「ども」は、みづからが作つた不条理に、斜に構えて楯ついてゐる趣だ。この心理の底をさらふなら、帚草の実の食ひたくなるのは、むしろ「人死にしかば」ではあるまいか。

 (初版は文芸春秋、1977年4月。引用は講談社学術文庫より)



というが、塚本流に茂吉の歌を鑑賞するのに「ども」の逆接は都合が悪い、ということを認めたものだろう。「斜にかまえて楯ついてゐる」というのは、苦し紛れに試みた無理筋の読みに過ぎない。

 田中さんはこの一首に異常性を見ようとし、さらにそれをつまらない虚構と見なすのだが、そもそも異常とは認めがたいのだ。虚構説は検討するまでもないと思う。

 茂吉の歌に異常性を見ることを一概に否定するものではないが、その前にまず歌の解釈を丁寧にすべきだろう。帚ぐさの実の歌は、ただ死と生の交錯を主題にした作として読むだけで十分におもしろい、と私は思う。


(2014.2.23 記)

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 朝日新聞の2月19日付朝刊に「名編集者 早すぎる別れ」という見出しのコラム記事が載っていた。署名は「編集委員・吉村千彰」。
 

 講談社の名物編集者だった鷲尾賢也さんが69歳で亡くなった。いつも議論していた。葬儀で棺の中のお顔を見た今も、どこからか声が聞こえてきそうな気がする。



という書き出しで、故人の言葉をいくつも紹介している。
 

 感想はできるだけ早く。注文を付けるときは付け、内容をただす時はただす。提案し、仕掛けよ……

 僕は講談社の中で岩波書店をやってるんだ

 面白い作家がいるんだね

 取り上げてた本、どこがいいの?

 どうしてこんなに日本は急にファッショになってしまったのでしょうか



 世間的には無名の元サラリーマンの死を悼む新聞記事など、珍しい。この記者は読書面の担当の由だが、付き合いのある出版社の編集者のなかでも、鷲尾氏はとりわけ魅力のある人だったのだろう。

 小高賢の名をこの記者が知らないわけはないが、記事中にその名は一度も出てこない。あくまでひとりの編集者の姿を伝えるのだ、という記者の強い意志を感じた。


(2014.2.21 記)

 小高さんは、短歌史をよく知っているし、歌の良し悪しの判定ができるし、ご自身もよい歌を詠む。短歌にとどまらず、幅広い知識を持っている。そして、これが最も重要なことだが、長年作家や学者に接してきた編集者らしく、人の話を聞く力がある。

 岡井さんがいかに歌壇の巨星だとしても、聞き手が小高さんでなければ、ずっと退屈な本になったはずだ。本書の岡井さんは、気持ちよさそうに、しゃべりたいことをしゃべっている。しかも、かなり本気で。

 興味深い話が無数に出てくる本書にあって、最大のハイライトは次に引くところだろう。

小高 ……右とか左とかの争いは、もうかなり無効になっている。岡井さんの選者就任でいちばん足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか。その気持ちは今も変わりません。でも、その後の新選者のだれも言わないですね。
岡井 今になって振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う、明らかに。

 (岡井が宮中歌会始選者に就任したことについて。268頁)



 岡井さんの著作を丹念に追いかけているわけではないので、もし違っていたらご叱正を受けたいが、岡井さんが公に転向を認めるのはこれが初めてだったのではないか。「今になって振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり」などというのは、「転向」を言うまでの前置きだが、まことに苦しげだ。

 ここは、本書中で唯一、岡井さんがしゃべりたくないことをしゃべっているところなのだろう。そのことを思うに付けても、「転向」の一語を引き出したのは、小高さんの大きな功績だったと思う。それができたのも、小高さんだったからだ。岡井さんにとっても、これはむしろ幸いなことだったにちがいない。

岡井 そのことを何らかのかたちで、自分自身のためだけでもいいから、きちっと明らかにしておく必要があったかなあとは思う。ただ、なにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、「岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わないほうがいいですよ」と言うから、そうかなと思っちゃった。

 (同上。269頁)



 「論理的説明」をしなかったことについて後輩の大島さんに責任転嫁をしているのは、要するに岡井さんに後ろめたいところがあるからだ。岡井さんにとって、これがいかに気の重くなる話題であったかが思われる。

 ところで、ここに引いた小高さんの発言には、踏む人が踏むと爆発する地雷のようなものが、さりげなく仕掛けられていた。「その後の新選者のだれも言わないですね」という一文がそれだ。

 現在の宮中歌会始の選者は、岡井隆・三枝昂之・篠弘・内藤明・永田和宏。内藤さんと永田さんのことはよく知らないが、篠さんと三枝さんは転向組だろう。この二人は、小高さんの追悼文を書けないはずだ。もし書くなら、小高さんの発言に触れて、自身の「論理的説明」をしなければならないからだ。


(2014.2.17 記)

岡井 ……八九年の末にNHK学園の百数十人の受講生と、オーストリアのウィーン、インスブルック、ザルツブルクと三都を巡ったのです。短歌関係は二十人ですけど、絵画とか文化史とか写真とかいろいろなグループが一緒でした。そのときに絵画の指導をしていたのが、今の家内で、それで知り合いになった。翌年の九〇年……修羅場のなかへ入っちゃった。
小高 あまり詳しくお話なさらなくて結構ですよ(笑)。

 (角川書店、2009年9月。256頁〜)



 ばか、ばか、ばか。小高さん、なんでそこで止めるのよ。いちばん聴きたいところなのにさ。ここで止めるっていうのは、編集者としての長年の経験に由来するところの、なにか高度な判断があるのだろうか。あるいは、単にインテリの良識が発動しただけなのか。


(2014.2.16 記)

 前の記事で斎藤史の昭和十年代の文章「第七十七議会の印象」を取り上げたが、その第七十七回臨時帝国議会開院式の挙行を報じる当時のニュース映画が残っている。NHK「戦争証言アーカイブス」でそれを視聴して、ちょっとおもしろく思ったのは、アナウンサーが

  ダイ シチジュウシチ カイ

と言っていることだ。これがこの時代の標準的な読み方で、今日の標準語の

  ダイ ナナジュウナナ カイ

という読み方とは異なるのだ。仙台市に本店がある七十七銀行は今でもシチジュウシチギンコウだが、これは明治初期に第七十七国立銀行として設立されて以来の読み方を受け継いでいるためだ。史の文章のタイトルも、当時の読み方を尊重するなら、「ダイ シチジュウシチ ギカイ」だろう。

     §

 尾崎翠が1931(昭和6)年に発表した「第七官界彷徨」という小説があるが、石原深予さんの論文がその「第七官界」の読み方に言及している。

 尾崎翠も観た映画「第七天国」(一九二七年製作・日本公開)の訓みは、『近代用語の辞典集成』(一九九五〜一九九七 大空社)に収録されている各種モダン用語辞典によると、「ダイシチテンゴク」である。質屋の隠語として「第七天国(ダイシチテンゴク)」という語が用いられていたという。「第七官界彷徨」は、現在「ダイナナカンカイホウコウ」と訓まれるのが通例であるが、「第七天国」の当時の訓みを考慮すると、作品発表当時は「ダイシチカンカイホウコウ」と訓まれていた可能性もある。

(「「第七官」をめぐって:尾崎翠「第七官界彷徨」における回想のありかた」、『和漢語文研究』11号、2013年11月)



 質屋の隠語になっていたという話が本当なら、『第七天国』はたしかにダイシチテンゴクでないといけない。旧制の第七高等学校はダイシチコウトウガッコウ、帝国陸軍の第七師団はダイシチシダンである。「第七官界」も、発表当時の標準的な読み方としてはダイシチカンカイなのだろう。

 ちなみに、陸上自衛隊の第7師団はダイナナシダン。海上保安庁の第7管区海上保安本部はダイナナカンク。しかし、読み方の標準がいつ、どのようにして変わったのかは寡聞にして知らない。

 こういう話題は、アナウンサーが詳しい。参考として、読売テレビの道浦俊彦アナのエッセイを二本、挙げておく。

(1)NHKアクセント辞典に見るシチとななの変化
(2)七奉行の読み方

     §

 現在IVCから発売されている『第七天国』のDVDには、淀川長治さんの解説映像が入っている。それを観ると、淀川さんはダイナナテンゴクと読んでいる。淀川さんはこの映画を公開当時に観た人だが、そのときからダイナナと読んでいたのだろうか? 関西では早くから「シチ」より「ナナ」の方が優勢だったという説を聞いたことがある。神戸生まれの淀川さんだから、ダイナナだったのかもしれない。

 ついでにいえば、IVCの『第七天国』は淀川さんの映像が付いていることだけが取り柄で、あまりよい商品とは言えない。著作権の問題があるせいか、音楽はまるで関係のないものが使われている。主題曲が有名なので、残念。また、なぜかクレジットタイトルもオリジナルのものではない。

 主題曲を使った動画のリンクを貼っておこう。切ない気分に浸れます。





(2014.2.12 記)

 斎藤史の初期の随筆集『春寒集』(1944年)に「第七十七議会の印象」という文章が収録されている。見開き2頁の短文である。

 第七十七回帝国議会は、日米開戦前夜の1941(昭和16)年11月16日から20日まで開かれ、二日目に東条英機新総理が施政方針演説をおこなった。史の文章の初出を知らないが、真珠湾攻撃に触れていないところをみると、執筆時期は12月7日以前であり、おそらくは11月17日の直後だろう。

 ちなみに斎藤隆夫衆議院議員の有名な反軍演説は、前年の第七十五回帝国議会。この時期の政治状況の変化の速さと激しさはすさまじいものがある。
 

 国民は、ともすれば旧態依然たる議員諸氏をふつ飛ばして、直接に首相の言葉につながつてゆく、といふ気がする。勿論、東条首相個人の意味ではなく、国民が、国家へ帰一するための機縁をなす人、といふほどの意味でである。(略)国民の心構へは、政治を商売とする或る種の人々を必要とせず、ぢかに当局者の言葉を受け取るべく待機の沈黙をもつて議会の進行を見つめてゐるのである。



 内容は父瀏の影響を受けているところが多いのだろうが、表現はずっと平易で、さすがに上手いものだ。これを単行本に収録しているのだから、依頼原稿を仕方なしに書いたということでもない。戦中の史は立派な全体主義者(全体主義という用語自体は瀏の好みではなかったので、史も使わないが)であり、その執筆活動は戦時体制への見事な協力だった。

 ちょっと恐いのは、議員を悪く言う癖が現代まで脈々と受け継がれた日本人の癖のように感じられることだ。「ぢかに当局者の言葉を受け取るべく」を一種のリーダーシップ待望論として読み替えることができるとすれば、それは今の世の中の気分にも通じる。引用文を笑うことはできない。


(2014.2.11 記)

 八一の自筆年譜を見ると、13歳の1894(明治27)年までは記事が少ない。記事が増えるのは、新潟中学校に入学する1895年からである。この年、新潟の地方新聞『自由新報』に載った弓術の記事に対し、反論の投書をしたという。八一の著述が活字になったのは、これが最初ということになっている。この『自由新報』の該当号はまだ見付かっておらず、今後の調査の課題である。

 さて、自筆年譜の同年の項に

 初めて帝国軍艦を見学す。



という記事があるのに注目しよう。十二巻本全集の年譜には、これと同じ事柄を示す記事がないのである。

 「見学」とあるから、艦内を見て回ったようだ。珍しい体験であることは確かだとしても、一生涯の記念としてわざわざ記すようなことだろうか。それをありがたがる態度は、まるで軍国主義者のようではないか——。

 まさにそのような疑問から、十二巻本全集の年譜はこの記事を採用しなかったのだろう。

 自筆年譜を底本にした九巻本全集の年譜の編者は安藤更生・宮川寅雄・長島健。いずれも八一門下で、安藤が一番の高弟。その安藤の没後に企画・編纂された十二巻本全集では、年譜の編者が宮川・長島の二人になる。ここでは年長の宮川が主導権を取っていたと考えられる。

 東洋美術の研究者である宮川は、戦前には共産党の地下活動に関わり、豊多摩刑務所で斎藤瀏と隣り合わせの独房に入っていたという人でもある。八一の「戦争認識」に関する次のような文章に、宮川の思想上の立場は明瞭に顕れている。

 これまでたどってきた会津八一の戦争認識は、当時の国民一般のそれと、さほど距離のあるものではない。しかし、だからといって、会津八一ほどの人物が、まったく、日本帝国主義の植民地主義を認識できず、あれほど愛し、理解しているかに見えた中国の、その内部に顕在している革命の波濤も知ることができなかったのは、痛ましいといわなければなるまい。そのことは、かつての時代の、岡倉天心や夏目漱石とも、同質の盲点につらなるものであり、正しい洞察が、かれらの内部につちかわれた天皇への敬慕によって掩われていたのでもあった。
 (宮川寅雄『会津八一』紀伊国屋新書、1969年)



 このように記す宮川の目に、「帝国軍艦」云々の記事が師の年譜を汚すものとして映っていたことは想像に難くない。

 しかし、八一の人物像を考える材料として年譜を捉えるとき、その記事を採用しないことはやはり誤った判断だったのではないか。共産主義に走った門弟を遠ざけなかったことと、軍艦を初めて見た感動を晩年まで忘れなかったことと、どちらの面も併せ持って会津八一という一個の人物が存在するのだ。

 「帝国軍艦」から目を背けるよりも、むしろその意味についてもっと考えた方がよい。明治時代、全国の港を廻る海軍の軍艦は、各地で庶民の見物の対象だった。岩本素白は八一と同時期に早稲田大学に学び、後年八一と同様に母校の教壇に立った人だが、その随筆に次のように記している。

 その頃の軍艦といふものは、厳めしくはあるが同時に美しいもので、それはただ平和を保障する象徴のやうな時代であつた。ふねも小さく、たかだか二三千噸のものが大きい方で、到るところの小さい港まで訪問して、人民たちに敬はれ、喜ばれ、珍しがられ、愛された時代であった。(「菓子の譜」)



 それは八一の故郷の新潟でも同じだった。八一は大学在学中に地方新聞『東北日報』で俳句欄の選者を務めることがあったが、そのときに選んだ句に次のようなものがある。

軍 艦 を 見 に ゆ く 人 や 松 の 内
軍 艦 の 中 よ り 上 る 初 日 か な

 (『東北日報』1904.1.1)



 1句目はその言葉通りの句。2句目は軍艦旗掲揚を初日の出に見立てている。寄港した軍艦を人々はなぜ見に行くのか。ただその外形の厳めしさや美しさを喜ぶだけではない。「平和を保障する象徴」として敬うのだ。明治の新潟の人にとって、クニと言えばまずは新潟だったが、軍艦はその上にある大日本帝国という国家を象徴していた。ことに1895年は日清戦争の講和の年だから、そのことが強く意識されたにちがいない。初めて軍艦を見た中学一年生の八一は、それまで頭の中で抽象的な理屈として捉えるだけだった国家の姿をも同時に見ていたはずだ。


(2014.2.8 記)

 会津八一の年譜は、1980年代に刊行された十二巻本『会津八一全集』(中央公論社)収載のものが一番正確で詳しい。したがって、八一の生活と文学活動の時期を確かめたいときは、まずこれを見ることになる。しかし、そもそも年譜は編者の方針によって編集されたものであり、いうまでもなくそれは事実そのものではないのだから、完全無欠の年譜というものはあり得ない。記載から漏れたところに真実があることもある。八一の年譜の場合も同様だ。

 この十二巻本全集の年譜は、八一本人が最晩年に記した自筆年譜を第一の資料にしている。自筆年譜の内容は、50年代に刊行された九巻本『会津八一全集』(八一の最初の全集。中央公論社)によって知ることができる。こちらの全集収載の年譜は自筆年譜を底本とし、編者によれば「印行にあたつて厳格に底本を踏襲した」という。

 さて、両者を比較すると、一見この上なく詳細に見える十二巻本全集の年譜も、実は自筆年譜のすべての記事を採ったわけでない、ということが分かってくる。たとえば、自筆年譜の1951年(70歳)の項に

 入歯。



という謎の二文字がある。十二巻本全集の年譜には、これに相当する記事がない。

 いや、謎ではない。これは、初めて入れ歯を入れたという意味だ。本人にとって重大事件だったということは理解できるが、年譜の記事としては空前絶後。十二巻本全集の年譜の編者は、苦笑しながらその不採用を決めたことだろう。

(続く)


 まず、姫路という地名をテレビドラマの俳優はどう発音するか、という話。

 〈メジ〉でなく〈ヒメジ〉。播磨を舞台に1月に放送が始まったNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、役者やナレーションが用いる「姫路」のアクセントが“関東風”ではなく、地元で話題になっている。過去には夏の全国高校野球の実況放送で〈メジ〉が連呼され、地元視聴者が「気持ち悪い」などとNHKに訂正を求めたことも。

(『神戸新聞』2月1日付
 http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201402/0006677205.shtml)



 この新聞記事が依拠する都染直也氏の調査によれば、地元の人がヒ・メ・ジを同じ音程で発音するのに対し、関東ではヒの音程だけを高く取る。

 NHKでは、ヒが低く、メで上がって、ジはそれと同じ高さ。私が聴いたかぎりでは、JRのアナウンスもこれと同じだ。このイントネーションであれば、地元の人も違和感がないという。

 要するに、地名の発音は地元で違和感のない発音に近づけた方がよいというのが、とりあえず一般的な考え方として認められるようだ。

 ただし、JRのアナウンスの発音の仕方は、各地でさまざまだ。大阪市内にJR・近鉄・市営地下鉄が交差する鶴橋という駅があって、市営地下鉄のアナウンスは頭のツから順に音程が下がる大阪風であり、市営バスも同様だが、JR大阪環状線のアナウンスはルを高くして、前後を低くする標準語風。このように事例は色々あるものの、一般的な考え方としては上記のとおりでよいのだろう。「観心寺」を地元の発音のとおりに読みたいという私の願望も、それほど偏屈なものではないわけだ。

 しかし、地元の発音というのは、他の地域に住む人間にとっては想像を超えるところがある。松村さんのコメントによれば、京都の人は「醍醐」を発音するとき、ダからイへ音程を上げるという。関東ではまず聴くことのない言い方だ。そうすると、「醍醐天皇」も同様に発音するということか。

 同じ県内でも、別の地域の発音となると、もう分からない。神奈川県鎌倉市の「由比ヶ浜」。県民でもユからイへ音程を上げ、ハ・マでまた順に下げる、という人は少なくない。しかし、地元の発音では、初めのユが最も高く、後は一字ごとに順に下げるのだ。FM横浜のアナウンサーが後者を採用しているのは、地元に従うという原則があるのだろう(江ノ電の車掌さんは駅名の「由比ヶ浜」をどう発音しているのか、どなたかお教えください)。

 神奈川県横浜市に「鴨居」という地名があり、JR横浜線の駅名にもなっている。その発音はカを低くし、モで上げて、イはそれと同じ高さにする。ところが、同じ県内の横須賀市にも「鴨居」という地名があって、こちらの発音は末尾のイで再度下げるのだ。たった一音の音程の違いに過ぎないが、たまたまそれを取り違えているのを聞くと、地元住民としては違和感を感じること甚だしいらしい。もっとも、どちらの鴨居にせよ、住民はそれがマイナーな地名であることを知っているから、発音を間違えた人に文句を言うことなどないだろうが。

 地名の発音は地元風にすることを心がけつつ、不明のところは判明するまで自己流で仕方ない——このあたりが私の結論。


(2014.2.3 記)


 松村さんの新しいコメントに気付かずにこの記事を書いてしまった。そのコメントによれば、「醍醐天皇」の発音は、京都と関東で変わらないようだ。地名と人名でイントネーションが異なるというのはときどき経験することで、私の知り合いに東京生まれの「渋谷さん」がいるが、地名とは逆にシを高くして、ブ・ヤと順に下げて発音する。

 尚々、東京の根津はネからヅへ上げて読んでしまいそうだが、地元ではネからヅへ下げると聞いた。ウェブ検索をしてみると、やはりそのような情報が出てくる(参考「千駄木・根津界隈」)。地名の発音は、原則がないのが難しい。

(2014.2.4 追記)


 会津八一の大学時代の同窓生に伊達俊光という人がいて、植田重雄編著『会津八一書簡集』(恒文社、1991年)は伊達宛の八一書簡219通を収載する。内容は学芸、思想、生活にわたり、若き日のロマンスの報告もある。八一研究のためにまことに有益な資料だ。

 植田によれば、これらの書簡の現物は、『書簡集』刊行以前に失われてしまったという。

 ……伊達家では早稲田大学と会津記念館に書簡類を移譲したいという意向があったが、いくつかの障害があり、結局、古美術商関係者の手に渡った。ところが、いくばくもなくして倉庫が火災に遭い、すべて烏有に帰した。そのため、わたしが手写したものだけが今は唯一の資料となってしまったのである。(572頁)



 早稲田大学と会津八一記念館への「移譲」を実現させなかった「障害」とは、その後の古美術商の登場から考えても、金銭的な問題だろう。実際に大学や記念館に収蔵されていたら、私たちがそれらを目にする機会もあっただろうに、残念な話だ。

 ただし、「すべて烏有に帰した」との証言は、訂正を要するようだ。八木書店の先月発行の目録を見ると、『書簡集』収載の一通が「380,000」の値札付きで載っている。1911(明治44)年3月27日付の毛筆の封書である。前にこの店で買い物をしたときに店主が教えてくれたのは、「書簡の贋物作りは手間がかかりすぎる」。今回の一通もまず本物だろう。

 内容を『書簡集』で確かめると、文壇批判から始まり、近況報告で終わっている。ゲーテ、ホーマー、ダンテ、シェークスピア、アルマ・タデマ、一茶、淡島寒月といった人たちの名が出てくる。当時の関心のありかが窺えて、十分興味深い。三十歳の八一の芸術観を示す言葉——Vita longa, ars longa.(生活は永遠、芸術も永遠。)

 さて、私には縁のない値段である。その所在は、いずれまた不明ということになるのかもしれない。しかし、ともかくも現存はしているのだ。そのことだけでもありがたい。


(2014.2.2 記)

 昭和20年に至って戦況はいよいよ悪化し、印刷所の被災等の事情から短歌雑誌はほとんどまともに発行することができなくなった。同年の『短歌研究』9月号は終戦前に編集し、終戦後に発行した号として知られているが、同誌掲載「歌界記事」が当時の結社誌・同人誌(非商業誌)の発行状況について、次のように報告している。

 ……内務省の新聞紙法又は出版法に厳格に準拠して定期発行されてゐるものは現在一誌もなく(略)心の花、アララギ、国民文学、短歌人、潮音等々昨年十二月乃至本年二、三月号にて続刊なく、多磨は三、四を合併して四月号を出し引き続き五月号を出した。又「樺太短歌」は六月号までを出してゐる。



 ここに引かれている歌誌のうち、内地発行の『心の花』から『多磨』までの同年前後の号を、私はすべて原本に当たって調査した。その結果分かったのは、この「歌界記事」の記述が正確であること、それらの歌誌が結局終戦までに次号を発行できなかったこと、である。

 もっとも、『潮音』には4・5月合併号(31巻4号。5月1日発行と記載)、6・7月合併号(同5号。7月1日発行と記載)、8月号(同6号。8月1日発行と記載)が存在するが、これらはいずれも終戦後に遅れて印刷発行したものだ。

 とすれば、「歌界記事」に拠るかぎり、非商業系の歌誌で終戦前に最後に印刷発行されたのは、『樺太短歌』6月号ということになる。いわゆる外地は、まだ印刷所が稼働していたのである。私はその誌面を見てみたいと思い、北海道をはじめ、全国の図書館や文学館で探した。しかし、これがまるで見付からない。目当ての号だけでなく、そもそも『樺太短歌』の「か」の字も見当たらないのである。稀覯本といってよいだろう。

 なお、樺太以外の外地にも、それぞれ短歌雑誌が存在した。それらのなかには、7月号を発行したものがあったかもしれない。また、『樺太短歌』が7月号を出していた可能性もある。そのころには樺太と内地をつなぐ郵便が滞って、献呈本が東京の『短歌研究』編集部に届かず、記録に載らなかった、ということなのかもしれない。調査の余地はまだ多く残っている。


(2014.2.1 記)

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Author:和爾猫
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