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今年したこと。

 『歌壇』3月号に「若き日の葛原妙子:女学校時代から『潮音』参加まで」を載せてもらった。資料をたくさんため込んだ末に結局書かない、ということが多いので、これは自分としてはがんばりました。

 『白鳥』成瀬有追悼号に「二つの名のあいだで:『游べ、櫻の園へ』覚書」を書いた。ただし、原稿を出したのが、締め切りを1ヶ月以上過ぎてから。一ノ関さん、ごめんなさい。

 同じ号の「成瀬有初期歌篇」に載せる歌を拾うために、『地中海』の60年代から70年代にかけての号を10年分くらいまとめて読んだ。おもしろかったです。前田夕暮を直接知る元『詩歌』の会員がエッセイを書いていたりします。それと、小野茂樹の死が70年代以降の短歌にとっていかに大きな損失だったかということを実感しました。

 このブログを始めた! 松村さんとごっさんに刺激をもらって、なんとか3ヶ月続きました。


今年できなかったこと。来年したいこと。

 斎藤史の評伝を書くつもりで、資料を山のように集めたにもかかわらず、一文字も書かなかった。来年の宿題です。

 このブログで、「永井陽子をさがして」の5回目を書く予定だったのが、書けなかった。頭の中に文章の構想はあるのだけど、資料がまだ揃わない。図書館に行く暇がないのです。

 堂園昌彦『やがて秋茄子に至る』について書きたかった。いずれ小文を書きます。この歌集には衝撃を受けたので。

 ごっさんの歌集の感想も書きたい。とてもいい歌!

 桐ヶ谷侃三についての通説を修正したい。

等々。


 皆さま、今年一年、お世話になりました。ありがとうごさいました。何人かの人を亡くしましたが、それでも前を向いて……よいお年を!

 当ブログは1月7日までお休みします。来年もよろしくお願い申し上げます。


 菱川和子さんから『菱川善夫歌集』(短歌研究社)をいただいた。忌日の12月15日に発行されたばかりの本である。口絵は25歳の菱川善夫の写真。端正で、痩せ形。意志の強そうな目。内面が顔を作るというのは本当だろう。

 もっとも、私が大学院生だったころに出会った七十代の菱川さんは、情の人だった。私はご縁が薄かったから、その理性的、理論家的な面までは知ることができなかった。

 現代短歌研究会が発足したとき、菱川さんの大学の研究室に問い合わせの電話をかけた。あるじは不在だった。電話を切って1時間くらい経ってから、菱川さんは面識も何もない私に直接折り返しの電話をかけてきた。「電話をくれて、ありがとう」と菱川さんは言った。私はそれまで、偉い人はそんなことをしたり言ったりしないものだと思っていたので、すっかり驚いた。

 私がはるばる札幌の研究会に出かけていくと、「交通費、かかったな。いいから、いいから!」と言って私の手に1万円札を1枚押し込んだ。菱川さんの文章から、私は知的でかっこいい筆者像を想像していた。ご本人は確かに知的でかっこよかったが、全然スマートな人ではなかった。

 若い歌人や院生の前でも、岡井隆に対する憤りを隠そうとしなかった。いつの宴席だったか、いま『未来』にいる黒瀬さんが菱川さんの発言を聞いて黙り込んでしまったのを覚えている。岡井さんが宮中歌会始の選者になり、菱川さんは裏切られたと感じていたのだろう。

 今回の歌集の編者である三枝昂之さんも、いずれ出る姉妹編『菱川善夫講義録』の編者だという永田和宏さんも、歌会始の選者である。二人が自著に関わることを、あの世の菱川さんは怒っていないだろうか。いや、これは和子さん直々の依頼とのことだから、大丈夫なのだろう。和子さんが「彼」の意を汲んでいないはずがない。

 三枝さんが解題で、

 彼の評論の特色の一つは、美へ上昇してゆく一歩手前で覚醒し、論理に踏みとどまる文体にある……



と書いているのを読んで、優れた作家は優れた理解者を持っていると思った。

哲久を転向者と書きしに激怒して絶縁状叩きつけし山田あきはや
以後われは暗察者の道えらびたり銹びしピストル胸奥に秘め
批評とは口先だけのことではない。破れし五体に火を焚くことだ
血液君見よこれがパリの全面ストだ輸血より遅き車体の混雑を見よ


 
 死の前月の作より。前の3首は批評家としての自己の歩みを省みたものと見ればよいか。4首目はパリに到着した日の嘱目詠。死の一月前にフランスを訪れていたのである。先行テクストのあれこれを織り交ぜているらしい「血液君」の歌を見るかぎり、菱川善夫の頭脳は最後まで明晰だった。同時に、その情熱。全く枯れていない。

 菱川先生、近ごろはスマートな人が多いです。


(2013.12.29 記)

 光森さんの新作『Madagascar 2012』は、それぞれ透明なカードに写真と歌1首を刷ったものが31枚、専用の箱に入っている。同時に発売された『石垣島 2013』も同じ仕様である。いずれも幻灯の種板のようで、美しい。

 第1歌集『鈴を産むひばり』(2010年)は活版印刷に瀟洒な装幀という、レトロな書物。第2歌集『うづまき管だより』(2012年)は一転して電子書籍。光森さんは他の歌人がしないことをしてきたわけだが、今回の『Madagascar 2012』と『石垣島 2013』は、「本」という概念の枠を跳び越え、「歌集」という概念の枠をも跳び越えつつある。

 31枚のカードには順番がない。気の小さい私は、「最初に箱に入っていたときの順番を崩したらまずいかな、再現できるようにメモを取っておこうか」などと、ちょっと思ってしまった。もちろん、そんな必要はない。手に取りたいカードを手に取ればいいし、壁に留めたいカードがあれば壁に留めればいいのだ。


 01.png
    画像—『Madagascar 2012』のカードと箱


 形式がないのではない。伝統を無視するものでもない。写真と歌の取り合わせは画讃を想起させるし、カードの枚数の「31」はもちろん三十一文字に由来する。光森さんは常に形式を意識し、疑いつつ、その活性化をもくろんでいるのだろう。

 『Madagascar 2012』では、次のような歌がまず印象に残った。

牛飼ひが連れて歩くは購ひし牛、売りにゆく牛、売れざりし牛
版ずれのまま刷られたる瘤牛は指に滲みぬ新聞のうへ



 1首目は第3句の字余りのルーズな感じが牛の緩慢な動きを彷彿させる。2首目は、版ずれと乾き切らないインクが市街の生き生きとした活動ぶりを象徴しているようで、好ましい。


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       画像—上記2首の歌のカード


 写真と歌の取り合わせ方では、「牛の写真に牛の歌」より、「旧型ルノーの写真に新聞紙の歌」の方がいわゆる不即不離で、おもしろい。

 やや気になったのは、『鈴を産むひばり』の特徴をなしていた豊かな想像と比喩、斬新な感覚と表現といったものが、ここではあまり目立たなくなっていることだ。冒険的なハードウエアに対し、ソフトウエアの方は従来の旅行詠の概念をどこまで越えることができているか。

四角い闇を連ねて貨物列車あり遮断機もたぬ踏切を過ぐ
風紋に足あとは消え天穹より堕ちて浜辺に佇てる吾なり



 闇の生々しさという点で、「四角い闇を連ねて」は『鈴を産むひばり』の1首、

半券を唇(くち)にはさみて暗闇を逃さぬための扉をひらく



に及ばないように思われる。「風紋に足あとは消え」は魅力のある風景なのに、「天穹より落ちて」という自意識の安易な種明かしのようになっているのが惜しい。光森さんの歌には、さらに冒険的であることを期待してしまう。

行行重行行(ゆきゆきてかさねゆきゆく) 寄せたきり帰らぬ波もあまたあるべし



 この歌の上句など、漢詩訓読のようでもあり、人麻呂歌集の表記のようでもあり、またその字形の連なり自体が波のイメージのようでもあって、新鮮な表現だと思う。しかも、下句は十分抒情的だ。こういった歌が、新しい透明なカードにふさわしいという気がする。

 『Madagascar 2012』と『石垣島 2013』を取り上げた本格的な評論はまだ書かれていないようだ。他の人がどう鑑賞し、どう評価するのか、楽しみに待ちたい。

 光森さんにお願いひとつ。作品には、できれば制作年だけでなく、初回版の年月日とその版の年月日の表示を付けてください。後年の研究者が迷ってしまうので。


(2013.12.28 記)

 『笛』2013年9月号掲載の文章。初出時のプリントミス二箇所を訂正した。『笛』には著者校正がない。それでプリントミスもやや多くなってしまうのだが、このときはそのミスの一箇所が引用歌の大事な1字だったので、マイッた。

     §


  光森裕樹歌集『うづまき管だより』(kindle版)


 光森裕樹の第一歌集『鈴を産むひばり』の装幀はいまどき珍しい、簡素で上品なものだった。出版社は「港の人」。以前『假泊港』(笹原常与著)という、まことに美しい装幀の詩集が出て、その版元がやはり「港の人」だった。版元選び一つとっても、モノとしての本、に対する光森の愛着は紛れもない。

 第二歌集『うづまき管だより』がいわゆる本ではなく、電子書籍だと知ったとき、「歌集が?」と少し驚いた。しかし、光森がそれを実行したことについては、意外な感じはしなかった。電子書籍を読むには、電子書籍リーダーやタブレット端末が要る。ハードへの関心という点では一貫しているのだ。

 さて、その『うづまき管だより』の歌であるが、結論からいえば『鈴を産むひばり』とは別物である。そのことにこそ、私は驚いた。

蜂蜜にしづむピアスの持ち主のよこすメイルの長き秋雨
国匤匡圧土十一(くにほろぶさま)・一十土圧匡匤国(くにおこるさま)けふも王が玉座を吾にゆづらぬ



 『鈴を産むひばり』より。特徴は、イメージを喚起する力の確かさだろう。二首目は才知のひけらかしだけのように見えて、そうではない。圧・土・一といった漢字が呼び起こすイメージの豊かさに魅力がある。さらに、土屋文明の一首「新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな」への連想を通してたちあらわれる満州の幻影にも。

内海と外海のこゑ聴くときにうづまき管は姉妹と思ふ
てのひらをすり抜けさうな雪だからはめて間もない手袋をとる



 『うづまき管だより』より。前の歌集から一転、難解と思う。一首目は左右の渦巻き管が姉妹なのか、はたまた内海と外海が姉妹だというのか。二首目は「はめたばかりの手袋を」と解したいところだが、それにしては「間もない」が意味あり気だ。あるいは別解が? これらの疑問にGoogleは答えてくれない。イメージは朦朧としたままだ。

 歌を詠まない少年期から脳裏に蓄積したとりどりの記憶を、光森は第一歌集で使い切ったのだろう。それで詩作ならぬ思索を始めたのだ。難解さは、その一つのあらわれにちがいない。

ノアはつがひの絵を描き飾るばかりにてがらんだうなるままの方舟



 広い舟の中に動物たちはいない。このがらんどうのイメージは、第一歌集の歌のように鮮やかで、美しくさえある。ただし、これは単なるイメージではない。それ以上の意味を内に含むのだ。やがて水は引くが、動物たちのいない世界で、人もまた死に絶えるだろう。ノアのニヒリズムは、震災以後の我々の比喩のようでもある。美と意味が危うく均衡を保つこの歌は、光森の新たな作風を示唆しているのかもしれない。


 光森裕樹『鈴を産むひばり』(港の人、2010年)の50ページ右1字目「少」と74ページ左1字目「半」は、誤植? 同書のKindle版は見ていないが、そちらではどうなっているのだろう。


追記——松村さんがコメントで指摘してくださったとおり、ページが間違っていました。50→51、74→75です。


 今月、当ブログに二度ばかり登場してもらっている「ごっさん」は、最近第一歌集を出して評判の若手歌人である。この「ごっさん」という呼び名、私が勝手に付けたものだが、何か発音しにくい。なぜだろうと考えているうちに気が付いた。普通は

  ゴッツァン

と言いそうなところを、無理に

  ゴッサン

と発音するからヘンな感じになるのだ。


     §


 一葉の『たけくらべ』の冒頭近くに、

 ……通ふ子供の数々に或は火消鳶人足、おとつさんは刎橋の番屋に居るよと習はずして知る其道のかしこさ、……



というような一節がある。大学時代、明治文学の授業で指名されてこの箇所を音読したとき、「おとつさん」をそのまま

  オトッサン

と発音したら、先生から

  そこは、オトッツァン。

と直された。

 先生の説明の詳細までは覚えていないが、たぶんこんな内容だっただろう。江戸時代の式亭三馬『浮世風呂』は、「さ」に半濁点を付けた「さ゜」でもって、江戸言葉の「ツァ」を表していた。「おとつさ゜ん」とあれば「オトッツァン」と読むわけだ。ところが、後にこの「さ゜」という仮名が使われなくなったので、明治の文章は半濁点の落ちた「おとつさん」という表記で「オトッツァン」と読ませるのである。

 発音に忠実に「おとつつあん」と書けばよさそうなものだが、明治の人はそうは書かない。話し言葉の文法が変わっても、書き言葉では文語文法が長く残ったように、文字を書く人の意識は、口でしゃべる人のそれより保守的かつ規範的である。歴史的仮名遣いで「因縁」を「いんねん」と表記せず「いんえん」と表記するのは、「縁」の語が意識に強く残っているからであり、「雪隠」を「せつちん」と書かず、律義に「せついん」と書くのも同じ理由からだ。「オトッツァン」と口では発音しても、「ツァン」は元々「サン」だという意識があるから、紙の上では「つあん」とは書けないのだ。

 私が、

  広辞苑には「おとっさん」の項目もあります。
 (だから「オトッサン」という読み方もあり得ませんか?)

とちょっと抵抗したら、先生は

  辞書は批判的に読むものだよ。

と優しい口調で諭した。それは確かに、大学生の私が高校教育と大学教育の違いを体感した瞬間だった。


     §


 「ゴッサン」は発音しにくいから、「ゴッツァン」にしようか。いや、それではまるでお相撲さんで、彼の繊細な外見に合わない。別の呼び名を考えようか。


(2013.12.23 記)

 長崎のうみへと抜けてゆく風の絵踏は春の季語であること

   松村正直「絵踏」(『塔』2013.12)



『塔』12月号に載っている歌。一読して、いい歌だなと思う。しかし、これをなぜいい歌だと感じるのだろう。

 上句はもちろんよく分かる。下句も、「そうか、キリシタンを探す踏み絵は季語なのか」と教えられるものの、難解ではない。

 長崎奉行所の絵踏は毎年、正月四日から八日まで行われたという。キリシタンでない人間にとっては、年中行事の一つのようなものだから、季語に登録されることにもなるのだろう。「春」というのは旧暦の春で、現代人の感覚では冬。「風」はまだ寒風に近いイメージだ。

 かなり迷うのが、上句と下句のつながり方である。「風の」は下句のどこに、どういうふうに掛かるのか、すぐには了解しがたい。しかも、同時に感じるのは、どうもこの歌の味わいの過半がこの「の」に拠っているらしいということだ。

 次のような形と比べれば、一目瞭然。

改作/ 長崎のうみへと風が抜けてゆく絵踏は春の季語であること



 一首の意味は、こちらの方が格段に分かりやすい。しかし、元の歌にあった魅力がずいぶんと後退してしまう。

 やはり、日常の物言いから離れた「風の絵踏は」という修辞に、この歌の味わいがあるのだろう。上句を序詞風に解して、

 長崎の町なかから海へと抜ける風の絵を見ながら、昔の絵踏が春の季語であることなどを思ったことだ。



といった意味に取る読み方を、試みに出しておこう。風を描く絵、というところがやや引っかかるか。


(2013.12.22 記)

 先々月の記事「『塔』2013年10月号を読む」で触れた安達洸介さんがどんな歌を作る人なのか知りたいと思い、『塔』11月号と12月号の隅から隅まで探した。が、歌が全然見当たらない。欠詠なら仕方がないが、もしも退会なら、安達さんの歌を私が読む機会は当分なくなってしまったわけで、残念だ。『塔』のような風通しのよさそうな集団の中にすら、ああいった異分子風の人の居場所がないとすれば、『塔』のためにも惜しい。

 私の知り合いによれば、あの座談会「結社にふたたび出会う」(『塔』10月号)でいちばん過激な発言は、澤村斉美さんの

 だっていま、永田さんの文学理念って言えます? (『塔』の会員は——引用者註)共有していないでしょう。



であるそうだ。確かに結社内の人間関係のなかで言いにくいことを言ったものだろうが、内容自体は、誰もが「そうだろう」と思っていたことに過ぎない。座談会のテーマを離れて、純粋に問題の重要性という点でいえば、河野裕子の評論「いのちを見つめる」を批判した安達さんの発言の方がはるかに重要だと思う。


 荻原さんがツイッターで阿木津さんのことをつぶやいている、と知り合いが教えてくれた。私はスマホを持っておらず、ツイッターも利用していないので、パソコンのメールで画像を送ってもらった。


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 その発言をしたのがほかならぬ阿木津さんであるということに衝撃を受ける。阿木津さんが男性歌人による「女性の会話体」を否定的に捉えていたということも、もちろん興味深い。しかし、それ以上に、「おかま」という語を揶揄的に使用していたということに、いろいろと考えてみなければならない問題がある。

 ただし、事実が荻原さんの証言のとおりだとしても、書いたものでなくシンポジウムでの発言であること、男装・女装や同性愛に対する一般的理解が二十数年前と現代とでは異なること、は考慮する必要があるだろう。

 人の名をあげて、その発言と思想を批判的に取り上げる際に「四半世紀前のとあるシンポ」などという曖昧な言い方はすべきでないと思う。批判する相手に対して非礼であるし、第三者がその証言の真偽を確認することも困難になる。

 荻原さんのツイートはすでにウェブ上で拡散しているらしい。私が知って、この記事を書いているくらいだから。

 荻原さんは早急に訂正のツイートをすべきだと思う。


(2013.12.20 記)


 送ってもらった画像を追加しました。(2013.12.21)

 鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」

   斎藤茂吉『寒雲』(1940年)



 家に呼んだ職人が流行歌を口ずさみながら仕事をする図。YouTubeで実際に美ち奴の「ああそれなのに」を聴いてみて、これまで自分が「ねえ」の意味を取り違えていたことに気付いた。私は「いいですねえ。」の「ねえ」だと思っていたのだが、実はそうではなく、「ねえ、いいでしょう。」の「ねえ」なのだった。文法的に言えば、間投助詞でなく、感動詞。表記の上で区別するなら、

  それなのにねえ。

ではなくて、

  それなのに。ねえ、……

である。些細なことのようだが、この違いは、茂吉の掲出歌を読むときの拍子やアクセントの取り方に微妙に影響するように思う。


 


 ところで、このようにメロディーのある歌詞を短歌の中に引用してある場合、その1首を音読する人は、言葉を原曲のメロディーに乗せて読み上げるものだろうか。この一首を黙読する人は、頭のなかで原曲のメロディーを踏まえているのだろうか。

 ごっさんの文章は何度か読んだことがあるが、歌は読んだことがなかった。先日買った同人誌の特集で、その歌を初めて読んだ。それで感じたのは、同誌に載っている若手歌人のなかで、ごっさん一人だけが風変わり、ということだ。

 なんといえばよいか、若手歌人の作品には「読まれたい」「みとめられたい」といったような色気が感じられるものだと思う。全然悪いことではない。それはつまり表現することへの意欲と同じだから、無い方がおかしいくらいのものだ。

 同誌目次のタイトルを見ただけでも分かる。大森静佳さんの作品のタイトルが「きれいな地獄」。吉田恭大さんが「私信は届かないところ」。土岐友浩さんが「blue blood」。どれもタイトルが読者を誘惑している。

 歌は、吉岡太朗さんの歌を見ておこうか。

中空に尻をとどめておくもんを前提として机ゆうんは



 四つ足をついたその姿は、空中に「尻をとどめておく」ものだという。関西のどこか(?)の方言ともども、読んでもらいたいという作者の気持ちがビンビン伝わってくる。

 ごっさんの掲載作には、この色気が薄いようだ。タイトルからして「長歌と反歌」で、味も素っ気もない。歌はそのタイトルのとおり、長歌の連作5首に反歌1首。長歌の内容は、学校における5段階評価の基準の説明だ。

……優秀な 資質を有し さらにまた その能力を 伸長し 豊かにすべく 相応の 努力をしたと 判断される ことを意味する



 これは「4」の中ほどから結句まで。このとおりの基準が実際にあるのかどうか知らないが、用語は教育関連の法令だとか、学習指導要領だとか、シラバスだとかを切り貼りしたような感じ。それらは、「私」の個性からはかなり距離がある。あまり色気が感じられない理由だろう。ただし、「私」が全然見えてこないわけではない。「と 判断される ことを」といった言い回しに「私」の逡巡のようなものが感じ取れる。「私」が強く押し出される作よりも、むしろ「私」が鮮やかに見えてくるという見方もできるかもしれない。

……必要な わざや知識を 身につけて いると見なせる 材料を ほとんど何も 残さずに……



 こちらは「1」の中ほどの部分。肯定文のつもりで語句をたどると、「ほとんど何も」の辺りでひっくり返る。長歌らしい展開だろう。長歌は長い短歌ではない、ということを知る作者でなければこうはいかない。

 ひっくり返る展開が「5」から「2」までの間になく、「1」だけにあることには、もちろん意味があるのだろう。1を取る者の屈折とか、あるいはまた人間としての面白味とか、がそこに表れているのかもしれない。

 そして「1」にだけ、「私」の逡巡が見えない。1は評価者が付けるというより、半ば自動的に付いてしまうものだからだ。

 こんな具合に見ると、無味乾燥なお役所言葉の切り貼りのように見えた措辞にも作者の意図がさまざまに込められていること、作者がかなりのテクニシャンであるらしいことが理解されてくる。

 ただ、そうはいっても、やはり色気は薄いのだ。今回の作には、色気を抑えたためにかえって人を惹きつけるといったところがあると思う。同誌の他の作者より、この作者はずっと大人だ。しかし、この傾向がさらに進めば、やがて歌を歌うことさえなくなってしまうのではないか。

学校に恵みの秋がやってきて静かになって涼しくなった



 こちらは反歌で、通知表が無事配付された後の図。「恵みの秋」という言葉はイロニーではない、と。

 一言もの申すなら、結句に「涼しくなった」はどうか。暑いから涼を感じるので、「涼しくなった」が秋の後に来るのは不自然な気がする。

 紀伊国屋書店で買った数冊のうちの1冊がいわゆるムック形式の『穂村弘ワンダーランド』(高柳蕗子責任編集、沖積社、2010.10)。こういう本が出ていたことを全然知らなかった。未知の本を見つける場としては、本屋さん>>>>>>>>>>>>アマゾン。

     §

 この本でもっとも嬉しかったのが、初期の穂村の活動を間近で見ていた中山明が文章を寄せていること。二人の若かりし日のエピソードの紹介が貴重だ。黄色いフォルダを詰めた大量の封筒を赤い車で運び、赤い夕日のなか、赤い郵便ポストに片っ端から投函していく話が素敵。

     §

 中山によれば、『早稲田短歌』32号のインタビュー記事で、穂村は

 青春歌集でしょ、『シンジケート』って。


と発言しているという。ああ、これ以上端的に『シンジケート』の特徴を言い当てた言葉があっただろうか。

     §

 アンケート欄がおもしろい。「穂村弘のイメージは?」に対して俳人の小澤實の回答は「やさしくてちょっとつめたく頭がいい」。私なら、もっとストレートに「頭がいい」とだけ答える。

     §

 「穂村弘の短歌で好きな一首をあげて下さい」に対して回答が分かれるなかで、水原紫苑・井辻朱美・斉藤斎藤の3人が一致して、

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる


を挙げている。私も好きな歌だが、従来それほど多く引用されていた印象がないので、ほぉと思う。高野公彦が「嘘つきはどらえもんのはじまり」を挙げているのもなんとなく意外な感じ。もっとも、高野は講談社学術文庫『現代の短歌』に水原や加藤治郎を採り、穂村のことは採っていないので、元々穂村を高く評価しているわけではないのだろう。

     §

 「穂村弘に聞きたいこと」に対しては、「お元気ですか」とか「最近驚いたこと」とか、どうでもいい問いもあるなかで、吉川宏志の

 次の歌集はいつでるのでしょうか、なぜ長期間歌集にまとめていないのかを知りたいです。


という直球の質問が目を引く。私もそれを聞いてみたい。ただ、一方で、答えは聞かなくても分かっている、という気もする。穂村は『シンジケート』『ドライ・ドライ・アイス』以降の自分の歌に不満なのだろう。新歌集をまとめても、『シンジケート』を超えるものには到底ならないことを知っているのだろう。それ以外にどんな理由があるだろう。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』はおそらく、1度きりの実験的なコンセプト歌集として、例外的に出すことができたのだ。

     §

 口絵の「穂村弘アルバム」も貴重だが、1985年の「大学サークルの合宿」の写真はもっと大きく載せてほしかった。人物が小さすぎて、写っている2人のどちらが穂村なのか分からない。『かばん』35号(1987.2)表紙の「歌人集団ペンギン村」って……。アラレちゃんからの借用だが、いかにも80年代っぽいネーミング・センスで、見ているこちらが気恥ずかしくなる。でも、今はもうこれも一周して、むしろ新鮮なのかな?

     §

高柳:では、穂村さんに肯定感を最初に与えたのは?
穂村:親でしょう。

 (対談「もっとキラキラ」)



 5年ぶりくらいに紀伊国屋本店に入った。短歌の売り場が充実していることに驚く。平積みになっていた緑色の本の表紙に惹かれ、手に取ってみる。タイトルの「一角」のレターリングが優しい感じ。裏表紙を見て、またびっくり。なんと、こんな特集をやっているとは! これは買わないわけにはいかない。

 DSC_0280-13.png

 一角

     §

 特集の内容は、本人新作の長歌・反歌。服部真里子・平岡直子・関澤哲郎3氏による批評文や評伝。その長歌と反歌を早速読む。関澤さんに倣って、差し当たりこの作者のことを「ごっさん」と呼ぶことにするが、ごっさん、これはきっと、締切りまぎわになって歌う材料無く、材料探しに出る暇もなし、ということで身の回りを詠んだんだな。(作品の感想は日をあらためて。)

     §

 編集発行人である土岐友浩さんの「紹介」欄を見ると、「編集後記を書くスペースがありませんでした」とあるのだが、それは残念。この同人誌の創刊の経緯などを知りたかった。


小島なお2


 『歌壇』1992年2月号のグラビアページに小島ゆかりさんの写真がある。「私の好きな場所」と題する企画で、東村山のとある公園を散歩する30代の小島さんが写っているのだが、その手に引かれているショートカットの女の子をご覧あれ。5歳の小島なおさんである。とてもよく撮れているので、いずれ『歌壇』で小島なお特集を組むときには、この写真を再掲すればよいと思う。

 写真に付けられたキャプションには、

 愛嬢直子ちゃんと一緒に、毎日この公園で童心のままに水遊びを楽しむ。小島ゆかりの歌の清潔さは、そんな童心から生まれるのだろう。



などとある。「なお」がペンネームとは知らなかった。

 ウィキペディアの「小島なお」の項を見たら、本名の記載があった。考えてみれば「小島」もたぶん母の旧姓であって、本名は別の姓なのだ。ペンネームは表現者としての自意識を示すものだと思う。小島なおさんは、2004年に18歳で角川短歌賞を受賞したとき、すでにそのペンネームを名のっていた。当時から表現者としての自己を十分意識していたわけだ。


(2013.12.8 記)

 氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり

   斎藤茂吉『赤光』



 大辻隆弘「確定条件の力」(『歌壇』11月号)がこの「赤かりければ見て走りたり」について、

 「煙草の火の赤さ」が「原因」であり、「走ること」が「結果」である。



と述べ、そこに「何の因果も関連もない」物事を結び付ける「過剰な心的エネルギー」を感じ取ろうとしていることに対し、私は以前の記事に異論を記した。ところが今朝、何とはなしに気になって品田悦一『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房、2010.6)を見ると、大辻さんとほぼ同じ主張を品田さんがすでにしているのだった。

 ……諏訪湖畔の氷室にさしかかったとき、くわえ煙草で氷を切り出す男がいたという場面だが、下二句にやはり異常な句法があって、〈煙草の火が赤かったから走った〉と、条件と帰結の関係が常軌を逸している。(略)まるで煙草の火にこちらが操られているかのようだ。



 品田さんが赤光の特徴として、別の世界を想像するのでなく「この世界を見慣れぬ世界として再現してみせること」、を挙げたことに私は差し当たり反論するつもりはないのだが、「赤かりければ見て走りたり」の解釈に限ってはやはり賛成できない。以前の記事で述べたように、これは

  火が赤いのでそれに目を留めながら

くらいに解して問題ないところだ。それを

  火が赤かったから走った

などとわざわざ珍妙な読み方をするのはなぜだろう。茂吉の歌に異様さを求める評者の意識が、それほどでもないところまでそのように評者自身に見せているのではないか。


(2013.12.7 記)

 適当に開いたページに、川上まなみという人の歌があって、ちょっと興味を引かれた。

午前二時昨日私の怒られた理由はずっと分からないまま



 午前2時に眠れないまま起きていて、前日怒られた理由を考え続けている図。だれが、どういう状況で怒り出したのか、具体的な情報を提示しないのがかえって想像を誘う。作者は若い人なのだろうが、もし60代の女性がこの歌を朗読したらかわいいだろうと思う。

扇風機だけがまっすぐ前を見て「君は弱い」と叱ってくれる
何事も中途半端な私にもおんなじ朝がまたやってくる



 よいですね。まっすぐな自意識。やはり若い人の作だろう。

「もう嫌」と「死にたい」ばかり繰り返す君の気持ちは理解できない



 5首1連のなかで、この歌だけは私の好みでない。「分からない」と「理解できない」は同じだろうか。私は、違うと思う。「理解できない」には、内容は分かっているがそれに共感することはない、というような含みが若干感じられる。この世は誰にとっても「分からない」ことばかりなのに。

 ともあれ気になる作者だ。この人の名を覚えておくことにしよう。


(2013.12.5 記)

103頁〜

篠懸樹(プラタヌス)かげ行く女(こ)らが眼蓋(まなぶた)に血しほいろさし夏さりにけり

  中村憲吉『林泉集』


 第二句「かげ行く女らが」の「女」に「こ」とルビを打つのは、現代から見ればかなり嫌みな表現であろう。「娘」を「こ」と読ませるのは普通に見られるが、女を「こ」と読ませることは現代ではほとんどない。



 「女」に「こ」とルビを振るのが嫌みな表現と感じられるのに対し、「娘」に「こ」とルビを振るのは現代でも普通の表現で嫌みには感じられない、というように読める。このような感じ方は、現代の歌壇では一般的なものなのだろうか。

 私は実は少々驚いた。というのも、私は著者とは逆で、「娘」に「こ」とルビを振る方がよほど嫌みな表現と感じられるからだ。「女」に「こ」とルビを振るのは、さほど気にならない。なぜだろう。

 わが子の意味で「こ」という語を使うとき、その意味に性別は含まれない。わが子の意味で「娘」の字を使うとき、そこには「女の」という意味が含まれる。したがって、わが子の意味で「こ」という語を使い、かつそれに「娘」という字を当てるとすれば、「こ」に本来含まれない意味を漢字表記によって追加した形になる。そのことは、定型に拠りながら定型を超えた分量の意味を望む欲深さを感じさせ、ひいては嫌みを感じさせるのだろう。

 一方、若い女の意味で「こ」を使い、それに「女」の字を当てても、その表記法は「こ」に新たな意味を追加せず、むしろ本来多様な「こ」の意味を限定する。そこに意味を増やすことへの欲望は感じられない。だから、嫌みな感じもしない、ということではないか。

 「女」に「こ」とルビを振ることを永田さんが嫌みな表現と感じるのはなぜか、永田さん自身の分析を知りたいと思う。

 憲吉の第一歌集『馬鈴薯の花』は、島木赤彦との共著歌集であったが、第二歌集『林泉集』は単著で大正五年(一九一六)刊。



 大正5年の初版本『林泉集』では、この歌の第2句は「かげを行く女が」だった。「かげ行く女らが」の形になるのは、大正9年の改版本からである。歌の形は改版本のものを採りながら、解説で初版本のみに言及するというのは、読者にやや不親切か。

 この二種の形を比較すると、リズムは改版本の形がなだらか。初版本の形は幾分ギクシャク。意味内容についていえば、改版本の「女ら」は幾人もの女。初版本の「女」は1人の女か。「女ら」が風景の一部であるの対し、「女」は風景の中から浮かび上がってくる。

 どちらの形を採るかでこの1首の印象は少し変わるはずなので、著者が意図して改版本の形を採ったのであれば、その意図を知りたいと思う。

 前の記事で『言海』を引用したが、この明治の辞書には一つ思い出がある。あるときのこと、『言海』の「百人一首」の項には

 一ノ字ヲ読マヌヲ例トス



と書いてある、と友人が教えてくれたのだ。この辞書の記述から、

  ヒャクニンシュ

という故実読みが少なくとも明治の途中までは一般的であったということが確認でき、おそらく正岡子規や与謝野晶子もそう発音していただろうということが推測できるわけだが、そもそもそのときの私は、百人一首がかつて「ヒャクニンシュ」と発音されていた、ということを知らなかった。だから、自分の知らないことがたくさんあるのだなあ、とただただ感心したのだった。

 その後、友人とは疎遠になった。『言海』の記述のことを、もしかしたら彼も何かの本を読んで知ったのかもしれない。だが、私にとっては、彼が教えてくれたこと。

 忘れがたい。


(2013.12.3)

 引き続き、永田和宏『近代秀歌』に関する覚書。とくに断らないかぎり、引用は同書より。

鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

  窪田空穂『まひる野』


 文法的には危うい一首である。「行き行かば」は仮定である。結句は本来なら「見むか」とでもなるのだろうが、文法的な整合性よりは、韻としての「見るらむか」のやわらかい響きを大切にしたのだろうか。



 高校の古典の授業では、助動詞「む」は「推量」、「らむ」は「現在推量」、などと教えられる。例文は、更級日記や徒然草などである。掲出歌は上句で「もしも行くなら」と仮定しているので、下句ではまだ実現しない未来を推量して「見むか」とでもすべきところが、「見るらむか」になっている。「らむ」の意味を誤って「む」と同様と捉えているのではないか——「文法的には危うい」とは、そういう意味だろう。

 こういう指摘は従来からあって、窪田空穂の研究者である西村真一氏は「文法的には誤用」と断言している(『国文学 解釈と教材の研究』43巻13号、1998年)。

 これについて私は『日本語文章・文体・表現事典』(朝倉書店、2011年)の窪田空穂の項で軽く触れたことがあるが、ここであらためてまとめておこう。結論から言えば、「誤用」ではない。これを誤用とするのは、明治の文語の実態とそれをめぐる状況を見ようとしないからである。

 近代短歌の「らむ」に、現在推量でなく単純な推量の意味で使ったものがある、ということについては、すでに宮地伸一の指摘がある(「歌言葉雑記」)。宮地が引いている例歌は、次のようなものだ。

小夜ふけてあいろもわかず悶ゆれば明日は疲れてまた眠るらむ
  長塚節「鍼の如く」

円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先きいろいろの事があるらむ
  斎藤茂吉『つきかげ』

亡き人の姿幼等に語らむに聞き分くるまで吾あるらむか
  土屋文明『青南後集』



 引用歌が同門の先人の作ばかりなのは、アララギの人らしいご愛嬌。この三首の「らむ」の意味は、たしかに単純な推量のようだ。〈古今集以後の「らむ」は、現在という時の規範から脱け出て、単なる推量の助動詞として用いられる場合が多くなった〉という宮地の言葉には同意しがたいが、少なくとも明治生まれの歌人の作にそのような用法が珍しくなかったことはみとめてよいだろう。宮地は言及しないが、啄木にも同じ用法が見られる。啄木や茂吉など「破格の文法」ばかりじゃないか、という向きには次の歌を見てもらえばよい。

胸にみついくその恨はかなくもわが身と共にくちかはつらむ
  佐佐木信綱『思草』



 国文学者の信綱に対して、さすがに「誤用」とは言えない。では、どうしてこういう用法になるのだろうか。答えは、いつの時代からか「らむ」の使い方が変わったから、というだけではない。明治30年代まで、「らむ」の意味はただ単純な推量だと考えられており、古典のなかの「らむ」までその意味に解されているほどだったから、ということなのである。

 その証拠に、大槻文彦編の明治24年版『言海』で「らむ」を引くと、

 動作ヲ推シハカリ云フ意ノ助動詞。



としか書いていない。同31年版の文法書である中邨秋香『皇国文法』でも、「らむ」と「まし」「む」「らし」とを一括りにして「いずれも想像の助動詞」と説明している。

 このような状況を変えたのが、明治39年に発表された1本の論文だった。後に折口信夫の師となる国語学者、三矢重松の「助動詞「らむ」の意義」(『国学院雑誌』1906.3)である。三矢は、古典の「らむ」について、

 現在の動作ばかり想像して、未来にも過去にも係らぬ。



と説いた。つまり、古典の「らむ」の意味が現在推量であるというのは、明治の末に研究者が再発見したことだったのだ。

 大正4年版の松井簡治・上田萬年編『大日本国語辞典』における「らむ」の説明は、いまだ「推量の意を表はす語」。同5年版の井上宗助・大野佐吉『国定読本文語法と口語法』になると、ようやく「ひろく現在の動作・状態を推量する助動詞」という説明になる。三矢の説が、次第に受け入れられていった様子が窺われる。

 話を空穂の掲出歌に戻すと、『まひる野』は明治38年の歌集。したがって、その収録歌の「らむ」が単純な推量の意味で使われているのは至極当然で、これを誤用とは言えない、ということになる。

 永田さんの「文法的には危うい」という見解は基本的に西村氏と同じであるから、やはり妥当でない。ただ、永田さんが「誤用」とは言わず、「危うい」という微妙な表現にとどめたことに私は強い印象を受けた。それは、言葉の誤りを指摘することの怖さを——つまり言葉は生きて動くものだということを——知っている人の言なのだと思う。

 かえりみれば、自分も文法オタク、語義オタクの類で、歌集を読みながら一言言いたくなることも少なくない。怖い、怖い。


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Author:和爾猫
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