最新の頁   »  2013年11月17日
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 ただ一つ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

   斎藤茂吉『白桃』(1942年)



 松村正直さんの論考「白桃の歌を読む」(『D・arts』8号、2005.8)は、この1首について先行文献に広く目を配り、様々な観点から検討したおもしろい文章だと思う。短歌雑誌には評論・評伝・時評・随筆・ブックレビューなどがあふれているが、対象を1首の歌に限って微に入り細にわたって論じるような文章はほとんど見かけない。上記の論考のような文章をもっと読みたい。(松村さんももっと書いてください。)

     §

 松村さんは『斎藤茂吉短歌合評』の小松三郎の評を引き、さらに茂吉の『寒雲』の1首、

しづかなる午前十時に飛鳥仏の小さき前にわれは来りぬ



を参照しつつ、次のように書いている。

 つまり「ゆたかなる白桃」や「小さき飛鳥仏」の場合、形容詞が名詞に直接かかって限定するように働くのに対して、「白桃のゆたけきを」「飛鳥仏の小さき前に」では、「白桃」「飛鳥仏」の存在感が限定されることなく読者の側に届く。



 「ゆたかなる白桃」は、初めから白桃の属性を「ゆたかなる」だけに限定している。対して「白桃のゆたけき」は、まず白桃のイメージを自由に想像させ、その後に「ゆたけき」という属性を知らせる。だから「白桃」の存在感がより一層豊かに感じられる——といった理解でよいだろうか。「ゆたけき白桃」と「白桃のゆたけき」を並べてみれば、誰でも後者の方が優れていると感じるだろう。しかし、なぜそうなのか、を説明することは難しい。松村さんの論考は、その難しさに挑んだものだ。

 私は、「ゆたけき白桃」が過去を再構成した表現であるのに対し、「白桃のゆたけき」は時系列のとおりに過去を追体験するような表現であると思う。人は現実の白桃を前にして「ゆたけき白桃」などと認識することはない。見たり手に取ったりして白桃の存在を認めたのち、それに歯を当てて香気と甘味とを味わって「ゆたけき」と認めるものだろう。その順序は、まさに「白桃のゆたけき」である。

 こう考えれば、結句が「食ひけり」とか「食ひはじめけり」とかでなく、「食ひをはりけり」であることも説明がつく気がする。白桃をめぐる認識の推移を表わした末に、「もう無い」ことを確認するのである。

 「ゆたけき白桃」より「白桃のゆたけき」におもしろみを感じるのは、要するに後者の方がリアルだから、ということではないか。


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Author:和爾猫
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