最新の頁   »  2013年11月06日
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 前の記事と同じ『歌壇』の特集「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」から。大辻さんは、『赤光』初版本所収の

どんよりと空は曇りて居りたれば二たび空を見ざりけるかも



と改選版の

どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも



等を比較して、次のように結論付けている。

 ……『赤光』改選時の大正十年の茂吉は、過剰な確定条件の語法を自作のなかから排除しようとしている、と言ってよい。このとき四十代になりつつあった茂吉にとって、「已然形+ば」の語法の背後にある自分の若き日の過剰な心的エネルギーは、面映ゆく、鬱陶しく、鼻持ちならないものと感じられていたに違いない。



 なるほど、そのとおりだと思う。前に私が見学した歌会で、ある一首のなかにあった「已然形+ば」の語法が批判されていた。『赤光』改選以来の茂吉流の歌の作法は、あるいは今も受け継がれているのかもしれない。

 ところで、この論考の初めに引かれている歌、

氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり



の解釈は、大辻さんの言うとおりでよいのだろうか。大辻さんは、「赤かりければ」の原因・理由の語法をめぐって、

 「煙草の火の赤さ」が「原因」であり、「走ること」が「結果」である。(略)ここには、明らかに凡人ではついていけない過剰な思い込みがあるだろう。客観的にみれば、師の逝去の報を受けて奔走することと、その途上において煙草の赤い火を目にしたことの間には、何の因果も関連もない。



と言うが、私は「赤いから走った」ではなく「赤いから見た」と解すればよいと思う。こちらの解釈なら、これはごく自然な心と目の動きだろう。

 前の「どんよりと空は曇りて」の解釈にも、実は同じような疑問がある。大辻さんは、

 どんよりと曇った梅雨どきの空が眼前に広がっていることと、その空を再びは見ようとしない茂吉の心情の結びつきが分かりにくい。



と言うのだが、これは「とくにおもしろくもない空だから、わざわざ見ることもない」という程度の単純な心理ではないか。

 ただ、その自然で単純な反応をことさらに原因と結果というふうに表現したところに、若き茂吉の過剰な「心的エネルギー」をみとめることができる。つまり、因果関係自体が異様なのではなく、その表現の仕方が異様なのだと私は思う。


(2013.11.6 記)


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Author:和爾猫
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