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 1人の著者が近代の有名歌を網羅的に取り上げてあれこれ鑑賞するという本は、ありそうで、あまりなかったのではなかろうか。永田和宏『近代秀歌』(岩波新書、2013.1)はそういう本である。なお、近代短歌100首を取り上げているが、1人1首ではない。斎藤茂吉11首、石川啄木9首、与謝野晶子と若山牧水が8首ずつであり、この4人だけで36首分を占めている。

 以下、私の覚書。引用は全て同書より。

10頁〜

人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき

  北見志保子『花のかげ』

 平井康三郎によって作曲され、日本歌曲の名曲として知られる「平城山」は、北見志保子のこの一首に曲をつけたものである。(略)私が小学生だったか、中学生だったかの頃は、学校の音楽の時間には必ず習う曲であった。

 北見志保子は不思議な歌人である。ほとんどこの一首だけで、短歌史に残る歌人となった。



 私の小学校時代と中学時代は昭和50年代から60年代にかけてだが、音楽の授業で「平城山」を習った記憶はない。はじめてこの歌曲を知ったのは大学時代で、日本歌曲のマニアである恩師の家で古いレコードを聴かせてもらったのである。今の小学校や中学校でも、この曲を教えていないだろう。そうだとすると、北見志保子の名もやがて忘れ去られることになろうか。

 著者は結句「堪へがたかりき」について「弱い」と評した後で、次のように記す。

 しかし、ここまで人口に膾炙した歌に、そのような評価はもはや必要あるまい。人を恋う、その悲しみの原点ともいうべき位置に、この歌は静かにぽつんと立っている。



 深く共感した。愛唱された歌に野暮は言わない方がいい。


37頁〜

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる


  石川啄木『一握の砂』


 「われ泣きぬれて/蟹とたはむる」とは、さすがに現在では恥しくて詠えないところだろう。



 本書には、しばしば歌人の視点からの発言が現れる。ここもその一つで、「恥しくて詠えない」といった言い方が自然に出てくる。歌人は、古典和歌も近代短歌も歌人の視点で読むのだろうか(批判ではなく、純粋に質問です)。

 本書の内容から離れて一首の感想をいえば、「蟹」という卑俗な生き物を出すところ、「たはむる」という言い方で感傷を戯画化するところなどに、近代らしさが感じられる。「東海」という漢語は短歌の用語としては珍しいと思うが、こういう硬い響きの語から歌い出すことで一首全体の調べを引き締めているのは見逃せない。こういった言葉の選択を、啄木は無意識のうちにすることができたのだろうか。それとも、相当推敲をしたのだろうか。

 総じて、啄木はいわゆる専門歌人からの評価は低い傾向がある(略)



 そ、そうなのか! 昔のアララギなどには啄木を軽く見る傾向があったかもしれないが、現代歌人の間でもそうなのだろうか。実際のところ、啄木よりおもしろい歌を作る歌人など、そうそういないと思うのだが。


(続く)


(2013.11.30 記)

 大辻隆弘さんが時評欄に『「新内向派」の登場』という文章を書いている。一昨年から今年までに第一歌集を出した光森裕樹、内山晶太、田村元、堂園昌彦、大森静佳らには、小さなものへの注目から内省へ至る「内向性」がある、という。

 こういった分類のような作業は、「そうであるもの」と「そうでないもの」をともに示して初めて意味をなすはずだ。ところが、今回の文章は「内向派でないもの」の提示を欠いているので、やや分かりにくい。もしかすると、歌壇通には言わずもがなのことなのかもしれないが、歌壇通でない読者にはいささか不親切だと思う。

 「内向」という用語は元々、昭和40年代に登場したある種の小説家を指す「内向の世代」という呼び名に由来する。せっかくネット上のブログなのだから、ウィキペディアを見ておこう。

内向の世代(ないこうのせだい)とは、1930年代に生まれ、1965年から1974年にかけて抬頭した一連の作家を指す、日本文学史上の用語である。

1971年に文芸評論家の小田切秀雄が初めて用いたとされる。小田切は「60年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感から政治的イデオロギーから距離をおきはじめた(当時の)作家や評論家」と否定的な意味で使った。主に自らの実存や在り方を内省的に模索したとされる。

代表的な作家は、古井由吉、後藤明生、日野啓三、黒井千次、小川国夫、坂上弘、高井有一、阿部昭、柏原兵三など。

 (ウィキペディア「内向の世代」の項)



 この引用文の場合は、「学生運動」「政治的イデオロギー」を深く主題に取り込んだ文学運動と対置するかたちで「内向の世代」を位置付けているわけである。

 大辻さんの構想の中には当然、「内向派でないもの」も組み込まれていたはずなので、あらためてそれを明示した上で論じてほしいと思った。


(2013.11.28 記)


 その2を書かないことにしたので、タイトルの「その1」をカットします。

(2013.11.30 追記)

 同号で心にとどめた歌、4首。まず、

横抱きにさらはる遠き遠き日の出来事いまは耀ひて見ゆ

  山本かね子



 年鑑類を見ると、山本さんは1926(大正15)年生まれ。「さらはる遠き」の句割れが読みにくいし、特にすぐれた歌とは思わないのだが(エラそうに、すみません)、昔「横抱き」でさらわれたことがあるという内容に興味を引かれる。いったいどんな状況だったのだろう。作者には、この「横抱き」事件をテーマにした連作を作ってほしいと思う。こういうちょっとした願いは、たいていかなわないままで、自分でも忘れてしまうが。

秋されば狐恋しや訪ね来て一夜(ひとよ)寝て去るをみなは狐

  栗木京子



 実家で暮らしていたころ、ときどき母の友人が泊まりがけで遊びにきた。この歌は、ああいった情景を思い浮かべればよいのかなと思う。そして、この歌を70歳くらいの男性歌人に朗読してもらうのも一興か。


イーゼルを据ゑたる草の緑よりまづ湿りきて昼の雨降る

  同上



 ああ、これはよい歌。こういう歌が何首かあれば、雑誌を買ったかいもある。ジブリの『風立ちぬ』の世界にちょっと似ているが。

 さて、水野昌雄選「読者歌壇」(12月)の秀作欄に次の歌が、次の作者名で載っている。

今日よりはあとふり返らず進まんと八十(やそぢ)となりし朝(あした)に思ふ

  宮崎荘平



 この作者はどう考えても、国文学者の宮崎荘平氏である。実作は素人だからということで、読者欄に投稿したのだろう。氏には専門の平安文学以外に、土屋文明関係の著書もあるのだが、選者や編集者は気付かないものか。選者評は次のとおり。

 抽象的ではあるが、わかる。回顧的にならず、前向きに生きようとするの(ママ)結構。



 こんなお言葉を受けることなど日ごろあまりないだろうから、宮崎先生も新鮮な気持ちになったかもしれない。


(2013.11.27 記)

 地下街の書店で現代短歌社の『現代短歌』を初めて見つけた。この夏創刊の月刊誌で、これは第4号。買ってみる気になったのは、新雑誌への興味ともう一つ、中村三郎という牧水系の歌人の小特集があったため。以前、斎藤史がこの中村三郎について書いているのを読んで、いずれ調べたいと思っていたのである。

 「九州の歌人たち」という連載企画の1回分として中村三郎を取り上げているようで、頁数はわずか6頁。しかし、内容は作品抄出、年譜、黒瀬珂瀾による作品解説、久保美洋子による伝記、牧水と一緒に写っている写真といった具合で、資料としての体裁を立派に整えている。私のような入門者にはたいへんありがたい。作品抄出と年譜の編者を明記してくれれば、もっとよかったが。

 作品抄出より。

生きもののなべて陽を吸ふうごめきの我身にもまたかそけく覚ゆ
  (1919年作)



 「陽を吸ふうごめき」といった肉体感覚的な把握、なべての生き物と我が身とのつながりの意識などに新鮮な詩心が感じられる。同時期に勢力を伸ばしていたアララギ流と比べれば、やはりどこか異質だ。


(2013.11.25 記)

 近代の有名歌に関する諸説を集めた『諸説近代秀歌鑑賞』はまことに便利な本だが、あまり活用されていないらしいのが残念。どこの公共図書館にもたいてい入っているのに。

 使い方の例、1つ。長塚節の1首、

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり



について、この本は「霧ながら」の解釈が分かれていることを指摘し、鹿児島寿蔵以下9名の文章を引いている。これを見ると、永田和宏『近代秀歌』(岩波新書、2013年)が

 朝霧のたちこめるなかに、その清楚な瓶に冷たい水を汲み入れたことだ、という意味になろう。



と書いたことに対して中村稔「人生に関する断章」19(『ユリイカ』7月号)が反論して、

 霧とともに水を汲んだ、という意と解すべきであろう。



と言い、それに今度は内山晶太「やわらかな叙述」(『塔』10月号)が反論、

 あえて文章化するとすれば、「霧の(ながれる)ままに、(その場所で、あるいはそのなかで)水を汲む」となるはずである。



と書いて永田を擁護していることなどは、従来繰り返されてきた議論をもう一度繰り返しているのであって、そこに何か新しい知見を加えているわけでもないということ、永田さんの本は別にしても、中村氏や内山さんの発言はわざわざそれを述べるだけの材料に乏しい憾みがあるということ、が分かる。


 前の前の記事、前の記事を書いた後に、『諸説近代秀歌鑑賞』(岩城之徳監修・藤岡武雄編著、桜楓社、1981)でこの歌の先行文献を見てみる。こういう作業は当然書く前にするもので、どうもいけない。ネット上ではよくもわるくも、軽い発言をしてしまう。

 さて、同書の該当の項は木俣修、森脇一夫、本林勝夫、佐佐木幸綱、長谷川銀作、大悟法利雄といった人たちの文章を引いているが、とくに「なつかしき」に注目するようなものはなく、どれもただ「なつかしい」と解している。要するに、一語の解釈としては現代語の「なつかしい」と同じ意味で取っているのだろう。

 こうしてみると、田中教子さんの一文は通説に従ったもので、田中さんの名をあげるにしても、そのことに言及すべきだったと思う。


 前の記事で牧水の1首について書いたのを知り合いが読んで、メールをくれた。

 その1首に、

   小諸懐古園にて

という註記が付いていることはどう考えるか。「ほろびしものはなつかしきかな」の「なつかしき」はやはり「懐旧」を意味しているはずだ。



といった内容である。意見をもらえるのがうれしい。だれかと話しているうちに考えが深まったりまとまったりするのだと思う。まあこちらの器が小さくて、そうならないこともあるけど。

 この註記には触れておくべきだったなと反省。ただし、前の記事を訂正する必要はないと考えている。確かに手元の大辞林で「懐古」を引くと「懐旧」とあり、「懐旧」を引くと「懐古」とある。しかし、この二語の意味は同じではないだろう。

 会津八一『南京新唱』(1924年)に「法華寺懐古」と題する連作があって、それは例えば、

ふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる



といった歌なのだが、要するに目前の朱唇をたよりに古代の皇后のそれを想像するのである。「懐古」の語意が、自身の体験を思い出す「懐旧」と異なるのは明らかだ。

【懐古】現在失われている昔の情緒や風俗などを理想的なものとして復古の策などを考えたりすること。

【懐旧】みんながまだ若かった昔をなつかしく思い起こすこと。



 新明解国語辞典より。新解さんの説明は細かくて分かりやすい。細か過ぎて、かえって種々のニュアンスをとりこぼしているきらいがないでもないが。

 小諸懐古園は、廃藩置県の後、旧小室藩士らが本丸跡に社を祀り「懐古園」と名付けたのが始まりであるという(参考リンク「懐古園の歴史」)。この「懐古」の意味が藩士個々人の体験の追想に狭く限定されないのは、いうまでもない。

 懐古園にちなんだ牧水の「ほろびしものはなつかしきかな」もまた、「滅び去ったものが慕わしい」のであって、「滅び去ったものが思い出されて慕わしい」のではないだろうと思う。

 どうでもいいことだろうか?


(2013.11.22 記)

 かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな

   若山牧水『路上』(1911年)



 田中教子さんがこの歌について、

 ……「ほろびしもの」の「なつかしさ」を詠んだものである。

(短歌周遊逍遥 http://blog.goo.ne.jp/sikyaku_himekuri_tanka/e/965821ef02c22437a25c2af94b011296



と書いているが、そんなに簡単にすませられる表現だろうか。

 「なつかし(=なつかしい)」という形容詞は、単に「慕わしい」というのが原義で、「昔が思い出されて慕わしい」というのは後になって生まれた意味だという。現代ではほとんど後の意味でしか使われないが、明治期にはまだ原義のとおりに使われることも多かった。一葉全集の「なつかし」の用例を調べたことがあるが、結果は単純明快で、一葉の小説や和歌に出てくる「なつかし」はほぼすべて、懐旧の意を含まない「慕わしい」なのだった。

 掲出歌は明治の終わりのころの作だが、結句はどちらの意味か。「ほろびしもの」は過去に属するから、この結句を懐旧の意で解することもできるかもしれないが、私は単に「慕わしい」の意味だと見る。

 滅び去ったものは今を盛りのものよりもいっそう慕わしい……、というように読みたいからである。いうまでもないが、「今を盛りのものよりもいっそうその昔が思い出されて」というのでは、言葉が意味をなさない。

 「ほろびしものは」の「は」が私の読み方を支持してくれていると、私は思っている。


(2013.11.21 記)

 小池光『茂吉を読む : 五十代五歌集』(五柳書院、2003年)によれば、「惜しんでとって置いた桃をついに食ってしまう」という言い方には寓意が感じられるという。また『斎藤茂吉:その迷宮に遊ぶ』(砂子屋書房、1998年)における小池の発言によれば、これは女弟子の「永井ふさ子をとうとう抱いちゃったよ」の意だとの説があるという。

 松村さんが「白桃の歌を読む」でこの二つの発言を並べて引いているのが可笑しい。小池さんが実は「白桃=女」説をおおいに気に入っている、ということがよくわかる! 

 もちろん私もその説をおもしろがる一人だが、では実際に歌の解釈としてそういった読み方が成り立つかというと、それはちょっと無理なのかなと思う。

 その比喩説にとっては、初句の「ただ一つ」が邪魔になるように思うのだ。「一つだけ大事にとっておいた」という言い方には、いくつか食べた後に最後の一つだけ……という含意がないだろうか。もしその含意があるとすれば、「一人だけ大事にとっておいた女を……」とは?

 やはり無理ではなかろうか。


(2013.11.18 記)

 ただ一つ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

   斎藤茂吉『白桃』(1942年)



 松村正直さんの論考「白桃の歌を読む」(『D・arts』8号、2005.8)は、この1首について先行文献に広く目を配り、様々な観点から検討したおもしろい文章だと思う。短歌雑誌には評論・評伝・時評・随筆・ブックレビューなどがあふれているが、対象を1首の歌に限って微に入り細にわたって論じるような文章はほとんど見かけない。上記の論考のような文章をもっと読みたい。(松村さんももっと書いてください。)

     §

 松村さんは『斎藤茂吉短歌合評』の小松三郎の評を引き、さらに茂吉の『寒雲』の1首、

しづかなる午前十時に飛鳥仏の小さき前にわれは来りぬ



を参照しつつ、次のように書いている。

 つまり「ゆたかなる白桃」や「小さき飛鳥仏」の場合、形容詞が名詞に直接かかって限定するように働くのに対して、「白桃のゆたけきを」「飛鳥仏の小さき前に」では、「白桃」「飛鳥仏」の存在感が限定されることなく読者の側に届く。



 「ゆたかなる白桃」は、初めから白桃の属性を「ゆたかなる」だけに限定している。対して「白桃のゆたけき」は、まず白桃のイメージを自由に想像させ、その後に「ゆたけき」という属性を知らせる。だから「白桃」の存在感がより一層豊かに感じられる——といった理解でよいだろうか。「ゆたけき白桃」と「白桃のゆたけき」を並べてみれば、誰でも後者の方が優れていると感じるだろう。しかし、なぜそうなのか、を説明することは難しい。松村さんの論考は、その難しさに挑んだものだ。

 私は、「ゆたけき白桃」が過去を再構成した表現であるのに対し、「白桃のゆたけき」は時系列のとおりに過去を追体験するような表現であると思う。人は現実の白桃を前にして「ゆたけき白桃」などと認識することはない。見たり手に取ったりして白桃の存在を認めたのち、それに歯を当てて香気と甘味とを味わって「ゆたけき」と認めるものだろう。その順序は、まさに「白桃のゆたけき」である。

 こう考えれば、結句が「食ひけり」とか「食ひはじめけり」とかでなく、「食ひをはりけり」であることも説明がつく気がする。白桃をめぐる認識の推移を表わした末に、「もう無い」ことを確認するのである。

 「ゆたけき白桃」より「白桃のゆたけき」におもしろみを感じるのは、要するに後者の方がリアルだから、ということではないか。


 『原牛』が出たとき、その評判の高さを聞いて、普通だったら買うじゃない。それなのに、「私にも一冊ください」って葛原さんに手紙を書いたの。そうしたら、ちゃんと葛原さんが名前を入れて送ってくださったの。でも、そのとき三十歳だった私にはこれを読みこなす力がおそらくなかったんだと思う。



 尾崎左永子・安永蕗子との鼎談「葛原妙子の超感覚の世界」(『短歌』1992.9)における馬場あき子の言葉。

 読みたい本は買って読むのがよいと思う。一方で、葛原の示した古き良き礼節が慕わしい。


四角であってはならない、とは言う
四角でなくてはならない、とも言う
四角でなければならない、とも言う
四角であればならない、とは言わない

四角であってならない、とは言わない
四角でなくてならない、とも言わない
うれしくてならない、とは言う
うれしくなくてならない、とは言わない

四角であってはいけない、とは言う
四角でなくてはいけない、とも言う
四角であっていけない、とも言うか
四角でなくていけない、とは言う

四角ではならない、とは言わないか
四角ではいけない、とは言う
四角でいけない、とは言う
四角でならない、とは……


 なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

   前川佐美雄『植物祭』(1930)



 この歌の上句は「なぜ部屋の形は四角でなければならないのか……」という意味だと思っていたが、よく考えてみるとそうは読めないようだ。「四角でならぬ」は難解すぎる。

 高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫)にこの歌が入っているが、高野さんはどう解釈しているのだろう。


(2013.11.14 記)

 武川忠一の第1歌集『氷湖』(1959)の歌としては、

ゆずらざるわが狭量を吹きてゆく氷湖の風は雪巻き上げて



がよく引かれるが、私はあまり好きではない。自覚しているなら譲ればいいのに、と思ってしまうのだ。

 分かっている。譲ろうと思って譲れないのが人間であり、その真実に焦点を当てようとしているのだ、と。また、作者は悔いるとともに、自負心をもってもいるのだ、と。しかし、作者の狭量の犠牲になった他者がどこかにいるのだろうし、作者がこういう歌を作ってひとときの慰めを得ているのは、歌のあり方としてどうなのだろう。

 もっとも、本当に度量の小さい人はそもそもこういった歌を作らないのかもしれない。ということは、作者は実際、それほど狭量ではないのかも。

 これとは別に、風が「わが狭量を吹き」という、あからさまに日常の言葉の使い方を超えるような、いかにも詩を作りましたというような言い方も、私は好きになれない。そのあからさまなところに底の浅さを感じてしまうのだ。

白らじらと光る氷湖の沖解けて倚るべきものに遠く歩めり



 同じ歌集では、巻頭にあるこの1首の方がずっと好きだ。「氷湖の沖」と「倚るべきもの」がつかず離れず、微妙に連関する。「倚るべき」という捉え方、「遠く歩めり」という行為の叙述に、これも微妙に主体の感情があらわれる。そのあからさまでないところに、内省の深さを感じる。何度読み返しても飽きない。

 三枝昂之編『歌人の原風景』(本阿弥書店、2005)に武川と三枝の対談が入っていて、武川本人がこの「倚るべきものに遠く歩めり」の歌について「嫌いではないですね」と発言している。これを読んで、わが意を得た感じがした。

 『歌人の原風景』という本は、大正生まれの歌人の貴重な証言が満載で、企画を立てた『歌壇』編集部も、インタビューアーの三枝さんも、本当によい仕事をされたと思う。刊行からまだ10年も経っていないが、ここで取り上げられた12人のうち、いまも健在なのは清水房雄と岡野弘彦だけだ。田谷鋭さんは先週逝去。時間は……。


 筑摩書房版『現代短歌全集』は各歌集の初刊本を集めたもので、第14巻(1981)所収の『原牛』も当然初刊本の本文を採っている。しかし、例の1首だけは三一書房版と同形(唐突にわれのきたりし高原に青樅匂ふ さびしくありける)である。

 この本が刊行されたとき、葛原本人はまだ健在。推測するに、初刊本の本文を不審に思った編者が葛原に問い合わせ、葛原は三一書房版の本文を教えた、ということだろう。編者の手元にあった初刊本には、誤植訂正の紙が挟み込まれていなかったと見える。


(2013.11.12 記)

 三一書房版『葛原妙子歌集』(1974)は、『朱霊』(1970)以前の歌集を、未完歌集まで含め網羅した本である。葛原の生前に刊行されたものだから、当然本人の手が入っており、第一歌集『橙黄』(初刊本は1950)に大幅な改稿があることはよく知られている。

 これまで誰も指摘していないはずだが、この本では、『原牛』にも細かい改稿がある。

かいまみし妻は緋鯉なりにし赤き胸びれに米をとぎゐし(津軽昔噺)



の注記「(津軽昔噺)」を削除したり、

拡大鏡ふとあてしかば蝗の顎ありし 蝗の顎は深淵



の下句を「蝗の顎ありし蝗の鉤の顎はも」に改めたり、といった類である。私は初刊本の本文の方が好きだが、作者と読者の思いはときにすれ違うもので、仕方がない。

 さて、前の記事で取り上げた「高原に青樅匂ふ」の歌は、三一書房版ではこうなっている。

唐突にわれのきたりし高原に青樅匂ふ さびしくありける



 初刊本では「さびしといはん」とあるべきところが誤植で「さびしくといはん」になっていたわけだが、ここでその「さびしく」の方を生かしているのがおもしろい。

 思うに、初刊本の原稿にすでに「さびしくありける」に近い形が一案として記されていて、何度も朱を入れられた末に、そのうちの「く」1字が確定本文「さびしといはん」のなかに紛れ込んでしまった、ということではなかろうか。

 そして、後年の三一書房版ではかつて捨てられた案に近い「さびしくありける」が採用された、ということではないか。


(2013.11.11 記)

 旅先の松本でたまたま見つけた古書店に入ったら、葛原妙子の『原牛』があった。初刊本の第2刷で、貧乏旅行中の学生にも手の届く値段だった。

 以来20年、その本は私の家の本棚にある。この間ずっと頭の片隅に引っかかっていた小さな疑問が、つい先日ようやく解けた。

     §

 この歌集の巻頭から3首目に、次のような歌が置かれている。

唐突にわれのきたりし高原に青樅匂ふ さびしくといはん



 「青樅匂ふ」までは分かる。だが、「さびしくといはん」というのは? 短歌の文体に不慣れな学生時代の私でも、これは何かヘンだという気がしたものだ。

 葛原の没後に刊行された『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社、1987)は、図書館で見た。こちらの本では、こうなっている。

唐突にわれのきたりし高原に青樅匂ふ さびしといはん



 全歌集の編者は森岡貞香だが、初刊本の「さびしくといはん」を誤植とみとめたのだろう。なるほど、「さびしといはん」なら分かりやすい。しかし、疑問は消えなかった。そのように改める根拠は?

 四通りの可能性を考えてみた。

(1)初刊本の第2版が存在し、そこに「さびしといはん」。

(2)初刊本の原稿が現存し、そこに「さびしといはん」。

(3)葛原本人が誤植を正したノート類が存在する。

(4)初出形に従った。

 だが、(1)の第2版は、今に至るまで見たことがない。存在しないのではないか。そしておそらく(2)の原稿は現存せず、(3)のノートやメモは存在しない。それらを参照したのであれば、編者はそのことを記すだろう。

 (4)については、私は『原牛』収録歌の初出をほぼ調べ終わっているのだが、残念ながらこの歌の初出は知らない。ただ、仮に初出形が「さびしといはん」であったとしても、それに従って歌集本文を改めてよいかどうかは議論の余地がありそうだ。

 こうして疑問は残った。

     §

 先日、近所の古書店で、同じ初刊本第2刷の『原牛』を見た。普段ならもちろん買わないが、その本は嘘のように安かったので、何か少し惜しい気がして買うことにした。

 家に帰って、一応ページを繰ってみた。すると、例の1首が載るページに、短冊様の紙が一枚挟んである。

原牛衍字
(ほぼ原寸大)

 なんと、これは読者に誤植の訂正を指示する紙ではないか。活字の形も大きさも原文と同じ、そして何より紙が原本の用紙と同じだ。版元が発売時に挟んだものと見て間違いない。そうだとすると、正しい本文はやはり「さびしといはん」。全歌集の本文改訂の根拠はこの紙にちがいない。

 私の疑問はきれいに解けたのである。

 先に持っていた本には、この紙は挟まっていなかった。私が購入する前に失われたのだ。なにしろ挟んであるだけだから、落ちることもあるだろう。


(2013.11.09 記)

 坂本スミ子が歌うオリジナルバージョンの「戦争は知らない」を初めて聴いた。あれ?と思ったのは、有名なフォーク・クルセダーズのカバーとはメロディーが一部違うこと。「涙が出るの」の部分が違うのだ。後のカルメン・マキ、本田路津子、加藤登紀子……その他たくさんのカバーは、いずれもフォークルの方のメロディーで歌っていたわけだ。

 歌詞もオリジナルとフォークルのバージョンで違うようだ。もっとも、こちらは微妙な違いで、気にならない。

 作詞、寺山修司。曲ともども、アメリカのフォークソング「花はどこへ行った」の影響を受けていると言われていて、実際そうなのだろうが、それでも寺山が書くと寺山の世界になる。夕日は必ず赤く、必ず荒野に沈む——。嘘っぽいのに、どうしてこうも胸にしみるのだろう。


  戦争の日は何も知らない
  だけども私に父はいない
  父を想えばああ荒野に
  赤い夕日が夕日が沈む



 ネット上に坂本スミ子の歌が見当たらないので、リンクはフォーク・クルセダーズ→→http://www.youtube.com/watch?v=xuqBOePNV_w


 前の記事と同じ『歌壇』の特集「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」から。大辻さんは、『赤光』初版本所収の

どんよりと空は曇りて居りたれば二たび空を見ざりけるかも



と改選版の

どんよりと空は曇りて居りしとき二たび空を見ざりけるかも



等を比較して、次のように結論付けている。

 ……『赤光』改選時の大正十年の茂吉は、過剰な確定条件の語法を自作のなかから排除しようとしている、と言ってよい。このとき四十代になりつつあった茂吉にとって、「已然形+ば」の語法の背後にある自分の若き日の過剰な心的エネルギーは、面映ゆく、鬱陶しく、鼻持ちならないものと感じられていたに違いない。



 なるほど、そのとおりだと思う。前に私が見学した歌会で、ある一首のなかにあった「已然形+ば」の語法が批判されていた。『赤光』改選以来の茂吉流の歌の作法は、あるいは今も受け継がれているのかもしれない。

 ところで、この論考の初めに引かれている歌、

氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり



の解釈は、大辻さんの言うとおりでよいのだろうか。大辻さんは、「赤かりければ」の原因・理由の語法をめぐって、

 「煙草の火の赤さ」が「原因」であり、「走ること」が「結果」である。(略)ここには、明らかに凡人ではついていけない過剰な思い込みがあるだろう。客観的にみれば、師の逝去の報を受けて奔走することと、その途上において煙草の赤い火を目にしたことの間には、何の因果も関連もない。



と言うが、私は「赤いから走った」ではなく「赤いから見た」と解すればよいと思う。こちらの解釈なら、これはごく自然な心と目の動きだろう。

 前の「どんよりと空は曇りて」の解釈にも、実は同じような疑問がある。大辻さんは、

 どんよりと曇った梅雨どきの空が眼前に広がっていることと、その空を再びは見ようとしない茂吉の心情の結びつきが分かりにくい。



と言うのだが、これは「とくにおもしろくもない空だから、わざわざ見ることもない」という程度の単純な心理ではないか。

 ただ、その自然で単純な反応をことさらに原因と結果というふうに表現したところに、若き茂吉の過剰な「心的エネルギー」をみとめることができる。つまり、因果関係自体が異様なのではなく、その表現の仕方が異様なのだと私は思う。


(2013.11.6 記)


 買ったまま読んでいなかった『歌壇』2013年11月号の特集「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」を読む。鈴木竹志さんが好きな歌として

とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり



を挙げているのを見、さらに小池光・品田悦一・花山多佳子三氏の鼎談でも同じ歌が話題に上っているのを見る。自分も以前この歌について書いたことがあるのだが、どんな文章だったか、久しぶりに確認したくなる。

 本棚の奥の方をしばらく探して掲載誌発見、8年前の拙文を読み返す。論旨をほとんど忘れていることに驚く。しかし、論の筋は案外わるくないかも(自画自賛、すみません)。末尾に「〜を機会を改めて述べたい。」などと書いてあるが、その後〜について「改めて述べ」ることは一度もなかったので、これは結局逃げの言葉だったかなと思う。

 以下、旧稿。田螺に関心のある方、続きを読む、をクリックしてご覧いただければ幸甚です。

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 撮るだけ撮ってパソコン内に放置していた写真を整理する。今年の春に熊本の江津湖辺りで撮った写真が数枚あった。旅行の記憶がよみがえり、しばらく見入る。


江津湖への道
    (江津湖への道)


 昨年亡くなった安永蕗子さんは、この湖の近くに家を建てて住んでいたらしい。


  朝靄の薄れゆくまま江津と呼ぶ冬麗母のごとくみづうみ
    (『冬麗』1990)


 私にはどうも難解な歌だが、「冬麗」をトウレイと音読みで読ませる辺りが安永流。あるとき雑誌のグラビアページに載った安永さんの写真が、江津湖を背にした印象深い1枚で、それ以来私の中では安永さんとこの湖のイメージが分かちがたく結び付いている。

 路面電車の走る大通りに出るため、湖畔から住宅街の細い道に入り、ふと見ると、目の前に「安永」と記す表札があった。まだ新しそうな門扉だった。


(2013.11.3 記)


 ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり

   穂村弘『シンジケート』(沖積社、1990)



 山田航によれば「この歌のポイントは三つある」(穂村弘・山田航『世界中が夕焼け』。以下も穂村・山田の発言の引用は同書から)。

 まず「嘘つきは泥棒のはじまり」と「どらえもん」との掛詞である点。次に「どらえもん」が「ドラえもん」ではなく平仮名表記である点。最後に日本語的には不用とも思える「ハーブ」のリフレインである。



 さて、山田のこの的確な指摘の後では蛇足のようになってしまうが、私には別にもう一つ気になる「ポイント」がある。第3句の「春の夜の」である。

 これは、ハルノヨルノ、と読むのだろうか。それとも、ハルノヨノ、だろうか。前者なら口語風、後者なら文語風。いまの穂村ファンはどちらで読んでいるのだろう。

 私の読み方は文語風の、ハルノヨノ、である。初めて『シンジケート』を手に取ったときからとくに意識することなくそう読んできたのだが、あらためて検討してみても、ハルノヨルノ、と読む気にはならない。

 理由はいくつかある。(1)わざわざ字余りで読む気になれないこと。(2)第4、5句の句またがりを句またがりとしておもしろく感じるためには、他の句は定型どおりであってほしいこと。(3)直前の「つつ」が文語と口語の中間のような語であり、夜(ヨ)も同様であって、両者のつながりが自然。(4)『シンジケート』のところどころに伝統的な主題や語法が残存しており、ここもその一例と見られること。

 このうちで私が強調したいのは(4)である。 

糊色の空ゆれやまず枝先に水を包んで光る柿の実



 同じ歌集中のこの歌について穂村自身は、「写生をやろうと」したのが「微妙に色気が出ていて」「やっぱりできてない」、と言う。自身の歌について、また写生の本質について、おそろしいまでによく見通すことができている人の言で、これが穂村の穂村たる所以なのだろう。それはともかくとして、この歌をみれば、写生を主題としたことは分かる。語法の点でも、「空ゆれやまず」の助詞の省略の仕方や助動詞の使い方が文語風だ。

 古典和歌や近現代短歌から「春の夜の」という表現の例を探すと、

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる
  (凡河内躬恒、『古今和歌集』)

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき
  (大江千里、『新古今和歌集』)

背のびして口づけ返す春の夜のこころはあはれみづみずとして
  (中城ふみ子『乳房喪失』)



というように無数にあり、それらの読み方は、ハルノヨノ、だ。穂村の「春の夜の」もまた、その伝統を受けたものと見た方がよいだろう。

 穂村はこの歌について、

 この歌のテーマって季節感なんです。言いたいのは春の夜ってこんな感じっていうこと。

 春の夜の感覚は、ドラえもんのポケットからは何でも出てくるというその全能感。

 まったりした空気感みたいな。



と言っている。私が引いた躬恒・千里・中城ふみ子の歌の主題は、いずれも「春の夜ってこんな感じ」。そして、それがどんな感じかは結局、躬恒から穂村まで変わらないように思われる。

 言うまでもなく、穂村本人が「穂村弘の磁場」(山田航)のなかで短歌を作り始めたわけではない。穂村は穂村以前の文芸の影響を受けていた。「穂村弘の磁場」に引き寄せられて短歌を作り始めた近年の若手歌人は、その伝統をも受け継ぐものだろうか。


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Author:和爾猫
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