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 藤井さんが亡くなったと聞く。

 今夜は静かに藤井さんのことを思っていたい。




  脱走兵鉄条網にからまってむかえる朝の自慰はばら色

    穂村弘『シンジケート』(沖積社、1990)




 私は、この初句から第4句「むかえる」までを「朝」にかかる序詞風の表現と取り、一首全体としては、

「脱走兵が鉄条網にからまったまま息絶えようとしている、その同じ朝の私の自慰は薔薇色の快楽だ——」

というほどの意味に解しているのだが、これは無理な読み方だろうか。

 以前、歌人や研究者が集まった会で、この歌が話題にのぼったことがあった。私の読み方を話してみたら、誰の賛同も得られなかった。皆、「脱走兵の自慰」と解していたのだ。

 確かに、序詞などという古風な修辞は、『シンジケート』にはそぐわないようだ。ただ一方で、瀕死の脱走兵の自慰とはあまりに荒唐無稽な図ではないか、との疑問もぬぐい去れない。

 しかし、さらによくよく考え、記憶をさかのぼってみると、私も初読の折りには脱走兵の自慰として読んでいたようにも思うのだ。そして荒唐無稽こそ、この歌の生命である、と。

 実際、この歌はどう読めばよいのだろうか。 


a. 大隈言道『草径集』

    閑居松子落
 めのまへにひとつ落たる松のみのさらにもおちずくるゝけふかな


b. 会津八一「武蔵野だより」(1923 大正12)

    懐君属秋夜 散歩詠涼天
    山空松子落 幽人応未眠
 裏山の地(つち)に響きて松の実のこぼるゝ宵を君寝(い)ぬべしや


c. 会津八一『南京新唱』(1924 大正13)

 たちいでゝとゞろととざす金堂のとびらのおとにくるゝけふかな


memo
・「松子落」は韋応物の詩(山空松子落……)に初出の言い回しであるらしい。
・「閑居松子落」という題は韋応物の詩をふまえたものだろう。
・『会津八一全集』には言道への言及なし。
・『万葉集』および二十一代集に「くるるけふかな」という句なし。
・『子規全集』の用例は未調査。


 花山周子さんの大森静佳歌集『てのひらを燃やす』評に引かれている歌がとてもいい。

ビー玉の底濁る昼 くちづけて顔から表情を剥がしたり
しばらくは眼というぬるき水面に葉影映して君を待ちおり
生前という涼しき時間の奥にいてあなたの髪を乾かすあそび



 「ぬるき水面」は自己の身体を気味悪いものとして捉えているようで、その気味悪さに心引かれる。底の濁るビー玉も、気味の悪い自己の比喩のようだ。今を「生前」と見なし、涼しき時間と見なし、さらに性愛を遊びと見なすことで、自らへの違和感をやり過ごそうとしているのだろうか。

 なお、花山さんは「顔から表情を剥がし」について「相手の人間性をも奪うかのような行為」と記しているが、この接吻の相手は単に驚いたか、あるいは恍惚となったか、ではないか。「人間性」という語を使うなら、むしろ「私」は「あなた」を「人間性」から解放したのでは? 「私」自身がそのことに自覚的だったかどうかは分からないが。

 歌集を読まずに花山さんの引用歌だけを見ているので、全然見当はずれの読みだったらすみません。


 『塔』10月号を我が家に贈ってくださった方がいる。最新号を読む機会などあまりないので、とてもうれしい。『塔』には何人かお知り合いがいるのだが、どなたがくださったものか、お礼申し上げます。

 収録されている座談会「結社にふたたび出会う」を読む。17ページにもわたる長さだが、座談会記事というのは長くても気楽にどんどん読めるのがよいところ。しかし、同じ日に届いた別の結社誌は一冊全体で28ページなので、17ページはやはり豪華だ。

 5名の若手会員が短歌と結社をめぐるさまざまなテーマについて話し合っている。河野裕子を受容のされ方、表現主義か生活詠か、結社の現状と問題点、等々。5人それぞれ思うところを自由に口にしている感じで、たいへんおもしろい。

 私の一番の収穫は、田中栄の歌を初めて知ったこと。澤村斉美さんや薮内亮輔さんが次のような歌を紹介している。

指導工に弁当かくされて職習いし頃の物怖じが今に支配す
岸壁の草は波かぶり暮れながらはがねの如きひかり残りぬ
不吉なる予告のありて井戸の底竿に探ればああ母がある



 そして、「指導工」の歌に関する発言は次のとおり。

澤村 ……説明的にずっと詠ってきて最後の「今に支配す」に重みがある。……
吉田 この「に」ってすごいですね。「今を支配す」じゃなくて「今に支配す」。



 後の発言は吉田恭大さん。一首の表現についてこんなふうに語り合える仲間がいるというのが、結社のよさか。この「今に」は「今に残る」などと同じ用法で、「今もなお」と取ればよいのだろう。「支配す」にかかるべき目的語「私を」、が消去されることで、「私」に対する支配の執拗さがより強調されるようだ。

 その他では、安達洸介さんの発言に興味を引かれた。私には発言内容の妥当性を判断できないところもあるが、ともかく理念とか問題意識とかを感じさせる人だ。歌を読んでみたいと思って探したが、出詠者のあまりの多さに中途で断念した。あとでまた探すつもり。

 心覚えに安達さんの発言の一部を抜き書きしておこう。

 その対比は要らなかったんじゃないかと思うんですけどね。
 (河野裕子の評論「いのちを見つめる」が男女を対比して、女が産み育てる性であることを強調した、という指摘に対して)

 でも逆に「塔」の人たちは追悼しすぎなんじゃないかって言っている人もたくさんいますよね。永田さんが朝日歌壇の投稿欄を追悼歌で埋めたのは、あれはもう暴走ではないかとか。(河野裕子の追悼について)

 批評には批判的な観点がほしいというか、河野さんは偉大とか別格とかよく表現されますけど、基本的には今の段階でそういう前提があるわけではないので、どう偉大なのかということをちゃんと説明するような批評を書いてほしい。短歌界では、例えば岡井隆さんのような、客観的な批評がほとんど失われているような歌人もいますよね。結社内で別格扱いされていて、やっぱり批評で扱いにくいんですかね。

 一般性とか普遍性、純粋な美の追求とか、そういう観点は「塔」にはあまり無いのでしょうか。

 そういうことでは決してないんですけど、ある程度わかりやすい指針なんじゃないかなと思うんですよね。(売れることが至上なのかと問われて)

 色が出なくて、全体がフラットになる。力のある歌人がぽんぽんぽんと散在しているので、非常に読み物として面白くなくなる。まだ「未来」とかはそこそこ読めるんですよね。(『塔』の選者ランダム制について、『未来』の選者固定制と比較して)



 今回の座談会では安達さんが結社内の「反体制」のような役回りなので、その発言が結社外の人間の耳には心地よく響くのかもしれない。ともかくも、こういう人がいるというところに『塔』の活力を感じる。


 寒い。草径集の秋の歌が並ぶあたりを読む。

めのまへにひとつ落たる松のみのさらにもおちずくるゝけふかな



 メ ノ マエ ニ ヒトツ オチタル マツ ノ 実 ノ サラニ モ オチズ 暮ルル キョウ カナ ——

 もしどこかの島に流されることがあって、歌1首しか持っていけないとしたら、自分はこの1首を持っていきたい。虚飾を取り去ったあとに残る小さな真理のようなものが、ここにはある気がする。


 以前、角川『短歌』に原稿を持ち込んで断られたことがある。昨日、古いUSBメモリのなかで探し物をしていて、たまたまその拙稿の書類ファイルを見つけ、久しぶりに自分で読み返してみた。文字通りの拙い小文とはいえ、またしまい込むのも残念なので、以下に全文を貼り付けておこう。同誌の掲載可否の水準を計るための参考資料になるかもしれない。ファイルの日付は「2010年2月22日」。その月に書いたものだろう。


     §



   第二芸術の論は時局便乗であったか


     

 本誌二月号から始まった共同研究「前衛短歌とは何だったのか」がどのような成果をもたらしてくれるのか、一読者としておおいに楽しみにしている。拙稿は、ささやかながらこの研究の展開に資することを願ってのものである。

 連載第一回の三枝昂之「占領期文化の克服へ—前衛短歌の戦後史的必然を考える」は、敗戦後の〈伝統否定〉の風潮のなかでいわゆる第二芸術の論が生まれ、それが塚本邦雄の歌の方法に影響するまでの道筋を論じている。その結語〈前衛短歌とは第二芸術論克服のための表現改革の運動である〉について、私は差し当たり、何の異論も持ち合わせていない。ただ、その結語に至る過程、すなわち一連の第二芸術の論を〈占領期という時局に便乗した〉ものと断じるくだりには、いささか危惧の念を抱かざるを得なかった。日本人自身による広い意味での伝統否定の動きは、GHQの占領統治が本格的に開始される以前にすでに始まっていた可能性があり、その主体的な動きの周辺に第二芸術の論が位置する可能性も否定できないと思うからである。

 三枝は、敗戦後の伝統否定の風潮について、GHQによる検閲がメディアに強く影響した結果広がったものと見做しているようである。ところが、今回の論考では、そのように見做すべき確実な根拠が見当たらない。志賀直哉「国語問題」は、志賀が戦争末期の悲惨な状況を受けて開戦の際の思想を翻したものと見るべきであるし、土岐善麿のローマ字論は〈年来のもの〉である。漢字廃止を主張した昭和二十年十一月十二日付『読売報知新聞』社説を占領政策の影響と捉えるには一定の論証が必要であろう。『短歌研究』の発行者であった木村捨録の〈日本語廃止論〉は、効率重視の〈ビジネスマン〉の立場から〈公用文、マスコミの用語〉に限って思い浮かべてみたもので、これを伝統否定の風潮と結び付けることにはやはり無理がある。しかも、三枝が言及する『短歌研究』昭和二十年九月号の伏字は、私見ではGHQの検閲開始以前のものである。その伏字の処置が日本人みずから戦中の軍国主義思想の転換を図っていた一例である可能性も捨て切れないのである。

 もちろんGHQが日本国内の軍国主義的な観念を殲滅するためにさまざまな宣伝活動をしたことは確かであるし、それが伝統否定の風潮に関係したことも疑いない。その風潮の広がりに一定の役割を果たしたと考えられる当用漢字と現代かなづかいの制定にしても、直接的にはGHQの占領政策がもたらした結果であった。ただ、一方で、この当用漢字と現代かなづかいを例にとれば、ともに明治以来の長い議論を踏まえるものであったという側面も見逃してはならないであろう。伝統否定の風潮も第二芸術の論も、単に占領期の時局便乗であるか、それともそれ以前から存在した主体的な思想の表われであるかは、そうそう簡単に割り切れないと私は思う。


     

 『短歌研究』昭和二十年九月号の件については先行研究にも誤解が多いので、この際その誤解を解いて研究課題を整理しておきたい。同号は、校正中に敗戦を迎えたものである。その編集後記には、〈原稿及び作品はその筋の御注意もあつて八月十五日以前の色彩を拭消するために削減訂補するの已むなきものもあつた〉という、時局の大転換を実感させる一節がある。三枝の見解によれば、〈その筋〉はGHQであり、〈削減訂補〉とは同号において佐佐木信綱の二首に伏字を入れたことであるという。同号からその二首を引こう。

いのちもて斎垣きづき成し大御民めぐらひ守る の御国ぞ
若人ら命を国にさゝげまつる命こめし書を 火にゆだねつ


 この二首に一箇所ずつある一字空けが、要するに伏字である。そのもともとの字については、すでに篠弘『戦後短歌史Ⅰ 戦後短歌の運動』(短歌新聞社、昭五八・七)がそれぞれ〈神〉〈敵〉と推測している。つまり、それらの字は、戦中の軍国主義等の表われと見做されたため伏字にされた、ということになる。三枝は篠の推測を肯定した上で、同号巻頭の評論、中村武羅夫「我が国体と国土」に話題を広げ、次のように述べる。

 ……「我が国体と国土」は「日本の国体が比類なく神聖にして、尊厳極まりないことは、わが国の歴史がこれを証明してゐる」と始まり、「万世一系、神の御末裔の天皇が、皇統連綿として統べたまふばかりではない。臣子の分にして亦神となり得るのである。このやうな特異な国柄が、いつたい世界のどこにあるだらうか。——たゞ日本のみ」といった空恐ろしいくだりもある。これが検閲を通って「神の御国ぞ」や「敵火にゆだねつ」が削除修正命令を受ける。不可解という他ないが、原因は検閲の不徹底だけにあるのでなく、短歌という詩型そのものへの強い警戒心の結果であるようにも感じる。


 信綱の歌の一部を伏字にする一方、中村のこの評論には同様の処置をしていないことを三枝は指摘し、そこに短歌に対するGHQの〈強い警戒心〉をみとめるわけである。

 ここに、一見不可思議な事実がある。私の知るかぎり、同号の検閲と処分の問題を最も早く取り上げて論じたのは内野光子「占領期における言論統制」(『ポトナム』昭和四八・九)であるが、内野はそこで中村のこの評論の文中に〈聯合軍司令部の命に依り以下一部削除〉という註記のあることを報告していたのである。見落としようもないこの明らかな註記に三枝がまるで言及しないのは、なぜか。内野と三枝のいずれかが虚偽の報告をしているのであろうか。

 もちろん、内野も三枝も虚偽の報告をしているわけではない。実は、同号には二種の版があるのである。一つは中村の評論の全文が載る版であり、もう一つはその評論の文中に〈聯合軍司令部〉云々の註記と四行余にわたる伏字がある版である。三枝は前者のみを見て論じ、内野は後者のみを見て論じたわけである。仮に前者をa版、後者をb版と呼んでおこう。大学図書館や文学館等で同号を所蔵しているところは少なくないが、私が調査したところでは早稲田大学図書館と神奈川県立図書館がa版、国立国会図書館と群馬県立土屋文明記念文学館がb版を所蔵している。かくいう私も一冊、古書店から廉価で購入して持っているが、それはb版である。a、b版ともに複数の原本を確認できることから、どちらも頒布されたものと見てよい。

 内野論文から今回の三枝論文までの間に同号に言及した文献としては、前出の篠の著書のほか、碓田のぼる『占領軍検閲と戦後短歌 続評伝・渡辺順三』(かもがわ出版、平成一三・一二)がある。篠はa版のみ、碓田はb版のみを見て論じている。これらの先行研究を並べて読めば二種の版が存在することは一目瞭然であるにも関わらず、これまでその二種を比較する研究が皆無であったことは、いかにこの方面の研究が活発でなかったかを示していよう。

 それはともかくとして、それぞれ頒布されたと見られるa、b版は、互いにどのような関係にあるか。『短歌研究』次号、すなわち昭和二十年十月号の「諸家消息集」に、木村が〈十月十日〉の日付入りで次のように記している。

 九月号は聯合軍最高司令部より一部削除の懇篤なる勧告を受けた。そのため印刷をやり直すといふやうな事になり約三十日おくれた。


 GHQによる雑誌検閲の開始は九月下旬とされているので、十月十日の日付と〈三十日おくれ〉の記述はやや不正確な気もするが、そのことはしばらく措く。この記述に従えば、中村の評論に一部削除の跡がないa版は刷り直し前の第一版、その跡があるb版は刷り直した第二版と見るのが自然であろう。つまり——九月号は校正中に敗戦を迎えた後、九月半ばまでに印刷製本し(すなわちa版)、直接購読者や献呈先に送付した。その後、九月下旬に開始されたばかりのGHQによる雑誌検閲を受けたところ、一部削除の処分が下されることになった。その時点で書店販売がすでに始まっていたとすれば書店から回収、まだ始まっていなかったとすれば出荷停止し、一部削除の上、印刷製本し直して(すなわちb版)、再発売にこぎ着けた——。二種の版が頒布された経緯は、このように推定できるのではないか。

 ところで、注目すべきは、三枝が指摘する信綱の歌の伏字と編集後記の記述がa、b版に共通していることである。GHQによる削除処分が二度に分けてなされた、とは考えにくい。したがって、信綱の歌に伏字を入れるように注意した〈その筋〉は、GHQとは別の筋であろう。アメリカのメリーランド大学プランゲ文庫にGHQの検閲の関係資料が保管されていることは周知のとおりであるが、それを調べても中村の評論に対する一部削除処分の記録があるのみで、信綱の歌に関する記録はなく、私の推定と矛盾しない。

 この点からもa版はGHQによる検閲が開始される以前の版と見るべきであるが、ではGHQでない〈その筋〉とはどこか。従来の検閲機関と解するのが最も穏当な解釈であると私は思う。つまり、内務省警保局の注意に従って編集部が自主規制し、信綱の歌に伏字を入れたのではないかと思うのである。もっとも、いかに敗戦後とはいえ、内務省警保局がことさらにそれまでと正反対の注意をするものかという疑問も湧く。この辺りは、今後の研究課題になろう。

 いずれにせよ、この注意は、GHQでなく、日本側の筋によるものであったと推定される。そうであるとすれば、その注意の意図は何か。間もなく占領統治が本格化することを見越しての注意であったとすれば、それは間接的に占領政策の影響を受けたものであったといえるかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、そこに自主的な軍国主義否定の含みがなかったとは言い切れないと私は思う。


      

 三枝によるインタビュー集『歌人の原風景』(本阿弥書店、平成一七・三)は、近藤芳美をはじめとする大正前期世代の歌人から示唆深い証言を数多く引き出した本である。近藤芳美はこのなかで第二芸術の論に触れて、それが〈欠点だらけ〉の論であることをみとめつつ、次のように述べている。

 文学とは何か。そのいちばん根底にあるのは「人間いかに生きるか」の問いです。だがその問いをぼくは短歌に自分なりに求めようとした。同時に、しかし短歌に根本的にないものはその問いではないかというのがぼくの短歌に対する不信でした。で、「第二芸術」論は結局、そのことを問うているのではないかとぼくは思った。


 第二芸術の論が出た当時、近藤はそれに共感した。しかも、〈短歌に対する不信〉は、第二芸術の論以前にすでに近藤自身のうちにわだかまっていたのであった。その事実を見ても、第二芸術の論をただちに〈占領期という時局に便乗した〉ものと決め付けるのは妥当でないし、生産的でもない。敗戦後の伝統否定の風潮と第二芸術の論は、現代の目には拙劣で軽薄なものとして映るかもしれない。しかし、そうであっても、それを考察するときには、一旦は当時の日本人による主体的な問題意識の発露として捉える必要があるのではないか。


 切り抜いておいた一ノ関さんの文章「成瀬有の願い」(朝日新聞、14日付)をあらためて読む。昨年亡くなった成瀬有について書いたものである。新聞のコラムなので短文だが、内容はよくまとまっている。いわく、

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ



の一首が代表歌であること。岡野弘彦に師事し、釈迢空・折口信夫をつねに意識していたこと。晩年の歌や論が広くは読まれなかったこと。未完の迢空論で明らかにしようとしたのは、

 ……現在の口語の叙述文体への危惧であり、より豊かな未来の短歌への希望であった。



等々。

 ここから議論のテーマを引き出すこともできるだろう。「現在の口語の叙述文体への危惧」とは、つまり文語への愛着か、それとも「現在の口語」の文体とは異なる、新たな口語の文体への憧憬か。前者なのであろうが、そこで不思議なのは、成瀬自身も気に入っていたらしいサンチョ・パンサの歌がおよそ文語的でないことである。「かなし」や「見上ぐ」は、口語の語尾だけを文語風に変えてみた、という程度のものだ。一首の文体は古歌とはまるで違うし、迢空とも似ていない。

 歌と論とは必ずしも一致しないということか。あるいは、サンチョ・パンサの歌が成瀬の他の歌とは違うのか。


(2013.10.19 記)

 朝日新聞のカラー刷り特集「はじめての……」、今朝は、

   はじめての寺山修司

 これを見て没後30年だったことを思い出した。新聞は役に立つ。

 30年前の朝日新聞の朝刊に寺山修司の訃報が写真入りで載っていたことを覚えている。自分は小学生で、寺山の名はその新聞記事で初めて知ったはずだ。

 中学・高校時代もとくに寺山の本や映画に接するようなことはなかった。ほかの誰の記事も記憶にないのに、寺山のものだけ覚えているのはどういうわけだろう。

 中城ふみ子が息を引き取るまぎわに口にした最後の言葉は、「死にたくない」だった——ということは、その死の直後に出た『凍土』3号(1954.9)に丸茂一如が書き残している。『凍土』はふみ子が参加していた同人誌で、『凍土』のメンバーは札幌医大病院に入院していたふみ子を日々励まし、支えた人たちである。丸茂もその1人で、ふみ子の通夜の準備にも携わった。丸茂の証言はまず信頼できると考えるのが普通だろう。

 今から10年以上前、ある研究者——仮にAさんと呼ぶ——が著作のなかでこの「死にたくない」という言葉を引いた。すると、それを読んだ人から私的に反論が来たという。つまり、本当にそう言ったという証拠はない、削除すべきだ、というのだ。

 なるほど、そう言われてみればそのようでもある。丸茂本人が臨終の場にいたわけではない。また、看取ったふみ子の母、きくゑのエッセイや歌には、その言葉は出てこない。もっとも、座談会でのきくゑの発言には

 最後まで「死にたくない」とはいつてました



とある(「中城ふみ子をしのぶ座談会」、『十勝毎日新聞』1955.11.25)が、これは一番最後の言葉という意味ではなさそうだ。死に近いある日に言った言葉が「最後の言葉」として、誤って伝わった可能性もあろうか。小川太郎や佐方三千枝は丸茂の証言の信頼性に疑問を持ったのか、評伝中にそれを取り上げていない。

 ただ、そうだとしても、丸茂の証言が差し当たり最も信頼できるということに変わりはなさそうである。反論してきた人は、なぜ執拗に証拠の有無を言い立てたのだろう。

 思うに、最後の言葉なるものが、あたかも「辞世の句」としてその人の人柄や思想、ときには人生そのものまで象徴するかのように感じられるためか。最後の発作が起きたとき、ふみ子が母に騒がないように注意したということは、きくゑの歌にあり(「お母さん騒ぐでない」と二度三度われを制してひそけく逝きぬ 『辛夷』1954.9)、若月彰『乳房よ永遠なれ』にも書いてある。「騒がないで」と「死にたくない」では、印象が変わってくる。前者は冷静で、誇り高い人柄を想像させる。後者は生命への愛着が直接的に顕れており、聞く人によっては潔くないと感じるかもしれない。Aさんに反論した人は、ふみ子が最後に「死にたくない」と言った、とは思いたくなかったのだろう。

 Aさんの方は、もともとふみ子の最後の言葉に対して、それほどまで強い思い入れを持っていたわけではないようだ。だから、最も信頼できる証言をただ引いただけなのだ。しかし、反論を受け、Aさんは研究者の名誉にかけて調査した。そして、とうとう、ふみ子の臨終の場にいた別の人物の所在をつきとめた。その人は、ふみ子の最後の言葉が何であったかを記憶していたという。

 私はAさんから事の顛末を聞き、ぜひ文章にして残してほしいと言った。しかし、Aさんは乗り気でないようだった。それからもう数年経つが、Aさんはまだどこにも発表していないはずだ。すべては初めから無かったもののように、消え去ってしまうのだろうか。


(2013.10.13 記)

 先の拙文は「木下利玄『銀』初版本評釈(上)」の抜き刷りが届いた晩に興に乗って書き散らしたのだが、翌日気になって、菱川善夫の註(日本近代文学大系『近代短歌集』角川書店、1973)を見ると、

淫れ女が着ものしんなり湯上がりのからだにつくる昼のこゝろね



の1首について、

 

「こゝろね」は奥の深い心情。昼間の湯あがりのからだを、しんなりと着物につつんだところに、たわれ女の深い心を思いやった。



とあるではないか。「からだを……着物につつんだ」とは、結局「着物をからだに着ける……」という私の解釈と同じだ。ということはつまり、田中・山田両氏は、菱川註に対して異論を述べていたわけだ。

 先行註を紹介し、それに納得しない理由まで記してもらえると、わかりやすいのだが。
 ただし、5首のみ。失礼の段はお許しあれ。上記二氏の評釈を「評釈」と略す。


20・いましがた我が身のありし丘をよそに汽車は汽車とて走せすぎにけり

〈初出〉「評釈」参照のこと。

〈大意〉 ほんの少し前に我が身があった丘をいまやよその場所にしてしまい、汽車は汽車として走り過ぎたことだ。

〈余説〉「汽車とて」の訳は「評釈」に従った。汽車であることを誇り顔に、の意であろう。「走せ」について、「評釈」は「わしせ」と読み、「古風な表現」とするが、やや違和感がある。字余りにしてまで耳慣れない古語を用いること、速さを強調する句をことさらに字余りにすること、が不自然に思われるのである。単に「はせすぎにけり」とは読めないであろうか。
 さて、当時は鉄道開通から四十年以上が経ち、すでに電車も走っていた。「汽車は当時の最新テクノロジー」(「評釈」)ではなかった。ただ、奇妙に思われるのは、掲出歌が汽車を「最新テクノロジー」風に取り扱っていると見えることである。ことに上句は、明治初期の新題和歌集か何かのように初々しい。『銀』が北原白秋『桐の花』(1913)や斎藤茂吉『赤光』(同)より新しい歌集であることを考えると、「習作段階」と評されるのもやむを得ない面がある。


36・淫れ女が着ものしんなり湯上がりのからだにつくる昼のこゝろね

〈初出〉「評釈」参照のこと。

〈大意〉 遊女が着物をしんなりと湯上がりの体に着ける、その昼の心の底よ。

〈余説〉「評釈」は「つくる」を「作る」とし、

 脱ぎ捨てられてしんなりとしている着物を見て情欲を感じながらも、昼間に考えていた本心を思い出して湯上がりの熱いからだと気持ちを醒まそうとしている……



と解している。しかし、心根は表情のように作るものか、腑に落ちないところがある。本稿では他動詞「着く」の連体形と解してみた。この場合、「こころね」は遊女の心根ということになる。「からだ」と「こころね」と、一首の焦点が絞り切れていないように見えるが如何。後考を待つ。


63・残る雪青白みつゝ浮べるを日くれわびしくうちまもるかな

〈初出〉「評釈」参照のこと。

〈大意〉 残雪が青白く浮かんでいるのを日暮れにわびしくみつめていることよ。

〈余説〉「評釈」の山田は「日くれわびしく」を擬人法とする。訳は「暮れる日がわびしくただ見つめているのだ」。一方、田中のコメントは「特になし」。お義理でも一言くらい添えればよさそうなものを、よほど気が乗らなかったのであろうか。ごく普通に解するなら、「日くれ」は日暮れ時の意であり、「わびしくうちまもる」主体は「私」であろう。


93・大わた小わた日の暮れ方のうら寒み綿着て飛ぶか悲しい虫よ

〈初出〉「評釈」参照のこと。

〈大意〉 大わたよ、小わたよ、夕暮れ時がなんとなく寒いのでわたを着て飛ぶか、悲しい虫よ。

〈余説〉「評釈」が「大わた小わた」を「わらべ唄のような囃子言葉」とするのは、利玄の歌の特徴をよく捉えていると思われる。岡本綺堂の随筆「大綿」(1910年初出)が参考になる。

 私の知っている小さい虫は俗に「大綿(おおわた)」と呼んでいる。その羽虫は裳(もすそ)に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯(まま)食わしょ」と唄った。
 (略)これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂(たもと)をあげて打つのが習いであった。(略)
 その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套(がいとう)の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失(う)せなかったのである。



 綺堂は1872(明治5)年、東京生まれ。利玄は1886年、岡山県生まれで、5歳で上京。「評釈」は岡山時代を回想した歌と見ているようだが、そのように限定する必要はないのではないか。


96・眼さむれば隣の室(へや)のはなし声そはわが上にかかはるらしも

〈初出〉
「評釈」参照のこと。

〈大意〉 目が覚めると隣室の話し声が聞こえた。それは私の身の上に関係することらしいよ。

〈余説〉 少年時代に取材したものであろう。生活のなかでの微妙な心理を捉えた、集中屈指の佳品。ただし、必ずしも『銀』の歌風を代表するわけではない。


     §

 「評釈」は『北海学園大学人文論集』55号(2013.8)所収。山田さんから抜き刷りをいただいた。近代の日本文学を扱う雑誌論文等で共著のものは珍しい気がする。

 私はもともと注釈本の類が好きで、「評釈」もおもしろく読んだ。『銀』の歌もおもしろい。子供の生活を題材にしているものはやはり新鮮に感じる。女の歌が多いのは青年の歌集らしくて何か微笑ましい。

 木下利玄については小倉真理子さんが論文を書いている。今回の「評釈」を自分で見つけてまじめに読む人は、田中さんや山田さんのファンを除けば、おそらく日本中でこの人だけなのだが、それを空しいと思うと文学の論文などは書けない。


(2013.10.10 記)

 8月11日発行の本。歌人にしてドイツ文学者の高安国世の評伝である。昨日から読みはじめて、ちょうど3分の2くらいまで進んだ。私は高安国世について知識がないので、本書の本当の価値はわからないのだが、そのような者の好奇心をも非常に刺激してくれる本だと、読みながら感じている。

 どうしてそう感じるのだろう?

 一つにはたぶん、話題が歌壇の狭い領域にとどまらないからだ。高安が育った芦屋周辺の「阪神間モダニズム」の雰囲気(18頁〜)、それと高安の人格形成との関わりなど、私のような高安国世の初心者にも読みやすく、興味深い。

 もう一つには、複数の資料を並べ、繋げて提示してくれるから、ということもあるだろうか。例えば、「外国留学」の章(47頁〜)。

 旧制高校以来の友人に宛てた1937(昭和12)年10月22日付書簡の

 谷という友人は独乙へ行った。/僕は相変わらず喘息の軽い発作が起るので身体に自身がない。



といった言葉から話を起こし、短歌作品、後年の歌集後記、別の書簡などを引用した上で、持病の喘息と戦時の混乱のせいで留学希望がかなわなかったことからくるコンプレックス、ひいては大学内で望んだポストに付けなかったことまで指摘している。しかも、一方で高安は戦時中、その持病のために召集を免れたというのだ。資料と資料が繋げられて、その間から人や時代が立ち上がってくる感がある。一つの資料を別の資料が裏付ければ、筆者に対する信頼感も増す。

 当然の手順のようだが、周到な準備がなければできないことだ。

 そしてまた、文章が落ち着いている。筆者本人ばかりが熱くなって読む者を白けさせるようなところは全然ない。

 勇気をふるって、「『Vorfrühling』と検閲」の章(184頁〜)に異論一つ。

 1946年にすでに企画されていた第1歌集『Vorfrühling』の刊行が51年まで遅れた理由について、筆者は「敗戦直後の社会の混乱や紙不足などの出版状況」のほかに、GHQの検閲で一部削除を命ぜられたことを挙げている。

 最初のゲラが検閲に通らなかったこと自体は、たしかに重要な話題だと思う。しかし、一部削除への対応にそれほど長い時間はかからないのでは? 本書によれば、高安本人の意識も「本にならぬうちに削除した方がいゝ」という程度のものだった。私に何の確証があるわけでもないが、5年の遅れというのは、やはり版元の問題だったように思える。

 ともあれ、本書の残り3分の1はまだこれから読むのだ。読み終わるのが惜しい気がする。

(2013.10.6 記)
 中城ふみ子の評伝2種、

 ・小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』
 ・佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』

を読み比べると、それぞれ資料の取り上げ方が異なっていて、それゆえふみ子の人物像も異なって見える、という例は枚挙にいとまがない。学生時代からの友人に宛てた書簡(鴨川寿美子宛、1948年)の一節、

 家も子も厭になると、私は何時もふらふらと夜の街を歩いてくるのよ。おいしいお菓子を食べに。



を原文のまま引用する(小川)か、

 悶々とした時には「お菓子を食べに夜の街に出る」ふみ子は、……



と要約して紹介する(佐方)か。

 あるいは、避妊や堕胎に言及した書簡を取り上げるか、取り上げないか。読者の側からいえば、どちらの本を読むかによって、例えば、

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
 (『乳房喪失』)



という1首の鑑賞の仕方も、いくらか変わるかもしれないのだ。

 小川の本がどのように評価されているかは、不勉強にして知らない。佐方の本に対する大辻隆弘と檜葉奈穂の言葉を引こう。

 佐方は、新しい第一次資料をもとに、自己に誠実に生きようとした中城ふみ子=野江富美子という女性の素顔をこの書で浮き彫りにしているといってよい。(大辻「中城ふみ子の尊厳」、『短歌研究』2010・8)

 佐方三千枝の徹底的な事実・実証主義により、一女性としての全面的な人間性が解明され、正確な中城像がまとめられたことを高く評価したい。(檜葉、『歌壇』2010・11)



 評伝の筆者が払った多大な労力は、正当に評価されるべきだと思う。だが「素顔」とは、「全面的な人間性」とは、何だろう。

 伝記は実人生そのものではない。その人物に関する資料の総体でもない。集めた資料を取捨選択し、それをもとにプロットないしストーリーを組み立てて、初めて伝記は成立する。その過程に著者の視点の取り方が反映する以上、一編の伝記が提示する人物像は、結局は一面の真実にとどまるだろう。

 私は小川の本に若月彰や中城博に直接取材した章を見出したときの興奮を忘れないし、執拗なまでに歌1首の推敲過程をたどろうとする佐方の姿勢にも尊敬の念をもっている。

 ただ、1人の人物の「真実」に近付くために、一旦は伝記の限界をみとめつつ、複数の伝記と多様な資料に依拠して、さまざまな角度からその人物の事跡を見つめたいのだ。


(2013.10.5 記)
 1951(昭和26)年10月2日に中城博と協議離婚したふみ子は、同月下旬、長男と長女を帯広の両親のもとに置いて、一人上京。出発前に歌友の舟橋精盛に「女性として、自活できる技術を身につけて帰りたい」と告げていたという。東京では、東京家政学院時代の友人浅川雅子の家に身を寄せた後、部屋を借り、タイピスト養成所に通ったが、一ヶ月足らずで母に説得されて帯広に戻った。

 小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』と佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』は、それぞれ浅川に直接取材している。小川が紹介する浅川の証言から見ていこう。

 ふみ子さんは、正直に、お金がなくなったので、電柱かなにかの求人ビラで見つけたキヤバレーで一日いくらで働いている、制服は貸してくれるの、なんて言い出したので、驚いたことがありました。



 小川同書の功績の一つは、長く消息不明だった若月彰のインタビューに成功し、その内容を近影とともに収載したことだが、なかに次のような若月の証言がある。

 ふみ子が子供を置いて上京していたことがあったでしょ。そのとき、生活費がなくなり、新宿のちょっと怖いバーで働いたことがあり、古株の姐御に可愛がられたと言ってたよ。いろいろ体験しているんだと思ったね。



 キャバレーと「ちょっと怖いバー」という食い違いはあるものの、それに近い事実があったと推定するのが自然だ。

 終電の呼笛鳴りゐて新宿の街の傾斜はただ暗くなる

 汚れたる花粉にも似て運ばるるわれよ終電車を濡らしゐる雨



 ともに帯広の歌誌『山脈』1952年3月号の掲載作。2首目はこの後、推敲を経て『乳房喪失』に収められた。どちらも一応意味の通る歌だが、浅川と若月の回想談もまた読解の一助になるだろう。

 一方、佐方は同じく浅川に取材しながら、キャバレー云々の証言は取っていない。また、小川同書の浅川証言に言及することもない。佐方は『新墾』1952年2月号に掲載され、のちに『花の原型』に収められた歌、

 文字盤にあはあは白き月ありて憑かれし如くタイプを叩く



を引いた上で、次のように記す。

 タイプの鍵に月光がかかる時間とは、夕方から学校に通い、昼間は仕事を探していたのだろうか。(略)体調が優れなかったこともあり、職につくこともなく母に連れ戻された。



 この上京の段については、私は佐方同書の方に疑問を感じている。「職につくこともなく」の職がフルタイムの正規採用という意味なら、それは事実にちがいない。しかし、キャバレーかバーかに勤めたことがあるという証言を避ける必要はあるだろうか。その職業経験はおそらく作品の読解にも関係する事柄であり、私は評伝に取り上げる価値はあると思う。取り上げないことがふみ子のプライバシーへの配慮だとすれば、その一方で中城博の「女性問題」を記すことなどは幾分公平でない感じもする。

(続く)
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Author:和爾猫
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