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 伝記や評伝とはいかなるものかを考えるとき、中城ふみ子の評伝が興味深い材料を提供してくれる。

  小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』
   (本阿弥書店、1995.8)

  佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』
   (短歌研究社、2010.4)

である。両者はともに実証主義的であるにも関わらず、互いにほとんど別人のような中城ふみ子像を描き出しているのである。

 例を挙げよう。ふみ子の死の翌年、母・きくゑが雑誌に寄せた800字ほどの手記がある(「富美子」、『辛夷』1955.8)。ふみ子の出生から死までを振り返った内容である。小川も佐方もこれを参考資料として用いている。ただし、焦点を当てる箇所がそれぞれ違っているのだ。小川は、次の箇所を引用する。

 幸福の内にお前は帯広小学校に入学、其の年に次女が出生して、お前への、愛が幾分減つた時、〝美智ちやん何故死なないの〟と云つて、家中驚かせた。其の頃から、独占欲が強かつた。(野江きくゑ)



 子供の発言ながら、「何故死なないの」はなかなか強烈だ。娘への愛に満ちた文章のなかで母がことさらにそれを記したのは、我が子の人柄をよく理解し、みとめていたからだろう。そして、小川がこの箇所を引いたのは、やはり「何故死なないの」に一個の個性をみとめたからだろう。

 一方、佐方はこの箇所には一切触れない。代わりに、同じ文章の別の箇所を紹介する。きくゑの原文と佐方の文章を並べてみよう。

 そして余り友達を欲しがらなかつた。先生から、今日は、今日はと、気を附けて見ても、矢張校庭の木蔭で一人、しよんぼり立つていると注意された事もあつた。(きくゑ)


 小学校へ入学したふみ子に、「友達も欲しがらず、木陰で一人しょんぼりしてゐることが多かつた」と言う教師の言葉を、母は記している。(佐方)



 こちらは内気で目立たない小学生という印象である。「何故死なないの」の発言とはまた別の一面だろう。小川の方は逆に、この箇所の引用を割愛する。

 母の手記はその両方を含むことで、ふみ子の人格を多面的に浮かび上がらせた。そもそも、人は多面的な生き物だ。だから、この母の手記はリアリティを強く感じさせる。小川や佐方による評伝は、それぞれの価値判断により、その手記を部分引用した。そのことで、それぞれの描き出すふみ子像が一面的になってしまったところがあると思われる。

(続く)
——「なよたけ拾遺」以前——


 歌いたいのは、きょうの私。きのうの私でもあしたの私でもなく———二十歳の永井陽子はこのように記した。「私」の存在の確認を求めてやまない、若い歌人の姿がそこにある。

 「たどたどしたうら若い抒情」などというものを被衣にして青春の全部を過ごし得るとは私自身思っていない。しかし、いくら腕組みして考えてみたところで、ほかに歌いたいものなんかないのだ。(略)

 もしかしたら、あした死ぬかもしれないのだ。私、私の短歌、私の少女期……「刹那的」であってもいい。

  (「きょうの私をうたいたい」、『短歌人』1972.2)



 この翌年、永井は最初の単行本である句歌集『葦牙』をまとめた。そこには次のような歌が並んでいた。

砂時計にぎりしめる朝 指をはなせば私の未来はこわれてしまう

心に音符をいっぱいつるしてもやっぱり寂しい秋

ペン皿を洗えば流れ出る恋慕 青年の棲む窓澄みわたる



 現代仮名遣い、口語文法、破調を作法の特徴とし、いずれも心象風景のなかに今日の「私」を確認しようとしている。しかし、このような歌のあり方を仮に「青春」と呼ぶなら、永井陽子の歌人としての青春期は瞬く間に過ぎ去っていったようだ。

 『葦牙』のあとがきを見ると、

 短歌は青春の文学である!



という一文に続けて、ただちに

 そんな十代のままのきわめて無鉄砲で一元的な思考を問い直し修正するべき時機にさしかかった今、この小冊子を編みながら、私はすでに祝福してやれぬ作品群がいかに多いかを思い知らねばならなかった。



と記している。そして、その言葉を証すように、『葦牙』には、「私」から意識的に離れようとする歌もすでに混じっているのだ。

 永井の自筆年譜(『歌壇』1991.11)の1970年の項に、短大入学の記事に続けて、

 冬、劇団四季による「なよたけ」の舞台を見る。



との記載があり、『短歌』1971年10月号掲載の「伝説の少女」7首中に、その観劇の体験を踏まえたらしい次の歌が見える。

ふと今宵伝説の少女に逢いたくて探しに来たよ もと光る竹を



 「逢いたくて探しに来た」と発言する主体について、読者は、それを「永井陽子」と署名された一人の「私」と結びつけて解することができるだろう。ところが、『葦牙』はこの歌を採らず、代わりに次のような歌を収録した。

竹の里の伝説一つ 手のひらに月あかり受けても愛してはならぬ



 愛してはならぬ——と言挙げする主体は、誰だろうか。歌を素直に読むなら、それは「私」とは直接結びつかない「伝説」の語り、もしくは科白である。

 『葦牙』をまとめる永井は、自らの青春期が過ぎつつあることを認識していた。短歌が「青春の文学」であるなら、歌い続けることはできない。しかし、永井は歌い続ける方法を模索していた。翌年『人』と『核』に発表した「なよたけ拾遺」は、新たな方法を試す一つの実験だったはずだ。


(2013.9.22 記)

——永井陽子年譜稿——


1969(昭和44)年 18歳

 4月 『短歌人』入会。

1970(昭和45)年 19歳

 3月 愛知県立瀬戸高等学校卒業。
 4月 愛知県立女子短期大学国文科入学。
    文芸同好会の会誌『轍』に参加。
 冬、劇団四季『なよたけ』を観る。

1971(昭和46)年 20歳

 6月「太陽の朝餉」50首が
    第17回角川短歌賞候補作品になる。
     そのうち30首が『短歌』に掲載。
 この後、中路正恒を知る。
 10月「伝説の少女」7首(『短歌』)

1972(昭和47)年 21歳

 1月 短歌人新人賞受賞。
 3月 愛知県立女子短期大学国文科卒業。
 4月(?)近畿大学の通信教育課程に入学。
 7月(?)近畿大学のスクーリングの帰途、
      京都に中路を訪ねる。

1973(昭和48年) 22歳

 5月 父・信一死去(72歳)。
 7月 句歌集『葦牙』刊行。
 12月 中路に誘われて『人』創刊に参加。
    「天の祭壇」9首。

1974(昭和49年) 23歳

 1月「たばね髪」9首(『人』)
    同人誌『核』に参加。46号の「同人アドレス」に載る。
 3月「みずのおと」8首(『人』)
 4月 愛知県立芸術大学音楽学部に勤務。
   「そのこころ稚ければ」8首(『人』)
 5月「説話異聞」8首(『人』)
 7月「なよたけ拾遺」8首(『人』)
 8月「死者の砦」8首(『人』)
 9月『核』47号に初出詠、「なよたけ拾遺」20首。
 10月「父の笛母の笛」8首(『人』)
 11月「なぞなぞの木」8首(『人』)
 この後、『人』を退会。

1975(昭和50年) 24歳

 3月「私的断章:わが短歌ノート」、
   「半裸の馬、そして鳥たち」13首(『核』48号)
 4月「幻想分類表」13首(『短歌』)
 このころ自筆謄写本の句歌集『かげろふ』刊行。
 8月「私の選んだ愛の詩五首」、
   「青いバラは咲かない」13首(『核』49号)。 
 10月 東洋大学文学部国文学科編入学。
 11月 大西美千代・黒田百合子とともに同人誌『詩線』を創刊。
 12月「まみをひくかな」13首、
   「一度言ってみたかったこと」(『核』50号)


参考:永井陽子「自筆年譜」(『歌壇』1991.11)
   青柳守音「年譜」(『永井陽子全歌集』)
   中路正恒『永井陽子の「比叡山おばけ屋敷」』

※『短歌人』について思うように調査が進まない。
 意外にも『短歌人』をまとめて所蔵する図書館・
 文学館は少ないのである。


(2013.9.19 記)

 永井陽子が『人』に参加した経緯が判明した。

 ネットの検索エンジン、畏るべし。
 Googleで「永井陽子」を検索すると、1番最初に

   永井陽子の「比叡山おばけ屋敷」

なるページのリンクが出てくる。この間、わずか数秒。私とても、今まで何度となくネット上で永井陽子関係の情報を探したことがあるが、なぜこのページを見逃していたのだろう。

 それは「2003年12月14日」という日付を記した、京都造形芸術大学教授中路正恒氏のページなのだが、この名には覚えがある。『人』創刊メンバーの1人だ。

 さて、ここに中路氏が書くところによれば、氏が永井を『人』に誘ったのだという。わざわざ虚言をなす意味もない。本当の話だろう。とくに関係のあるところを次に引いておく。

 学生時代、わたしが属していた京大短歌会に永井さんと同時に角川短歌賞候補になった友人がいて、その人とともに短歌人の集会を訪ねたのが彼女にお会いした最初であった。(略)その後わたしは「短歌手帳」というとても元気の良い同人誌を発見してそれに入れてもらっていた。しかしやがてそのグループは解散になり、改めて岡野弘彦氏を中心とする「人」という集まりができた。わたしもそれに誘われ、入ったが、その時永井さんにもわたしからお願いして参加してもらった。(略)しかし「人」には暗黙のこととして定型短歌に限るという約束があったようだ。わたしの新音律の試みは掲載を拒否された。わたしは「人」を去った。永井さんも行動を共にしてくれた。



 「短歌手帳」とあるのは、正しくは「短歌手帖」。成瀬有らが『人』創刊に参加する前に出していた同人誌である。1971(昭和46)年9月創刊。72年11月に5号で終刊になった。敬愛する先輩からもらった同誌全号のコピーが手元にあるが、見ると中路氏は第4号に短歌30首をもって初出詠。同号の編集後記(「ああ、編集手帖」とかいう、若気の至り風のタイトル)に成瀬が次のように書いている。

 何の主義主張もない、ただの顔なじみの寄り集りと僕ら自身も思いこんでいるほどであった〈短歌手帖〉に、共鳴し、参加を申し込まれた方がある。本号より参加下さった中路氏である。同人の誰れもが未知の、遠く京都からの氏の作品で本号をしめくくることができたことを、編集二人のささやかではあるが、満足としている



 それにしても、中路氏の文章はまことに興味深い。おそらく1972年の夏だろう。永井が氏の一乗寺向畑町の下宿を訪ねたことがあるという。氏は友人2人とともに迎え、タンシチューを作った。4人で夜を徹して歌仙を巻き、翌日は比叡山に遊んで、おばけ屋敷に入った。その暗闇のなかで、若き日の中路氏と永井は手をつないだ。

 氏が鞍馬の下宿に移ったとき、永井から葉書が届き、「水上で鶴が」云々の1首が記してあったという。氏ははっきり書かないが、これこそ相聞歌ではないか。

なだらかに明日へとつづく橋を絶つそのみなかみに鶴は燃ゆるも (『なよたけ拾遺』)

比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ (『モーツァルトの電話帳』)




リンク:中路正恒, 永井陽子の「比叡山おばけ屋敷」
    http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/aakayou/nagai2.htm

    中路正恒, 永井陽子の「みなかみの鶴」
    http://25237720.at.webry.info/200705/article_19.html


(2013.9.18 記)

 永井陽子は、高校生のころに『短歌人』に入り、長くその編集委員を務めるなどし、48歳で急逝するまでそこを去らなかった。だから、永井陽子といえば『短歌人』、という具合に連想が働くのは当然である。しかし、永井が所属した結社誌は、実は『短歌人』だけではない。また、永井は同人誌にも参加していた。

 それらの事実は、たとえば代表作の1つとも目される連作「なよたけ拾遺」の意義を探るとき、重要な鍵になる。なぜなら、「なよたけ拾遺」が初めて発表された場は本拠地たる『短歌人』でなく、『短歌研究』や『短歌』といった商業誌でもなく、1つは当時創刊されたばかりの別の結社誌であり、もう1つは永井の地元、愛知県内の同人誌だったからである。

 本人による年譜(『歌壇』1991.11)は、この2誌を黙殺する。後年の永井にとっては、とくに言及したいものではなかったらしい。同人誌の方からいえば、関係する情報は没後刊行の『永井陽子全歌集』(2005)所収の年譜に載っている。1974年の項に、

  核ぐるーぷの「核」(名古屋)に寄稿。

とあるのがそれである。永井は、この『核』に1974年から80年まで参加したが、その初掲載作が1974年9月(47号)の「なよたけ拾遺」だった。歌集『なよたけ拾遺』(1978)巻頭の連作「なよたけ拾遺」と、歌も詞書もほぼ同じものである。

 では結社誌の方は? こちらは全歌集の年譜にも情報がない。答えは、1973年12月に岡野弘彦が創刊した『人』である。最近発行された『白鳥』成瀬有追悼特集号(2013.8)の「成瀬有略年譜稿」の1973年12月の項には、『人』創刊に「永井陽子らが参加」と遺漏なく書いてある。この誌名を知って意外に思う向きも多いのではないか。私も、その誌面に永井の名があることに気付いた当初は、同姓同名の別人かと思った。そうでないと分かった後も、何か不思議な感じが消えない。人脈の点で、両者の接点がなかなか見えてこないからである。

 参加の経緯が不明なことはともかく、永井は確かに『人』創刊時のメンバーの1人だった。その創刊号からきっかり1年間、つまり1974年11月号まで、2度の欠詠を挟んで計10回にわたって歌を寄せた。この間、もともと所属していた『短歌人』にも出詠しているから、同時期に二つの結社のメンバーを兼ねていたわけである。そして、『核』掲載よりも2ヶ月早く、『人』1974年7月号に「なよたけ拾遺」というタイトルを持つ8首の歌が載っている。おそらくこれが「なよたけ拾遺」の初出だろう。

 岡野の名も『人』という誌名も、私の知るかぎり、従来の永井陽子関係の論文や評論、エッセイ等には取り上げられていない。それらの名は、ことさらに避けられてきたようですらある。たとえば、『短歌人』2000年8月号の永井陽子追悼特集に鎌倉千和の文章が入っている。鎌倉は『人』創刊メンバーで、その解散後に『短歌人』に入会した人であるから、文中で『人』時代の思い出に触れてもよさそうな気がする。しかし、鎌倉はそれには一言も触れていない。

 同人誌『核』への参加にしても、これまでの永井陽子研究はまだほとんど考察を加えていないようである。永井はなぜ「なよたけ拾遺」の発表の場として『人』と『核』を選んだのか。「なよたけ拾遺」の意義は?

 これらの問いを言い換えれば、こうである。永井はなぜ『人』や『核』に参加したのか。そこでの活動が永井の歌にどのような成果をもたらしたのか——。


(2013.9.17 記)

短歌に関するノート、メモを中心に書いていくつもりです。

短歌を愛好する者ですが、実作はしていなくて、読む専門です。

気まぐれに、今ごろはじめてブログを使ってみることにしました。どのくらいの頻度で更新できるか、わかりませんが、ひっそりとでも続けていけたらよいなと思っています。

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