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 職場のテーブルの上に岩波新書の永田和宏『現代秀歌』があったので「おおッ」と思い、何気なく手に取ってパラパラ頁をめくっていたら、第一刷(2014年)で前川佐美雄の一首、

ひじやうなる白痴の我は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる


を引いていたのが、この本(第五刷、2016年)では一字異同があり、「白痴の僕」になっている、ということを発見した。ざっと見たところでは、そう改めた理由はとくに記していない。第一刷の「白痴の我」は以前の記事で取り上げたとおりで、誤写というわけではないのだが、増刷の際になぜそれを改めたのだろうか。


(2017.2.4 記)

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 『短歌のピーナツ』第42回で永井祐が『斎藤史歌文集』(講談社文芸文庫、2001年)を取り上げているのを読んだが、意外にもパンチが効いていない。永井自身が『斎藤史歌文集』をさほどおもしろいと思っておらず、とくに書きたいこともないようだ。

 収録されたエッセイの一編「ちゃぼ交遊記」は、ペットのチャボを可愛がる自身の心理について、

 今度は娘達が飼うのだし、鶏ならば、猫や犬ほど人間と密接な関係にはならないだろう――とたかをくくったわけである。


と説明する。これに対して永井は、

わたしはこの一文が、ちょっとした「人の悪さ」を感じて好きでした。


齋藤さんはそういう計算ができる人なのでした。


などと言うのだが、史はわざと偽悪的に書いたに決まっている。それを律義に受け止めてあげる「人のよさ」に私はいささか白けた。

 昭和初期の銀座でお茶を飲み「コロンバンの木の葉型パイ」を買ったことを書いたエッセイに対して永井は、

モダンガールを満喫してたみたいな書きぶりですけど、ご自身はほんとにそんなにイケてたんですかね。おばあちゃん話盛ってるんじゃないかという気すらちょっとしてくるんですが。


「イケてた」かどうか、見た目の話なら答えは「イケてた」。洋装、断髪、美貌。写真で見るかぎり、二十歳前後の史の姿かたちはモダンの典型だ。

 遊び方の話なら、盛るというほどでもない。史のエッセイから窺えるのはお嬢さんのまずまず上品な遊びで、そこにフラッパーの要素は全然無い。


(2017.2.2 記)

 azzurroさんから下のような問いをいただいた。何か学生時代の期末試験のような、あるいは昔の道場破りのような……?

 質問です。塚本邦雄が『花隠論』の「蝶に針」という斎藤史論で、小玉朝子は忘れさられ、津軽照子は新短歌に去ってしまって、斎藤史が定型短歌のプリマドンナになったという記述をしていたと思うのですが、津軽照子にも『魚歌』に匹敵するような定型短歌の作があるのでしょうか。ご存じでしたら、歌集名をご教示願えないでしょうか。


 azzurroさんの方が私などよりも津軽照子の履歴と作品についてずっと詳しく知っているだろう。困った。私はほとんど何も知らないし、これまで特別な興味を持ったこともなかった。

 手元にたまたまある資料の断片を提出して、この「試験」を切り抜けることにしよう。それらの資料に価値があるのかないのか、azzurroさんの判断をいただければありがたい。


(1)『野の道』

 1924(大正13)年刊行の個人歌集。収録歌はまず文語定型とみとめられるものだ。

支那の国支那の港の公園にそこの国人遊ぶを許さず
みんなみの緑のはねの鸚哥
(いんこう)のとなりにうたふ満洲ひばり


 こちらは上海詠。「津軽照子にも『魚歌』に匹敵するような定型短歌の作が」あるかとの問いだが、素材も方法も制作時期も異なるので比較は難しい。なお、この歌集は国立国会図書館のウェブサイト上で閲覧できる。


(2)『心の花』掲載歌

 たとえば、1930(昭和5)年5月号に

佇めばひき行く波にあなうらの砂崩るるをまさしくおぼゆ
雨けぶる塩田の砂に汐をまく浜の娘の袖しとどなり


といった文語定型歌が載り、同7月号には

いそがしいクレーンの往来、釣橋もとれた、すべるばかりの軍艦高雄
咬まれた虫は動かない、蜘蛛も、私もじつと見てゐる


といった口語自由律の作が載る。この辺りが作風の移行期ということになろうか。


(2017.1.21 記)

 「とこイットだね」の作詞はサトウハチロー。「イットだね」は「色っぽいね」というほどの意味だろうが、では「とこ」は? 毛利眞人『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス』もこれについては何も言及していない。


     §


 YouTubeで聴くことのできる二村定一の歌声をほぼ全て聴き終えた。なるほど、優れた歌い手だ。素人の自分が聞いても、そう感じる。しかも不思議な個性を常に発散させている。

 なかで「ヅボン二本」(コロンビア)は、その個性がいくらか抑え気味な分聴きやすい。
https://youtu.be/E5YWIllxo30



 「エアガール」(タイヘイ)も比較的クセのない歌い方で、好きだ。YouTubeでは次の動画の7分31秒から後に入っている。
https://youtu.be/BQQA4Qjht64




(2017.1.6 記)
 新年早々、二村定一の昭和初期の流行歌をYouTubeで聴き、その不思議な魔力にやられている。声も歌い方も、どこか奇妙なのだ。

 1928(昭和3)年から翌年にかけて次々にレコードをヒットさせ、「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに「レコード歌手第一号と呼ばれた」とのことで、「その技術面は際立っていた」とされている(ウィキペディア「二村定一」の項)。それはそうなのだろう。しかし、何かがヘンだ。

 たとえば、二村独唱の「青空」(ビクター、1928年)。
https://youtu.be/iuOLu7sII_M



 YouTubeにこの曲をアップロードした人は二村の歌声を「朗らか」と評している。私は朗らか過ぎるその歌声が恐い。

 あるいは、「とこイットだね(イット節)」(ポリドール、1931年)。
https://youtu.be/sg4B7egZQ4Y



 この歌の終わり近くに「今夜も送って頂戴よ」との一節があって、その「頂戴よ」を二村が妙な声色でコミカルに歌う。YouTubeのコメント欄を見ると「二村定一らしくて良い」などとある。しかし、それが女の声色の真似なのか、それとも別の世の何かの真似なのか、私には分からなくてちょっと気味がわるい。これに比べればエノケンの歌声など、はるかに健全だろう。

 ウェブ上で「二村定一」の画像を検索すると、これまた世にも不思議な顔のモノクロ写真がズラッと並ぶ。決して不細工ではない。むしろ整った目鼻立ちだと思う。しかし、こんな顔は見たことがない。強烈だ。

 昭和初期の都会の風俗について多くのことを教えてくれる毛利眞人『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス:昭和モダン歌謡の光と影』(講談社選書メチエ、2016年)は、次のように記している。

 勇ましい騎士の裏側にシャイなロマンティシズムを秘匿したシラノのように、二村にもパッと咲く華やかなキャラの裏面に、べったりとした隠花植物のような不気味さがあった。見てはいけないものをそっと覗き見るような背徳の魅力が、大衆の目を引きつけて離さなかったのである。エロ・グロ・ナンセンスをひとりで併せもった存在と言って過言でない。


 毛利氏のレトリックの力のせいでもあろうが、なんというか、恐ろしい。私が何より奇異に感じるのは、この二村定一が「当代一の人気歌手」(毛利同書)だったという事実だ。


     §


 彼は酒のある風景を嫌つて、つねに美しい少女のゐる、いいレコードのある喫茶店を求めて行つた。


 1930(昭和5)年前後の石川信雄について、木俣修「若き日の石川信雄」(『日本歌人』1937年9月)はこう証言している。この「レコード」は海外の上品な流行歌、軽音楽、はたまたさらに高級なクラシックかと想像するが、石川や木俣、前川佐美雄の耳には一方で二村定一の歌声も聞こえていたはずだ。前川佐美雄『植物祭』や石川信雄『シネマ』が同じ時代の産物だということを忘れるべきでないだろう。その字面だけを見て理解した気にならない方がよいだろう。


(2017.1.5 記)
 斎藤瀏歓迎会が開かれた天然自笑軒は、田端のいわゆる文士村の地域にあった有名店。芥川龍之介のファンには、芥川の結婚披露宴の会場になった店として知られている。田端在住の太田水穂がこの店を知っていたのだろう。斎藤史のエッセイに「自笑亭」とあるのは、寄せ書き帳の字をそのまま引き写したものと思われる。史自身はこの店のことはよく知らなかったのではないか。当然のことだが、瀏が史をどこにでも同伴したわけではない。


(2016.8.30 記)


 「斎藤瀏歓迎会漫詠集」(『香蘭』1930年6月)によれば、会は同年5月18日夜に開かれたという。参加者を年齢順に並べ、所属結社の機関誌名を書き添えると次のようになる(年齢は数え年)。

  石榑千亦  61歳  心の花
  太田水穂  54歳  潮音
  宇都野研  53歳  勁草(信綱・空穂系)
  斎藤 瀏  52歳  心の花
  川田 順  49歳  心の花
  吉植庄亮  47歳  橄欖(薫園系)
  尾山篤二郎 41歳 (空穂・夕暮・牧水系)
  村野次郎  37歳  香蘭(白秋系)
  前川佐美雄 28歳  心の花

 これを眺めると、いろいろな人間関係が見えてくる。

 水穂から庄亮までがいわば同世代で、瀏はちょうどその真ん中にいる。庄亮は気心の知れた仲間の中で一番年下だから、笑いの対象にしやすかったわけだ。想像するに、この歓迎会は水穂・研・順・庄亮、さらに商業誌『短歌雑誌』の編集に携わっていた尾山篤二郎が声を掛け合って計画し、順が『心の花』の親しい先輩石榑千亦、後輩前川佐美雄を呼び、佐美雄は自分一人だけがとびきり若いことに引け目を感じて、芸術派の人脈で繋がりのあった村野を誘った、といったところか。

 非アララギ・非プロレタリア・親モダニズム、そして後年の国粋主義の肯定。会の参加者の傾向を大雑把にまとめれば、そんなふうになるだろう。

 水穂・庄亮と瀏がこの十年後、大日本歌人協会に対し連名で解散勧告を出し、解散に追い込んだことはよく知られている。村野の『香蘭』は1930年当時、新芸術派の拠点の一つだった。佐美雄は言わずと知れた新芸術派の旗手で、この会の二ヶ月後に第一歌集『植物祭』を出版することになる。尾山は戦後、中城ふみ子の歌を罵倒したことが短歌史に残って損をしているが、戦前は新芸術派の数少ない理解者の一人だった。また、瀏が二・二六事件に関係して収監されたときには、尾山が真っ先に斎藤家を訪れて史を励ましたという。

 私は以前からモダニズムと国粋主義の親和性が気になっている。この会の顔触れにも、それは表れているように見える。モダニズムを捨てて戦意高揚歌を作るのか、それとも元から二つは繋がっているのか。今後の短歌史研究の課題だと思う。


(2016.8.28 記)

 先日、この歓迎会に関する新たな資料を発見した。『香蘭』8巻6号(1930年6月)(註)掲載の「斎藤瀏歓迎会漫詠集」である。報告者名は記されていないが、同誌の編集兼発行人、村野次郎にちがいない。

 この「斎藤瀏歓迎会漫詠集」は、斎藤史のエッセイ「寄せ書き帳」が紹介する前書き・歌・句のうち歌一首を欠くが、残りは全て載せている上に、史の紹介の中には見えない歌七首も載せている。字句の異同があり、歌の順序も部分的に違っているところを見ると、寄せ書き帳とは別に村野が書き取ったもののようだ。歓迎会直後の報告であるから、一つの資料としてまず信頼してよいだろう。

 さて、これを調べると、史が紹介を略した「庄亮がさかなにされた」歌というのは、どうやら次の四首であるらしい。

吉植の千葉の印旛の草刈女ラムネつきにて十銭といふ  水穂

吉植は異論がありといひいでぬ十銭にあらずただといふなり  千亦

酒のめば印旛の沼の大なまづぬらぬらとして泥にねむれる  水穂

いん旛沼の庄亮なまづぬらぬらにひげはあらねど大鯰なり  順


 村野は前の二首に

 ややヱロの話になりたる折


と註を付けている。一首目の大意は、(東京の男は芸妓と酒を飲んだり、女給とコーヒーを飲んだりしているが)印旛の庄亮はラムネを二本十銭で買って、草刈りに雇った女と一緒に飲んでいるという——。二首目は、「いや、わざわざラムネなど買い与えないでも、女とよい仲になるのは簡単だ」と庄亮は言い返した——。別解もあるかもしれないが、一応こんなふうに解しておきたい。いずれにせよ、罪のない艶笑歌である。

 庄亮の歌集『開墾』を見ると、雇った娘たちを題材にした歌がいくつもある。

草掻くと胸わきあきて少女子のいまだをさなきまろ乳匂ふ

菅笠のうちに匂へる青田光
(かげ)田草かく子等みな笑ひゐる

早少女が紺の股引の足結(あゆひ)藁あまりは唇(くち)にもてあそびつつ

田上がりの股引ぬぎて少女らの夕くらがりを新鮮(あたら)しくなす


 いずれも健康的なエロスを感じさせて、退廃の匂いは全然ない。水穂たちも当然その辺りのことは理解している。だから、安心してからかうことができるわけだ。

 後の二首は深酔いした庄亮を笑ったもの。なぜ「大なまづ」なのかは、しばらく留保しておこう。

 庄亮を詠み込んだ四首の紹介を史が割愛した理由として考えられるのは、一つは瀏に関係したものでないということだろう。不本意なかたちで退職した瀏を歌人たちが暖かく迎えた、というのがこのエッセイの基本的な文脈なので、庄亮をからかう歌はそこから幾分脱線してしまう。

 そして、もう一つは、やはり「ヱロ」を避けたか。切り抜き帳はこの後、篤二郎と瀏による筍の絵、水穂の一句

みじか夜の大竹の子や露の玉


と続くようで、史はとくにためらうこともなく紹介している。ところが、「斎藤瀏歓迎会漫詠集」ではこの水穂の句の後に

 中々ヱロといふもあり


との註を付けているのがおもしろい。史は水穂の句の暗示には気付かなかったのかもしれない。


     §


 現代の歌人の宴会をよく知らないが、今も即興の寄せ書きといったことをするのだろうか。もしそういった遊びがなくなるとすれば、艶笑歌もなくなってしまうことだろう。


(註)『香蘭』8巻6号は群馬県立土屋文明記念文学館の佐々木靖章寄贈本のなかにあり、私もそれを閲覧した。


(2016.8.25 記)

 斎藤瀏が陸軍歩兵第十一旅団長を退いて予備役となり、熊本から東京に居を移したとき、親しい歌人たちが田端の会席料理店、天然自笑軒で歓迎会を開いた。集まったのは石榑千亦・宇都野研・太田水穂・尾山篤二郎・川田順・前川佐美雄・村野次郎・吉植庄亮と瀏の九名、1930(昭和5)年のことである。

 この会で、歌人たちは即興の歌や絵を残した。その寄せ書き帳は瀏に贈られたようで、後年斎藤史がエッセイ「寄せ書き帳」(『遠景近景』大和書房、1980年)で内容を紹介している。

任をへて剣を捨てたる将軍の大禿あたま夏の月照る  水穂

灯に照れる柱に寄れる禿あたまいづれあやめと引きぞわづらふ  順

あまてらすあたまのひかり神々しみきたてまつりわれは祝はむ  庄亮


 瀏の頭をからかって詠んだもので、笑いにまぶして瀏の退職を慰めいたわる気持ちが伝わってくる。順の一首は『太平記』の

五月雨に沢辺のまこも水こえていづれあやめと引きぞわづらふ


を踏まえて「柱も頭もきれいに光って見分けがつかない」とふざけたのだが、「異本撫でぞ」という書き込みもあるとのこと。場面を想像してみると、

  ——いや、将軍の頭は「撫でぞ」だ。(一同大笑)

といった感じだろう。史のコメントは、

 このあたりまでは、まずまずのにぎやかさだが、いよいよ興が乗り、印旛沼の近くに住む庄亮がさかなにされたらしい、


というもので、瀏の次は庄亮がからかわれたようだ。宴はさらに盛り上がり……。


     §


 史は「庄亮がさかなにされた」その歌自体は紹介しなかった。一体どんな歌だったのか——を探るのが実はこの記事の一番の目的である。瀏に対する歌人たちの友情に心が引かれて、つい前置きが長くなってしまった。


(続く)


(2016.8.24 記)

 前々回の記事について、松村正直さんからコメントをいただいた。『遠景』よりさらに後年の本では、例の詞書が「七月十二日」云々になっているという。私は本当にうっかりしていた。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』八雲書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』ぐろりあ・そさえて、1940年)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』甲鳥書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『遠景』短歌新聞社、1972年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史全歌集』大和書房、1977年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史歌集』不識書院、1988年)


 こうして並べてみると松村さんの指摘のとおりで、『斎藤史全歌集』から「十二日」に改められたようだ。

 では、結局、それ以前の本に「十三日」とあったのはなぜか。1936年7月12日に栗原安秀らの死刑が執行されたことは、同日中に陸軍省から発表され、新聞で報道された。史はその日付を知っていたと想定するのが自然だろう。

 別個にまとめられた『魚歌』と『歴年』のどちらにも「十三日」とあるから、おそらく誤植ではない。

 あるいは発禁等の処分を免れるために偽装した可能性もあるかと考えてみた。しかし、別の詞書には事件が起きた月日も記されており、それは『魚歌』以来、正しく「二月廿六日」で一貫している。死刑執行の日にちの方だけをずらすことは、はたして検閲をすり抜けるために有効かどうか、疑問だ。

 友の刑死は史の人生に重大な影響を及ぼした事柄であり、その日にちを間違えて記憶したとは考えにくい。ただ、例えば史が同年7月12日には日記を書かず、翌13日付の日記に友の刑死のことを書き付け、のちに『魚歌』『歴年』をまとめる際にそれを参照した、ということはあるかもしれない。考えにくいことではあるが、一つの可能性として記憶違いの線も残しておこう。


(2016.7.19 記)


 『遠景』は短歌新聞社「現代歌人叢書」の一冊。このシリーズは、巻頭に著者近影を載せる。本書は

長野市勤労福祉センター前にて(昭和46年8月)


とのキャプションが付く一枚である。明治生まれの人の装いとしてはスカートの丈が短いようだが、私の母によれば、当時の流行で「そういうのしか売ってなかった」由。

Fumi Saito 1971


(2016.7.17 記)

 昨日、七月十二日は、二・二六事件に関わった陸軍の青年将校らが処刑された日。ちょうど八十年前のことだ。周知の通り、その将校のなかに斎藤史の幼なじみ、栗原安秀や坂井直がいて、史はその死を悼む歌を残した。

 それらの歌は合同歌集『新風十人』(1940年)に収録され、ついで史の第一歌集『魚歌』(同年)、第二歌集『歴年』(同年)にも収められた。いずれも詞書が付いている。その詞書の一部を引いてみよう。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』)


 不思議なのは「七月十三日」という日付。「十二日」ではないのだ。後年の選集『遠景』でも「七月十三日、帰土。」となっており、単純な誤記でもなさそうだ。しかし、「十三日」とする理由はわからない。このことは、以前にも論文のなかで言及したことがあるのだが、いまだに見当が付かない。どなたか、よい考えをお持ちの方はいらっしゃいませんか?


(2016.7.13 記)

 『遠景』の年譜を見ると、冒頭の1909(明治42)年の「二月十四日。東京市四谷区仲町に生れた。」との記載以外では、1940(昭和15)年の項にのみ月の表示がある。他の年は、例えば二・二六事件のあった1936年も、父瀏が亡くなった1953年も月までは記していない。

 意識してそうしたのか、無意識なのかわからないが、第一歌集『魚歌』、第二歌集『歴年』が続けて出版された1940年は、史の記憶の中でもやはり格別だったのだろう。


(2016.7.11 記)


 『遠景』所収の年譜の話の続き。1930(昭和5)年の項に

 前川佐美雄、石川信夫らと「短歌作品」発刊。


とある。『短歌作品』創刊号は1931年1月1日付の発行。『遠景』以後の史本人以外の編者による年譜では、同誌創刊の記事は1931年の方に移っている。

 年譜に出版物を記載する場合、その年月はたいてい奥付の発行年月の記載に従う。だから、同誌創刊は1931年のこととして記すのが穏当で、『遠景』の年譜の記述は史の単純な記憶違いだと私は思っていた。しかし、あらためて考えてみると、雑誌が1月1日発行ということは、それにかかるさまざまな活動は前年のうちに進んでいたわけだ。史の心のうちでは、『短歌作品』の出発はあくまで1930年の出来事だったのかもしれない。

 ただし、この創刊号に史の名は見えない。史の作品の同誌掲載は第2号(1931年2月)の「夢魔」七首が最初である。この時点ですでに誌上で中心メンバーと同じ待遇を受けているので、創刊の相談には史も加わっていたか。


tankasakuhin1-1.jpg


(2016.7.9 記)

 斎藤史自選歌集『遠景』は1972年刊行なので、収載年譜の記述は1971年で終わっている。

 さて、この年譜にあって、その後に編まれた史の年譜には無い記事がある。末尾の1971年の項である。

昭和46年(一九七一)現在家族。夫堯夫。母キク(失明)。長女章子。……


 このように家族を紹介するのだが、夫や長女の場合は名を記すだけなのに、母についてのみわざわざ「失明」と付け足すところが一種異様だ。母の看護・介護がたいへんな負担であったことは察するに余りある。しかし、この「失明」の二字には、一般的な意味でのたいへんさを突き抜けた特殊な情念を感じる。

 それがあったからこそ、次のような強い印象を残す歌が生まれたのかもしれない。

ぬばたまの黒羽蜻蛉(くろはあきつ)は水の上母に見えねば告ぐることなし
  (『風に燃す』1967年)

埴輪の目ふたつ穴なしてわらへども母の見えざる眼は笑はざり
  (『ひたくれなゐ』1976年)



(2016.7.1 記)

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和爾猫

Author:和爾猫
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