最新の頁   »  新芸術派(石川信雄・斎藤史・前川佐美雄)
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 斎藤史は父瀏の転勤で1927年4月から30年3月まで、ちょうど丸三年ほど熊本市で暮らした。数え一九歳から二一歳にかけての頃である。初め内坪井町九三番地に住み、28年3月頃大江町九品寺五九七番地に移った(『熊本歌話会雑誌』1928年1月号および3月号)。晩年に史が「ばか広かった」と振り返っている(『熊本日日新聞』1991年1月6日付)のは後の家のようだ。

 将軍は安永氏の世話で九品寺町のある豪華な家へ移られた。将軍の御家族は将軍と奥さんと今の史子女史と三人のお暮しなのに家は三棟位あつて庭には草木が生い茂つてとても広かつた。


との証言(大林武之「斎藤先生を偲びて」、『短歌人』1953年10月)もあるから、よほど豪壮な屋敷だったのだろう。次の図は1928年1月10日発行の『実地踏測番地入り早わかり熊本市街地図』(訂正第6版、土橋南江、部分)。

大江九品寺597

 中央の赤線が電車通りで、赤丸が市電の大江車庫前駅(現交通局前停留場)。この通りを西に進むとすぐに大甲橋、水道町、東に進むと水前寺に至る。「演武場」と表示されただだっ広い空白地帯の大部分は熊本製糸工場の敷地で、ここは現在はイオン熊本中央店等の大型商業施設となっている。

 さて、その空白地帯の左隅に「597」とあるのが見える。すなわち大江町九品寺五九七番地である。ただ、そこは工場に隣接した比較的狭小な土地だったはずで、「豪華な家」の所在地としてはやや違和感がある。

 一方、電車通りを挟んだ向かい側には「596」「557」「599」と番地が並んでいる。この「557」が「597」の誤記だとすると、お屋敷の所在地としてはそれほど違和感がない。ここに斎藤家の借家があったと私は推定したいのだが、どうだろうか。

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 こちらの写真は2021年10月に撮影したもので、中央右のコインパーキングと八階建てマンション等が上の地図の「557」に相当する場所である。写真には写っていないが、向かって左方向に進むとすぐに交通局前停留場がある。

 なお、熊本製糸工場の敷地の周辺一帯は「演武場跡」と呼ばれており、そこに歌友の安永信一郎・春子夫妻の家があった(安永信一郎『熊本歌壇私記』1978年、67頁)。瀏が新しい借家を探していると聞いて、安永信一郎は自宅の近所にあった家を紹介したのだろう。

 ちなみに、安永家の長女蕗子は当時尋常小学校二年生。後年、史に匹敵する著名歌人となる。


(2023.6.25 記)

 出征中の斎藤瀏に熊本歌話会が慰問品を送ったことを拙稿「歌人斎藤史はこの地に生まれた」⑤(『歌壇』2021年11月)に書いた。1928(昭和3)年5月の話である。さて、その慰問品の中に〈園田屋の柿牛皮〉というのがあったのだが、その園田屋、今もかつてと同じ熊本市南坪井町の店舗で営業している。

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 現在の外観(2022年5月撮影)。店の人に伺ったところ、西南戦争の後に建てた建物だという。歌話会の内田守人らも、この建物の中で柿求肥を買い求めたわけだ。

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 こちらは店内。奥の二枚の引戸は、ガラスも建築当初からのものだそうだ。手前側の引戸は、あるとき強風でガラスが割れてしまい、新しいガラスに換えたのだとか。

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 これが柿求肥。噛むと甘味が口の中に広がって美味しい。


(2023.6.18 記)


 旭川の短歌誌「かぎろひ」の編集・発行人や、北海道新聞短歌賞の選考委員を長年務めるなど、道内短歌界の発展に尽くした歌人の西勝洋一(にしかつ・よういち)さんが30日午前9時18分、間質性肺炎のため死去した。80歳。(2022年1月31日付『北海道新聞』電子版)


 西勝洋一さんの突然の訃報に驚いている。拙稿「歌人斎藤史はこの地で生まれた」⑦(『歌壇』1月号)で西勝さんの斎藤瀏・史研究に言及したのをご覧になって、すぐにお手紙を下さった。それまでご縁がなかったので、うれしかった。それからひと月とちょっとしか経っていない。

     §

 拙稿中でも述べたが、旭川在住時代の瀏と史の文学活動を論じた「斎藤瀏、史のいた時代」は、西勝さんの優れた研究成果だった。これから歌人の評伝など書きたいと考えている人はあの文章を手本にするのがよい、というのが私の意見だ。

 「斎藤瀏、史のいた時代」を収める『道北を巡った歌人たち』(二〇一三年)は石山宗晏氏との共著だが、その一番の特色は資料を博捜して活用した点にある。そんなことは特色にもならぬ、と言うことなかれ。近年の歌書であんなふうに多種多様な資料を集めて書いたものがほかにあったら教えてほしい。私は知らない。

 旧陸軍第七師団の関係資料、大正期の地元紙『旭川新聞』、小熊秀雄が残した『旭川歌話会記録』、『短歌人』北海道支部の機関誌『放牧』……旭川市民の西勝さんが地の利に恵まれていたことは確かだろう。だが、それを言うなら、国会図書館と日本近代文学館を日常的に利用できる首都圏在住者はどんな研究テーマを選んでも恵まれている。それで西勝さんのようにできるかと言えば、できないのだ。

 あれらの資料をどうやって探索したのか。あとがきには多くの関係者への謝辞があるが、人とのつながりはどのようにして作っていくのか。いずれお教えを請う機会があると思っていた。それがもうこの先あり得ないのだから無念だ。

     §

 不精な私には本当に珍しいことに、お手紙をいただいた翌日に返信を投函した。生前に読んでくださっただろう。ただ、初めてお便り申し上げるということもあり、随分と控えめな内容にしてしまった。もっと熱烈なファンレターにすればよかったのだ。その方が私の正直な気持ちだったのだから。

 (2022.2.1 深夜 記)


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 お久しぶりです。自分で歌を作ったり結社の歌会に出たりが今さらながら楽しすぎて、ブログ放置です……。当地はまたまた緊急事態宣言下です。皆さんお変わりありませんか。

     §

 小池光さんの論考「斎藤瀏、歌人将軍の昭和」(『昭和短歌の再検討』砂子屋書房、2001年)に出てくる「歌人将軍」という異名の初出はどこか——ということが最近、ツイッターの話題になっていたと聞いた。私はそのツイートを見ておらず、どなたのツイートか知らないのだが、いまどきの短歌界隈で斎藤瀏に関心を持つ人がいるなんて……意外で、うれしい。その人、私が書いている斎藤史の評伝を読んでくれてるかな(読んでないだろうなあ)。

 小池さんの上記論考の本文を見ると、

 加えて瀏は「歌人将軍」であり、大いなるロマンチスト、熱血漢であった。(69頁)


とある。鍵括弧付きで「歌人将軍」と記しているので、何かの先行文献からこの呼び方を引用したようだ。小池さんの引用元が何かは見当が付かない。しかし、これに類する言い方がいつごろからあるか、ということなら……。

 1927(昭和2)年、瀏は少将に昇進し、熊本に歩兵第十一旅団長として赴任。翌年旅団に出動命令が下った際、熊本の地元紙『九州新聞』(1928年4月23日付)に、

 陸軍少将といふより歌集『曠野』の著者として知られた熊本第十一旅団長斎藤瀏氏は今回南九州の勇卒二千名を率ひて風雲急なる山東の野に向ひ済南に駐箚する事となつた(略) 出動に関して所懐を求めると、一つ勇ましいところを詠むかなといつて筆を取り「救ひの軍(いくさ)わがすぶるからは火に水にいゆき果たさないのち死ぬとも」と達筆に書いて「まあこの心持ちだなあ」といつて記者に渡した


といった記事が出て、その見出しが「斎藤歌人少将の風懐」。早い時期の文献としては、この辺りではないかと。

 当時の新聞記事を見ると、瀏はしばしば「歌人少将」とか「詩人少将」とか書かれている。新聞記者にとっては詩人も歌人も似たようなもので。

 歌人仲間は瀏のことを単に「斎藤少将」「斎藤将軍」などと呼んでいた。これも分かる。だって、仲間内では歌人であるのが当たり前だから、それをわざわざ言う必要がない。


(2021.8.21 記)

 日本はニホン? ニッポン? どちらでもかまわないでしょ?

 ただ、そう言えない場合もあるか。たとえば、(1)明確に読み方が決まっている場合。東京の日本橋はニホンバシで、大阪の日本橋はニッポンバシ。また、(2)特に決まってはいないのだろうが、明らかにどちらかでしか読まない場合。日本語はニッポンゴではないだろうし、日本海はニッポンカイではないだろう。あるいは、(3)一般にはどちらでも読まれるものの、本来の読み方が決まっている場合。日本銀行はニッポンギンコウでもニホンギンコウでもよさそうなものだが、紙幣には NIPPON GINKO とある。


     §


 『岩波現代短歌辞典』(岩波書店、1999年)は引用歌に

にび色の秘密色の丘の象形文字原始たそがれ永遠未来

  加藤克巳


があるのがありがたい。巻末の引用歌上句索引を見ると「日本」から始まる歌が七首あるが、「にび色」の前に並ぶものはニッポン、後に並ぶものはニホンと編者が訓じたことが分かるからだ。前者は三首。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も

  塚本邦雄


日本の近代の裔(すゑ) 写実的前衛派なる病葉(わくらば)あはれ

  岡井隆


日本の民衆と大衆と犇きて追いかけあえる環状電車

  岸上大作


 岡井と岸上の歌の第一句はニホンノでは字足らずだから、ニッポンノと読むのが自然だ。塚本の一首は、ニホンダッシュツの方が初句七音で穏当な気がするが、そこをわざわざニッポンダッシュツと読むのは、何か根拠があるのだろう。ついで、後者の四首。

日本海の荒ぶる波の一生(ひとよ)とも肌すり生きてなおし雪の香

  坪野哲久


日本語は今も清しくあるらむと海渡り吾が帰り来にけり

  小暮政次


日本に住み、
日本の国のことばもて言ふは危ふし、
わが思ふ事。


  土岐善麿


日本列島山林構成は多く山毛欅帯なり冬されば樹幹しろじろ光る

  前田夕暮


 哲久の「日本海」と小暮の「日本語」は上記(2)の通りで、当然ニホン。夕暮の「日本列島」も同断か。善麿の歌は第二句をニホンノクニノと読むと音数が合うので、第一句もニホンニスミと読むべきなのだろう。


     §


 日本歌人クラブはニホンカジンクラブと呼ぶらしい。では、戦前の大日本歌人協会や商業誌『日本短歌』は? 前川佐美雄創刊の『日本歌人』は?

 『岩波現代短歌辞典』、および『現代短歌大事典』(三省堂、2000年)は、ともにダイニホンカジンキョウカイ、ニホンタンカ、ニホンカジンと訓じる。『現代短歌大事典』の日本歌人の項の執筆者は、1992年以来同誌の編集発行人を務める前川佐重郎。少なくとも90年代以降に同誌のタイトルがニホンカジンと呼ばれてきたことは間違いないだろう。

 注目したいのは、上の二冊の辞書より二十年余り古い角川『短歌』1978年9月臨時増刊号の「現代短歌辞典」である。こちらの本では、一部の読み方が異なっている。『日本短歌』が同じくニホンタンカである一方、大日本歌人協会はダイニッポンカジンキョウカイ、『日本歌人』はニッポンカジンなのだ。

 日本短歌の項の執筆者は、同誌の編集発行人だった木村捨録。同誌がニホンタンカと自称していたことは確実だろう。対して、大日本歌人協会と『日本歌人』はどうか。

 大日本歌人協会の項の執筆者は、同名の著書(短歌新聞社、1965年)を持つ冷水茂太。冷水は同書執筆に際し、同協会の中心人物だった土岐善麿に直接取材している。善麿がダイニッポンカジンキョウカイと呼んでいたことはほぼ確実だろう。

 日本歌人の項の執筆者は、同誌同人の宮崎智恵。これは当時の同人たちがニッポンカジンと自称していた証拠ではなかろうか。同誌については、さらに興味深い資料がある。次に引くのは、佐美雄が書いた同誌創刊号(1934年6月)の編集後記の一節。

 可笑な話だが最初はこれを「菊」にしようか「鷲」にしようかと迷つたものだが誰いふとなく「日本歌人」がよからうといふ事になり、つひに「ニツポンカジン」となつたのである。


 まず決定的な証拠だろう。つまり、同誌の自称は、創刊時はニッポンカジン。それは、その後も長らく変わらなかった。ところが、佐美雄から次代に編集発行人が交替する前後、いつの頃からか次第にニホンカジンが優勢になった、と考えてよさそうだ。


(2019.7.30 記)

 職場のテーブルの上に岩波新書の永田和宏『現代秀歌』があったので「おおッ」と思い、何気なく手に取ってパラパラ頁をめくっていたら、第一刷(2014年)で前川佐美雄の一首、

ひじやうなる白痴の我は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる


を引いていたのが、この本(第五刷、2016年)では一字異同があり、「白痴の僕」になっている、ということを発見した。ざっと見たところでは、そう改めた理由はとくに記していない。第一刷の「白痴の我」は以前の記事で取り上げたとおりで、誤写というわけではないのだが、増刷の際になぜそれを改めたのだろうか。


(2017.2.4 記)

 『短歌のピーナツ』第42回で永井祐が『斎藤史歌文集』(講談社文芸文庫、2001年)を取り上げているのを読んだが、意外にもパンチが効いていない。永井自身が『斎藤史歌文集』をさほどおもしろいと思っておらず、とくに書きたいこともないようだ。

 収録されたエッセイの一編「ちゃぼ交遊記」は、ペットのチャボを可愛がる自身の心理について、

 今度は娘達が飼うのだし、鶏ならば、猫や犬ほど人間と密接な関係にはならないだろう――とたかをくくったわけである。


と説明する。これに対して永井は、

わたしはこの一文が、ちょっとした「人の悪さ」を感じて好きでした。


齋藤さんはそういう計算ができる人なのでした。


などと言うのだが、史はわざと偽悪的に書いたに決まっている。それを律義に受け止めてあげる「人のよさ」に私はいささか白けた。

 昭和初期の銀座でお茶を飲み「コロンバンの木の葉型パイ」を買ったことを書いたエッセイに対して永井は、

モダンガールを満喫してたみたいな書きぶりですけど、ご自身はほんとにそんなにイケてたんですかね。おばあちゃん話盛ってるんじゃないかという気すらちょっとしてくるんですが。


「イケてた」かどうか、見た目の話なら答えは「イケてた」。洋装、断髪、美貌。写真で見るかぎり、二十歳前後の史の姿かたちはモダンの典型だ。

 遊び方の話なら、盛るというほどでもない。史のエッセイから窺えるのはお嬢さんのまずまず上品な遊びで、そこにフラッパーの要素は全然無い。


(2017.2.2 記)

 azzurroさんから下のような問いをいただいた。何か学生時代の期末試験のような、あるいは昔の道場破りのような……?

 質問です。塚本邦雄が『花隠論』の「蝶に針」という斎藤史論で、小玉朝子は忘れさられ、津軽照子は新短歌に去ってしまって、斎藤史が定型短歌のプリマドンナになったという記述をしていたと思うのですが、津軽照子にも『魚歌』に匹敵するような定型短歌の作があるのでしょうか。ご存じでしたら、歌集名をご教示願えないでしょうか。


 azzurroさんの方が私などよりも津軽照子の履歴と作品についてずっと詳しく知っているだろう。困った。私はほとんど何も知らないし、これまで特別な興味を持ったこともなかった。

 手元にたまたまある資料の断片を提出して、この「試験」を切り抜けることにしよう。それらの資料に価値があるのかないのか、azzurroさんの判断をいただければありがたい。


(1)『野の道』

 1924(大正13)年刊行の個人歌集。収録歌はまず文語定型とみとめられるものだ。

支那の国支那の港の公園にそこの国人遊ぶを許さず
みんなみの緑のはねの鸚哥
(いんこう)のとなりにうたふ満洲ひばり


 こちらは上海詠。「津軽照子にも『魚歌』に匹敵するような定型短歌の作が」あるかとの問いだが、素材も方法も制作時期も異なるので比較は難しい。なお、この歌集は国立国会図書館のウェブサイト上で閲覧できる。


(2)『心の花』掲載歌

 たとえば、1930(昭和5)年5月号に

佇めばひき行く波にあなうらの砂崩るるをまさしくおぼゆ
雨けぶる塩田の砂に汐をまく浜の娘の袖しとどなり


といった文語定型歌が載り、同7月号には

いそがしいクレーンの往来、釣橋もとれた、すべるばかりの軍艦高雄
咬まれた虫は動かない、蜘蛛も、私もじつと見てゐる


といった口語自由律の作が載る。この辺りが作風の移行期ということになろうか。


(2017.1.21 記)

 「とこイットだね」の作詞はサトウハチロー。「イットだね」は「色っぽいね」というほどの意味だろうが、では「とこ」は? 毛利眞人『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス』もこれについては何も言及していない。


     §


 YouTubeで聴くことのできる二村定一の歌声をほぼ全て聴き終えた。なるほど、優れた歌い手だ。素人の自分が聞いても、そう感じる。しかも不思議な個性を常に発散させている。

 なかで「ヅボン二つ」(コロンビア)は、その個性がいくらか抑え気味な分聴きやすい。
https://youtu.be/E5YWIllxo30



 「エアガール」(タイヘイ)も比較的クセのない歌い方で、好きだ。YouTubeでは次の動画の7分31秒から後に入っている。
https://youtu.be/BQQA4Qjht64




(2017.1.6 記)
 新年早々、二村定一の昭和初期の流行歌をYouTubeで聴き、その不思議な魔力にやられている。声も歌い方も、どこか奇妙なのだ。

 1928(昭和3)年から翌年にかけて次々にレコードをヒットさせ、「東京行進曲」の佐藤千夜子とともに「レコード歌手第一号と呼ばれた」とのことで、「その技術面は際立っていた」とされている(ウィキペディア「二村定一」の項)。それはそうなのだろう。しかし、何かがヘンだ。

 たとえば、二村独唱の「青空」(ビクター、1928年)。
https://youtu.be/iuOLu7sII_M



 YouTubeにこの曲をアップロードした人は二村の歌声を「朗らか」と評している。私は朗らか過ぎるその歌声が恐い。

 あるいは、「とこイットだね(イット節)」(ポリドール、1931年)。
https://youtu.be/sg4B7egZQ4Y



 この歌の終わり近くに「今夜も送って頂戴よ」との一節があって、その「頂戴よ」を二村が妙な声色でコミカルに歌う。YouTubeのコメント欄を見ると「二村定一らしくて良い」などとある。しかし、それが女の声色の真似なのか、それとも別の世の何かの真似なのか、私には分からなくてちょっと気味がわるい。これに比べればエノケンの歌声など、はるかに健全だろう。

 ウェブ上で「二村定一」の画像を検索すると、これまた世にも不思議な顔のモノクロ写真がズラッと並ぶ。決して不細工ではない。むしろ整った目鼻立ちだと思う。しかし、こんな顔は見たことがない。強烈だ。

 昭和初期の都会の風俗について多くのことを教えてくれる毛利眞人『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス:昭和モダン歌謡の光と影』(講談社選書メチエ、2016年)は、次のように記している。

 勇ましい騎士の裏側にシャイなロマンティシズムを秘匿したシラノのように、二村にもパッと咲く華やかなキャラの裏面に、べったりとした隠花植物のような不気味さがあった。見てはいけないものをそっと覗き見るような背徳の魅力が、大衆の目を引きつけて離さなかったのである。エロ・グロ・ナンセンスをひとりで併せもった存在と言って過言でない。


 毛利氏のレトリックの力のせいでもあろうが、なんというか、恐ろしい。私が何より奇異に感じるのは、この二村定一が「当代一の人気歌手」(毛利同書)だったという事実だ。


     §


 彼は酒のある風景を嫌つて、つねに美しい少女のゐる、いいレコードのある喫茶店を求めて行つた。


 1930(昭和5)年前後の石川信雄について、木俣修「若き日の石川信雄」(『日本歌人』1937年9月)はこう証言している。この「レコード」は海外の上品な流行歌、軽音楽、はたまたさらに高級なクラシックかと想像するが、石川や木俣、前川佐美雄の耳には一方で二村定一の歌声も聞こえていたはずだ。前川佐美雄『植物祭』や石川信雄『シネマ』が同じ時代の産物だということを忘れるべきでないだろう。その字面だけを見て理解した気にならない方がよいだろう。


(2017.1.5 記)
 斎藤瀏歓迎会が開かれた天然自笑軒は、田端のいわゆる文士村の地域にあった有名店。芥川龍之介のファンには、芥川の結婚披露宴の会場になった店として知られている。田端在住の太田水穂がこの店を知っていたのだろう。斎藤史のエッセイに「自笑亭」とあるのは、寄せ書き帳の字をそのまま引き写したものと思われる。史自身はこの店のことはよく知らなかったのではないか。当然のことだが、瀏が史をどこにでも同伴したわけではない。


(2016.8.30 記)


 「斎藤瀏歓迎会漫詠集」(『香蘭』1930年6月)によれば、会は同年5月18日夜に開かれたという。参加者を年齢順に並べ、所属結社の機関誌名を書き添えると次のようになる(年齢は数え年)。

  石榑千亦  61歳  心の花
  太田水穂  54歳  潮音
  宇都野研  53歳  勁草(信綱・空穂系)
  斎藤 瀏  52歳  心の花
  川田 順  49歳  心の花
  吉植庄亮  47歳  橄欖(薫園系)
  尾山篤二郎 41歳 (空穂・夕暮・牧水系)
  村野次郎  37歳  香蘭(白秋系)
  前川佐美雄 28歳  心の花

 これを眺めると、いろいろな人間関係が見えてくる。

 水穂から庄亮までがいわば同世代で、瀏はちょうどその真ん中にいる。庄亮は気心の知れた仲間の中で一番年下だから、笑いの対象にしやすかったわけだ。想像するに、この歓迎会は水穂・研・順・庄亮、さらに商業誌『短歌雑誌』の編集に携わっていた尾山篤二郎が声を掛け合って計画し、順が『心の花』の親しい先輩石榑千亦、後輩前川佐美雄を呼び、佐美雄は自分一人だけがとびきり若いことに引け目を感じて、芸術派の人脈で繋がりのあった村野を誘った、といったところか。

 非アララギ・非プロレタリア・親モダニズム、そして後年の国粋主義の肯定。会の参加者の傾向を大雑把にまとめれば、そんなふうになるだろう。

 水穂・庄亮と瀏がこの十年後、大日本歌人協会に対し連名で解散勧告を出し、解散に追い込んだことはよく知られている。村野の『香蘭』は1930年当時、新芸術派の拠点の一つだった。佐美雄は言わずと知れた新芸術派の旗手で、この会の二ヶ月後に第一歌集『植物祭』を出版することになる。尾山は戦後、中城ふみ子の歌を罵倒したことが短歌史に残って損をしているが、戦前は新芸術派の数少ない理解者の一人だった。また、瀏が二・二六事件に関係して収監されたときには、尾山が真っ先に斎藤家を訪れて史を励ましたという。

 私は以前からモダニズムと国粋主義の親和性が気になっている。この会の顔触れにも、それは表れているように見える。モダニズムを捨てて戦意高揚歌を作るのか、それとも元から二つは繋がっているのか。今後の短歌史研究の課題だと思う。


(2016.8.28 記)

 先日、この歓迎会に関する新たな資料を発見した。『香蘭』8巻6号(1930年6月)(註)掲載の「斎藤瀏歓迎会漫詠集」である。報告者名は記されていないが、同誌の編集兼発行人、村野次郎にちがいない。

 この「斎藤瀏歓迎会漫詠集」は、斎藤史のエッセイ「寄せ書き帳」が紹介する前書き・歌・句のうち歌一首を欠くが、残りは全て載せている上に、史の紹介の中には見えない歌七首も載せている。字句の異同があり、歌の順序も部分的に違っているところを見ると、寄せ書き帳とは別に村野が書き取ったもののようだ。歓迎会直後の報告であるから、一つの資料としてまず信頼してよいだろう。

 さて、これを調べると、史が紹介を略した「庄亮がさかなにされた」歌というのは、どうやら次の四首であるらしい。

吉植の千葉の印旛の草刈女ラムネつきにて十銭といふ  水穂

吉植は異論がありといひいでぬ十銭にあらずただといふなり  千亦

酒のめば印旛の沼の大なまづぬらぬらとして泥にねむれる  水穂

いん旛沼の庄亮なまづぬらぬらにひげはあらねど大鯰なり  順


 村野は前の二首に

 ややヱロの話になりたる折


と註を付けている。一首目の大意は、(東京の男は芸妓や女給と酒を飲んでいるが)印旛の庄亮はラムネを二本十銭で買って、草刈りに雇った女と一緒に飲んでいるという——。二首目は、「いや、わざわざラムネなど買い与えないでも、女とよい仲になるのは簡単だ」と庄亮は言い返した——。別解もあるかもしれないが、一応こんなふうに解しておきたい。いずれにせよ、罪のない艶笑歌である。

 庄亮の歌集『開墾』を見ると、雇った娘たちを題材にした歌がいくつもある。

草掻くと胸わきあきて少女子のいまだをさなきまろ乳匂ふ

菅笠のうちに匂へる青田光
(かげ)田草かく子等みな笑ひゐる

早少女が紺の股引の足結(あゆひ)藁あまりは唇(くち)にもてあそびつつ

田上がりの股引ぬぎて少女らの夕くらがりを新鮮(あたら)しくなす


 いずれも健康的なエロスを感じさせて、退廃の匂いは全然ない。水穂たちも当然その辺りのことは理解している。だから、安心してからかうことができるわけだ。

 後の二首は深酔いした庄亮を笑ったもの。なぜ「大なまづ」なのかは、しばらく留保しておこう。

 庄亮を詠み込んだ四首の紹介を史が割愛した理由として考えられるのは、一つは瀏に関係したものでないということだろう。不本意なかたちで退職した瀏を歌人たちが暖かく迎えた、というのがこのエッセイの基本的な文脈なので、庄亮をからかう歌はそこから幾分脱線してしまう。

 そして、もう一つは、やはり「ヱロ」を避けたか。切り抜き帳はこの後、篤二郎と瀏による筍の絵、水穂の一句

みじか夜の大竹の子や露の玉


と続くようで、史はとくにためらうこともなく紹介している。ところが、「斎藤瀏歓迎会漫詠集」ではこの水穂の句の後に

 中々ヱロといふもあり


との註を付けているのがおもしろい。史は水穂の句の暗示には気付かなかったのかもしれない。


     §


 現代の歌人の宴会をよく知らないが、今も即興の寄せ書きといったことをするのだろうか。もしそういった遊びがなくなるとすれば、艶笑歌もなくなってしまうことだろう。


(註)『香蘭』8巻6号は群馬県立土屋文明記念文学館の佐々木靖章寄贈本のなかにあり、私もそれを閲覧した。


(2016.8.25 記)

 斎藤瀏が陸軍歩兵第十一旅団長を退いて予備役となり、熊本から東京に居を移したとき、親しい歌人たちが田端の会席料理店、天然自笑軒で歓迎会を開いた。集まったのは石榑千亦・宇都野研・太田水穂・尾山篤二郎・川田順・前川佐美雄・村野次郎・吉植庄亮と瀏の九名、1930(昭和5)年のことである。

 この会で、歌人たちは即興の歌や絵を残した。その寄せ書き帳は瀏に贈られたようで、後年斎藤史がエッセイ「寄せ書き帳」(『遠景近景』大和書房、1980年)で内容を紹介している。

任をへて剣を捨てたる将軍の大禿あたま夏の月照る  水穂

灯に照れる柱に寄れる禿あたまいづれあやめと引きぞわづらふ  順

あまてらすあたまのひかり神々しみきたてまつりわれは祝はむ  庄亮


 瀏の頭をからかって詠んだもので、笑いにまぶして瀏の退職を慰めいたわる気持ちが伝わってくる。順の一首は『太平記』の

五月雨に沢辺のまこも水こえていづれあやめと引きぞわづらふ


を踏まえて「柱も頭もきれいに光って見分けがつかない」とふざけたのだが、「異本撫でぞ」という書き込みもあるとのこと。場面を想像してみると、

  ——いや、将軍の頭は「撫でぞ」だ。(一同大笑)

といった感じだろう。史のコメントは、

 このあたりまでは、まずまずのにぎやかさだが、いよいよ興が乗り、印旛沼の近くに住む庄亮がさかなにされたらしい、


というもので、瀏の次は庄亮がからかわれたようだ。宴はさらに盛り上がり……。


     §


 史は「庄亮がさかなにされた」その歌自体は紹介しなかった。一体どんな歌だったのか——を探るのが実はこの記事の一番の目的である。瀏に対する歌人たちの友情に心が引かれて、つい前置きが長くなってしまった。


(続く)


(2016.8.24 記)

 前々回の記事について、松村正直さんからコメントをいただいた。『遠景』よりさらに後年の本では、例の詞書が「七月十二日」云々になっているという。私は本当にうっかりしていた。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』八雲書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』ぐろりあ・そさえて、1940年)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』甲鳥書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『遠景』短歌新聞社、1972年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史全歌集』大和書房、1977年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史歌集』不識書院、1988年)


 こうして並べてみると松村さんの指摘のとおりで、『斎藤史全歌集』から「十二日」に改められたようだ。

 では、結局、それ以前の本に「十三日」とあったのはなぜか。1936年7月12日に栗原安秀らの死刑が執行されたことは、同日中に陸軍省から発表され、新聞で報道された。史はその日付を知っていたと想定するのが自然だろう。

 別個にまとめられた『魚歌』と『歴年』のどちらにも「十三日」とあるから、おそらく誤植ではない。

 あるいは発禁等の処分を免れるために偽装した可能性もあるかと考えてみた。しかし、別の詞書には事件が起きた月日も記されており、それは『魚歌』以来、正しく「二月廿六日」で一貫している。死刑執行の日にちの方だけをずらすことは、はたして検閲をすり抜けるために有効かどうか、疑問だ。

 友の刑死は史の人生に重大な影響を及ぼした事柄であり、その日にちを間違えて記憶したとは考えにくい。ただ、例えば史が同年7月12日には日記を書かず、翌13日付の日記に友の刑死のことを書き付け、のちに『魚歌』『歴年』をまとめる際にそれを参照した、ということはあるかもしれない。考えにくいことではあるが、一つの可能性として記憶違いの線も残しておこう。


(2016.7.19 記)


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