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 なお、「孤雲還」の典拠については岩津も篠も言及していないが、李白「春日独酌二首」の

孤雲還空山 衆鳥各已帰
彼物皆有託 吾生独無依


(孤雲空山に還り、
 衆鳥各已に帰る。
 彼の物皆託する有るに、
 吾が生独り依る無し。)


から採ったものだろう。皆帰るところがあるのに自分にはない、というのが大意か。「孤雲還」の下には、一片の雲に去られて立ちつくす一人の人間の孤独な心がある。

 同時に、そこには帰還を肯定する優しさも弱さもあるようだ。「孤雲還」の三字だけを見るとき、家郷に戻る孤雲にみずからをなぞらえているようにも、私には感じられるのだ。

 八一の額の字について、篠は前掲文で次のように述べている。

 その字体のタッチは柔らかで、じつにみずみずしい。構えたところがなくて、はなはだ抒情的でありさえする。書家として著名になってからの雄勁な、きびしさが顕在されたものより、わたしはこのほうが好きである。『南京新唱』刊行の翌年に書かれたこの書は、生ま身の人間のさびしさを隠さない。


 篠の膨大な著述の中で私が一番に挙げたい一節だ。「孤雲還」の額がいまどこにあるのか知らないが、篠のエッセイにその小さな写真が添えられていて、字の雰囲気を窺い知ることはできる。篠の言葉の通り、みずみずしく麗しい。


(2018.10.8 記)

 また、八一に「槻の木」という、1932年執筆の随筆がある。

 もうかれこれ、余つぽどまへのことになるかも知れない。第一学院の講師室の御ひる時、今迄見えなかつた窪田君が忽ち目の前に立ちあらはれて、例のにこやかに
「オイ一つ御願ひがあるのだがね」
 此人から、かう出られると、たいていろくな事で無いから、先づ以つて困りながら聞いて見ると、果せるかな字を書けである。
「頼まれて来たのだが、槻の木といふ三字を、横に書いて見せて貰ひたい」
(略)間もなく其三字を表題に刷つた雑誌が送られて来た。窪田君の家来共の出す雑誌である。(十二巻本『会津八一全集』第七巻、103頁)


 空穂と八一が初対面で歌について論争したのが1925年の4月前後。同じ4月、八一は早稲田大学早稲田高等学院教授に就任。7月以降に「孤雲還」の額が空穂宅に入り、その書をおもしろく思った空穂が「槻の木」の題字を書くのを八一に依頼した、という流れだろう。表紙に八一の字を得た『槻の木』の創刊は翌26年2月である。空穂は八一の才能を認め、八一は年長で学芸に通じた空穂に八一なりの心配りを示した。八一の随筆からは、二人のそんな関係が窺われる。

 八一の没後に、空穂は次のように回想している。

 同君長逝まで廿数年に亘る親交であつた。親交というのは、会心という意味で、双方安心して、心中に思つていることを何でも話し合える交りだつたのである。その間私達は、一度も厭やな思いをしたことはなかつた。互いに気ごころをのみ込み合つていたから、おのずから限界を守り合えたからである。(「秋草道人の思い出の一部」、九巻本『会津八一全集』附録第七号、1959年4月)


 「何でも話し合える交り」とは言うものの、全てに気を許し合う親友というわけでもない。「おのずから限界を守り合えた」といった辺りに大家同士の関係の取り方をかいま見ることができる。しかし、また、空穂は次のようにも書いている。

 会津君はおりおり私の住宅を訪うてくれた。(略)長座となり、飯時となると、
「おれにはもり蕎麦二つ」というのであつた。そして、「それが一番良い」と云い添えもした。
 このように云うと、会津君という人は、いかにも無遠慮な、何もかまわない人であるかのように見えようが、これは同君の演出で、内実は反対に、細心な用意を持つてのことなのである。それは同君自身、後日、つくづく述懐したので知られる。
「君、何が面倒だつて、知人の家へ、ふらりと尋ねたという恰好で尋ねるくらい面倒なことは無いねえ」(同)


 これを見ると、空穂が八一のよき理解者であったことは間違いない。八一は付き合う相手としては相当に面倒くさそうな性格の持ち主だったが、生涯にわたって師や先輩、友人、門弟に恵まれた。人を引き付ける本質的な個性を八一が持っていたということだろう。もう一つ、二人に関して、私の好きなエピソード。

 「槻の木」の新刊紹介欄で、空穂先生が秋艸道人と小杉放庵の歌集について書かれたことがある。共に原稿紙半ピラで三枚までの短いものだったが、それを秋艸道人は、来訪の学生たちの前で読み、両方の行数を数えて、俺の方が何行沢山書いてある、それに俺の方が先になっている、小杉放庵より俺の方がいいんだ、といって喜んだそうである。ぼくは秋艸堂へは行かないから、この話も、行ったものが空穂先生に報告しているのを聞いたのだが、その時先生が「子供みたいだ」と笑っていられたのを憶えている。(山崎剛平『老作家の印象』238-239頁)


 空穂の文章とは、『槻の木』1934年3月号掲載の〈新刊の二歌集:「南京余唱と放庵歌集」〉。この話がなぜ好きかというと、空穂のことを八一が内心信頼していたことが分かるし、空穂がその信頼に気付いていたらしいことも分かって、楽しい気分になるからだ。


(2018.9.29 記)

 こうして初対面から激論を交わした空穂と八一であったが、間に入った山口の人柄のゆえでもあろうか、その後は互いに一目置き合う仲になったようだ。早稲田出身で窪田門下の岩津資雄が『会津八一』(南雲堂桜楓社、1962年)に次のように記している。

 私が道人の存在を知ったのは、早稲田大学文学部の学生時代のことで、道人の親友山口剛教授から講義時間の挿話として、道人のうわさを聞いた時に始まる。それはたしかに大正十四年で、道人の「南京新唱」が出版された翌年、道人の大学における美術史の講義が始まる前年であったと思う。私は山口教授の話しを聞いて、早速「南京新唱」を手に入れて愛読した。一方やはりその頃、窪田空穂教授の家に伺うと、客間の壁間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が懸っていた。空穂教授はその額を指して、「これは弘法以来天下に書家なしと豪語している会津八一の字だヨ。ちょっと梯子をはずしたようなところがあるネ」といった。字の面白さはさりながら、その比喩のうまさに私は感心したものである。(177-178頁)


 『南京新唱』刊行が大正13年、八一が早大で東洋美術史の講義を始めたのが同15年。その間の同14年、つまり1925年の話ということで間違いないだろう。空穂宅の客間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が掛かっていたという。「梯子をはずしたような」という空穂の評に岩津は感心しているが、情けないことに私にはこの比喩の意味が分からない。ともあれ、同じ額のことを篠弘も書いている。

 大学時代のわたしは、雑司谷にある空穂邸にしばしば出入りしていた。(略)その客間に、八一の書が掲げられていた。「乙丑七月」とあるから大正十四年に書かれたもので、「孤雲還」という作品である(略)
 あるとき空穂が、この書の来歴について語ってくれた。「これは会津さんが額に入れて、もってきてくれたものですよ。若いころの作品で、昭和のはじめごろだった。空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえるのではないか、と言ってね。案の定、吉江喬松や岩本素白らの諸君が、これで八一の書が好きになったよ」と、たのしげに話された。

(「「孤雲還」のイメージ」、十二巻本『会津八一全集』月報10、1983年1月)


 篠の大学時代というから、はるかに下って1950年代の初めだ。八一は「空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえる」と言って持ってきたという。空穂は「昭和のはじめごろだった」というが、「乙丑七月」との書入れと岩津の話を併せ考えると、八一が空穂宅に「孤雲還」の額を持ち込んだのは1924年7月か、そのすぐ後だったのだろう。そして空穂は八一の書が気に入った。その後二十数年、額がずっと同じ客間の壁に掛かっていたのが何よりの証拠だ。

 もっとも異伝もあって、窪田門下で砂子屋書房創業者の山崎剛平『老作家の印象』(砂子屋書房、1986年)には、

 空穂先生のところの二階に初め(大正年代)木堂の「楽性天」の額があった。それが秋艸道人の「孤雲還」に代り、後仝「廓寂」になった。(235頁)


とある。「廓寥」になったというのは八一が早稲田大学を辞する以前、つまり戦前戦中のことだろう。あるいは一度「廓寥」の額に掛け替えた後、再び「孤雲還」に掛け替え、それを戦後に篠が見たものか。そうだとしても、空穂が八一の書を好んだことに変わりはない。


(2018.9.18 記)

 ところで、八一の「私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた」という言葉はいやにアッサリとしているが、そこは八一のこと。「大いに論じた」というのは、つまり大声で激しく自説を主張したということにほかならない。植田前掲書に

 これはもうほんとうに会津伝説となってしまったことであるが、ある日、道人は山口剛の家にぶらりと遊びにいった。放談数時間おれが万葉集の講義をすれば日本で最高だなどと熱を吐いているところへ、窪田空穂が遊びにきて、歌について大激論を行なったらしい。延々数時間に及ぶ大論戦であった。空穂の弟子の山崎剛平が訪ねると、「今、会津八一と論争をしているが、どうもわしの方が歩がありそうだ。あと十五分もすれば、帰宅するから家で待っていよ」といって二階へ上がっていった。やがて、二人の大声がさかんにきこえてきたという。(365頁)


などとあって、植田は特に注記も付けていないが、これは八一の随筆と同じ出来事を伝えているのだろう。


(2018.9.17 記)

 というのも、村崎の文では空穂と八一がいかにも親しげに感じられる。しかし、八一本人の言によれば、二人は『南京新唱』刊行後に初めて顔を合わせたのだ。八一の随筆「凝つた小冊子」は『南京新唱』にまつわる思い出を記したものだが、そこにこうある。

 私はその頃まだ窪田空穂君と知り合つてゐなかつた。ある日山口剛君の宅で初めて会つた。そのまへに一冊寄贈しておいたので、自然その話になると、窪田君は改まつて、どうも私の歌が面白くない。つまりたいへん下手な歌だと批評してくれた。なるほど窪田君あたりから見たらそんなものであつたのであらう。しかし私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた。するとそれから十日も経たないうちに相馬御風君が『早稲田文学』で、それから思ひもかけぬ斎藤茂吉氏が『女性』といふ雑誌でだいぶ褒めてをられたのを、わざわざ持つて来て見せてくれた人がある。(十二巻本『会津八一全集』巻七、中央公論社、1982年、156頁)



 御風「砂上漫筆:此の一篇を『南京新唱』の作者におくる」を掲載する『早稲田文学』は1925年4月1日発行、茂吉「痴人の痴語」を掲載する『女性』も同月同日発行である。したがって、『南京新唱』刊行の翌年、1925年の3月か4月のことだったのだろう。当時、空穂と山口の家は雑司ヶ谷で隣同士で、この二人も親しく交流していた。それで、山口宅で空穂と八一が初対面という次第になった。廓言葉の話は、おそらくその席上で空穂に披露された。それが後年になって村崎に伝わり、ああいった書き方になったものだろう。


(2018.9.16 記)

 会津八一の最初の歌集『南京新唱』(1924年)の書名は、原案では「南都新唱」だったという。植田重雄『秋艸道人会津八一の芸術』(恒文社、1994年)がその辺りの事情に触れている。

 春陽堂に原稿を渡して、一まずほっとしたところで、親友山口剛のもとにぶらりと遊びにいった。剛に跋も書いてもらっている間柄である。その歌集の名は何であるかたずねた。奈良にちなんで、「南都新唱」という本だと語った。すると、山口剛は即座に膝を打ってカラカラ笑い出したのである。何が可笑しいかと問いつめると、「『なんとしんしょう』は廓言葉では、お太夫さんが客に口説かれたとき、何と申し上げたらよいでしょう、どうしましょうとはじらう文句なのだよ。会津君、こりゃ困ったことになりんしたわえな」。あわてたのは道人である。脂汗を流し、巨体をゆすって、その足で春陽堂にかけつけ、「南京新唱」に改めたのである。(386頁)


 山口剛は近世文学の研究者で、八一と同じ早稲田大学出身。また明治末年から早稲田中学で、後には早稲田大学文学部で八一の同僚だった。この山口の指摘によって、書名を改めたというわけだ。また、植田の著書以前、村崎凡人『窪田空穂』(長谷川書房、1954年)には次のようにある。

 文学部で顔を合わせている会津八一が、今度、歌集が出たからといつて、一冊を空穂に贈呈した。四六長判、赤地に鹿の古瓦の拓本があつて『南京新唱』と題してある。春陽堂から出ている。八一が云つた。
「はじめ、奈良の歌だから『南都新唱』としてみたのだ。そうすると、ほら、なんとしんせう、というのは、歌舞伎の廓言葉だろう。それで『南京』にしたのさ。ははは」
と大きな體をゆすつて豪放に笑つた。(296頁)


 窪田空穂もまた早稲田出身で、1920(大正9)年から早稲田大学の教員となっていた。八一が同大に勤務するようになったのは1926年で、そこからこの二人も同僚の関係だった。

 さて、植田と村崎の文を並べると、八一が廓言葉の話を山口から教えられた後、空穂のところに行って同じ話をした、という風に解される。ところが、もう少し調べてみると、村崎の方はどうも誤伝が混じっているらしい。


(2018.9.16 記)

八月廿九日善光寺詣

本堂の柱に長崎の旧友たれかれ八月廿八日詣るとしるしてありけるに、今は三十年余りの昔ならん、おのれ彼地にとどまりて一つ鍋のもの喰ひて笑ひののしりむつましき人達なり。あはれきのふ参りたらんには、面会してこしかた語りて心なぐさまむものを、互ひに四百余里の道程へだたりぬれば、ふたたび此世には逢ひがたき齢にしあれば、しきりにしたはしくなつかしくなむ、

近づきの楽書みえて秋の暮

 (一茶『文政句帖』)


 一茶は本堂の柱の落書を見て、前日に旧友たちがここを訪れたことを知り、たった一日違いでこの世での再会がかなわなかったことを嘆いた。私見では会津八一の一首、

ふるてらのはしらにのこるたび人の名をよみゆけどしるひともなし

 (『南京新唱』1924年)


は一茶の句をふまえており、その意は「友の名を見て嘆くことすら、自分にはない」というのである。

 8日午後4時半すぎ、長野市の善光寺に「落書きがある」と職員から警察に通報があった。(略)

 善光寺・若麻績信昭寺務総長「信仰に対する冒とくになるので、本当に悲しくもあり、憤りを強く感じる」

 (日テレNEWS24、10月9日19:47配信)


 人の道にも移り変わりがあるとか。今日、落書は信仰に対する……。


(2017.10.10 記)

 離れて暮らす小学生の息子に主人公の富小路公子が高価な全集本を買い与えたことを、後年になって当の息子が語る一節。

 僕が、
「幼稚なものばかりだね、ママ。悪いけど読む気がしないよ」
 と言うと、
「まああ、義彦の成長は、私の想像していたより早いのね。嬉しいわ」
 で、次の週には「世界文学全集」「日本文学集成」「会津八一全集」などというものが、ドカンと届くという具合でした。

  (新潮文庫六十刷、2008年、424頁)


 小説が発表された1978(昭和53)年当時はまだ全集というものが出版される時代だったから、この母親の設定が成り立つわけだ。今なら成り立たない。

 「会津八一全集」は60年代末に出版された十巻本だろう。78年にはまだ品切れになっていなかったのかもしれない。有吉はたまたま目に留まった書名を書いたのだろうが、場面にぴったり合っているので、私は読みながら笑ってしまった。学術論文と短歌が中心の、まあその……お堅い個人全集だから、小学生にはつまらないにきまっている。


(2016.9.3 記)


 『悪女について』は時間の設定が精密にできていて、全編にわたって矛盾がないようだ。作中の現在は1978年で、富小路公子の長男は24歳。とすると、この長男が小学生だったのは60年代前半ということになる。これは十巻本『会津八一全集』の刊行前だ。公子が買い与えたのは50年代末に出版された九巻本の方だったか。

 「有吉はたまたま目に留まった書名を書いたのだろう」というのも取り消した方がよいかもしれない。


(2016.9.3 追記)



 巻末「塔短歌会年表」の「主要記事」欄が詳細で、まことにありがたい。私は以前、会津八一の関係文献目録をまとめたことがあるが、『塔』1981年5月号に高安国世の講演記録「『あかきくちびる』など:会津八一の歌」が掲載されていることは、この年表を見るまで知らなかった。目録の補遺の部にこれも追加しておかなければ。


     §


 同じ年表の2010年の「主要記事」欄にある、
 

「健吉と赤彦—初期の交わりに見る運命的な出合い」藤原勇次



の「健吉」は当然「憲吉」の誤りだろう。同年の動向欄には、
 

五月 永田和宏『日和』が山本健吉文学賞



とあるが、塔事務所のパソコンがその「健吉」の漢字変換を学習してしまったものか。なお、本編の「中村憲吉の文学風土」の項(174頁)で、藤原氏が2008年に青磁社から『評伝中村憲吉』を出版していることを初めて知った。ぜひ読みたい。


     §


 上記「中村憲吉の文学風土」の一つ前の項「中西泰子」に、
 

 ニューヨークに戦前から住む日系人に、精力的かつ根気よくインタビューを重ね、貴重な活字資料として「母国は遠く」を残したが、残念ながら未完となった。



とあるが、「活字」なのに「未完」とはどういうことだろうか。もしテキストデータになっているという意味なら、なんとかウェブ上で公開できないものだろうか。


 会津八一は八月一日生まれだから八一。ついでに生年は西暦の1881年で覚えやすい、とは八一本人も口にしていたとのこと、吉池進『会津八一伝』だったか、あるいは宮川寅雄の本だったかで読んだ記憶がある。
 

しげりたつかしのこのまのあを空をながるゝくものやむときもなし

  『南京新唱』(1924年)



 八一の歌について、永田和宏『近代秀歌』(岩波新書、2013年)は「この一首といったときの決め手に乏しい」と書いている。なるほど、ここに引いた歌なども、言葉の音のリズムは滞りなく、内容はとくに事件が起こるわけでもない自然の景物の描写で、現代人の好む刺激が足りないかもしれない。ただ、その一見退屈な世界に、微妙に不思議な何かがひそんでいないだろうか。

 下句は「空を見上げると雲が流れていて、しばらくしてからまた見上げるとやはり雲が流れていた」というようなことを述べ表しているわけだが、それを「ながるゝくものやむときもなし」というと、突然そこに「永遠」が立ち現れる。人が死に、草木が枯れ、ただ雲だけが流れ続けるというような。

 八一の歌にはしばしば、このような仕掛けがある。私などは、その魅力に嵌まって熱心に八一の歌集を読んだ口だ。もう一ついえば、八一の歌は音調も内容も古くさいようでいて、どこか近代風のものを含んでいる。上の歌でいえば「かし」がそれで、単に木の間でもよさそうなところを細かく具体的に表現せずにはいられないところが写実主義的であり、近代風だ。

 では、近代風の仕掛けを全開にすればもっとおもしろくなるかというと、必ずしもそうでもないらしい。

 本日は八一の、数えで134回目の誕生日。


(2014.8.1 記)

 八一の自筆年譜を見ると、13歳の1894(明治27)年までは記事が少ない。記事が増えるのは、新潟中学校に入学する1895年からである。この年、新潟の地方新聞『自由新報』に載った弓術の記事に対し、反論の投書をしたという。八一の著述が活字になったのは、これが最初ということになっている。この『自由新報』の該当号はまだ見付かっておらず、今後の調査の課題である。

 さて、自筆年譜の同年の項に

 初めて帝国軍艦を見学す。



という記事があるのに注目しよう。十二巻本全集の年譜には、これと同じ事柄を示す記事がないのである。

 「見学」とあるから、艦内を見て回ったようだ。珍しい体験であることは確かだとしても、一生涯の記念としてわざわざ記すようなことだろうか。それをありがたがる態度は、まるで軍国主義者のようではないか——。

 まさにそのような疑問から、十二巻本全集の年譜はこの記事を採用しなかったのだろう。

 自筆年譜を底本にした九巻本全集の年譜の編者は安藤更生・宮川寅雄・長島健。いずれも八一門下で、安藤が一番の高弟。その安藤の没後に企画・編纂された十二巻本全集では、年譜の編者が宮川・長島の二人になる。ここでは年長の宮川が主導権を取っていたと考えられる。

 東洋美術の研究者である宮川は、戦前には共産党の地下活動に関わり、豊多摩刑務所で斎藤瀏と隣り合わせの独房に入っていたという人でもある。八一の「戦争認識」に関する次のような文章に、宮川の思想上の立場は明瞭に顕れている。

 これまでたどってきた会津八一の戦争認識は、当時の国民一般のそれと、さほど距離のあるものではない。しかし、だからといって、会津八一ほどの人物が、まったく、日本帝国主義の植民地主義を認識できず、あれほど愛し、理解しているかに見えた中国の、その内部に顕在している革命の波濤も知ることができなかったのは、痛ましいといわなければなるまい。そのことは、かつての時代の、岡倉天心や夏目漱石とも、同質の盲点につらなるものであり、正しい洞察が、かれらの内部につちかわれた天皇への敬慕によって掩われていたのでもあった。
 (宮川寅雄『会津八一』紀伊国屋新書、1969年)



 このように記す宮川の目に、「帝国軍艦」云々の記事が師の年譜を汚すものとして映っていたことは想像に難くない。

 しかし、八一の人物像を考える材料として年譜を捉えるとき、その記事を採用しないことはやはり誤った判断だったのではないか。共産主義に走った門弟を遠ざけなかったことと、軍艦を初めて見た感動を晩年まで忘れなかったことと、どちらの面も併せ持って会津八一という一個の人物が存在するのだ。

 「帝国軍艦」から目を背けるよりも、むしろその意味についてもっと考えた方がよい。明治時代、全国の港を廻る海軍の軍艦は、各地で庶民の見物の対象だった。岩本素白は八一と同時期に早稲田大学に学び、後年八一と同様に母校の教壇に立った人だが、その随筆に次のように記している。

 その頃の軍艦といふものは、厳めしくはあるが同時に美しいもので、それはただ平和を保障する象徴のやうな時代であつた。ふねも小さく、たかだか二三千噸のものが大きい方で、到るところの小さい港まで訪問して、人民たちに敬はれ、喜ばれ、珍しがられ、愛された時代であった。(「菓子の譜」)



 それは八一の故郷の新潟でも同じだった。八一は大学在学中に地方新聞『東北日報』で俳句欄の選者を務めることがあったが、そのときに選んだ句に次のようなものがある。

軍 艦 を 見 に ゆ く 人 や 松 の 内
軍 艦 の 中 よ り 上 る 初 日 か な

 (『東北日報』1904.1.1)



 1句目はその言葉通りの句。2句目は軍艦旗掲揚を初日の出に見立てている。寄港した軍艦を人々はなぜ見に行くのか。ただその外形の厳めしさや美しさを喜ぶだけではない。「平和を保障する象徴」として敬うのだ。明治の新潟の人にとって、クニと言えばまずは新潟だったが、軍艦はその上にある大日本帝国という国家を象徴していた。ことに1895年は日清戦争の講和の年だから、そのことが強く意識されたにちがいない。初めて軍艦を見た中学一年生の八一は、それまで頭の中で抽象的な理屈として捉えるだけだった国家の姿をも同時に見ていたはずだ。


(2014.2.8 記)

 会津八一の年譜は、1980年代に刊行された十二巻本『会津八一全集』(中央公論社)収載のものが一番正確で詳しい。したがって、八一の生活と文学活動の時期を確かめたいときは、まずこれを見ることになる。しかし、そもそも年譜は編者の方針によって編集されたものであり、いうまでもなくそれは事実そのものではないのだから、完全無欠の年譜というものはあり得ない。記載から漏れたところに真実があることもある。八一の年譜の場合も同様だ。

 この十二巻本全集の年譜は、八一本人が最晩年に記した自筆年譜を第一の資料にしている。自筆年譜の内容は、50年代に刊行された九巻本『会津八一全集』(八一の最初の全集。中央公論社)によって知ることができる。こちらの全集収載の年譜は自筆年譜を底本とし、編者によれば「印行にあたつて厳格に底本を踏襲した」という。

 さて、両者を比較すると、一見この上なく詳細に見える十二巻本全集の年譜も、実は自筆年譜のすべての記事を採ったわけでない、ということが分かってくる。たとえば、自筆年譜の1951年(70歳)の項に

 入歯。



という謎の二文字がある。十二巻本全集の年譜には、これに相当する記事がない。

 いや、謎ではない。これは、初めて入れ歯を入れたという意味だ。本人にとって重大事件だったということは理解できるが、年譜の記事としては空前絶後。十二巻本全集の年譜の編者は、苦笑しながらその不採用を決めたことだろう。

(続く)


 会津八一の大学時代の同窓生に伊達俊光という人がいて、植田重雄編著『会津八一書簡集』(恒文社、1991年)は伊達宛の八一書簡219通を収載する。内容は学芸、思想、生活にわたり、若き日のロマンスの報告もある。八一研究のためにまことに有益な資料だ。

 植田によれば、これらの書簡の現物は、『書簡集』刊行以前に失われてしまったという。

 ……伊達家では早稲田大学と会津記念館に書簡類を移譲したいという意向があったが、いくつかの障害があり、結局、古美術商関係者の手に渡った。ところが、いくばくもなくして倉庫が火災に遭い、すべて烏有に帰した。そのため、わたしが手写したものだけが今は唯一の資料となってしまったのである。(572頁)



 早稲田大学と会津八一記念館への「移譲」を実現させなかった「障害」とは、その後の古美術商の登場から考えても、金銭的な問題だろう。実際に大学や記念館に収蔵されていたら、私たちがそれらを目にする機会もあっただろうに、残念な話だ。

 ただし、「すべて烏有に帰した」との証言は、訂正を要するようだ。八木書店の先月発行の目録を見ると、『書簡集』収載の一通が「380,000」の値札付きで載っている。1911(明治44)年3月27日付の毛筆の封書である。前にこの店で買い物をしたときに店主が教えてくれたのは、「書簡の贋物作りは手間がかかりすぎる」。今回の一通もまず本物だろう。

 内容を『書簡集』で確かめると、文壇批判から始まり、近況報告で終わっている。ゲーテ、ホーマー、ダンテ、シェークスピア、アルマ・タデマ、一茶、淡島寒月といった人たちの名が出てくる。当時の関心のありかが窺えて、十分興味深い。三十歳の八一の芸術観を示す言葉——Vita longa, ars longa.(生活は永遠、芸術も永遠。)

 さて、私には縁のない値段である。その所在は、いずれまた不明ということになるのかもしれない。しかし、ともかくも現存はしているのだ。そのことだけでもありがたい。


(2014.2.2 記)

a. 大隈言道『草径集』

    閑居松子落
 めのまへにひとつ落たる松のみのさらにもおちずくるゝけふかな


b. 会津八一「武蔵野だより」(1923 大正12)

    懐君属秋夜 散歩詠涼天
    山空松子落 幽人応未眠
 裏山の地(つち)に響きて松の実のこぼるゝ宵を君寝(い)ぬべしや


c. 会津八一『南京新唱』(1924 大正13)

 たちいでゝとゞろととざす金堂のとびらのおとにくるゝけふかな


memo
・「松子落」は韋応物の詩(山空松子落……)に初出の言い回しであるらしい。
・「閑居松子落」という題は韋応物の詩をふまえたものだろう。
・『会津八一全集』には言道への言及なし。
・『万葉集』および二十一代集に「くるるけふかな」という句なし。
・『子規全集』の用例は未調査。


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