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 佐々木啓子編『中城ふみ子総集編』(旭図書刊行センター、2010年8月)は、この編者による一連の中城ふみ子書誌の最終版であり、中城ふみ子の研究者にとって最も重要な参考書の一つである。

 もちろん、完全無欠の書誌などというものは存在しない。『中城ふみ子総集編』を土台とし、その上に加筆訂正をしていくことは、今後の研究者に課せられた仕事である。

 差し当たり、前々回の記事「乳房忌」に引いた資料二点が『中城ふみ子総集編』に収載されていないので、同書に準じたやり方でこれらの書誌情報を書き留めておこう。

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番号/ 補遺-1
分類/ 新聞
著者名/ 意見番
タイトル・資料名/ てんやわんや「乳房忌」
掲載紙・誌/ 東京新聞
掲載頁/ p.8
発行所/ 東京新聞社
発信・発行日/ 1955.08.08(s.30)
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番号/ 補遺-2
分類/ 雑誌書籍
著者名/(無署名)
タイトル・資料名/ 「乳房忌」をめぐって
掲載紙・誌/ 新潮
巻/ 52
号/ 10
掲載頁/ p.23-24
発行所/ 新潮社
発信・発行日/ 1955.10.01(s.30)
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(2017.8.8 記)

 文人の命日を○○忌と名付けることがある。その日、故人を偲ぶ会が開かれることもある。芥川の河童忌や大宰の桜桃忌が有名だ。

 もちろん、文人の命日なら必ず○○忌と名付けられる、というわけでもない。数えたことはないが、俳人の○○忌の数は比較的多く、歌人の○○忌の数はそれよりずっと少ないようだ。○○忌は季語として登録されるので、俳人になじみの深い言葉なのだろう。

 吉野秀雄の命日は艸心忌と呼ばれ、毎年7月に鎌倉の瑞泉寺でこの艸心忌の会があるそうで、今年は五十回目だと6月14日付の『朝日新聞』で読んだ。歌人の○○忌が長く記憶されている、珍しい例だ。


     §


 今から六十二年前の今日、1955(昭和30)年8月3日は中城ふみ子の一周忌だった。この日、追悼の会「乳房忌」が開かれたことを『短歌研究』が伝えている。

 亡き中城ふみ子氏を偲ぶ「乳房忌」が、一周忌にあたる八月三日、東京日比谷公園内松本楼で開かれた。恩師の池田亀鑑氏や、四賀光子、五島美代子、岡山巌氏ら各派歌人、「乳房よ永遠なれ」の著者若月彰氏ほかのジャーナリストと日活映画関係者、吉行淳之介ら文壇人など四十余名が出席し、遠く帯広から上京した実母の野江きくえ、宮田益子、野原水嶺氏らを囲み、故人の生涯と作家精神について語り合いつつ追悼した。(「歌壇ニュース」、『短歌研究』1955年9月号)


 『乳房よ永遠なれ』は同年4月に刊行されたふみ子の評伝。「日活映画関係者」とあるのは、このときすでに同書の映画化が決まっていたからである。なお、佐々木啓子編の書誌『中城ふみ子総集編』(旭図書刊行センター、2010年)には、当日の「受付名簿」が収載されている(番号S-0026)。そこには「池田亀鑑外30名」の名が記されているという。

 この「乳房忌」という呼び名は、一部で評判が悪かった。会の五日後に『東京新聞』の匿名コラムが批判している。

 「乳房喪失」の歌人中城ふみ子が死んで一年、歌人たちは「乳房忌」と称して集まり、故人のオツパイをしのんだそうだ。歌人の国語感覚の愚劣さを証明するニュースではある。(意見番「てんやわんや「乳房忌」」、『東京新聞』1955年8月8日付「大波小波」)


 匿名氏はこのように「乳房忌」の名付けをこき下ろした後、「中城ブーム」に関係する歌壇商業誌・歌人・若月彰から中城本人まで一まとめに非難し、嘲笑した。

 これを引用した『新潮』の匿名コラムは冷静な書きぶりだが、それでも「乳房忌」には批判的だ。

 河童忌とか桜桃忌とかいうのにならつたものだろうが、それにしても乳房忌とはどうも‥‥(略)大体、中城ふみ子の歌集も最初は「乳房喪失」なんてスゴイ題名ではなく、「花の原型」というのだつたらしい。それを改題させたのは、彼女発掘の恩人ともいうべき「短歌研究」編集長の中井英夫という男である。こんどの乳房忌もかれの発案によるものときく。よほどオッパイの好きな男らしい。つまり意見番先生に「国語感覚の愚劣さ」を叱られるべきは歌人ではなく、歌壇ジャーナリストであつたわけだ。(『新潮』1955年10月号)


 中井英夫が「オッパイの好きな男らしい」というのが全然見当外れであることを私たちはよく知っているが、中井が無名の一編集者であった当時にあっては、十分あり得る反応だったといえるかもしれない。ともあれ、このコラムによれば、「乳房忌」は中井の発案によるものだったという。

 さて、『乳房喪失』という歌集名は戦後の短歌史に確かな位置を占めるに至った。その歌はあらゆるアンソロジーに必ず選ばれている。他方、「乳房忌」のことを今日聞くことはない。こちらは定着しないまま消えてしまったようだ。

 人は性と文学の取り合わせを受け入れた。しかし、性と法事の取り合わせまでは受け入れなかったのかも知れない。


     §


 1962年8月10日付の『短歌新聞』に野原水嶺の随想「乳房忌を迎えて」が掲載されている。私の知るかぎり、これが「乳房忌」という呼び名の最後の用例である。


(2017.8.3 記)

 小川太郎の著書によれば、中城ふみ子が「自らに課せられた過酷な運命」をはっきりと自覚したのは、癌が再発し、二度にわたる手術を受けたときだった。幼なじみの親友を病室に呼び、しみじみと語り合う中で、ふみ子は

「離婚したこと、中絶したことも、乳癌の原因だったかもしれないわね」


と言った、という(『聞かせてよ愛の言葉を:ドキュメント・中城ふみ子』本阿弥書店、1995年。154頁)。

 このふみ子の発言に明瞭にみとめられる罪の意識は、『乳房喪失』(1954年)の一首、

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ


につながるものとして興味深い。

 ただし、発言内容がそのまま歌の内容になっていないことには注意すべきだろう。両者はつながりつつ、同時に遠く隔たってもいる。

 病室での発言に沿って考えるなら、中絶や離婚の罪は、乳癌という罰を受けることで許されるのかもしれない。しかし、歌において、胎児と病とは因果関係を持たない。罪の象徴としての胎児は闇の中に残り、ことごとに母をとがめるだろう。


(2016.3.12 記)

 今から三十年前、角川『短歌』1984年10月号は中城ふみ子特集号だった。目次には渡辺淳一・磯田光一・中井英夫・三好行雄・塚本邦雄・大塚陽子・中村苑子・菱川善夫・永井陽子・斎藤史など、今は鬼籍に入っている人たちの名が並んでいる。執筆者に歌人でない人が多いのは歌人一般の場合より中城ふみ子の読者層が幅広いためか、あるいは80年代は今日よりももっと文芸のジャンル間の垣根が低かったのか。

 同号掲載の渡辺淳一のエッセイ「思い出すこと」は短文ながら印象深い内容で、わけても次の一節が注意を引く。
 

 「冬の花火」の出版に当って、銀座の旭屋でサイン会をしたが、そのとき会場に、初老の細面の、少しくたびれた感じの男性が現れた。
 本を差し出され、名前をきいて、それがかつてふみ子をめぐって、恋に燃えた男性と同一同名であることに気がついた。
 「もしや……」とおききすると、まさしくその人自身で、よく見ると若いころの写真の面影がある。



 「ふみ子をめぐって、恋に燃えた男性」で、「小説を書くに当って、探したが会え」なかった……となれば、これは当時消息不明とされていた若月彰以外の男ではあるまい。若月彰はペンネームだが、このペンネームで名のったのか、それとも本名で名のったか。ふみ子をモデルにした小説『冬の花火』の出版は1975年。ふみ子の死から二十年余り、若月はその幻影を追い続けて、渡辺淳一の前にも姿を現したものか。
 

 しかし、センセーショナルな登場をして一世を風靡した存在は、場合によっては一過性のものとして忘れ去られてしまうこともあるのだが、中城の作品は、時代が変わっても色あせることなく、常に新しい読者を得続けている。(東直子「映像的技法による情感の表現」、『短歌研究』8月号)



 この十数年、いや数十年、中城ふみ子研究の大きな流れは、スキャンダラスで「センセーショナル」なイメージからふみ子の歌を救い出し、再評価しようとするものだったといえるだろう。引用した東直子の文章なども、その型を踏んだものだ。ところが、人は若月彰とその著書『乳房よ永遠なれ』についてはこれを置き去りにし、相変わらずスキャンダラスで「センセーショナル」なものと見なすか、あるいは不当にも無視した。たとえば、佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』は、『乳房よ永遠なれ』を手に取って読むことなく、伝聞情報だけを鵜呑みにして「小説」と断定している(同書248頁)。小説、すなわち嘘だというのだ。

 『乳房よ永遠なれ』もまた再評価されるべきだと思う。中城ふみ子研究の重要資料として、である。一頁でも実際に読めば、それが若月にとっての真実を記したドキュメンタリーであること、ふみ子の作品成立の背景をよく伝えるものであること、ふみ子の歌人としての性質に迫るものであることは明白だ。

 昨日は、ふみ子の六十回目の命日。冒頭で触れた角川『短歌』の特集号はふみ子の没後三十年を記念したものだったが、そこからさらに三十年が経ったわけだ。

 
(2014.8.4 記)

 『短歌研究』1954年10月号に尾山篤二郎と長沢美津による女歌論争の掲載があり、翌11月号にはそれに対する読者の意見が「尾山長沢論争批判:読者の声」として載った。その「読者」の一人が松田さえこだった。
 

 私は同性として中城さんのいたましい死に素直な同情を寄せるし、その作品の気魄、自信には敬意を表してゐる。併し実のところあれが短歌の——女人歌の新しい在り方の方向とはどうしても思へない。

 たしかに中城さんの歌は、赤裸々な女の声と思はれよう。が、実際には演技の殻をつけた裸だ。

 今後、女人歌に、中城ふみ子流の作品が流行したらやりきれないと思ふ。

 中城さんの歌には、自虐に陶酔した様な面がある。かざりけのない、女性本来の真実といふものとは程遠いのではないか。かうした異常な作品が、若い世代の女人歌の指針となる様であつたら、これは大変なことだ。

 女流歌人の多数が精神的ストリツパーになつたら男性の多くは喜ぶかもしれない。しかし私は断じてその流れに捲き込まれまい。晴隴な気品と、ほのぼのとした抒情を失つて、何の女人歌であらうか。

(以上、抜粋)



 松田さえこ、すなわち、当時まだ二十代の尾崎左永子。もちろんこの文章は若書きであって、六十年後の尾崎左永子はこんなに率直には書かない。しかし、今度の『短歌研究』に寄せた「月光下の沈黙」の次のような箇所を読むと、結局尾崎さんは中城ふみ子をあまり好きではないのだなと思う。
 

 時事新報記者だった若月彰がふみ子にぞっこんで(略)

 ジャーナリスト三人(引用者注—若月・中井・山名康郎)を身辺に配して、ふみ子は自らの終焉を思うままに飾ったといえるのかもしれない。



 「ぞっこん」という品のない(?)言い回しからは、軽蔑と若干の嫉妬とが感じ取れる。そして、「ジャーナリスト三人」の一文からは、おおいなる嫉妬が……。


(2014.7.31 記)

 メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ

   中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)



 中城ふみ子の代表歌だと私が思っている一首。初出は『短歌研究』1954年4月号の五十首詠応募作品で、そこでは第二句が「あばかれてゆく」だった。

 佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』(短歌研究社、2010年)はこの改作について、
 

 メスが「ひらく」のは癌ではなく過去だからだろう。振り返る景色の、夫も、結婚生活も、貴重な体験だったと気づいたふみ子は、汚さ、醜さを意味する「あばかれて」という言葉を葬った。



と解している。『短歌研究』8月号の特集に掲載されている佐方の「歌人中城ふみ子の誕生:中井英夫との往復書簡にみる」における
 

 多分、メスが切るのは「過去」であり、負のイメージの「あばく」を使いたくなかったためだろう。



という記述も、前の著書の記述と同じことを述べたものだろう。中城ふみ子に関する佐方の著作はふみ子の家族・親族が安心して読めるものを書くという姿勢で一貫しており、この歌の解釈もまたその一例と言えそうだ。

 しかし、私にはどうも納得しがたい。この歌の「過去」は「闇」と同義であり、生まれることのなかった子どもたちが暗闇の中でいつまでも互いに足をばたつかせているような世界である。これが負のイメージでなくて何なのか。

 そのイメージはもちろんみずからの過去のもろもろに対する罪の意識の象徴的な表現に違いないが、同時にそこに快楽のための性愛とその結果としての堕胎に対する罪の意識を見ることはたやすい。佐方は触れようとしないが、小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)がすでにふみ子の書簡(1948年、鴨川寿美子宛)の
 

 赤ちゃんはもう絶体生まない、方法を用ひてるの。



や、日記(1950年1月7日)の
 

 私は五日に抓把した。これ以上子沢山ぢゃやって行けない。



という一節を報告している。実生活での「過去」の一部である。もちろん他人が単純に罪と見なすべきことではないし、当然女一人の責任でもない。現代人の感覚では、それらはむしろ女性の権利だ。しかし、そうだとしても、「貴重な体験だったと気づいたふみ子」などという想像は、一見中城ふみ子を健全な心の持ち主のように捉えるかに見えて、実は浅はかな女としておとしめるものではないか。

 「あばかれてゆく」を「ひらかれてゆく」に改めても、「過去」が正のイメージに変わることはない。ただ、この改作によって、過去を振り返る作中主体の態度がより理性的なものに変化する。感情的な人物に、読者はみずからの感情を重ねにくい。理性のある人物こそ、読者に向かって開かれている。そう考えるとき、この一首の改作を肯定することができる。


(2014.7.30 記)

 『短歌研究』8月号の特集「中城ふみ子と中井英夫がいた時代」でうれしかったのは、田中貞夫の写真が載っていたこと。中井英夫関係の本を探せば田中の写真もどこかにはあるのだろうが、私は初めて見た。

 田中は『乳房喪失』と『花の原型』を出版した作品社の社主。そして、中井のパートナーだった。写真は、若き日の中井と田中が並んで写っている。田中は想像していたとおりの美青年だった。


(2014.7.29 記)

 前の記事で取り上げた尾崎左永子「月光下の沈黙」によれば、中城ふみ子の病室に中井英夫が泊まった夜は月夜であったという。

 中井の札幌滞在は1954年7月29日から8月1日まで。以前の尾崎の発言には、中井がふみ子からの「電報で呼び出されて」ともあり、さすがに初対面の日にそういうことにはならないだろうから、中井が病室に泊まったのは、30日か31日。

 今はまことに便利な世の中で、六十年前の月の満ち欠けもウェブ上でたちどころに知ることができる。「こよみのページ」というサイトで調べると、なんと1954年7月30日は新月。この日も、次の日も、実際は闇夜であったわけだ。

 おそらくは、暗闇にほのかに浮かんだふみ子の姿が中井の記憶のなかで無意識のうちに美化されて、現実とは異なる「美しい月夜」の話になった。そして、この夜の思い出が中井にとって必ずしも美しいものではなくなった後も、すでに一つの真実として記憶に定着していた月光という舞台装置は、取り外されることなく残ったのだろう。


(2014.7.28 記)

 『短歌研究』8月号の特集は「中城ふみ子と中井英夫がいた時代」。中井がふみ子の病室を訪れた際のエピソードを記す尾崎佐永子「月光下の沈黙」が興味深い。ふみ子が札幌医大病院で病死したのが1954年8月3日、年譜によれば中井の札幌滞在はその直前の7月29日から8月1日まで。その間のどの夜のことであろうか、中井はふみ子に引き留められて病室に泊まったという。
 

 深夜に到って中井はベッドの傍の床に敷物を敷いて横になった。折から、美しい月夜であった。しばらく沈黙がつづいたあと、月光の中でふみ子は身を起こし、ベッドから下りて中井の傍らに身を横たえた。中井が女性に対しては恋愛感情を持たない性癖だったことは周知のことだが、中井自身、この時はちょっと怯んで、「妹だって言ったじゃないか」と改めて言ったそうである。しかしふみ子は沈黙のまま、臆する風もなく隣に身を横たえた。ともに月光に照らされた二人は、黙ったまま、ただ時が過ぎて行った。



 同じ話を尾崎はかつて座談会の中で語っていた。
 

 中井英夫から聞いたんだけど、彼女から電報で呼び出されて、病院に行ったら、どうしても泊まっていってくれと言うので、夜、病室のベッドの下に寝ていると、月光のなかで隣に降りてきた……

  (『短歌』1992年10月号)



 この発言は小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)も引用している。しかし、若干軽々しい印象を与える話し方でもあり、私はもしや尾崎の記憶違いもあるかと疑っていた。今回のエッセイはずっと落ち着いた語り口で、内容もより詳しく、具体的だ。「妹」云々という中井の発言は、ふみ子宛中井書簡の内容と符合する。中井、尾崎ともに嘘を言う理由もない。大筋において、事実を伝えるものとして信頼できる。

 もっとも、中井がふみ子の死後もずっとふみ子のことを妹のように思っていたなら、このような話を尾崎に明かすことはなかっただろう。やはり、どこかの時点で中井の心は変わったのだ。

 ふみ子の伝記の空白を埋めるピースが一つ見つかったようだ。尾崎のこの文章を掲載したことだけでも、今回の特集は価値がある。


(2014.7.26 記)

 中井の死が報じられたのが1993年。その翌年か翌々年のことだったと記憶している。『短歌研究』編集者時代の中井を直接知る人からたまたま当時の話を聞く機会があった。若月彰が中城ふみ子の評伝『乳房よ永遠なれ』(1955年)を書いたことに中井が激怒し、以後若月は中井の編集する商業誌に寄稿できなくなり、やがて歌壇人の前から姿を消したという。

 実際、私がその話を聞いたころまでずっと、若月は「消息不明」ということになっていた。だから、同じころ、小川太郎『ドキュメント・中城ふみ子:聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年8月)が若月へのインタビューに成功し、近影とともに報告したことは大きな功績だったのである。

 ただ、若月の失踪が事実であったことはよいとしても、その原因についてはなお検証の必要がありそうだ。中井自身が書いたものを読むと、若月とは別の話で対立することがあったようだ。

 若月彰だけがようやく中城を一人の作家として語り合える仲間の筈だったが、続いて十一月号の、第二回の五十首募集の特選に私が寺山修司を推し、若月がこんな俳句の焼き直しをする奴に中城を継ぐ資格はないといって排撃して廻るという事態を生じてから、急速に遠ざかることになり、折角の労作『乳房よ永遠なれ』も、私にはしらじらと醒めた眼でしか捉え得ないものとなった。(『底本中城ふみ子歌集』跋、1976年)

 本来ならそこで特選を取り消し、不明を謝して辞任してもよかったのだが、模倣攻撃の急先鋒が若月彰と知ると考えが変わった。(略)それこそ中城ふみ子が体当たりでひらいた道なのだから、そこに続こうとする才能豊かな十八歳の少年を君がこづき廻すのは、中城の仕事も無駄にすることになるだろうと、若月彰と私は何遍か議論したのだが、彼女の精神より悲劇的な運命に関心の深かった彼の耳には入りそうもなかった。(「無用者のうた:戦後新人白書」1961年) 


 他人の言より本人の言を信じたい。ただ、ここに一つ奇妙な事実がある。若月と疎遠になった中井が故人に対しても「しらじらと醒めた眼」を向けるようになったことだ。

 思うに私にとって中城ふみ子は、本人が演出し創作した作中人物のようなもので、その死の間際、飛行機に乗って札幌へ会いに行った「私」もまた、ひととき作中人物に化してみせた気しかしていない。私が病室のドアの前に立ち、その来訪が告げられると、折から中で発作を起こして苦しんでいた中城は、一声かん高く「いや!」と叫んで、そのあといつまでも私を外に待たせて化粧を続けたが、そんなこともすでに彼女の小説の中に入りこんだ私には、べつだん胸打たれることでもなかった。

 (『黒衣の短歌史』1971年)



 中井が飛行機に乗って札幌へ行ったのは確かであるし、病室の外で待たされたのも事実だろう。しかし、中井自身の感情に関する箇所は虚言だ。仮にこの「作中人物に化してみせた」云々が本当なら、中井はふみ子の生前からすでに、醒めた眼でふみ子を見ていたことになる。しかし、前回取り上げた「唖の歌」にしても、ふみ子宛中井書簡にしても、そのような「眼」を感じさせるところは一切ない。この引用文は結局「ふみ子の生前に中井がふみ子のことをどう見ていたか」ではなく、「これを書いた時点で中井がふみ子のことをどう見ていたか」を示すものだ。ふみ子の死後、中井はどこかの時点でふみ子に親しい感情を持てなくなったのだ。

 中井が『乳房よ永遠なれ』の出版に怒ったという真偽不明の証言を私が忘れられないのは、それによって、中井と若月の対立の原因だけでなく、死後のふみ子に対する中井の一見不可解な態度まで同時に説明できるからだ。『乳房よ永遠なれ』に記された有名なエピソード——ふみ子の病室でふみ子と若月が同衾したという——を読んだ中井が若月とふみ子の両方から裏切られたと感じたことは、想像に難くない。

 さらに時代が下って、晩年の中井はふみ子について次のように書いた。

 いま改めて思うのは、中城がそんな病状の中でよくもまあ歌を作ったなというその一事で、それが傑作であるかどうかはもはや私には問うところではない。田中(引用者註—『乳房喪失』『花の原型』を出版した作品社の社主田中貞夫)もまた窓をあけてくれといいしめてくれといい、カーテンをあけろといいしめろといい、テレビのリモコンスイッチを絶え間なく押しても、看護婦を呼ぶベルだけは押すまいと我慢してつい押してしまう苦しみの中で、死の朝きちんと遺書をしたためたが、いま私はこういいたい。
 ——神様、中城は歌を作りました、と。

 (「死の朝:中城ふみ子追悼」1984年)



 同じ文章中で中井は「作品以外のことはほとんど関心がなく」とも述べているが、人物への愛を元々持っていなかった者に、この最後の一行が書けるだろうか。かつて妹と呼んだ女性へのわだかまりの感情を時間が洗い流したのだと私には思われる。

 ともあれ、中井の「唖の歌」から「鍵」への改稿の内容、およびその不自然さは、ふみ子に対する中井の感情の変化に対応しているのではなかろうか。


(引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』第10巻に拠る。)

 
(2014.5.26 記)
 「唖の歌」で妹に宛てた賢治の詩が引用されていたのは、中井が望むふみ子との関係が兄と妹のようなものだったからだ。ふみ子の死の半月前、1954年7月17日付のふみ子宛中井書簡に、

 僕はソレカラ、中城ふみ子のことを妹のように愛し、そのためにもふみ子と呼びたいことを提案します。


 
とあり、また、

 僕の誕生日(略)九月十七日なんです。僕のはうがすこしでも兄貴だといいんだけれど——何だか四月生れのやうな気がしてならない。何時ですか、教へて下さい。


 
ともある。ふみ子と中井は同年生まれだが、ふみ子の誕生日は11月15日だった。中井が願ったとおりだったわけだ。

 「唖の歌」では、前に引いた一節に続けて、さらに次の数行がある。

*それにしても、と私は思ふ。多くの人の死を、なぜ死刑執行人のやうに迎へてきたのだらう。舌の上のこの苦さは何なのだらう。囁くやうに手紙の一行が蘇る。
  何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。
*その朝、果実屋の店先に始めて若い葡萄を見た。通りすぎようとして思はずふりかへると、漆黒の一房はやはり皿の上に静まつてゐた。—中城さんに—


 
 「何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。」というのは、1954年5月30日付の中井宛ふみ子書簡の一節。

 中井はふみ子に対して私信では「ふみ子」と呼んだが、人前ではもちろんそうは呼べなかった。だから、末尾の言葉は「中城さんに」。これと「鍵」の「中城ふみ子に」とを比べると、後者は明らかに詩の題名として作品化されたものだ。

 「鍵」に添えられた「54・8」は、この詩の完成した年月を意味しているのだろうか。そうだとすると、この記載は正確だろうか。「鍵」と当時の雑誌に実際に載っていた「唖の歌」の間には、やや距離がある。私たちが現在見るような形で「鍵」が完成したのはもっと後のことだろう、と私は推測している。


(書簡の引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』巻10、2002年2月、に拠る。)
 
(たぶん、続く)

 この詩の初出は、『短歌研究』1954年9月号だろう。ふみ子の死の直後に出た号である。ただし、ここでは詩と呼ぶべき態のものではなかった。それは、編集後記と奥付の間に埋め草のように置かれた「唖の歌」と題する短文だった。

*オルゴオルのとまらうとするたゆげな響きの中、うつうつと瞼を閉ぢてゐるその人の前で心は水鳥のやうに叫んでゐた——どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ! その日、からだの中ですべては終つた。薔薇は髪からころげおち、素早い手が灯りを消してしまつた。
  けふのうちに遠くへ行つてしまふ妹よ
  霙が降つておもてはへんに明るいのだ(無声慟哭)



 引かれている宮沢賢治の詩は「無声慟哭」でなく「永訣の朝」の一節だが、ともかくその引用のなかの「妹よ」が「鍵 中城ふみ子に」では作中主体自身の言葉となり、それに伴って初出の「その人」は「お前」という二人称で呼ばれることとなった。

 そして「どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!」は、初出では病床のふみ子を前にして他を見回す余裕もなく、気付けばすでに「叫んでゐた」言葉であった。

 初出とヴァリアントと、どちらが生々しく、どちらが切ないか。いうまでもないだろう。詩として再構成された後者は、いろいろと字句を入れ替えるうちに本来意味すべきところを見失った失敗作のようにも見える。


 (続く)

 『中井英夫詩集』(現代詩文庫、思潮社)を読んでいて、次の詩に目が留まった。

  
   中城ふみ子に

オルゴールがとまらうとするときの
たゆげな響きのなか
妹よ
お前の手で鍵はもつとも輝いた

水鳥のやうに叫んでゐよう
「どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!」
いま襲はうとするものが誰かを決して考へぬ死よ
せめて少女だけは踏んでゆくな

その日
からだのなかですべては終つた
薔薇は髪からころげおち
素早い手が灯りを消してしまつた   54・8


 一読して、この詩はどこか自然でないという気がした。不審な点はいくつかあるのだが、一番は第二連冒頭の「叫んでゐよう」だ。これは作中主体が自身に呼びかけた言葉と解するほかあるまい。しかし、わざわざ「叫んでゐよう」とみずから確認しなければ叫べないとは、いかにも醒めている。叫ばれる言葉——どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!——の切実さとそれとは、まるで釣り合っていない。

 なぜこんな詩になったのだろうか。


(続く)

 中城ふみ子が息を引き取るまぎわに口にした最後の言葉は、「死にたくない」だった——ということは、その死の直後に出た『凍土』3号(1954.9)に丸茂一如が書き残している。『凍土』はふみ子が参加していた同人誌で、『凍土』のメンバーは札幌医大病院に入院していたふみ子を日々励まし、支えた人たちである。丸茂もその1人で、ふみ子の通夜の準備にも携わった。丸茂の証言はまず信頼できると考えるのが普通だろう。

 今から10年以上前、ある研究者——仮にAさんと呼ぶ——が著作のなかでこの「死にたくない」という言葉を引いた。すると、それを読んだ人から私的に反論が来たという。つまり、本当にそう言ったという証拠はない、削除すべきだ、というのだ。

 なるほど、そう言われてみればそのようでもある。丸茂本人が臨終の場にいたわけではない。また、看取ったふみ子の母、きくゑのエッセイや歌には、その言葉は出てこない。もっとも、座談会でのきくゑの発言には

 最後まで「死にたくない」とはいつてました



とある(「中城ふみ子をしのぶ座談会」、『十勝毎日新聞』1955.11.25)が、これは一番最後の言葉という意味ではなさそうだ。死に近いある日に言った言葉が「最後の言葉」として、誤って伝わった可能性もあろうか。小川太郎や佐方三千枝は丸茂の証言の信頼性に疑問を持ったのか、評伝中にそれを取り上げていない。

 ただ、そうだとしても、丸茂の証言が差し当たり最も信頼できるということに変わりはなさそうである。反論してきた人は、なぜ執拗に証拠の有無を言い立てたのだろう。

 思うに、最後の言葉なるものが、あたかも「辞世の句」としてその人の人柄や思想、ときには人生そのものまで象徴するかのように感じられるためか。最後の発作が起きたとき、ふみ子が母に騒がないように注意したということは、きくゑの歌にあり(「お母さん騒ぐでない」と二度三度われを制してひそけく逝きぬ 『辛夷』1954.9)、若月彰『乳房よ永遠なれ』にも書いてある。「騒がないで」と「死にたくない」では、印象が変わってくる。前者は冷静で、誇り高い人柄を想像させる。後者は生命への愛着が直接的に顕れており、聞く人によっては潔くないと感じるかもしれない。Aさんに反論した人は、ふみ子が最後に「死にたくない」と言った、とは思いたくなかったのだろう。

 Aさんの方は、もともとふみ子の最後の言葉に対して、それほどまで強い思い入れを持っていたわけではないようだ。だから、最も信頼できる証言をただ引いただけなのだ。しかし、反論を受け、Aさんは研究者の名誉にかけて調査した。そして、とうとう、ふみ子の臨終の場にいた別の人物の所在をつきとめた。その人は、ふみ子の最後の言葉が何であったかを記憶していたという。

 私はAさんから事の顛末を聞き、ぜひ文章にして残してほしいと言った。しかし、Aさんは乗り気でないようだった。それからもう数年経つが、Aさんはまだどこにも発表していないはずだ。すべては初めから無かったもののように、消え去ってしまうのだろうか。


(2013.10.13 記)

 中城ふみ子の評伝2種、

 ・小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』
 ・佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』

を読み比べると、それぞれ資料の取り上げ方が異なっていて、それゆえふみ子の人物像も異なって見える、という例は枚挙にいとまがない。学生時代からの友人に宛てた書簡(鴨川寿美子宛、1948年)の一節、

 家も子も厭になると、私は何時もふらふらと夜の街を歩いてくるのよ。おいしいお菓子を食べに。



を原文のまま引用する(小川)か、

 悶々とした時には「お菓子を食べに夜の街に出る」ふみ子は、……



と要約して紹介する(佐方)か。

 あるいは、避妊や堕胎に言及した書簡を取り上げるか、取り上げないか。読者の側からいえば、どちらの本を読むかによって、例えば、

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
 (『乳房喪失』)



という1首の鑑賞の仕方も、いくらか変わるかもしれないのだ。

 小川の本がどのように評価されているかは、不勉強にして知らない。佐方の本に対する大辻隆弘と檜葉奈穂の言葉を引こう。

 佐方は、新しい第一次資料をもとに、自己に誠実に生きようとした中城ふみ子=野江富美子という女性の素顔をこの書で浮き彫りにしているといってよい。(大辻「中城ふみ子の尊厳」、『短歌研究』2010・8)

 佐方三千枝の徹底的な事実・実証主義により、一女性としての全面的な人間性が解明され、正確な中城像がまとめられたことを高く評価したい。(檜葉、『歌壇』2010・11)



 評伝の筆者が払った多大な労力は、正当に評価されるべきだと思う。だが「素顔」とは、「全面的な人間性」とは、何だろう。

 伝記は実人生そのものではない。その人物に関する資料の総体でもない。集めた資料を取捨選択し、それをもとにプロットないしストーリーを組み立てて、初めて伝記は成立する。その過程に著者の視点の取り方が反映する以上、一編の伝記が提示する人物像は、結局は一面の真実にとどまるだろう。

 私は小川の本に若月彰や中城博に直接取材した章を見出したときの興奮を忘れないし、執拗なまでに歌1首の推敲過程をたどろうとする佐方の姿勢にも尊敬の念をもっている。

 ただ、1人の人物の「真実」に近付くために、一旦は伝記の限界をみとめつつ、複数の伝記と多様な資料に依拠して、さまざまな角度からその人物の事跡を見つめたいのだ。


(2013.10.5 記)
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Author:和爾猫
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