最新の頁   »  中城ふみ子
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加

灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如くに今は狎らしつ

 (『花の原型』1955年)


 この一首について、2004年9月の講演の記録「ふみ子からのメッセージ:中城ふみ子賞の選考を終えて」には、

 どうやってその死神を狎らしたんでしょう。「快楽の如くに」とありますから、わかりやすく言えば死神とセックスしたということですね。死神に自分の肉体を与えて、死神さえもなだめてしまった。すごいエロスです。(略)やはり五十年経ってもこういう歌は中城さんしか作れないし、百年経っても多分作れないでしょうね。(菱川善夫著作集第五巻『おのれが花:中城ふみ子論と鑑賞』195-196頁)


などとある。これに対し、阿木津英は次のように批判する。

 「快楽の如くに」が、セックスの快楽とどうして断定できるのか。地上的な快楽はセックスばかりではあるまい。あまりにも性に結びつけすぎる解釈、この場合はとまどいさえ覚える。(「批評家菱川善夫の死角:中城ふみ子論を中心として」)


 すでに引いた〈「女の性の飢渇感」も、男にはすべてお見通しというがごとくに決めつけてくる〉はこの直後に続いている。女は性に飢えているといった偏った女性観により、本来性愛に関係しない歌を密接に関係するかのように誤読した、と主張するのだろう。

 実を言えば、私などもこの一首の「快楽」を性の快楽と解していた。私もまた、偏った女性観の持ち主として批判される立場にある、ということになりそうだ。

 しかし、私たちの解釈はそれほど無理なものだろうか。「灯を消してしのびやかに隣に来る」を同衾と取るのは、ごく自然なことだと思う。この場面で性の快楽を想定してはいけないというのであれば、そこにふさわしい快楽として他に何を想定できるのか、教えてもらいたい。

 上の講演で、菱川は「こういう歌は中城さんしか作れない」としている。ただ、そのように賛嘆する理由を明確には示していない。そこで、同時期の別の講演の記録「自由への口づけ」(2004年7月)を見ると、その理由に触れたところがある。

 つまり死神とセックスしたということです。それを死神を狎らしたと言っている、すごい歌ですよ。こういうふうに中城さんは、死の間際にあっても、死神からも自由でありえた。むしろ主導権を握っているのは彼女の方であって、死神さえも手なづけられてしまっている。(略)彼女自身の中にどういうふうに自由を倫理化して生きていこうかという一つの考え方があって、その結論が、うたの中に魅力ある輝きを放っているととらえることができます。(同書248頁。菱川善夫著作集は校正ミスが多く、残念ながら引用元とするには今一つ信頼できない本である。引用に際し、明らかな校正ミスは訂正した)


 同衾の場面で彼女が主体的な行為者であること、すなわち自分を支配しようと目論む者に対して自由であること、を菱川は高く評価した。そして、そこに自由の倫理化という一個の主題を見出した。それを偏った女性観の表れとばかり捉えることは、やはり正当でないだろう。

 ところが、阿木津はこうした点には目を向けようとしない。阿木津の菱川善夫論には「死角」があり、「その死角からくる欠落は顕著に現れた」ように私には思われるが、どうだろう。


(2019.6.28 記)

 阿木津の主張によれば、菱川善夫の批評には「死角」があり、菱川の中城ふみ子論に「その死角からくる欠落は顕著に現れた」という。では、死角ができた原因は何か。その死角に存在していたにも関わらず菱川の中城ふみ子論から欠落してしまったもの、は何だというのか。阿木津は『鑑賞中城ふみ子の秀歌』、および講演記録「ふみ子からのメッセージ:中城ふみ子賞の選考を終えて」から計四首の鑑賞を引用し、批判した上で、次のように結論付ける。

 このように、菱川善夫は、中城ふみ子の歌を解釈するにあたって、あまりにも自明の理のように「女」へ一般化してしまう。「女の心理」も「女の本能」も「女の性の飢渇感」も、男にはすべてお見通しというがごとくに決めつけてくる。


 ここから察するに、死角ができた原因は偏った女性観であり、その死角にこそ中城ふみ子の歌の本質があった、というのが阿木津の考えだ。つまり、偏った女性観に基づいて歌を解釈した菱川には、その歌の本質が見えなかった、というのだろう。

 では、引用歌四首を論じる菱川の文章に阿木津はどのように批判を加え、その結論につなげているのか。

美しく漂ひよりし蝶ひとつわれは視野の中に虐ぐ

  中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)


 『鑑賞中城ふみ子の秀歌』はこの一首について、

 女は嫉妬なしに美しいものを眺めることはできない。ここにはそんな嗜虐的な女の心理が、実にいきいきととらえられている。(略)こういう加虐的な快感は、女の深部にひそんでいる共通の心理であろう。と同時に、虐げるのは、虐げられることを渇望する心の裏返しでもある。(『おのれが花:中城ふみ子論と鑑賞』57頁)


とする。対する阿木津の感想は、

 なぜ「中城は嫉妬なしに」と言わずに「女は」と言い、「女の心理」に一般化してしまうのだろう。「こういう加虐的な快感は、女の深部にひそんでいる共通の心理であろう」などと一般化した上に、「と同時に、虐げるのは、虐げられることを渇望する心の裏返しでもある」とくると、もう落ち着いて読んでいられなくなる。あまりにも男の側のロマンティックな性欲妄想でしかないだろう。


というものだ。実は、私も「女の深部にひそんでいる共通の心理」には同様の疑問を持った。私が菱川同書の初読時に該当頁に貼った付箋には、「女に共通?」との書き込みが残っている。該当箇所において、菱川の筆は明らかに走り過ぎている。そこにいささか偏った女性観が表れているように見えることは、否定できない。

 私が腑に落ちないと思うのは、この先だ。この女性観が菱川の視野に死角を作った、のだろうか。それによって菱川は上の一首の本質を見落とした、のだろうか。

 美を虐げる理由を嫉妬と見做すことは、一つの解釈として理解できる。「嫉妬なしに美しいものを眺めることはできない」は、その解釈を表す一文だ。箴言風に「女は」と書いてしまったから気になるわけだが、阿木津の指摘通りに「中城は」と書き直せば、その問題は簡単に解消する。

 菱川が元々保持していた女性観に引きずられてこの一首を誤読した、とみとめることはできない。菱川がしたことは、むしろ逆だ。この一首から読み取ったことを女性一般に敷延したのだ。そこに問題があったと言えば、言える。しかし、だからといって、歌の解釈の当否までが揺らぐことはない。

 なお、嫉妬により美を虐げることは、他から虐げられるほどの美を自己に求めることに等しいだろう。だから、「虐げるのは、虐げられることを渇望する心の裏返しでもある」が唐突な記述だとも思われない。それを「男の側のロマンティックな性欲妄想」と「決めつけてくる」のはどうか。偏った男性観こそがそこに露呈していないだろうか。


(続く)


(2019.6.25 記)


 一昨年から「菱川善夫著作集を読む会」に参加している。少人数の私的な研究会だ。三、四ヶ月に一度、東京駅近くで開かれる。毎回著作集の一巻を取り上げ、担当者が研究報告をする。今のところ第六巻まで進んでいる。

 さて、この会で、私は実は第五巻の『おのれが花:中城ふみ子論と鑑賞』(沖積舎、2007年)を担当し、すでに報告した。その際、とにもかくにも、同書を飽きるほど繰り返し読んだ。半ば自己満足ながら、付箋も多数貼り付けた。だから、『短歌往来』7月号掲載の阿木津英「批評家菱川善夫の死角:中城ふみ子論を中心として」がその第五巻を批判的に論じていることには、注目せざるを得なかった。

 阿木津の主張の一部は、私が感じていた事柄にも近い。ただ、その事柄が同書の評価を左右することはない、と私は判断していた。したがって、「読む会」で報告したとき、時間が限られる中でそれには言及しなかった。自分の判断はあるいは間違っていたかもしれない、と阿木津の文章を読んで少し迷っている。

 一方で、腑に落ちないところがないわけでもない。『短歌往来』同号の編集人である佐佐木頼綱は、

 菱川氏の死角に触れた阿木津英氏の評論にも心動かされました。私がうまく読めなかった部分の理由が明快に書いてありました。なるほど、この時代の男のロマンなのか。(編集後記)


と素直に感嘆している。しかし、阿木津がそれほど「明快に」問題を整理したとは私には思えない。「この時代の男のロマン」を菱川が単純になぞったとも思えないのだ。


(続く)


(2019.6.24 記)


 佐々木啓子編『中城ふみ子総集編』(旭図書刊行センター、2010年8月)は、この編者による一連の中城ふみ子書誌の最終版であり、中城ふみ子の研究者にとって最も重要な参考書の一つである。

 もちろん、完全無欠の書誌などというものは存在しない。『中城ふみ子総集編』を土台とし、その上に加筆訂正をしていくことは、今後の研究者に課せられた仕事である。

 差し当たり、前々回の記事「乳房忌」に引いた資料二点が『中城ふみ子総集編』に収載されていないので、同書に準じたやり方でこれらの書誌情報を書き留めておこう。

--------------------
番号/ 補遺-1
分類/ 新聞
著者名/ 意見番
タイトル・資料名/ てんやわんや「乳房忌」
掲載紙・誌/ 東京新聞
掲載頁/ p.8
発行所/ 東京新聞社
発信・発行日/ 1955.08.08(s.30)
--------------------
番号/ 補遺-2
分類/ 雑誌書籍
著者名/(無署名)
タイトル・資料名/ 「乳房忌」をめぐって
掲載紙・誌/ 新潮
巻/ 52
号/ 10
掲載頁/ p.23-24
発行所/ 新潮社
発信・発行日/ 1955.10.01(s.30)
--------------------


(2017.8.8 記)

 文人の命日を○○忌と名付けることがある。その日、故人を偲ぶ会が開かれることもある。芥川の河童忌や大宰の桜桃忌が有名だ。

 もちろん、文人の命日なら必ず○○忌と名付けられる、というわけでもない。数えたことはないが、俳人の○○忌の数は比較的多く、歌人の○○忌の数はそれよりずっと少ないようだ。○○忌は季語として登録されるので、俳人になじみの深い言葉なのだろう。

 吉野秀雄の命日は艸心忌と呼ばれ、毎年7月に鎌倉の瑞泉寺でこの艸心忌の会があるそうで、今年は五十回目だと6月14日付の『朝日新聞』で読んだ。歌人の○○忌が長く記憶されている、珍しい例だ。


     §


 今から六十二年前の今日、1955(昭和30)年8月3日は中城ふみ子の一周忌だった。この日、追悼の会「乳房忌」が開かれたことを『短歌研究』が伝えている。

 亡き中城ふみ子氏を偲ぶ「乳房忌」が、一周忌にあたる八月三日、東京日比谷公園内松本楼で開かれた。恩師の池田亀鑑氏や、四賀光子、五島美代子、岡山巌氏ら各派歌人、「乳房よ永遠なれ」の著者若月彰氏ほかのジャーナリストと日活映画関係者、吉行淳之介ら文壇人など四十余名が出席し、遠く帯広から上京した実母の野江きくえ、宮田益子、野原水嶺氏らを囲み、故人の生涯と作家精神について語り合いつつ追悼した。(「歌壇ニュース」、『短歌研究』1955年9月号)


 『乳房よ永遠なれ』は同年4月に刊行されたふみ子の評伝。「日活映画関係者」とあるのは、このときすでに同書の映画化が決まっていたからである。なお、佐々木啓子編の書誌『中城ふみ子総集編』(旭図書刊行センター、2010年)には、当日の「受付名簿」が収載されている(番号S-0026)。そこには「池田亀鑑外30名」の名が記されているという。

 この「乳房忌」という呼び名は、一部で評判が悪かった。会の五日後に『東京新聞』の匿名コラムが批判している。

 「乳房喪失」の歌人中城ふみ子が死んで一年、歌人たちは「乳房忌」と称して集まり、故人のオツパイをしのんだそうだ。歌人の国語感覚の愚劣さを証明するニュースではある。(意見番「てんやわんや「乳房忌」」、『東京新聞』1955年8月8日付「大波小波」)


 匿名氏はこのように「乳房忌」の名付けをこき下ろした後、「中城ブーム」に関係する歌壇商業誌・歌人・若月彰から中城本人まで一まとめに非難し、嘲笑した。

 これを引用した『新潮』の匿名コラムは冷静な書きぶりだが、それでも「乳房忌」には批判的だ。

 河童忌とか桜桃忌とかいうのにならつたものだろうが、それにしても乳房忌とはどうも‥‥(略)大体、中城ふみ子の歌集も最初は「乳房喪失」なんてスゴイ題名ではなく、「花の原型」というのだつたらしい。それを改題させたのは、彼女発掘の恩人ともいうべき「短歌研究」編集長の中井英夫という男である。こんどの乳房忌もかれの発案によるものときく。よほどオッパイの好きな男らしい。つまり意見番先生に「国語感覚の愚劣さ」を叱られるべきは歌人ではなく、歌壇ジャーナリストであつたわけだ。(『新潮』1955年10月号)


 中井英夫が「オッパイの好きな男らしい」というのが全然見当外れであることを私たちはよく知っているが、中井が無名の一編集者であった当時にあっては、十分あり得る反応だったといえるかもしれない。ともあれ、このコラムによれば、「乳房忌」は中井の発案によるものだったという。

 さて、『乳房喪失』という歌集名は戦後の短歌史に確かな位置を占めるに至った。その歌はあらゆるアンソロジーに必ず選ばれている。他方、「乳房忌」のことを今日聞くことはない。こちらは定着しないまま消えてしまったようだ。

 人は性と文学の取り合わせを受け入れた。しかし、性と法事の取り合わせまでは受け入れなかったのかも知れない。


     §


 1962年8月10日付の『短歌新聞』に野原水嶺の随想「乳房忌を迎えて」が掲載されている。私の知るかぎり、これが「乳房忌」という呼び名の最後の用例である。


(2017.8.3 記)

 小川太郎の著書によれば、中城ふみ子が「自らに課せられた過酷な運命」をはっきりと自覚したのは、癌が再発し、二度にわたる手術を受けたときだった。幼なじみの親友を病室に呼び、しみじみと語り合う中で、ふみ子は

「離婚したこと、中絶したことも、乳癌の原因だったかもしれないわね」


と言った、という(『聞かせてよ愛の言葉を:ドキュメント・中城ふみ子』本阿弥書店、1995年。154頁)。

 このふみ子の発言に明瞭にみとめられる罪の意識は、『乳房喪失』(1954年)の一首、

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ


につながるものとして興味深い。

 ただし、発言内容がそのまま歌の内容になっていないことには注意すべきだろう。両者はつながりつつ、同時に遠く隔たってもいる。

 病室での発言に沿って考えるなら、中絶や離婚の罪は、乳癌という罰を受けることで許されるのかもしれない。しかし、歌において、胎児と病とは因果関係を持たない。罪の象徴としての胎児は闇の中に残り、ことごとに母をとがめるだろう。


(2016.3.12 記)

 今から三十年前、角川『短歌』1984年10月号は中城ふみ子特集号だった。目次には渡辺淳一・磯田光一・中井英夫・三好行雄・塚本邦雄・大塚陽子・中村苑子・菱川善夫・永井陽子・斎藤史など、今は鬼籍に入っている人たちの名が並んでいる。執筆者に歌人でない人が多いのは歌人一般の場合より中城ふみ子の読者層が幅広いためか、あるいは80年代は今日よりももっと文芸のジャンル間の垣根が低かったのか。

 同号掲載の渡辺淳一のエッセイ「思い出すこと」は短文ながら印象深い内容で、わけても次の一節が注意を引く。
 

 「冬の花火」の出版に当って、銀座の旭屋でサイン会をしたが、そのとき会場に、初老の細面の、少しくたびれた感じの男性が現れた。
 本を差し出され、名前をきいて、それがかつてふみ子をめぐって、恋に燃えた男性と同一同名であることに気がついた。
 「もしや……」とおききすると、まさしくその人自身で、よく見ると若いころの写真の面影がある。



 「ふみ子をめぐって、恋に燃えた男性」で、「小説を書くに当って、探したが会え」なかった……となれば、これは当時消息不明とされていた若月彰以外の男ではあるまい。若月彰はペンネームだが、このペンネームで名のったのか、それとも本名で名のったか。ふみ子をモデルにした小説『冬の花火』の出版は1975年。ふみ子の死から二十年余り、若月はその幻影を追い続けて、渡辺淳一の前にも姿を現したものか。
 

 しかし、センセーショナルな登場をして一世を風靡した存在は、場合によっては一過性のものとして忘れ去られてしまうこともあるのだが、中城の作品は、時代が変わっても色あせることなく、常に新しい読者を得続けている。(東直子「映像的技法による情感の表現」、『短歌研究』8月号)



 この十数年、いや数十年、中城ふみ子研究の大きな流れは、スキャンダラスで「センセーショナル」なイメージからふみ子の歌を救い出し、再評価しようとするものだったといえるだろう。引用した東直子の文章なども、その型を踏んだものだ。ところが、人は若月彰とその著書『乳房よ永遠なれ』についてはこれを置き去りにし、相変わらずスキャンダラスで「センセーショナル」なものと見なすか、あるいは不当にも無視した。たとえば、佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』は、『乳房よ永遠なれ』を手に取って読むことなく、伝聞情報だけを鵜呑みにして「小説」と断定している(同書248頁)。小説、すなわち嘘だというのだ。

 『乳房よ永遠なれ』もまた再評価されるべきだと思う。中城ふみ子研究の重要資料として、である。一頁でも実際に読めば、それが若月にとっての真実を記したドキュメンタリーであること、ふみ子の作品成立の背景をよく伝えるものであること、ふみ子の歌人としての性質に迫るものであることは明白だ。

 昨日は、ふみ子の六十回目の命日。冒頭で触れた角川『短歌』の特集号はふみ子の没後三十年を記念したものだったが、そこからさらに三十年が経ったわけだ。

 
(2014.8.4 記)

 『短歌研究』1954年10月号に尾山篤二郎と長沢美津による女歌論争の掲載があり、翌11月号にはそれに対する読者の意見が「尾山長沢論争批判:読者の声」として載った。その「読者」の一人が松田さえこだった。
 

 私は同性として中城さんのいたましい死に素直な同情を寄せるし、その作品の気魄、自信には敬意を表してゐる。併し実のところあれが短歌の——女人歌の新しい在り方の方向とはどうしても思へない。

 たしかに中城さんの歌は、赤裸々な女の声と思はれよう。が、実際には演技の殻をつけた裸だ。

 今後、女人歌に、中城ふみ子流の作品が流行したらやりきれないと思ふ。

 中城さんの歌には、自虐に陶酔した様な面がある。かざりけのない、女性本来の真実といふものとは程遠いのではないか。かうした異常な作品が、若い世代の女人歌の指針となる様であつたら、これは大変なことだ。

 女流歌人の多数が精神的ストリツパーになつたら男性の多くは喜ぶかもしれない。しかし私は断じてその流れに捲き込まれまい。晴隴な気品と、ほのぼのとした抒情を失つて、何の女人歌であらうか。

(以上、抜粋)



 松田さえこ、すなわち、当時まだ二十代の尾崎左永子。もちろんこの文章は若書きであって、六十年後の尾崎左永子はこんなに率直には書かない。しかし、今度の『短歌研究』に寄せた「月光下の沈黙」の次のような箇所を読むと、結局尾崎さんは中城ふみ子をあまり好きではないのだなと思う。
 

 時事新報記者だった若月彰がふみ子にぞっこんで(略)

 ジャーナリスト三人(引用者注—若月・中井・山名康郎)を身辺に配して、ふみ子は自らの終焉を思うままに飾ったといえるのかもしれない。



 「ぞっこん」という品のない(?)言い回しからは、軽蔑と若干の嫉妬とが感じ取れる。そして、「ジャーナリスト三人」の一文からは、おおいなる嫉妬が……。


(2014.7.31 記)

 メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ

   中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)



 中城ふみ子の代表歌だと私が思っている一首。初出は『短歌研究』1954年4月号の五十首詠応募作品で、そこでは第二句が「あばかれてゆく」だった。

 佐方三千枝『中城ふみ子 そのいのちの歌』(短歌研究社、2010年)はこの改作について、
 

 メスが「ひらく」のは癌ではなく過去だからだろう。振り返る景色の、夫も、結婚生活も、貴重な体験だったと気づいたふみ子は、汚さ、醜さを意味する「あばかれて」という言葉を葬った。



と解している。『短歌研究』8月号の特集に掲載されている佐方の「歌人中城ふみ子の誕生:中井英夫との往復書簡にみる」における
 

 多分、メスが切るのは「過去」であり、負のイメージの「あばく」を使いたくなかったためだろう。



という記述も、前の著書の記述と同じことを述べたものだろう。中城ふみ子に関する佐方の著作はふみ子の家族・親族が安心して読めるものを書くという姿勢で一貫しており、この歌の解釈もまたその一例と言えそうだ。

 しかし、私にはどうも納得しがたい。この歌の「過去」は「闇」と同義であり、生まれることのなかった子どもたちが暗闇の中でいつまでも互いに足をばたつかせているような世界である。これが負のイメージでなくて何なのか。

 そのイメージはもちろんみずからの過去のもろもろに対する罪の意識の象徴的な表現に違いないが、同時にそこに快楽のための性愛とその結果としての堕胎に対する罪の意識を見ることはたやすい。佐方は触れようとしないが、小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)がすでにふみ子の書簡(1948年、鴨川寿美子宛)の
 

 赤ちゃんはもう絶体生まない、方法を用ひてるの。



や、日記(1950年1月7日)の
 

 私は五日に抓把した。これ以上子沢山ぢゃやって行けない。



という一節を報告している。実生活での「過去」の一部である。もちろん他人が単純に罪と見なすべきことではないし、当然女一人の責任でもない。現代人の感覚では、それらはむしろ女性の権利だ。しかし、そうだとしても、「貴重な体験だったと気づいたふみ子」などという想像は、一見中城ふみ子を健全な心の持ち主のように捉えるかに見えて、実は浅はかな女としておとしめるものではないか。

 「あばかれてゆく」を「ひらかれてゆく」に改めても、「過去」が正のイメージに変わることはない。ただ、この改作によって、過去を振り返る作中主体の態度がより理性的なものに変化する。感情的な人物に、読者はみずからの感情を重ねにくい。理性のある人物こそ、読者に向かって開かれている。そう考えるとき、この一首の改作を肯定することができる。


(2014.7.30 記)

 『短歌研究』8月号の特集「中城ふみ子と中井英夫がいた時代」でうれしかったのは、田中貞夫の写真が載っていたこと。中井英夫関係の本を探せば田中の写真もどこかにはあるのだろうが、私は初めて見た。

 田中は『乳房喪失』と『花の原型』を出版した作品社の社主。そして、中井のパートナーだった。写真は、若き日の中井と田中が並んで写っている。田中は想像していたとおりの美青年だった。


(2014.7.29 記)

 前の記事で取り上げた尾崎左永子「月光下の沈黙」によれば、中城ふみ子の病室に中井英夫が泊まった夜は月夜であったという。

 中井の札幌滞在は1954年7月29日から8月1日まで。以前の尾崎の発言には、中井がふみ子からの「電報で呼び出されて」ともあり、さすがに初対面の日にそういうことにはならないだろうから、中井が病室に泊まったのは、30日か31日。

 今はまことに便利な世の中で、六十年前の月の満ち欠けもウェブ上でたちどころに知ることができる。「こよみのページ」というサイトで調べると、なんと1954年7月30日は新月。この日も、次の日も、実際は闇夜であったわけだ。

 おそらくは、暗闇にほのかに浮かんだふみ子の姿が中井の記憶のなかで無意識のうちに美化されて、現実とは異なる「美しい月夜」の話になった。そして、この夜の思い出が中井にとって必ずしも美しいものではなくなった後も、すでに一つの真実として記憶に定着していた月光という舞台装置は、取り外されることなく残ったのだろう。


(2014.7.28 記)

 『短歌研究』8月号の特集は「中城ふみ子と中井英夫がいた時代」。中井がふみ子の病室を訪れた際のエピソードを記す尾崎佐永子「月光下の沈黙」が興味深い。ふみ子が札幌医大病院で病死したのが1954年8月3日、年譜によれば中井の札幌滞在はその直前の7月29日から8月1日まで。その間のどの夜のことであろうか、中井はふみ子に引き留められて病室に泊まったという。
 

 深夜に到って中井はベッドの傍の床に敷物を敷いて横になった。折から、美しい月夜であった。しばらく沈黙がつづいたあと、月光の中でふみ子は身を起こし、ベッドから下りて中井の傍らに身を横たえた。中井が女性に対しては恋愛感情を持たない性癖だったことは周知のことだが、中井自身、この時はちょっと怯んで、「妹だって言ったじゃないか」と改めて言ったそうである。しかしふみ子は沈黙のまま、臆する風もなく隣に身を横たえた。ともに月光に照らされた二人は、黙ったまま、ただ時が過ぎて行った。



 同じ話を尾崎はかつて座談会の中で語っていた。
 

 中井英夫から聞いたんだけど、彼女から電報で呼び出されて、病院に行ったら、どうしても泊まっていってくれと言うので、夜、病室のベッドの下に寝ていると、月光のなかで隣に降りてきた……

  (『短歌』1992年10月号)



 この発言は小川太郎『聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年)も引用している。しかし、若干軽々しい印象を与える話し方でもあり、私はもしや尾崎の記憶違いもあるかと疑っていた。今回のエッセイはずっと落ち着いた語り口で、内容もより詳しく、具体的だ。「妹」云々という中井の発言は、ふみ子宛中井書簡の内容と符合する。中井、尾崎ともに嘘を言う理由もない。大筋において、事実を伝えるものとして信頼できる。

 もっとも、中井がふみ子の死後もずっとふみ子のことを妹のように思っていたなら、このような話を尾崎に明かすことはなかっただろう。やはり、どこかの時点で中井の心は変わったのだ。

 ふみ子の伝記の空白を埋めるピースが一つ見つかったようだ。尾崎のこの文章を掲載したことだけでも、今回の特集は価値がある。


(2014.7.26 記)

 中井の死が報じられたのが1993年。その翌年か翌々年のことだったと記憶している。『短歌研究』編集者時代の中井を直接知る人からたまたま当時の話を聞く機会があった。若月彰が中城ふみ子の評伝『乳房よ永遠なれ』(1955年)を書いたことに中井が激怒し、以後若月は中井の編集する商業誌に寄稿できなくなり、やがて歌壇人の前から姿を消したという。

 実際、私がその話を聞いたころまでずっと、若月は「消息不明」ということになっていた。だから、同じころ、小川太郎『ドキュメント・中城ふみ子:聞かせてよ愛の言葉を』(本阿弥書店、1995年8月)が若月へのインタビューに成功し、近影とともに報告したことは大きな功績だったのである。

 ただ、若月の失踪が事実であったことはよいとしても、その原因についてはなお検証の必要がありそうだ。中井自身が書いたものを読むと、若月とは別の話で対立することがあったようだ。

 若月彰だけがようやく中城を一人の作家として語り合える仲間の筈だったが、続いて十一月号の、第二回の五十首募集の特選に私が寺山修司を推し、若月がこんな俳句の焼き直しをする奴に中城を継ぐ資格はないといって排撃して廻るという事態を生じてから、急速に遠ざかることになり、折角の労作『乳房よ永遠なれ』も、私にはしらじらと醒めた眼でしか捉え得ないものとなった。(『底本中城ふみ子歌集』跋、1976年)

 本来ならそこで特選を取り消し、不明を謝して辞任してもよかったのだが、模倣攻撃の急先鋒が若月彰と知ると考えが変わった。(略)それこそ中城ふみ子が体当たりでひらいた道なのだから、そこに続こうとする才能豊かな十八歳の少年を君がこづき廻すのは、中城の仕事も無駄にすることになるだろうと、若月彰と私は何遍か議論したのだが、彼女の精神より悲劇的な運命に関心の深かった彼の耳には入りそうもなかった。(「無用者のうた:戦後新人白書」1961年) 


 他人の言より本人の言を信じたい。ただ、ここに一つ奇妙な事実がある。若月と疎遠になった中井が故人に対しても「しらじらと醒めた眼」を向けるようになったことだ。

 思うに私にとって中城ふみ子は、本人が演出し創作した作中人物のようなもので、その死の間際、飛行機に乗って札幌へ会いに行った「私」もまた、ひととき作中人物に化してみせた気しかしていない。私が病室のドアの前に立ち、その来訪が告げられると、折から中で発作を起こして苦しんでいた中城は、一声かん高く「いや!」と叫んで、そのあといつまでも私を外に待たせて化粧を続けたが、そんなこともすでに彼女の小説の中に入りこんだ私には、べつだん胸打たれることでもなかった。

 (『黒衣の短歌史』1971年)



 中井が飛行機に乗って札幌へ行ったのは確かであるし、病室の外で待たされたのも事実だろう。しかし、中井自身の感情に関する箇所は虚言だ。仮にこの「作中人物に化してみせた」云々が本当なら、中井はふみ子の生前からすでに、醒めた眼でふみ子を見ていたことになる。しかし、前回取り上げた「唖の歌」にしても、ふみ子宛中井書簡にしても、そのような「眼」を感じさせるところは一切ない。この引用文は結局「ふみ子の生前に中井がふみ子のことをどう見ていたか」ではなく、「これを書いた時点で中井がふみ子のことをどう見ていたか」を示すものだ。ふみ子の死後、中井はどこかの時点でふみ子に親しい感情を持てなくなったのだ。

 中井が『乳房よ永遠なれ』の出版に怒ったという真偽不明の証言を私が忘れられないのは、それによって、中井と若月の対立の原因だけでなく、死後のふみ子に対する中井の一見不可解な態度まで同時に説明できるからだ。『乳房よ永遠なれ』に記された有名なエピソード——ふみ子の病室でふみ子と若月が同衾したという——を読んだ中井が若月とふみ子の両方から裏切られたと感じたことは、想像に難くない。

 さらに時代が下って、晩年の中井はふみ子について次のように書いた。

 いま改めて思うのは、中城がそんな病状の中でよくもまあ歌を作ったなというその一事で、それが傑作であるかどうかはもはや私には問うところではない。田中(引用者註—『乳房喪失』『花の原型』を出版した作品社の社主田中貞夫)もまた窓をあけてくれといいしめてくれといい、カーテンをあけろといいしめろといい、テレビのリモコンスイッチを絶え間なく押しても、看護婦を呼ぶベルだけは押すまいと我慢してつい押してしまう苦しみの中で、死の朝きちんと遺書をしたためたが、いま私はこういいたい。
 ——神様、中城は歌を作りました、と。

 (「死の朝:中城ふみ子追悼」1984年)



 同じ文章中で中井は「作品以外のことはほとんど関心がなく」とも述べているが、人物への愛を元々持っていなかった者に、この最後の一行が書けるだろうか。かつて妹と呼んだ女性へのわだかまりの感情を時間が洗い流したのだと私には思われる。

 ともあれ、中井の「唖の歌」から「鍵」への改稿の内容、およびその不自然さは、ふみ子に対する中井の感情の変化に対応しているのではなかろうか。


(引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』第10巻に拠る。)

 
(2014.5.26 記)
 「唖の歌」で妹に宛てた賢治の詩が引用されていたのは、中井が望むふみ子との関係が兄と妹のようなものだったからだ。ふみ子の死の半月前、1954年7月17日付のふみ子宛中井書簡に、

 僕はソレカラ、中城ふみ子のことを妹のように愛し、そのためにもふみ子と呼びたいことを提案します。


 
とあり、また、

 僕の誕生日(略)九月十七日なんです。僕のはうがすこしでも兄貴だといいんだけれど——何だか四月生れのやうな気がしてならない。何時ですか、教へて下さい。


 
ともある。ふみ子と中井は同年生まれだが、ふみ子の誕生日は11月15日だった。中井が願ったとおりだったわけだ。

 「唖の歌」では、前に引いた一節に続けて、さらに次の数行がある。

*それにしても、と私は思ふ。多くの人の死を、なぜ死刑執行人のやうに迎へてきたのだらう。舌の上のこの苦さは何なのだらう。囁くやうに手紙の一行が蘇る。
  何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。
*その朝、果実屋の店先に始めて若い葡萄を見た。通りすぎようとして思はずふりかへると、漆黒の一房はやはり皿の上に静まつてゐた。—中城さんに—


 
 「何もかも風のやうに過ぎてしまひますわ、もうぢき。」というのは、1954年5月30日付の中井宛ふみ子書簡の一節。

 中井はふみ子に対して私信では「ふみ子」と呼んだが、人前ではもちろんそうは呼べなかった。だから、末尾の言葉は「中城さんに」。これと「鍵」の「中城ふみ子に」とを比べると、後者は明らかに詩の題名として作品化されたものだ。

 「鍵」に添えられた「54・8」は、この詩の完成した年月を意味しているのだろうか。そうだとすると、この記載は正確だろうか。「鍵」と当時の雑誌に実際に載っていた「唖の歌」の間には、やや距離がある。私たちが現在見るような形で「鍵」が完成したのはもっと後のことだろう、と私は推測している。


(書簡の引用は創元ライブラリ『中井英夫全集』巻10、2002年2月、に拠る。)
 
(たぶん、続く)

 この詩の初出は、『短歌研究』1954年9月号だろう。ふみ子の死の直後に出た号である。ただし、ここでは詩と呼ぶべき態のものではなかった。それは、編集後記と奥付の間に埋め草のように置かれた「唖の歌」と題する短文だった。

*オルゴオルのとまらうとするたゆげな響きの中、うつうつと瞼を閉ぢてゐるその人の前で心は水鳥のやうに叫んでゐた——どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ! その日、からだの中ですべては終つた。薔薇は髪からころげおち、素早い手が灯りを消してしまつた。
  けふのうちに遠くへ行つてしまふ妹よ
  霙が降つておもてはへんに明るいのだ(無声慟哭)



 引かれている宮沢賢治の詩は「無声慟哭」でなく「永訣の朝」の一節だが、ともかくその引用のなかの「妹よ」が「鍵 中城ふみ子に」では作中主体自身の言葉となり、それに伴って初出の「その人」は「お前」という二人称で呼ばれることとなった。

 そして「どうしてそんなに小さくなつてゆくのだ!」は、初出では病床のふみ子を前にして他を見回す余裕もなく、気付けばすでに「叫んでゐた」言葉であった。

 初出とヴァリアントと、どちらが生々しく、どちらが切ないか。いうまでもないだろう。詩として再構成された後者は、いろいろと字句を入れ替えるうちに本来意味すべきところを見失った失敗作のようにも見える。


 (続く)

ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930