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 気になったことの二つ目、

吹雪して往来(ゆきき)とまれる籠(こも)り日(び)に蔵書目録つくりてたぬし


 この結句「たぬし」の「ぬ」に「ママ」と註記しているが、これもどうか。

 「たぬし」(=楽し)は昭和前期以前の『アララギ』などではしばしば使われた言い回しで、誤記でも誤植でもない。橘千蔭『万葉集略解』以来の伝統で、万葉仮名のうち、いわゆる上代特殊仮名遣いの「の」の甲類に当たる字を一般に「ぬ」と訓じていたのであり、それに倣い、音調を古風にする効果を狙って「たぬし」と詠んだのである。


     §


むつかしき業にいそしみ明けくれをあり経つつ我ら何を希はむ

  (『アララギ』1944年4月)


 紹介されている『アララギ』掲載歌の最後の一首。地域医療に従事してきた人の作と知って読むと、深く納得させられる。第四句の字余りが利いていて、全体の調子が軽く流れるのを防ぐ。「むつかしき業」という内容とよく合っているところが上手。富太郎の没年はこの五年余り後、1950(昭和25)年の由である。


(2015.5.23 記)

 気になったこと、一つ目。いつもながら、コジュウトのようですみません。

賣店の花を欲りせど我は買はず日に日に行きて見ては戻れり

(『アララギ』1936年3月。このブログでは引用に際して旧漢字を現行の字体に置き換えているが、ここでは話の都合上旧字のまま引く。ただし「戻」は、旧字が入力できない。


 この歌の「買」に、

 「賣店」は「賣」の字だが、「買ふ」の場合は、他の作品でも「買」の字が用いられている。原文のママ。


と註を付けているが、この註の意味が分からない。「買」の字はとくに新旧の区別もないはずだが……。ひょっとして「賣」を「買」の旧字と勘違いしたのだろうか。


(2015.5.21 記)

東京の茂吉も金をくれたりと宮島詣でのたよりにありぬ

  (『アララギ』1938年6月号)


 父の手紙を題材にした一首。弟の名「茂吉」をそのまま出すのは、やはり弟がアララギの中心人物であり、文壇・歌壇の著名人であることを意識しているからだろう。

 上句に漂うおかしみは、茂吉の歌に通じるものがあるようだ。手紙は何通もあっただろうし、そこにはいろいろと書いてあったはずだが、そのうちから「茂吉」と「金」を選んだのがお見事。俗っぽい上句と品のよい下句の取り合わせも上手だ。

 田中隆尚『茂吉随聞』上巻(筑摩書房、1960年)に富太郎に言及した箇所があった。1942年10月31日付の記事である。

 その日、茂吉と田中は上野池ノ端産業館で「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」を観た。

 出口の所には再び絵葉書や写真の売場があつた。先生は又もや絵葉書を次々に手に取つて見てゐられたが、見をはると今度はその全部を買つて、「兄貴のところに送つてやらう」と云ひながら私の手に渡された。(略)
「兄貴は歌も作つてゐる。アララギに出てゐる。守谷富太郎といふ名で出てゐる。」
「さうですか。ちつとも存じませんでした。」
「兄貴はなかなかうまいよ。」

  (42頁)


 「なかなかうまい」というのは、同書の用例から推測するに、写実的で、言葉の運びが自然で、気取りや衒いがなく、かつどこかしみじみとしたところがある、といった感じか。茂吉が富太郎に送った絵葉書というのは、これのようだ。

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     §


 『茂吉随聞』はとにかくおもしろくて、必要のないところまでつい読んでしまう。読むたびにさまざまな発見があって、飽きないのだ。同日付の記事の中に、すきやき屋「世界」が肉不足で閉店しているのではないかと心配しながら行ってみると、

 運好く「只今準備中」といふ札がさがつてゐた……(45頁)


とある。運好く?

 今日では「準備中」はしばしば休業日に掛けっ放しの札で、一種の婉曲表現のようになっているが、当時はその言葉通りに「間もなく開店」を意味していたらしい。茂吉と田中は二十分後には無事入店し、すき焼きとビールを楽しむことができたのである。


(2015.5.18 記)

 敬愛する田中綾さんから抜刷りをいただいた。掲載誌は『北海学園大学人文論集』58号(2015年3月)。

 守谷富太郎は斎藤茂吉の次兄。医師として「明治末期に北海道に渡り」「地域医療に尽力」(抜刷りより。以下、とくに断らないかぎり、引用は同じ抜刷りに拠る)する一方、『アララギ』会員でもあった。田中さんと中崎氏の今回の仕事はその『アララギ』掲載歌をまとめて紹介したもの。富太郎の歌を私は初めて読んだ。

うそざむき駅逓を発(た)つ二人づれは時計直しと薬売(うり)なり
  (1936年11月号)

山ふかき駅逓の一夜(ひとよ)しづかなり進み行く代(よ)のものの音(と)もなく
  (1937年11月号)


 「駅逓」という語がしばしば現れる。明治から昭和初期にかけて北海道の各地に置かれた半官半民の施設である。鉄道が通らない辺地の「交通補助機関」として、「宿泊・人馬継立・郵便などの業務」(ウィキペディア)をおこなった。富太郎が頻繁に駅逓所を利用していたのは、巡回医療に携わっていたということか。

 一首目の季節は、「うそざむき」とあるから冬でなく、おそらく晩夏初秋。駅逓の制度が廃止されたのは1946年のことだというが、時計直しや薬売りの旅はいつまで続いたのだろう。二首目の「進み行く代」は社会の進歩とか西欧化とかいったことのほかに、支那事変を暗示しているようでもあり、印象深い。

雪ふかく降れる広野に戦ひしいくさの夢をありありと見し
  (1936年6月号、日露役の夢一首)


 日露戦争は海戦のイメージが強いが、これは陸戦の記憶。苦しい戦いだったのだろうが、夢の歌はむしろ静謐で美しい。出征体験が富太郎にはあり、茂吉にはない。おのおのの心の風景の違いが思われる。


(2015.5.15 記)

 本書で数頁にわたって茂吉が登場せず、代わりに別の人物が主役になるところがある。1944年12月から翌年1月にかけての条である。これがケッサク。本書中の白眉と言ってもいい。

 当時、田中家に女中が一人いた。あるとき、この女が田中と結婚すると一人で勝手に決め込んで、田中の母にそう告げた。ほかにもいろいろおかしな物言いがあるということで、田中が付き添って茂吉の診察を受けた。茂吉は「精神分裂病」の診断書を出した。

 ところが、この診断書を以てしても工場への徴用が免除にならなかったので、女は本鵠沼から平塚まで、小田急と東海道線を乗り継いで通うことになった。三日目、女は帰ってこなかった。警察に捜索願いを出して数日経っても消息なく、やがて皆が女のことを気遣わなくなったある日、女はヒョッコリ帰ってきた。工場からの帰途、東海道線の上り列車に乗るべきところを誤って下り列車に乗った女は、診断書の写しをふところに、そのまま無賃乗車で郷里の山口県まではるばる里帰りしてしまったのである。

「いくら博多行に乗つても、途中の検札で下されてしまふぢやないか。」
「いいえ、それが運が好(え)かつたんでせう。車掌が来たことはありましたが、検べられませんでした。広島の近くまで来た時に、始めて検べられました。定期を見せたら、広島でおろされてしまひました。駅員が沢山寄つて来て本鵠沼平塚間の定期を見て、これで広島まで来とる、づうづうしいなう、又なして今まで検札で見つからんぢやつたらうと云うちよりましたが、その中あの帽子に金のすぢの入つた、あれは何ですかねえ、駅長さんですかねえ、あれが来て、定期入れの中にあつた工場の証明やら何やらを見ちよりましたが、もうここまで来たんなら仕方がない、ついでに国に帰りなさいと云うて、その晩は駅に泊めてくれ、翌朝の汽車に証明を書いて乗せて、国に帰してくれました。丁寧でしたいね。」
(228頁)


 広島駅の様子など、ありありと目に浮かぶ。不思議な話術だ。この引用箇所の後、しっかりオチまで付いて、痛快この上ない。

 金線入りの制帽をかぶった「駅長さん」は、定期入れの中にあった診断書の写しを見たのだろう。茂吉自身の意図せぬことながら、一人の女に束の間の幸福をもたらしたという意味で、茂吉の書いた一枚の診断書の効能は『赤光』にも『あらたま』にもまさるものだった。
 

(2015.1.14 記)

 1944年6月26日の茂吉と田中の会話。

「『つゆじも』の原稿を写しませうか。」
 私は実は早く見たいからかう云つたのだが、しかし先生は直ぐにそれを見抜かれた。
「いや駄目だ。見せない。」
「誰にもお見せにならないんですか。」
「誰にも見せない。をかしいんだ。乱作ばかりだから恥かしい。」
「欧羅巴旅行中のは。」
「あれは日記みたいなものだから、歌は駄目だ。」(186頁〜)


 『つゆじも』云々は、原稿を疎開させるために写しを作っておくという話である。この十日前、6月16日に最初の本格的な本土空襲である八幡空襲があり、20日の訪問ではそれが話題に上っていた。しかし、引用した会話の内容から想像するに、東京空襲の危険はまだ差し迫ったものとは考えられていなかったようだ。

 『つゆじも』や留学中の作品に対する茂吉自身の評価の低さが可笑しい。全てが本心からの言葉とも思えないが、逆に全てが謙遜でもないのだろう。

 僕は古事記伝を箱に入れて蔵つてゐる。(略)版下は本居春庭が書いてゐる。たしか宣長の子だらう。うまい字だ。宣長に吸収されたんだ。(187頁)


 こちらは同日の茂吉の言葉。「宣長に吸収された」の意味が取れないが、田中の聞き違いだろうか。


(2015.1.12 記)

 1944年12月12日。東京大空襲の三ヶ月前、茂吉自身が山形県に疎開する四ヶ月前である。もう一人の来訪者が「特別攻撃隊の人達の歌でも、真心は入つてゐても歌としてはいかがなんでせう」と質問したのに対して、茂吉の返答は、

 さうだ、あれは決してまづいと云つてはいけない。真心が入つてゐるからな。褒めなければいけない。しかし歌としては別だからな。(209頁)


 茂吉に対してこんなことを言うのもナンだが、歌の良し悪しについて冷徹な批評眼を失っていない。


     §


 もっとも、本書が戦後の刊行であることは、一応考えに入れておく必要がある。本書の内容は事実。しかし、元資料である田中のノートに記されながら本書には採られなかった挿話や発言記録が、あるいはあるかもしれない。あくまで仮定の話だが、それは戦後の時勢に合わない内容だったかもしれない。なお、当然ながら、田中が元々茂吉との会話を全てノートに書き留めていたわけでもない。

 例えば、1941年12月23日。

 戦争の話になつた。去る八日には米英両国との間に戦端が開かれた。私はその翌九日に徴兵検査を受けて第二国民兵役丙種合格になつてゐた。
「それはよかつた。君はまだ無理は出来んからな」と先生が云はれた。(14頁)


 当時は「第二国民兵役丙種合格」ならまず招集されることはなかったから、病後の田中を心配する茂吉は「それはよかつた」と言ったわけだが、その前の「戦争の話になつた」ところでは茂吉の言葉が記されていない。茂吉がそこで鬼畜米英的な発言をしていた可能性もあろう。


(2015.1.11 記)

 1943年3月2日、茂吉と田中の会話。

「今度又僕のが出る。又買つて読んでくれたまへな。」
「『白桃』に先行する歌集ですか。」
「いや、『寒雲』以後だ。日本主義だから面白くないだらう。山水の歌は殆ど無い。」
「名は何ていふんですか。」
「『のぼり路』だ。……」(98頁)


 「日本主義」は戦意高揚歌や紀元二千六百年の奉祝歌の類を指すか。「日本主義だから面白くない」などという言い方は、ゴリゴリの国粋主義者のものではない。

 次は、同年5月25日の茂吉の発言。

「……語学は君必要だからね。歌人が歌論をすると自分ばかり偉くなるのはつまりそれだ。語学ができない。従つて外国を知らないからだ。……現代はpathologisch(パトロオギツシユ)な時代だからね。戦争中だから病的なんだ。インキといふのが君無くなつたさうだね。何といふんだ、墨汁とでもいふのかな。君そんな時代なんだからな。」(116頁)


 「pathologisch」はドイツ語で「病的」という意味の形容詞。田中がドイツ語を学ぶ一高生なので、茂吉も会話の中にそんな単語を挟むのである。

 かつて日米開戦の際に日記に歓喜の言葉を記したのも茂吉なら、今ここで歌人の視野の狭さを指摘し、戦時の世相を「病的」と評するのも同じ茂吉である。単純には捉え切れない。

 「インキ」云々は、敵性語がまた一つ排斥されたという話のようだ。このインキの話は、翌月22日の会話にも出てくる。

「君インキという詞が無くなつたさうだね」と先生が云はれた。「日本主義新浪漫主義を唱へるんだから。」
 先生は保田与重郎一派を非難してゐられるやうである。
「君のも新浪漫主義ぢやないか」と先生は鉾先を向けて来られた。
「いや僕のは彼等とは違ふでせう。」
「さうか、新浪漫主義などと意識せないがいいな。」(120頁)


 写生を標榜する歌人として日本浪蔓派に批判的であるのは分かるとして、茂吉はもっと広義の「日本主義」にもやはり冷淡だ。

 そもそも敵性語の排斥などは戦時において庶民を指導する方便の一つであって、軍人や官僚、知識人の生活上で真剣に実行されたものではない。敗戦の前年になっても、茂吉と田中の会話にはニユウス・カバア・ベル・レストラン・メニユウ・ホテル・ボオイ・テエブルといった語が頻出していた。

 一人の人間、斎藤茂吉の中にさまざまな傾向が混在している。本書はその一端を伝えてくれる好資料だと思う。


(2015.1.10 記)

 1943年7月13日、田中の兄の歌を見た茂吉は、

六月(みなづき)の雨にぬれゆく青萱の葉末するどく地(つち)に垂れたり


を採って、

草道を分けて来ぬれば目の前に暮れ残りたる白き石橋


を採らず、次のように言う。

 『暮れ残りたる』は新古今調だねえ。大学を出た者はすぐ象徴といふんだ。

  (122頁)


 これはもちろん、「暮れ残りたる」に否定的なのだ。前の歌の構成だとか調子だとかが緊密なのに対して、後の歌の上句が弛緩しているのは私にも分かる気がするが、「暮れ残りたる白き石橋」はおもしろく感じられるので困ってしまう。安易な幽玄に走るのはつまらないということなのだろうが。


(2015.1.8 記)

 筑摩書房、1960年刊。

 1941(昭和16)年から47年まで、二十代の著者が茂吉に面会して歌の指導を受けた際の茂吉の発言等を記録したものである。茂吉の平生の態度や言葉遣いが時代背景とともに生き生きと再現されていて、興味深い。

 1941年10月28日、田中の一首「寄りきたる鴉をみつつ牡牛はも啼かざりしかもおのれ身じろがず」に対して、

 「赤光調だな」と云つて笑はれた。(11頁)


とある。なるほど、「牡牛はも」や「啼かざりしかも」がいかにも赤光調だ。

おのづからうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日の赤きに

  『赤光』


を引くまでもない。

 「●●調」などと自分の旧作の名を挙げてサマになる歌人は、そうはいないはずだ。現代歌人の中には、いるだろうか。


(2015.1.7 記)

 今の一部の歌人や研究者は、斎藤茂吉の歌をよほど異常な歌のように思っているらしい。そのような読み方を広めたのは、塚本邦雄『茂吉秀歌』だろう。同書は「名歌」という評価をいったん留保して、自由に茂吉の作品を読み味わうことを促した。そのこと自体は意義深いことだったと思う。しかし、いまや塚本流の読み方が一つの標準となり、それが作品の誤読を誘うこともあるのではないか、と私は疑っている。『赤光』の歌に対する品田悦一さんや大辻隆弘さんの奇妙な解釈については、以前当ブログに書いた。

 昨夏ウェブ上に発表された田中濯「うなぎ」(「詩客」短歌時評)もまた、塚本流の読み方が一首の解釈を誤らせた一例のように私には思われる。
 

隣室に人は死ねどもひたぶるに帚(ははき)ぐさの実食ひたかりけり

 (『赤光』初版、1912年)



 田中さんはこの歌について「まちがいなく異常な歌である」という。そして「他者の死に近いときに食欲は湧くものだろうか」と問い、藤島秀憲『すずめ』(2013年)の歌二首、
 

四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は
手をつけぬままの弁当捨てにゆくふたたび冷えている白い飯



を引用したうえで、次のように述べる。
 

 なるほど、異常な状況のときに特定のものに対する異常な執着、この場合は食欲が生まれる、というのは「ありそう」ではある。しかし、それは藤島の場合のように実のところない、のではないだろうか。せいぜい、咽喉がかわいて飲み物が欲しくなる、程度のように思う。



 田中さんの主張を私なりに整理していえばこうだ——。


 (1)人の死に際して食欲が生まれるのは異常である。
 (2)そのような内容をもつ茂吉の歌は異常であり、現実性を感じない。
 (3)茂吉の歌が後続の歌人に影響して「死の定型的表現」になっている。

 (4)藤島の歌の作中主体は人の死に際して食欲を失う。
 (5)それゆえ、藤島の歌は「死の定型的表現」を免れている。


 (3)の「死の定型的表現」説を検討するためには短歌史をたどらなければならないので、ここではしばらく措こう。(2)は茂吉の歌に対して否定的な意見を述べたものだ。しかし、その意見の前提になっている「異常」という解釈は間違っていると私は思う。だから、(4)の藤島の歌との比較も、とくに意味のあるものとは思えない。

 実際、茂吉の歌はどのような状況を述べ表わしたものなのか。初版『赤光』では、この歌は「分病室」と題する四首連作中の一首であり、前後はそれぞれ次のような歌だった。
 

この度(たび)は死ぬかも知れずと思(も)ひし玉ゆら氷枕(ひようちん)の氷(ひ)は解け居たりけり

熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら稚な児のごと物を思へり



 作中主体は自身が死を意識するような熱病で入院し、いまそこから回復しつつある。隣室の「人」という表現はそれが肉親でも友人でもないことを伝えているが、さらに一連全体をみれば、それが隣りの病室にいる別の入院患者であることは疑う余地も無い。

 帚ぐさの実の歌が述べ表わしているのは、病室の壁を隔てて他人が死ぬときに自分は生き残るという現実であり、その生の実感なのだ。見ず知らずの人の死をさほど悲しく思わないとしても、それが人情というものだろう。回復期にある患者であれば、食欲が生まれるのはむしろ自然なことだ。「食ひたかりけり」は本能的な生存欲の表現として理解できる。

 ここまで確認すれば、肉親の死を題材にした藤島の歌が比較の対象になり得ないことは明らかではないか。しかも注意すべきは、茂吉の歌の態度である。人は死ねども——。この逆接の「ども」は、食欲が生まれて当然の状況でなお、そのことに違和感を持つ主体の感情を表わしている。隣りで人が死んだのに不謹慎だ、というわけだ。この主体が斎藤茂吉その人だとすれば、茂吉は常識ある社会人であったと見なければならない。

 塚本邦雄『茂吉秀歌:『赤光』百首』は、
 

 「人は死ねども」の「ども」は、みづからが作つた不条理に、斜に構えて楯ついてゐる趣だ。この心理の底をさらふなら、帚草の実の食ひたくなるのは、むしろ「人死にしかば」ではあるまいか。

 (初版は文芸春秋、1977年4月。引用は講談社学術文庫より)



というが、塚本流に茂吉の歌を鑑賞するのに「ども」の逆接は都合が悪い、ということを認めたものだろう。「斜にかまえて楯ついてゐる」というのは、苦し紛れに試みた無理筋の読みに過ぎない。

 田中さんはこの一首に異常性を見ようとし、さらにそれをつまらない虚構と見なすのだが、そもそも異常とは認めがたいのだ。虚構説は検討するまでもないと思う。

 茂吉の歌に異常性を見ることを一概に否定するものではないが、その前にまず歌の解釈を丁寧にすべきだろう。帚ぐさの実の歌は、ただ死と生の交錯を主題にした作として読むだけで十分におもしろい、と私は思う。


(2014.2.23 記)

 鼠の巣片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」

   斎藤茂吉『寒雲』(1940年)



 家に呼んだ職人が流行歌を口ずさみながら仕事をする図。YouTubeで実際に美ち奴の「ああそれなのに」を聴いてみて、これまで自分が「ねえ」の意味を取り違えていたことに気付いた。私は「いいですねえ。」の「ねえ」だと思っていたのだが、実はそうではなく、「ねえ、いいでしょう。」の「ねえ」なのだった。文法的に言えば、間投助詞でなく、感動詞。表記の上で区別するなら、

  それなのにねえ。

ではなくて、

  それなのに。ねえ、……

である。些細なことのようだが、この違いは、茂吉の掲出歌を読むときの拍子やアクセントの取り方に微妙に影響するように思う。


 


 ところで、このようにメロディーのある歌詞を短歌の中に引用してある場合、その1首を音読する人は、言葉を原曲のメロディーに乗せて読み上げるものだろうか。この一首を黙読する人は、頭のなかで原曲のメロディーを踏まえているのだろうか。

 氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり

   斎藤茂吉『赤光』



 大辻隆弘「確定条件の力」(『歌壇』11月号)がこの「赤かりければ見て走りたり」について、

 「煙草の火の赤さ」が「原因」であり、「走ること」が「結果」である。



と述べ、そこに「何の因果も関連もない」物事を結び付ける「過剰な心的エネルギー」を感じ取ろうとしていることに対し、私は以前の記事に異論を記した。ところが今朝、何とはなしに気になって品田悦一『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房、2010.6)を見ると、大辻さんとほぼ同じ主張を品田さんがすでにしているのだった。

 ……諏訪湖畔の氷室にさしかかったとき、くわえ煙草で氷を切り出す男がいたという場面だが、下二句にやはり異常な句法があって、〈煙草の火が赤かったから走った〉と、条件と帰結の関係が常軌を逸している。(略)まるで煙草の火にこちらが操られているかのようだ。



 品田さんが赤光の特徴として、別の世界を想像するのでなく「この世界を見慣れぬ世界として再現してみせること」、を挙げたことに私は差し当たり反論するつもりはないのだが、「赤かりければ見て走りたり」の解釈に限ってはやはり賛成できない。以前の記事で述べたように、これは

  火が赤いのでそれに目を留めながら

くらいに解して問題ないところだ。それを

  火が赤かったから走った

などとわざわざ珍妙な読み方をするのはなぜだろう。茂吉の歌に異様さを求める評者の意識が、それほどでもないところまでそのように評者自身に見せているのではないか。


(2013.12.7 記)

 小池光『茂吉を読む : 五十代五歌集』(五柳書院、2003年)によれば、「惜しんでとって置いた桃をついに食ってしまう」という言い方には寓意が感じられるという。また『斎藤茂吉:その迷宮に遊ぶ』(砂子屋書房、1998年)における小池の発言によれば、これは女弟子の「永井ふさ子をとうとう抱いちゃったよ」の意だとの説があるという。

 松村さんが「白桃の歌を読む」でこの二つの発言を並べて引いているのが可笑しい。小池さんが実は「白桃=女」説をおおいに気に入っている、ということがよくわかる! 

 もちろん私もその説をおもしろがる一人だが、では実際に歌の解釈としてそういった読み方が成り立つかというと、それはちょっと無理なのかなと思う。

 その比喩説にとっては、初句の「ただ一つ」が邪魔になるように思うのだ。「一つだけ大事にとっておいた」という言い方には、いくつか食べた後に最後の一つだけ……という含意がないだろうか。もしその含意があるとすれば、「一人だけ大事にとっておいた女を……」とは?

 やはり無理ではなかろうか。


(2013.11.18 記)

 ただ一つ惜(を)しみて置きし白桃(しろもも)のゆたけきを吾は食ひをはりけり

   斎藤茂吉『白桃』(1942年)



 松村正直さんの論考「白桃の歌を読む」(『D・arts』8号、2005.8)は、この1首について先行文献に広く目を配り、様々な観点から検討したおもしろい文章だと思う。短歌雑誌には評論・評伝・時評・随筆・ブックレビューなどがあふれているが、対象を1首の歌に限って微に入り細にわたって論じるような文章はほとんど見かけない。上記の論考のような文章をもっと読みたい。(松村さんももっと書いてください。)

     §

 松村さんは『斎藤茂吉短歌合評』の小松三郎の評を引き、さらに茂吉の『寒雲』の1首、

しづかなる午前十時に飛鳥仏の小さき前にわれは来りぬ



を参照しつつ、次のように書いている。

 つまり「ゆたかなる白桃」や「小さき飛鳥仏」の場合、形容詞が名詞に直接かかって限定するように働くのに対して、「白桃のゆたけきを」「飛鳥仏の小さき前に」では、「白桃」「飛鳥仏」の存在感が限定されることなく読者の側に届く。



 「ゆたかなる白桃」は、初めから白桃の属性を「ゆたかなる」だけに限定している。対して「白桃のゆたけき」は、まず白桃のイメージを自由に想像させ、その後に「ゆたけき」という属性を知らせる。だから「白桃」の存在感がより一層豊かに感じられる——といった理解でよいだろうか。「ゆたけき白桃」と「白桃のゆたけき」を並べてみれば、誰でも後者の方が優れていると感じるだろう。しかし、なぜそうなのか、を説明することは難しい。松村さんの論考は、その難しさに挑んだものだ。

 私は、「ゆたけき白桃」が過去を再構成した表現であるのに対し、「白桃のゆたけき」は時系列のとおりに過去を追体験するような表現であると思う。人は現実の白桃を前にして「ゆたけき白桃」などと認識することはない。見たり手に取ったりして白桃の存在を認めたのち、それに歯を当てて香気と甘味とを味わって「ゆたけき」と認めるものだろう。その順序は、まさに「白桃のゆたけき」である。

 こう考えれば、結句が「食ひけり」とか「食ひはじめけり」とかでなく、「食ひをはりけり」であることも説明がつく気がする。白桃をめぐる認識の推移を表わした末に、「もう無い」ことを確認するのである。

 「ゆたけき白桃」より「白桃のゆたけき」におもしろみを感じるのは、要するに後者の方がリアルだから、ということではないか。


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