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わが死(しに)を祷れるものの影顕(た)ちきゆめゆめ夫などとおもふにあらざるも

 (同)


 川野さんは、

 この一首は、結句の「おもふにあらざるも」が曲者である。最後の「も」が口籠もるようで歯切れ悪く、否定しつつ否定し切れていないのだ。擁護されたはずの夫こそが強調されて、「私」の死を祈っているものはまさに夫その人であると思えてくる。(24〜25頁)


と適切に解釈している。さらに〈この作品では、自らの心を過ぎる「魔」が捉えられ、身近な夫もまたその「魔」を湛えてある〉としつつ、

 家族こそ他者の集う場でもある。(25頁)


といった箴言風の言葉でこの一首の鑑賞文を結ぶ。葛原の歌の鑑賞であると同時に、歌人川野里子の世界もかいま見せる、本書前半屈指の佳編。


(2019.8.13 記)

長き髪ひきずるごとく貨車ゆきぬ渡橋をくぐりなほもゆくべし

 (『飛行』白玉書房、1954年)


 『飛行』の中では比較的よく知られた一首。「髪の重たさを与えられた貨車は、髪の重さのみならず人間の女の心の重たさまで引きずるようなのだ」というのが川野さんらしい、フェミニズムの視点を重視した鑑賞の仕方だと思う。

 「渡橋」はトキョウ(トケフ)と読むのだろうが、見慣れない語だ。この語に、川野さんは次のように注を付けている。

 「渡橋」は川に架けられた橋の他に線路を跨ぐように架けられた高架橋などいろいろ考えられる。だが、この作品の遠景となった貨車を長く見送る視線を思えば、高架を潜るような狭い風景ではなく広い川に架けられた橋を想像するのが自然だろう。「くぐり」とあるのは、トラス橋のような骨組みの覆いがある橋を思えば良いのだろうか。


 渡橋は川に架けた橋の意だという。そうかなあ……というのが率直な感想。川の橋なら、わざわざ渡橋などという特殊な語をひねり出して使用することもないだろうという気がする。また、「くぐる」という動詞でもってトラス橋を渡ることを表すのは、ちょっと無理だと思う。

 ここは逆に、線路を跨ぐ陸橋、と解する方が穏当ではないか。少し実証風に言うなら、葛原が住んでいた東京都大田区には、貨物列車専用の品鶴線があった。現在横須賀線として使用されている路線である。その一部区間は掘割を走っており、上には当時も今も跨線橋が数本架かっている。しかも、そこはちょうど長い直線区間で、橋の上から見ると「遠景となった貨車を長く見送る」ことができたのだ。

 「むーさんの鉄道風景」というウェブサイトに、ほぼ同時代の品鶴線の貨物列車を跨線橋から見下ろす写真が掲載されている。貴重な写真なので、ぜひご覧ください。


(2019.8.12 記)


 上の記事で「切り通し」と書きましたが、工事用語で「掘割」と呼ぶとのこと、ご指摘を受けました。その通りに訂正します。丘陵地帯の地面を低く掘り下げて線路を通す掘割は、線路の勾配をなくす、交差する道路を跨線橋で通して踏み切りをなくす、といった利点があるそうです。


(2019.8.12 追記)

 当ブログの8月8日付の記事に追記しました。


(2019.8.11 記)


ヴィヴィアン・リーと鈴ふるごとき名をもてる手弱女の髪のなびくかたをしらず

 (『葛原妙子歌集』三一書房、1974年)


に対する川野さんの鑑賞は、

 ヴィヴィアン・リーといえば映画版『風と共に去りぬ』(昭和14年)でのスカーレット・オハラ役で知られる。あの片方の眉をきゅっと引き上げた気の強そうな美貌は作品のイメージを代弁している。
 しかし、葛原はこの映画のヴィヴィアン・リーには興味はなさそうで、その名前から想像力を膨らませている。詩人はしばしば言葉を意味以前の音として感受する。確かに「ヴィヴィアン・リー」は鈴を振るような軽やかな金属音のようで、嫋やかで可憐な女性が想像される。それゆえあえて「手弱女」とよぶのだが、この言葉は葛原の語彙のなかでは珍しいと言えよう。論文「再び女人の歌を閉塞するもの」で、「戦後の女性の内部に(中略)乾燥した、又粘着した醜い情緒がある」ことを書き、日本女性の背負ってきた家制度の重圧が未だ見ぬ表現の可能性を持っているかもしれないと訴えた葛原が、「手弱女」のようななよなよとした女性像を肯定するとはとても考えられない。むしろかなり皮肉な使い方なのではないか。(18〜19頁)


 ここも幾分、私見との違いがあると感じた。まず、『風と共に去りぬ』の「ヴィヴィアン・リーには興味はなさそうで、その名前から想像力を膨らませている」との見解である。

 スカーレット役のヴィヴィアン・リーは、確かに手弱女の一般的な印象からは遠い。スカーレット・オハラについて言うなら、掲出歌の作者はその人物像に興味がなさそうにも見える。ただし、このような見方が有効であるのは、葛原が『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーを知りながらこの一首を作っていた場合に限られる。実際のところは、どうだったのか。

 私の見立てでは、少なくともこの一首の着想を得た時点では、葛原は『風と共に去りぬ』を観たことがなかった。そして、最終案を『葛原妙子歌集』に載せた時点でも、おそらく『風と共に去りぬ』は念頭に無かったのだ。

 掲出歌の初出は『潮音』1951年1月号。その時の歌の形は次の通りだった。

ヴィヴィアン・リーと鈴ふる如き名をもてる女優ありき清き接吻ありし映画


 アメリカ映画『風と共に去りぬ』の本国での公開年は川野さんの記す通り、戦前の1939年だが、日本公開ははるかに下って戦後の52年。日本人が戦時中に外地でこの総天然色の大作を観て国力の差を実感し敗戦を覚悟したという話も伝わっているし、作家の林京子なども42年夏に上海の日本租界で観たと書いている(『ミッシェルの口紅』中央公論社、1980年)。しかし、葛原は50年以前に外地・外国に渡ったことがない。掲出歌の初出以前に葛原が『風と共に去りぬ』を観ていた可能性は、ほぼ皆無なのだ。

 では、葛原が観ていた映画は何だったのか。50年までに日本で公開済みのヴィヴィアン・リー主演の映画は『哀愁』(40年製作、49年3月日本公開)、『シーザーとクレオパトラ』(45年製作、50年9月日本公開)。「清き接吻ありし映画」との評言にふさわしいのは、誰がどう考えても『哀愁』だろう。

 そこで注意したいのは、『哀愁』のヴィヴィアン・リーである。蝋燭の火が照らす中、若い将校にリードされてワルツを踊るヒロイン、マイラ・レスターはもちろん美しいが、それでも平凡な市民だ。彼女を「可憐」と呼ぶなら、呼んでもよいと思う。これを見れば、「片方の眉をきゅっと引き上げた気の強そうな美貌」のスカーレットはプロフェッショナルな俳優の役作りによるところが大きかったことが分かる。



 こうしてみると、『風と共に去りぬ』の「ヴィヴィアン・リーには興味はなさそうで、その名前から想像力を膨らませている」との見解には修正の余地があると言わざるを得ない。「名前から想像力を膨らませている」にしても、単にそれだけではないだろう。「手弱女の髪のなびくかたをしらず」の最終案に至ってなお、その想像には『哀愁』のマイラの人物像が影響していたと思われるのだ。

 ところで、川野さんは〈葛原が、「手弱女」のようななよなよとした女性像を肯定するとはとても考えられない。むしろかなり皮肉な使い方なのではないか〉というのだが、この見解にも異議がある。初出の「女優ありき清き接吻ありし映画」は、明らかにその女優と映画を肯定している。そして、改稿後の「手弱女の髪のなびくかたをしらず」も、手弱女のヴィヴィアン・リーを肯定していることに変わりはないように私には感じられる。

 思うに、川野さんも私も「手弱女の髪のなびくかたをしらず」の解釈は同じなのではないか。ただ、川野さんはフェミニズムの視点から葛原を評価しようとする。だから、手弱女に肯定的な言葉は「皮肉」と取りたくなる。しかし、「日本女性の背負ってきた家制度の重圧が未だ見ぬ表現の可能性を持っているかもしれないと訴え」る人が同時に可憐な手弱女に心引かれ、感情移入したとしても、さほど驚くことでもないのではないか。一見互いに矛盾する思想や感情が一人の人間のうちに同居することは、むしろありがちなことではないか。葛原の歌に手弱女への心寄せがみとめられるとしたら、それはそれとして一旦みとめればよいと私は思う。

 ある日、彼等はやって来たアメリカ占領軍の人々に、従来みずからが配属していた研究所、他、一切の引渡しを行った。翌日、一人のもと海軍将校はしっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え、折からあらわれた草津白根の雪のいただきをみたのであった。(『孤宴』小沢書店、1981年)


 穴澤芳江『我が師、葛原妙子』(角川文化振興財団、2017年)を参照する限り、森岡貞香が葛原に関する講義で証言していた「イチニントノデアイ」の「イチニン」とは、どうやらこの「海軍将校」であるらしい。ロバート・テイラーが演じた『哀愁』のクローニン大尉に葛原は「イチニン」の面影を重ねていた——と私などは推測してみるのだ。もちろん、これは論証できる話ではない。


(2019.8.10 記)

早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ

 (同)


に言及した塚本邦雄『百珠百華:葛原妙子の宇宙』(花曜社、1982年)の一節、

 「素晴らしき人生」などといふ綺麗事はこの時、作者も、この言葉を奉られる處女も、てんで信じてはゐない。


を川野さんは次のように批判している。

 ところで塚本は「をとめ」に迷うことなく「處女」の字を当てている。「レモン」と「ナイフ」の光彩がもたらす幻惑なのか、男性の読みはあっけなく処女幻想に絡め取られがちだ。(9頁)


 しかし、「男性の読みはあっけなく処女幻想に絡め取られがちだ」というのはどうだろう。こういった見方の裏に、偏った男性観こそが潜んではいないだろうか。

 処女(ショジョ)は今日では単に性的経験のないことだけを強調する言葉になっているが、古典の処女(ヲトメ)が同様であるかは議論の余地がある。『百珠百華』に見える「檸檬處女」(レモンヲトメ)なる造語には、塚本の古典趣味が明らかだ。塚本が「をとめ」に「處女」の字を当てるのは、処女幻想というより、この古典趣味のためだと見るのが穏当だと私は思う。


(2019.8.9 記)

とり落さば火焔とならむてのひらのひとつ柘榴の重みにし耐ふ

 (『橙黄』女人短歌会、1950年)


については、『潮音』1942年11月号掲載の旧作、

柘榴一顆てのひらにあり吉祥の天女ささぐる宝珠のごとく


を引いた上で、川野さんは次のように述べている。

 ここでの柘榴はいかにも軽い。(略)作品としても今ひとつの迫力に乏しく美しく纏まってしまっている。それに対して冒頭のざくろは重く、危ういほどの力を秘めている。戦中から戦後へ。柘榴のこの重量の大きな変化こそ、葛原の内面の変化に他ならない。(略)葛原はその危険なほどに激しい炎に怯えつつ、しかし無限の重量を自ら支えようとする意思を滲ませている。(7頁)


 一つの素材やモチーフを作品化するのに長い時間をかけるのは葛原妙子の特色で、手のひらの上の柘榴もその一例だろう。戦中の「天女ささぐる宝珠のごとく」と戦後の「とり落さば火焔とならむ」を比較し、「柘榴のこの重量の大きな変化こそ、葛原の内面の変化に他ならない」と指摘するところは説得力がある。

 なお、この一首の「耐ふ」に川野さんが次のような注を付けているのが注意される。

 初版本『橙黄』では「耐」となっているが、昭和四十九年九月に三一書房より刊行された『葛原妙子歌集』では「耐ふ」と記す。また二〇〇二年刊行の砂子屋書房版『葛原妙子全歌集』でも「耐ふ」となっている。(6頁)


 柘榴の一首を掲出する際、初版本の脱字を後年の本にしたがって補った、ということだろう。ただ、不思議なことに、私の手元にある『橙黄』初版本には脱字がない。

touou-069.jpg

touou-oku.jpg

 「ふ」の字がやや右にずれているのが気になるが、ともかく脱字がないことは確かだ。拙文を記すに当たり神奈川県立図書館の所蔵本も見てみたが、やはり脱字はなく、明らかに私が持っている本と同版だった。同じ奥付の本でも異版があるのだろうか。


(2019.8.8 記)


 神奈川近代文学館の所蔵する『橙黄』初版本も見てきた。脱字はやはり無かった。しかし、今度の調査結果で重要なのはそのことではない。なんと、これまでに見た二冊とは違い、「ふ」の字の位置が「耐」のほぼ真下だったのだ。

 そこで、もう一度神奈川県立図書館に行き、その所蔵本と私の持っている本を並べて見比べた。なるほど、同じように右にずれている「ふ」の字であるが、傾き具合が実に微妙に異なっている。

 私の推測はこうだ。——『橙黄』初版本は、問題の「ふ」の字が脱けたまま印刷された。その後、一冊一冊、「ふ」の活字を人の手でスタンプのように押して補った。川野さんが見た本は、それを押す前に(あるいは押し忘れたまま)出回ってしまったものだろう。

 上の記事のうち、末尾の前の「明らかに私が持っている本と同版だった。」を削除したい。


(2019.8.11 追記)

 これも笠間書院のコレクション日本歌人選の一冊で、葛原妙子研究の第一人者である川野里子さんの新著。例によって葛原の秀歌五十首を選び、鑑賞文を付けている。まだ前半を読んだだけだが、注目したところを忘れないうちに書き留めておこう。

アンデルセンのその薄ら氷(ひ)に似し童話抱きつつひと夜ねむりに落ちむとす

 (『橙黄』女人短歌会、1950年)


について、川野さんは次のように書く。

 初句、結句が大幅な字余りであるこの作品は、不安な印象を与える。さながら、アンデルセンの冷えの世界に滑り落ちてゆくようでもある。この不安と冷えの感覚こそは近代短歌にない、戦後を生きる感覚であった。(3頁)


 この一首の「不安と冷えの感覚」に戦後短歌の特徴を見出そうとしている。先行研究には無い主張で、興味深い。ただ、そういった感覚が近代短歌に見当たらないと指摘するためには、もう少しその現代性を説明する必要があると思う。

水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし

 (同)


については、

 葛原は疎開先の浅間山麓で終戦を迎えるが、敗戦の現実感のない山中にも陽炎は立ちのぼっていた。(略)自らも大地とともに気体となって頼りなく揺らぎながら、葛原は「依らむものこの世にひとつなしと知るべし」と自らに言い聞かせる。まさにこの時、頼りにし、信じてよいものなど何一つこの世にはないという確信に至るのである。(4〜5頁)


 この「水かぎろひ」を特に終戦時のイメージとして捉える解釈も従来無かったはずで、強く印象に残った。論証は困難だろう。ただ、自由な鑑賞にゆだねてよいところだとも思う。川野さんの鑑賞は魅力的で、これをいたずらに否定するのはつまらない。


(2019.8.6 記)


 うっかりしていたが、「水かぎろひ」の一首は『橙黄』では「停戦」というタイトルの付いた一連より前に置かれている。つまり、歌集中の設定では終戦前の歌なのだ。このあたり、川野さんはどう考えているのだろう。魅力のある鑑賞をなんとか生かしたい。


(2019.8.7 追記)

anazawa-1.jpg


 本書の表紙カバーの「おもて表紙」側には、これまで見たことがない写真がプリントされている。困るのは、本書中のどこにもこの写真の説明がないことだ。いつ、どこで撮影したものか。写っているのは何歳の葛原妙子か。

 調べてみて、分かった。場所は軽井沢で、後ろに見えるのは今もそのままの形で建っている聖パウロ教会だ。撮影時期は1958(昭和33)年、葛原は五十代初めということになる。

 どうして分かったかというと、同じ人物(葛原)と背景を別の角度から撮った一枚が角川の雑誌『短歌』1958年10月号に載っており、キャプションに撮影場所が明記されていたからだ。

 これらの写真は『短歌』編集部に属するカメラマンが撮影し、同編集部が所有・保存するものだろう。撮影時期・場所の記録を本書に転記してくれればよいものを、してくれないのは案外管理がいい加減で、編集部内に正確な記録が残っていないということだろうか。


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 「うら表紙」側に印刷されているのは、構図が印象的な一枚。丸木を並べた小さな橋をはさんで画面の上半分に人物、下半分に水面が写る。その前後に撮った同じ構図の写真がすでに『短歌』2015年9月号(人物特集 没後30年 葛原妙子)に載っていた。

 これらの写真にもやはりキャプションの類がない。ただ、葛原の髪型や着物の柄が聖パウロ教会前の写真と一致する。同じ日に撮影されたものだろう。


     §


 ついでに言えば、聖パウロ教会の設計者は当ブログの昨年の記事で触れたグリーンハウスと同じ、アントニン・レーモンド。この建築家は某市に現存する公共施設を設計した人物でもあり、私事ながらその建設に私の遠い親類が関係していたということを父からよく聞かされた。だから、その名が私には何となく慕わしい。


(2017.4.16 記)

 穴澤芳江『我が師、葛原妙子』もまた、この元将校の件に言及している。貴重なのは、その内容が葛原妙子本人の直話を元にしていることだ。結城文の報告よりも一段、信頼性が高くなった。

 葛原はあるとき、穴澤さんに直接「戦中疎開先の軽井沢の近くに海軍技術研究所があり、縁あってそこの一人の将校と知り合い」云々と語ったという。

 この将校は敗戦後、妙子の山荘を訪れたことがあり、妙子は懐かしそうに私へ、その人の座っていた椅子の後ろの柱に、椅子が付けた跡があるのよと語ってくれた。(同書93頁)


 将校が敗戦後に葛原の別荘を訪問したというのは、これまで報告されていなかったことだ。柱に「椅子が付けた跡がある」というのは具体的で真実味のある発言だと思う。

 その将校が敗戦後引き揚げるとき、別れの為、妙子は夜道を一人で将校のもとを訪れた。そのとき美しい短剣を差し出され、大きいのと小さいのとどちらが良いかと聞かれ、私は大きいのを選んだと妙子。(同書94頁)


 短剣を贈られたこと自体は葛原自身がエッセイに書いていた。しかし、いつ、どのような状況でそうなったのかを明らかにしたのは『我が師、葛原妙子』が初めてだ。

 夜、子どもたちだけで留守番をさせ、自分は一人で真っ暗闇の山道を登って元将校と会ったという。年下の青年への思慕が確かにあったと認めなければなるまい。元将校もその思いを感じ取っていたことだろう。

 そして、元将校が「しっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え」たのは、この翌日ということになる。後日、そのことを知らせる手紙が葛原に届いたにちがいない。

さびしもよわれはもみゆる山川に眩しき金を埋めざりしや


 葛原は『孤宴』で元将校の峠越えに触れた直後にこの自作一首を引き、次のように記していた。

 頭がふつうではなくなったニーチェが或る時妹にむかい、「わたしは立派な本を書かなかっただろうか」と問うたという、それとは違い、私はいまたしかな頭でこの山家を去ろうとして「この山川に眩しい金を埋めなかっただろうか」とみずからに呟いたのである。(同書91頁)


 印象的な記述だが、峠越えの話との脈絡がよく分からない。穴澤さんは葛原に「金とは何ですか」と尋ねたという。葛原の答えは「私の恋しい人との出会いのことよ」だったそうだ。

 そのことを知った上であらためて引用箇所を読んでみると、「たしかな頭で」というところに深い意味が込もっていたことに気付く。みずからの思いがかりそめのものでなかったことをひそやかに、しかしきっぱりと誇り高く宣言したのが「たしかな頭で」の六字だったのである。


(2017.4.9 記)

 この元将校と葛原妙子の関係について、より具体的に報告したのが結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)である。

 当時女学生だった長女の葉子もこの地(軽井沢町沓掛—引用者注)に来て、近くの海軍の施設に勤めるようになり、妙子もそこの海軍軍人の一人と面識を持つに至った(略)、「始めは葉子のお相手にいいかと思った。」というのが、晩年妙子が漏らした言葉として伝わっている。(同書130頁)


 長女を通じて海軍技術研究所の職員の一人と面識を持ったという。しかも、それだけではない。結城によれば、葛原の歌集に未収録の、

明日しらぬ命の逢ひや高原の銀河は高し肩の真上に

  (『潮音』1944年11月)


といった歌の「対象がその海軍の施設の軍人だったことは、妙子の歌を読む人々のあいだでは知られている」(同書87頁)。つまり、元将校と葛原は戦時中から親しく交流し、葛原は元将校に思いを寄せていたというのである。

 葛原妙子の伝記研究の資料として、またその作品を解釈するための補助資料として、まことに興味深い。結城の報告の通りだとすると、元将校の話を葛原が知った経緯も具体的に想像できる。「貴ぶ人」という特別な呼び方の意味も理解できる。

 ただし、結城の報告には難点があった。その根拠が葛原の周辺の人々による間接的な証言であって、葛原本人の手記や直話ではないことだ。実際、明らかに事実に反するところもあった。たとえば『潮音』1943年5月号掲載で、歌集には未収録の一首、

から松の芽ぶきやはらに雪代のみづの信濃よわが恋のみに


 結城はこの「恋」の対象も例の将校と解している。しかし、海軍技術研究所が当地に疎開したのは1944年5月のことで(『軽井沢町誌』歴史編、軽井沢町誌刊行委員会、1988年)、それ以前の作品の背景に海軍将校の存在を想定することには無理がある。根拠の弱さとこうした部分的な事実誤認により、結城の報告全体に対する評価も留保せざるを得なかった。


(2017.4.3 記)

 その話を最初にエッセイに書き付けたのは、葛原妙子本人だった。葛原は戦時中、浅間山のふもとの別荘に子どもたちを連れて疎開し、戦後もしばらくそこにとどまっていた。近くに海軍技術研究所があり、若い将校たちが勤務していたという。

 ある日、彼等はやって来たアメリカ占領軍の人々に、従来みずからが配属していた研究所、他、一切の引渡しを行った。翌日、一人のもと海軍将校はしっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え、折からあらわれた草津白根の雪のいただきをみたのであった。(『孤宴』小沢書店、1981年、90頁)


 その元将校が詠んだ歌一首も記している。それは

峠路をわが越えくればましろにぞ草津白根は雪となりたり


というのである。まるで研究所の引き渡しや元将校の峠越えの現場に葛原自身が立ち会ったかのようだ。もちろん、そんなはずはない。では、どういう経緯で葛原がそれを知ることができたのか。エッセイは、その辺りのことには何も触れない。

 私はこの山で強くなって零下数十度の寒冷や飢餓に耐え、(略)精神が自由になって貴ぶ人に稀有な美しい短剣を乞うことすら出来た。(同書、91頁)


という、これまた具体的な情報を欠いた一節が同じ文章中にあって、その「貴ぶ人」と前の元将校がどうやら同一人物らしい。一編の詩のように現実から切り離されて、現実以上に鮮やかな印象を与える話、といえばよいだろうか。


(続く)


(2017.4.2 記)


 葛原妙子の第一歌集『橙黄』(1950年)の前半は作者自身の疎開体験に取材したもので、軽井沢にあった葛原家の別荘が主な舞台である。葛原の没後十数年経ったころか、その建物がいよいよ取り壊されるのでその前に、ということで某研究会のお姉さまたち(今や歌壇の大御所の方々ばかり!)にくっついて私も軽井沢まで出掛けて行った。目的地に着いてみると、古い木造家屋の前にほっそりと背の高い女性が立っていた。穴澤芳江さんだった。その日たまたま、穴澤さんも同じ目的でそこに来ていたのだった。

 お会いしたのはこの一度きりだが、穴澤さんはご縁のある人と私は勝手に決めている。このたび刊行された『我が師、葛原妙子』(角川文化振興財団、2017年)も早速購入し、うれしく拝読した。

 これまでに葛原妙子をテーマにした研究書の類としては、次のようなものがあった。

  塚本邦雄『百珠百華:葛原妙子の宇宙』(花曜社、1982年7月)
  稲葉京子『葛原妙子』(本阿弥書店、1992年4月)
  結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年1月)
  寺尾登志子『われは燃えむよ:葛原妙子論』(ながらみ書房、2003年8月)
  川野里子『幻想の重量:葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店、2009年6月)

 このうち、生前の葛原を直接知っているのは塚本と稲葉だが、この二人も葛原の私生活に日常的に立ち入るほどの親密な交流をしていたわけではない。穴澤さんは葛原の晩年、東京都大田区の葛原邸からほど近いところに住み、葛原に師事して頻繁にその住まいを訪れていた人である。『我が師、葛原妙子』は、穴澤さんが直に接した葛原の印象、葛原からの直話などをまとめたもので、葛原の伝記研究の資料として上記五冊とは異なる価値がある。


(2017.2.26 記)

藤沢グリーンハウス


 葛原妙子に

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず

  (『短歌研究』1956年1月)


という著名な一首があるが、私は古い食堂の窓を見上げているだけで満ち足りた気分になる。画像は今月、藤沢のグリーンハウスにて。


(2016.11.20 記)

 松平修文の伝えるところによれば、大野誠夫は葛原妙子の歌について「つまらない遊び」と評していたという。

 私は大野さんに十五年師事しましたが、はじめの十年はまことにいい関係だったんです。でも途中から大野さんは少し変わってきて、年齢的なこともあったのでしょうが、写実派みたいな要素が強くなりました。(略)前衛短歌の悪口もしょっちゅう言うし。あるとき、私が思いついて葛原妙子の勉強会をしたら怒りだして、あんなつまらない遊びのどこがいいんだって言うんです。  (久々湊盈子インタビュー集『歌の架橋Ⅱ』砂子屋書房、2015年10月、241頁)


 先頃、近所の古書店で大野誠夫の1956(昭和31)年の歌集『胡桃の枝の下』を見付けて購入した。葛原妙子宛の献呈署名本だった。大野が葛原の歌に関心を持っていたことを示す一つの資料だと私は思った。だから、松平の証言はちょっと意外な感じだ。

 三省堂版『現代短歌大事典』の松平修文の項によれば、大野に松平が師事したのは1968年から84年まで。大野が葛原の歌を批判したのは70年代末から80年代初めにかけての時期ということになる。松平の言うとおり、大野はあるときから「変わった」のだろうか。


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(2016.9.12 記)

 昔、西日本新聞の読者短歌欄の選者は土屋文明だった。その欄での文明の評言を1996(平8)年の『熊本アララギ』がより抜いて載せているのだが、なかに

離れ住む長の娘が夢に顕ち冷めたき寝汗を拭きてくれたり


という投稿歌があり、文明の意見はこうだ(『熊本アララギ』1996年9月)。

 長女のことを長の娘とはいへない。長の娘なら自分の上長者の娘といふことだ。オサメなら昔の掃除女だらう。歌をつくるに学問はいらないがへんな知つたかぶりのことばは使はない方がよいことは私の日頃の主張である。


 「長の娘」はヲサノムスメ。ヲサは自分自身にとっての統率者や年長者の意で、ヲサノムスメは例えば村人から見た村長の娘、漁師から見た網元の娘だ、ということだろう。ちなみに「掃除女」のヲサメは平安時代の女官で、「長女」と書くが、これはもちろん私たちの言う長女とは別の語である。

 葛原妙子『朱霊』(1970年)に

なにぞそも長(をさ)のむすめは母なるわがまへにきはめてしづかにわらふ


という一首があり、小池光にも同じく長女の意でヲサノムスメと詠んだ歌がたしかあった。いずれも言葉の誤りということになろうか。


(2016.9.7 記)


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和爾猫

Author:和爾猫
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