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 本書の表紙カバーの「おもて表紙」側には、これまで見たことがない写真がプリントされている。困るのは、本書中のどこにもこの写真の説明がないことだ。いつ、どこで撮影したものか。写っているのは何歳の葛原妙子か。

 調べてみて、分かった。場所は軽井沢で、後ろに見えるのは今もそのままの形で建っている聖パウロ教会だ。撮影時期は1958(昭和33)年、葛原は五十代初めということになる。

 どうして分かったかというと、同じ人物(葛原)と背景を別の角度から撮った一枚が角川の雑誌『短歌』1958年10月号に載っており、キャプションに撮影場所が明記されていたからだ。

 これらの写真は『短歌』編集部に属するカメラマンが撮影し、同編集部が所有・保存するものだろう。撮影時期・場所の記録を本書に転記してくれればよいものを、してくれないのは案外管理がいい加減で、編集部内に正確な記録が残っていないということだろうか。


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 「うら表紙」側に印刷されているのは、構図が印象的な一枚。丸木を並べた小さな橋をはさんで画面の上半分に人物、下半分に水面が写る。その前後に撮った同じ構図の写真がすでに『短歌』2015年9月号(人物特集 没後30年 葛原妙子)に載っていた。

 これらの写真にもやはりキャプションの類がない。ただ、葛原の髪型や着物の柄が聖パウロ教会前の写真と一致する。同じ日に撮影されたものだろう。


     §


 ついでに言えば、聖パウロ教会の設計者は当ブログの昨年の記事で触れたグリーンハウスと同じ、アントニン・レーモンド。この建築家は某市に現存する公共施設を設計した人物でもあり、私事ながらその建設に私の遠い親類が関係していたということを父からよく聞かされた。だから、その名が私には何となく慕わしい。


(2017.4.16 記)

 穴澤芳江『我が師、葛原妙子』もまた、この元将校の件に言及している。貴重なのは、その内容が葛原妙子本人の直話を元にしていることだ。結城文の報告よりも一段、信頼性が高くなった。

 葛原はあるとき、穴澤さんに直接「戦中疎開先の軽井沢の近くに海軍技術研究所があり、縁あってそこの一人の将校と知り合い」云々と語ったという。

 この将校は敗戦後、妙子の山荘を訪れたことがあり、妙子は懐かしそうに私へ、その人の座っていた椅子の後ろの柱に、椅子が付けた跡があるのよと語ってくれた。(同書93頁)


 将校が敗戦後に葛原の別荘を訪問したというのは、これまで報告されていなかったことだ。柱に「椅子が付けた跡がある」というのは具体的で真実味のある発言だと思う。

 その将校が敗戦後引き揚げるとき、別れの為、妙子は夜道を一人で将校のもとを訪れた。そのとき美しい短剣を差し出され、大きいのと小さいのとどちらが良いかと聞かれ、私は大きいのを選んだと妙子。(同書94頁)


 短剣を贈られたこと自体は葛原自身がエッセイに書いていた。しかし、いつ、どのような状況でそうなったのかを明らかにしたのは『我が師、葛原妙子』が初めてだ。

 夜、子どもたちだけで留守番をさせ、自分は一人で真っ暗闇の山道を登って元将校と会ったという。年下の青年への思慕が確かにあったと認めなければなるまい。元将校もその思いを感じ取っていたことだろう。

 そして、元将校が「しっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え」たのは、この翌日ということになる。後日、そのことを知らせる手紙が葛原に届いたにちがいない。

さびしもよわれはもみゆる山川に眩しき金を埋めざりしや


 葛原は『孤宴』で元将校の峠越えに触れた直後にこの自作一首を引き、次のように記していた。

 頭がふつうではなくなったニーチェが或る時妹にむかい、「わたしは立派な本を書かなかっただろうか」と問うたという、それとは違い、私はいまたしかな頭でこの山家を去ろうとして「この山川に眩しい金を埋めなかっただろうか」とみずからに呟いたのである。(同書91頁)


 印象的な記述だが、峠越えの話との脈絡がよく分からない。穴澤さんは葛原に「金とは何ですか」と尋ねたという。葛原の答えは「私の恋しい人との出会いのことよ」だったそうだ。

 そのことを知った上であらためて引用箇所を読んでみると、「たしかな頭で」というところに深い意味が込もっていたことに気付く。みずからの思いがかりそめのものでなかったことをひそやかに、しかしきっぱりと誇り高く宣言したのが「たしかな頭で」の六字だったのである。


(2017.4.9 記)

 この元将校と葛原妙子の関係について、より具体的に報告したのが結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)である。

 当時女学生だった長女の葉子もこの地(軽井沢町沓掛—引用者注)に来て、近くの海軍の施設に勤めるようになり、妙子もそこの海軍軍人の一人と面識を持つに至った(略)、「始めは葉子のお相手にいいかと思った。」というのが、晩年妙子が漏らした言葉として伝わっている。(同書130頁)


 長女を通じて海軍技術研究所の職員の一人と面識を持ったという。しかも、それだけではない。結城によれば、葛原の歌集に未収録の、

明日しらぬ命の逢ひや高原の銀河は高し肩の真上に

  (『潮音』1944年11月)


といった歌の「対象がその海軍の施設の軍人だったことは、妙子の歌を読む人々のあいだでは知られている」(同書87頁)。つまり、元将校と葛原は戦時中から親しく交流し、葛原は元将校に思いを寄せていたというのである。

 葛原妙子の伝記研究の資料として、またその作品を解釈するための補助資料として、まことに興味深い。結城の報告の通りだとすると、元将校の話を葛原が知った経緯も具体的に想像できる。「貴ぶ人」という特別な呼び方の意味も理解できる。

 ただし、結城の報告には難点があった。その根拠が葛原の周辺の人々による間接的な証言であって、葛原本人の手記や直話ではないことだ。実際、明らかに事実に反するところもあった。たとえば『潮音』1943年5月号掲載で、歌集には未収録の一首、

から松の芽ぶきやはらに雪代のみづの信濃よわが恋のみに


 結城はこの「恋」の対象も例の将校と解している。しかし、海軍技術研究所が当地に疎開したのは1944年5月のことで(『軽井沢町誌』歴史編、軽井沢町誌刊行委員会、1988年)、それ以前の作品の背景に海軍将校の存在を想定することには無理がある。根拠の弱さとこうした部分的な事実誤認により、結城の報告全体に対する評価も留保せざるを得なかった。


(2017.4.3 記)

 その話を最初にエッセイに書き付けたのは、葛原妙子本人だった。葛原は戦時中、浅間山のふもとの別荘に子どもたちを連れて疎開し、戦後もしばらくそこにとどまっていた。近くに海軍技術研究所があり、若い将校たちが勤務していたという。

 ある日、彼等はやって来たアメリカ占領軍の人々に、従来みずからが配属していた研究所、他、一切の引渡しを行った。翌日、一人のもと海軍将校はしっかりとゲートルを巻き、浅間の北麓をゆき、上信の分水嶺を越え、折からあらわれた草津白根の雪のいただきをみたのであった。(『孤宴』小沢書店、1981年、90頁)


 その元将校が詠んだ歌一首も記している。それは

峠路をわが越えくればましろにぞ草津白根は雪となりたり


というのである。まるで研究所の引き渡しや元将校の峠越えの現場に葛原自身が立ち会ったかのようだ。もちろん、そんなはずはない。では、どういう経緯で葛原がそれを知ることができたのか。エッセイは、その辺りのことには何も触れない。

 私はこの山で強くなって零下数十度の寒冷や飢餓に耐え、(略)精神が自由になって貴ぶ人に稀有な美しい短剣を乞うことすら出来た。(同書、91頁)


という、これまた具体的な情報を欠いた一節が同じ文章中にあって、その「貴ぶ人」と前の元将校がどうやら同一人物らしい。一編の詩のように現実から切り離されて、現実以上に鮮やかな印象を与える話、といえばよいだろうか。


(続く)


(2017.4.2 記)


 葛原妙子の第一歌集『橙黄』(1950年)の前半は作者自身の疎開体験に取材したもので、軽井沢にあった葛原家の別荘が主な舞台である。葛原の没後十数年経ったころか、その建物がいよいよ取り壊されるのでその前に、ということで某研究会のお姉さまたち(今や歌壇の大御所の方々ばかり!)にくっついて私も軽井沢まで出掛けて行った。目的地に着いてみると、古い木造家屋の前にほっそりと背の高い女性が立っていた。穴澤芳江さんだった。その日たまたま、穴澤さんも同じ目的でそこに来ていたのだった。

 お会いしたのはこの一度きりだが、穴澤さんはご縁のある人と私は勝手に決めている。このたび刊行された『我が師、葛原妙子』(角川文化振興財団、2017年)も早速購入し、うれしく拝読した。

 これまでに葛原妙子をテーマにした研究書の類としては、次のようなものがあった。

  塚本邦雄『百珠百華:葛原妙子の宇宙』(花曜社、1982年7月)
  稲葉京子『葛原妙子』(本阿弥書店、1992年4月)
  結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年1月)
  寺尾登志子『われは燃えむよ:葛原妙子論』(ながらみ書房、2003年8月)
  川野里子『幻想の重量:葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店、2009年6月)

 このうち、生前の葛原を直接知っているのは塚本と稲葉だが、この二人も葛原の私生活に日常的に立ち入るほどの親密な交流をしていたわけではない。穴澤さんは葛原の晩年、東京都大田区の葛原邸からほど近いところに住み、葛原に師事して頻繁にその住まいを訪れていた人である。『我が師、葛原妙子』は、穴澤さんが直に接した葛原の印象、葛原からの直話などをまとめたもので、葛原の伝記研究の資料として上記五冊とは異なる価値がある。


(2017.2.26 記)

藤沢グリーンハウス


 葛原妙子に

寺院シャルトルの薔薇窓をみて死にたきはこころ虔しきためにはあらず

  (『短歌研究』1956年1月)


という著名な一首があるが、私は古い食堂の窓を見上げているだけで満ち足りた気分になる。画像は今月、藤沢のグリーンハウスにて。


(2016.11.20 記)

 松平修文の伝えるところによれば、大野誠夫は葛原妙子の歌について「つまらない遊び」と評していたという。

 私は大野さんに十五年師事しましたが、はじめの十年はまことにいい関係だったんです。でも途中から大野さんは少し変わってきて、年齢的なこともあったのでしょうが、写実派みたいな要素が強くなりました。(略)前衛短歌の悪口もしょっちゅう言うし。あるとき、私が思いついて葛原妙子の勉強会をしたら怒りだして、あんなつまらない遊びのどこがいいんだって言うんです。  (久々湊盈子インタビュー集『歌の架橋Ⅱ』砂子屋書房、2015年10月、241頁)


 先頃、近所の古書店で大野誠夫の1956(昭和31)年の歌集『胡桃の枝の下』を見付けて購入した。葛原妙子宛の献呈署名本だった。大野が葛原の歌に関心を持っていたことを示す一つの資料だと私は思った。だから、松平の証言はちょっと意外な感じだ。

 三省堂版『現代短歌大事典』の松平修文の項によれば、大野に松平が師事したのは1968年から84年まで。大野が葛原の歌を批判したのは70年代末から80年代初めにかけての時期ということになる。松平の言うとおり、大野はあるときから「変わった」のだろうか。


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(2016.9.12 記)

 昔、西日本新聞の読者短歌欄の選者は土屋文明だった。その欄での文明の評言を1996(平8)年の『熊本アララギ』がより抜いて載せているのだが、なかに

離れ住む長の娘が夢に顕ち冷めたき寝汗を拭きてくれたり


という投稿歌があり、文明の意見はこうだ(『熊本アララギ』1996年9月)。

 長女のことを長の娘とはいへない。長の娘なら自分の上長者の娘といふことだ。オサメなら昔の掃除女だらう。歌をつくるに学問はいらないがへんな知つたかぶりのことばは使はない方がよいことは私の日頃の主張である。


 「長の娘」はヲサノムスメ。ヲサは自分自身にとっての統率者や年長者の意で、ヲサノムスメは例えば村人から見た村長の娘、漁師から見た網元の娘だ、ということだろう。ちなみに「掃除女」のヲサメは平安時代の女官で、「長女」と書くが、これはもちろん私たちの言う長女とは別の語である。

 葛原妙子『朱霊』(1970年)に

なにぞそも長(をさ)のむすめは母なるわがまへにきはめてしづかにわらふ


という一首があり、小池光にも同じく長女の意でヲサノムスメと詠んだ歌がたしかあった。いずれも言葉の誤りということになろうか。


(2016.9.7 記)


 結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)は短文ながら葛原妙子の夫君、輝の直話を書き留めていて、こればかりは今日の葛原研究の第一人者である川野里子さんももはや成しえない貴重な成果である。輝氏いわく、

「自分は千葉県安房の出だが、学生時代には(略)海もきれいで海水浴もできた。妙子の実家、山村家とは、妙子の兄と自分とが友人でもあり、もともと親しい間柄であったので、妙子の家も夏になると海の家を借りて遊びに来ていた。妙子のことは、旧府立第一高女の頃から知っていた。(略)学校を出たら一緒になれというように、自然とそうなった。」


 これによれば、妙子の実兄と葛原輝が友人同士だったので、女学校時代の妙子はすでに輝のことを知っていた。妙子と輝の結婚は、見合いの席で初めて顔を合わせるような、純然たる見合い結婚ではなかったわけである。二人にはむしろ結婚前に互いに恋愛感情を育む時期があったかもしれない、と私は勝手に想像している。


     §


 葛原妙子自選歌集『雁之食』(短歌新聞社、1975年)所収の年譜は著者表示がないが、おそらく本人によるものだろう。これを見ると、1927(昭和2)年20歳の項に

 一月、医師、葛原輝と結婚、


とあり、その翌年21歳の項には

 八月、長女葉子出生。


とあって、以後の各種年譜はすべてこれに従っている。長女誕生の年月に、まさか誤りはあるまい。しかし、結婚の年月の方は、『雁之食』の年譜以外に何か確かな根拠があるのだろうか。というのは、別の年月を推測させる資料も存在するからである。

 それは妙子の卒業した東京府立第一高等女学校の同窓会誌、1927年7月発行の『鴎友』37号である。葛原妙子研究の場でまだ紹介されていない新資料だろう。

 この『鴎友』37号に妙子のクラス、三十八回「は組」の級会報告が載っている。そこに、

 山村様、岸田様は共に来年三月頃は御祝の由。


などと記されており、「山村」が妙子の旧姓なのである。級会は同年5月、三年ぶりに開かれたとのことで、その間に結婚した同級生については別に記されているが、そちらに山村妙子の名は見えない。かつ、この時期に妙子はまだ長女をみごもっていなかったはずである。とすると、「来年三月頃」に「御祝」という記述は、やはり婚約の事実を伝えたものと解するのが自然なように思われる。

 『短歌現代』1988年2月号(特集・葛原妙子)に妙子の「結婚式記念写真」とされるものが載っており、「昭和2年」と付記されているのだが、本当のところ、この写真の撮影年月はいつだったのだろうか。正しくは「1928年1月」頃であったのに、妙子本人が結婚と出産の時期の近さを気にして、年譜の記載を意図的に前にずらし「1927年1月」にした——というのはつまらない憶測か。


(2016.3.7 記)

しづかなる大和の寺を覗きみぬ聖娼婦百済観音の足

  葛原妙子(『短歌』1980年1月、後に『をがたま』所収)



 ヘロドトス『歴史』にも記されている古代文明の風習に神殿売春というものがあり、「聖娼婦」は本来それに携わる者を指す翻訳語のようだ。葛原妙子の掲出歌がその語を百済観音に対して用いるのは、なぜだろう。

 推測するに、これは井上政次『大和古寺』(1941年9月初刊)が百済観音を「聖処女」と呼んでいたのを踏まえ、逆さに引っ繰り返したものではなかろうか。葛原は早くから古美術への関心を示し、

(にひ)年の暁けの目覚めに顕(た)ちてくる斑鳩の寺の壁画の幻像
  (『潮音』1941年2月)


といった歌を残していた。戦後まで繰り返し増刷された『大和古寺』を葛原が読んでいた可能性は大いにあろう。

 井上の「聖処女」という表現がとくにマリアを意識したものでないように、葛原の「聖娼婦」も古代の風習と直接関係するものではないようだ。稲葉京子『葛原妙子』(1992年)は実際の百済観音について、

 私などが見ると、二メートル余のそのすらりとした長身痩躯の美しいすがたに比して、むしろその足は幾らか部厚く無雑作で無防備というか、あどけない感じを受ける。


と述べていて、私も実は同感である。しかし、葛原は「長身痩躯」の清楚さに比べ、ややアンバランスに量感を感じさせる足に淫靡さを感じ取ったものか。


(2016.2.22 記)

マリヤの胸にくれなゐの乳頭を点じたるかなしみふかき絵を去りかねつ
わが蒔ける未知の花どもひしめきて多慾のわれに一夜せまりき

  (『飛行』1954年)


 四十代の葛原妙子の性に触れた歌は悩み多く、重苦しい感じがする。晩年の、

しづかなる大和の寺を覗きみぬ聖娼婦百済観音の足
  (『短歌』1980年1月、後に『をがたま』所収)


の軽やかさとは対照的だ。


     §


 今から二十年ほど前、藤沢の朝日カルチャーセンターの教室で葛原妙子をテーマにした短期講座を受講した。講師、森岡貞香先生。葛原妙子の

 「イチニントノデアイ」

について語られたことが印象的だった。『飛行』『薔薇窓』の時期——どちらであったか、講義中に明言されたはずだが、私は忘れてしまった——に「デアイ」があり、それは『原牛』の時期にはすでに終わっていたのだが、次の一首などにその影響がなおみとめられるという。

人に示すあたはざりにしわが胸のおくどに青き草枯れてをり
  (『原牛』1959年)


 では、その最中、その影響下に成った歌はあったのか。それについては言及がなかったと記憶している。講義後にでも質問すればよかったのだが、当時の私はまだ葛原の歌をやっと読み始めたばかりで、質問するのに必要なほんの少しの知識も持ち合わせず、ただ講義を聴くだけで終わってしまった。

 この「デアイ」の話を、森岡は結局、文章にはしなかったようだ。今後、新たな証言者が現れることもないだろう。私の前には、ただ歌だけがある。

いちにんを倖(さきはひ)とせむたいそれし希ひをもてば暗き叢
  (『飛行』1954年)

わがうちなる少女無垢にて腐らむよささやき抱きし一人(いちにん)あらね
  (『薔薇窓』1974年、『潮音』1956年5月初出)



(2016.2.11 記)

殺したるをみなの目より耳より粟・稗みのり垂れたる神話
   葛原妙子(『原牛』1959年)

陰に麦生り尻に豆生りし比売をりて男神に殺さえましし
   同(『短歌現代』1978年2月、後に『をがたま』所収)


 この二首を比べると、前の歌の方が完成度が高いようだ。技術は、やはり衰えるものなのか。後の歌は、「をりて」の辺りの調べに緩みがある。また、視点が明確でなく、感情移入が難しい。殺しと穀物生成の順序が逆さまのように感じられるのも不満だ。

 対して『原牛』の一首は、調べに一点の緩みもない。その上、第二、三句にかけてのリフレインと字足らずの組み合わせに新しい歌のリズムを探る実験の跡が窺えるのも刺激的だ。

 古事記の言い回しを借用しただけの「生り」に比べ、「垂れたる」は具体的で、より鮮やかな印象を喚起する。女神を殺した者の視点から「殺したる」というのも効いている。殺した相手の各部からたちまち穀物が生成する——そのさまを目にした者の驚きが伝わってくる。

 なお、古事記の当該の話には「稗」が出てこないが、日本書紀の同種の話では殺された神の目から稗が生まれたことになっている。


(2016.2.9 記)

 葛原妙子の人となりに触れた岡部桂一郎の言葉を川野里子「インタビュー 森岡貞香氏に聞く」(『幻想の重量:葛原妙子の戦後短歌』本阿弥書店、2009年)が伝えている。これが意表を突く内容で、ちょっとおもしろい。葛原の葬儀のとき、火葬場に向かうタクシーの中での発言だったという。

「……歌壇も葛原妙子みたいな女流がいなくなって寂しいねえ。とにかく女流歌人で猥談をする人ってあの人だけだったよ。もう残念だ」


 森岡自身は、その手の話を葛原から聞いたことがなかった由。男性中心の酒宴などではそういった話に加わることもあったということなのだろう。それにしても、葛原のする猥談とはどんなものだったのか。その中身まで伝わらなかったことは、仕方がないとはいえ「残念だ」。


     §


陰に麦生り尻に豆生りし比売をりて男神に殺さえましし

  (『短歌現代』1978年2月、後に『をがたま』所収)


 前の記事で指摘したように、この一首は古事記のスサノヲの話に取材したものだ。古事記の該当箇所は、次の通り。

 かれ殺さえましし神の身に生(な)れる物は、頭に蚕(こ)生り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき。

  (『新訂古事記』角川文庫、1977年)


 五穀起源の神話から一首の素材を採るにあたり、葛原は目・耳・鼻を選ばず、陰・尻を選んだ。当時の葛原の好みが窺えて、興味深い。より直接的に性に関係する器官として、それらをことさらに選んだのだろう。

 実はこれ以前に、同種の神話をもとにした一首がすでにあった。

殺したるをみなの目より耳より粟・稗みのり垂れたる神話

  (『原牛』1959年)


 このときは目と耳を選び、陰や尻を選ばなかった。葛原の場合、性に関わる表現は晩年に近づくにつれておおらかになった、という仮説を出しておこう。

ゆふさればはろけきかたに向きをればわがちちぶさのうすくひかりぬ


 「陰に麦生り」と同時発表の一首。大いなるものと交感するさまを詠んだ歌として、私はこれを記憶し、ときどき口ずさんでいる。


(2016.2.1 記)


(ほと)に麦生(な)り尻に豆生りし比売をりて男神に殺さましし
  (短歌新聞社版、377頁、『をがたま』)

(ほと)に麦生(な)り尻に豆生りし比売をりて男神に殺さましし
  (砂子屋書房版、519頁、同)


 短歌新聞社版の字句は初出(『短歌現代』1978年2月)と同じ。砂子屋書房版の「殺され」は担当者の入力ミスにしては文法が正確で、むしろ奇妙に感じられる。あるいは、これは同書凡例の次の項を適用したものか。

一、明らかな誤植と認められる箇所については、校正の段階で訂正を加えた。


 しかし、初出及び短歌新聞社版の「殺さえ」は、明らかに誤植ではない。この歌は、いうまでもなく古事記のスサノヲの話に取材したものだ。原文に「所殺神於身生物者」とあるのを、たとえば1977年刊行の『新訂古事記』(角川文庫、武田祐吉訳注、中村啓信補訂・解説)は、

 殺さえましし神の身に生れる物は


と書き下している。「え」は耳慣れない言い方かもしれないが、要するに上代の受身の助動詞なのである。

 葛原の一首の「殺さえ」は、「陰に麦生り尻に豆生り」といった言い回しや「比売」の用字と同じく、古事記の世界の雰囲気を醸し出す効果をねらって、その書き下し文の字句を借りたものと考えられる。もし砂子屋書房版の「殺され」がことさらにした「訂正」なら、それは不要な作業だったと思う。


(2016.1.29 記)
 本当は全頁全歌を順番に見比べてゆけばよいのだが、とても根気が続かない。これも差し当たり目に付いたものを挙げよう(下線引用者)。

わがこゑのカセットより流れいでわが生の声となりゐつ
  (短歌新聞社版、370頁、『をがたま』)

わがこゑのカセットより流れいでわが生の声となりゐつ

  (砂子屋書房版、509頁、同)


 短歌新聞社版の方は初出本文(『短歌現代』1978年2月)と一字一句同じ。砂子屋書房版の「生命」は、担当者によるワープロ原稿作成時の単純な入力ミスだろう。


(2016.1.25 記)

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Author:和爾猫
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