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 佐藤佐太郎の第一歌集『歩道』(1940年)に、

電車にて酒店加六(しゆてんかろく)に行きしかどそれより後は泥のごとしも


という著名な一首がある。秋葉四郎氏が銀座四丁目の居酒屋「酒の穴」を紹介するついでに、

 「加六」も、田村元氏の調査に拠ると、この「酒の穴」の筋向かいで、


云々と書いている(「銀座「酒の穴」」、『歌壇』2018年11月号)のを読み、驚いた。「加六」については未詳と思っていたが、田村元さんがすでに調査済みで、その所在地も突き止めているというのだ。

 田村さんはいつ、どこでそれを発表したのか。新刊『歌人の行きつけ』(いりの舎、2018年12月)を読んで分かった。巻末に秋葉四郎氏との対談の記録があり、そこで田村さんが加六について詳しく考証しているのだ。初出の記載がないので、この単行本が初収なのだろう。つまり、対談で田村さんが話したことを秋葉氏が先に随筆に書いてしまい、その後で対談記録を収める『歌人の行きつけ』が刊行された、という順序である。

追記(2019.1.30)—この対談記録の初出は『うた新聞』2015年4月号とのこと、松村正直さんからコメントをいただいた。正しい順序は、対談(2015年2月)、記録初出(『うた新聞』2015年4月)、秋葉氏の随筆(『歌壇』2018年11月)、『歌人の行きつけ』(2018年12月)となる。下のコメント欄をご参照ください。秋葉さん、失礼なことを書いてすみません。

 さて、その考証がとてもおもしろい。田村さんは佐藤佐太郎『互評自註歌集:歩道』(1948年)に「加六は銀座にある飲屋で、菊正宗の上等なのを飲ませた」とあるのを出発点に銀座関係の資料に当たり、まず明治生まれのジャーナリスト松崎天民の『銀座』(1927年)を見出だす。同書によれば、国木田独歩『号外』の舞台である「正宗ホール」が加六だという。さらに今和次郎『大東京案内』(新版、1929年)を参照して、クロネコなる店にトンネルがあり、加六に通じているとの記述があることも発見する。

 そして、最後の決め手は1935年発行の地図『躍進:大銀座街之図』(東京商工案内社)。『歌人の行きつけ』の見開き二頁分を使って、該当部分を掲げている。それを見ると、銀座二丁目の「クロネコ」の裏手に確かに「嘉六」との記載があるのである。

 考証の信頼性は複数の証拠を組み合わせることで生まれる。田村さんの加六の調査はその手本のようだ。当時の地図や書物で固有名詞の漢字表記に異同があることは、さほど珍しくもない。佐太郎の言う「銀座にある」加六と1935年の銀座の地図の嘉六は同じ店と考えてよいだろう。『号外』は1906(明治39)年初出で、佐太郎の掲出歌は1937年1月初出だから、加六は少なくとも銀座で三十年以上続いた店ということになる。

 なお、田村さんは触れていないが、銀座二丁目のクロネコは1927年に開業したカフェーの有名店。ウィキペディアの「カフェー」の項には1930年頃のクロネコの店内の写真二枚(『大東京写真帖』忠誠堂、1930年)が掲載されている。モガとモボが闊歩していた時代の銀座である。カフェーと言っても、今日のスターバックスではない。その業態は風俗営業の一種で、女給が接待して洋酒を飲ませ、男客は飲食代を払うほか、女給にチップを渡すなどするのである。

 佐太郎が掲出歌を詠んだ1936年頃のクロネコは、どんな営業の仕方だったのか、私の手元には資料がない。しかし、まだ「支那事変」の前である。警視庁の取締りもあったとはいえ、それほど大きな変化はなかったと思われる。

 東京都の中央区立図書館のサイトで、1934年の絵葉書とおぼしいクロネコの外観の写真を見ることができる。夜の闇にネオンサインがまばゆく、華やかだ。佐太郎が加六の手前で目にした光景と考えてよいだろう。田村さんの考証に教えられる以前、私は「酒店加六」をもっと違った風景として、勝手に想像していた。銀座でもややはずれのさびしい裏通りの小さな店というように。なぜだろう。佐太郎の顔写真の地味な印象が先入観として働いたものか。実際のところ、加六の客は歓楽街の灯をいっぱいに浴びながら店に通ったのだ。掲出歌の「電車」は東京市電だろうが、市電にわざわざ乗って酒を飲みに行くところに格別の欲求を読み取るべきなのかもしれない。

 興味をそそるのは、クロネコのトンネルの話である。それはまるで異界につながる通路のようではないか。掲出歌の主体がそのトンネルを通って加六に入ったとすれば、加六はまさに泥酔にふさわしい異界ということになる。私はここまで考えて、しばし想像の世界に遊んだ。佐太郎が加六の客となった頃にトンネルがまだ残存していたことが確認できればよいのだが、どうだろう。

 残念ながら、その確認はなかなかできないようだ。今和次郎の著書と同じ、1929年刊行の『東京銀座商店建築写真集』(吉田工務所出版部、国立国会図書館のサイトで全編閲覧可)という本がある。その11頁の「黒猫、オリムピツク」という見出しの写真を見ると、『歌人の行きつけ』掲載の『躍進:大銀座街之図』にあるような並び方でその二店舗が写っている。ところが、次頁の「クロネコの新装」という見出しの写真では、カフヱークロネコの外観が一新され、オリムピツクとは逆側に一区画分増築されたように見える。その説明文はこうだ。

 これは前図の旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造して面目を一新した、カフヱークロネコの新装、鎖までぶらさげての汽船模造、銀座航行曲の尖端を行かうと云ふ戦術。


 写真を見る限り、店舗の間口が二倍の広さになり、その横長の外観を真横から見る汽船のような装いに仕立てたようだ。どうして「旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造」するというようなことが簡単にできたかというと、立派な西洋建築に見えて、実はいわゆる看板建築だからである。

 しかし、『躍進:大銀座街之図』によれば、オリムピツクとクロネコの先には細い横丁が一本ある。だから、クロネコはそちら側には店舗を拡張できないはずでは……? そう、これこそ「トンネル」の存在理由だろう。横丁をふさぐわけにはいかないので、トンネルにしたのである。そんなことが容易にできるのも看板建築ゆえで、表から見たら横長の間口の一棟でも、看板の後ろは二棟ということだったのだ。

 ただし、このトンネルの設置期間はごく短かったとも推測される。クロネコは、翌30年にはもう、横丁より向こう側の増設分を手放している。当時、大阪のカフェーがエロ・グロの奇抜なサービスを売りに、次々に東京進出を果たしていた。クロネコが手放した区画には大阪道頓堀のカフェー赤玉が入り、「銀座会館」となった(石川偉子「文学からみる近代日本におけるカフェ空間形成 」、第8回嗜好品文化フォーラム、2010年)。『躍進:大銀座街之図』でもオリムピツク、クロネコ、横丁を挟んで銀座会館の順で並んでいる。そして、少なくとも地図上では横丁の入口付近にトンネルがあるようには見えない。銀座会館はクロネコと一体化した外装を廃し、トンネルもなくなったと推測するのが自然だろう。

 せっかく楽しく想像したトンネルであるが、あきらめようか。
 

(2019.1.30 記)

 永田和宏『現代秀歌』(岩波新書、2014年)が春日真木子『北国断片』(1972年)から

憐れまるより憎まれて生き度し朝々に頭痛き迄髪ひきつめて結う


という一首を採ったことについて、私は当ブログで否定的な意見を述べたことがある。春日自選の『自解100歌選春日真木子集』(牧羊社、1988年)にその歌が見えないことを指摘し、それを選ばれるのは春日本人も不本意だろう、とも書いた。

 ところが、『現代短歌』2月号の特集「第一歌集の頃」を見ると、春日の『北国断片』自選五首のうちにその一首が入っている。ということは案外、作者本人にも愛着のある歌だったか。あるいは、永田の評価を知って、本人の評価も少し変わるところがあったか。

 いずれにしても『北国断片』にはもっとよい歌があるというのが私の意見で、たとえ作者本人に反対されても、それは変えようもない。


(2019.1.13 記)

 朝日新聞が元旦以来、一面トップに繰り返し昭和天皇の歌稿発見の記事を載せていた。ずっと以前から用意し、検討を重ねてきた記事に決まっているのだから、速報の体裁など取らず、一本のしっかりとした内容の記事にまとめればよかったのにと思う。

 ただ、7日付朝刊の記事「昭和天皇 和歌磨いた跡」には考えさせられた。昭和天皇の晩年の歌は御自身で推敲、側近が清書、相談役の岡野弘彦がそれに朱書きで助言を書き入れる、といった過程を経て完成したという。

 記事に引かれている例歌は二首で、一首目は、

うれはしき病となりし弟をおもひかくしてなすにゆきたり


 発見された清書原稿では、この「おもひかくして」に朱書きで「「(おもひつつひめて)」「秘」との書入れがあり、朝日の記者は相談役の助言と推定している。昭和天皇御製集『おほうなばら』(読売新聞社、1990)には、この書入れの通りに改めた形で載っているとのことだ。

 この助言の意図は分かりやすい。原歌では「弟を」と「おもひかくして」のいわゆる係り受けがうまくいっていないので、そこを手直しする案を出したのだ。

 では、二首目、

國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな


はどうか。在位六十年記念式典の際の歌だそうで、清書原稿では「はづかしき」に朱書きで「おもはゆき」との書入れがあるという。この一首が後に公表されたかどうか、記事では不明。こちらの方は幾分疑問の残る助言と言ってよいかもしれない。ハヅカシの主な意味は、

 過ち・罪などを意識して面目ないと思う。(広辞苑、以下同)


 もしくは、

 何となくてれくさい。


 後の意味では「ふりかへりみれば」(=過去を振り返ってみると)とつながらず、一首が空中分解する。だから、ここは前の意味に取るほかない。一方、オモハユシは、

 てれくさい。きまりがわるい。


の意味で、ハヅカシの後の意味とほぼ同じ。この単語をハヅカシの前の意味のように解するのは難しい。したがって、助言通りに「ふりかへりみればおもはゆきかな」としてしまったら、この一首は意味が通らなくなる。

 思うに、それをも承知の上での助言であったか。


(2019.1.11 記)


 1 花笠説の要旨


 もしも花笠海月さんが法律の専門家だとしたら、私は全くの素人なのだからちょっと困る。しかし、ことは作家と作品について調べて書くときにしばしば突き当たる問題であり、私自身の拙い旧稿とも無関係ではない。だから、私も気になるところを書き付けておこう。

 それは、故人の未公表の著作物をどう取り扱えばよいか、という問題である。折しも『短歌往来』2019年1月号が永井陽子の作品を「未発表稿」として掲載している。また、これ以前に『短歌』2014年5月号が「永井陽子高校時代の未公開作品」なるものを掲載したこともあった。花笠さんの2018年12月23日付のウェブ記事「永井さんの「未発表」作品について」はこの二誌の企画を取り上げたもので、私の理解では、主に次の三点を主張する。


(1)作家には著作者人格権の一部として公表権が法的に認められている。作家に公表の意思がない著作物を他の者が公表することはできない。

(2)作家の死後に誰かがその未公表の著作物を公表するときは、作家本人に公表の意思があったことを明らかにする必要がある。また、その意思がなかったと判断される場合は、どのような手続きを経て公表に至ったのかを説明する必要がある。

(3)作家本人に公表の意思がなかった著作物は、作家の死後も公表しないでほしい。



 このうち、作家の生前の権利に関わる(1)は当然の指摘だ。他方、作家の死後の権利に関わる(2)(3)には、まだ議論の余地があるのではないかと思う。理由は主に二つある。第一に、その権利の有無や程度、保護期間については、専門家の間でも見解が分かれているように見えるということ。第二に、その主張は従来の伝記研究や文学研究の手法に見直しを求める内容を含んでいるが、それにしては従来の研究手法への言及がないことである。

 なお、上記二誌のうち、『短歌往来』掲載の作品が「未発表稿」と見なすべきものでないことは、松村正直さんのブログ「やさしい鮫日記」の2018年12月17日付の記事「「短歌往来」2019年1月号」が指摘している。また、花笠さんも『短歌』の掲載作品が「未公開作品」とはいえないことを指摘する。どちらもその通りと思う。ただ、私が考えたいのは特定の作家でなく、故人一般の公表権の問題だから、ここではそれらの指摘に詳しく触れることはしない。



 2 法的な問題


 まず法的な観点から検討しよう。花笠さんは、

 もし角川や往来の掲載されたものが本当に「未発表」であるのなら、まず永井さんの公開の意思の有無、ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要です。(同記事。以下の引用は、特に断らない限り同記事より)


と言う。(2)の主張である。永井陽子の「公開の意思の有無」を問うているのは、永井の死後もその意思を尊重すべきだと花笠さんが考えているからだ。この考え自体はまず正当なものだろう。ただし、

 発表をする・しないの決定を含む著作人格権は、没後50年経とうと、70年経とうと消滅しません。


と断言するのはどうか。確かに学界の一部には同様の見解もあるようだ。しかし、一方で著作権法の条文には

 著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない。(59条)


とあり、かつ民法には「被相続人の一身に専属した」権利は相続の対象にならないとの規定がある(896条但書)。そのことを重く見て、著作者人格権は著作者の死亡により消滅すると解する専門家も多く、文化庁はその見解を採っている。簡単に決められることではないのだ。

 もちろん、だからと言って故人の著作物を誰でもただちに自由に公表できるというわけでもない。著作権法の条文には次のような文言もある。

 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなった後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。(60条)


 したがって、自分の著作物を公表するかしないかということに関する作家本人の意思は、作家の死後であってもやはり尊重されるべきなのだろう。

 では、それはいつまで、どの程度、尊重されるべきなのか。花笠さんは、永井に作品公表の意思が「ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要」という。これはつまり、作家に自分の著作物を公表する意思がなかったとしても、その死後に公表されることは従来あったし、今後もあると見ているのだ。そのようにして故人の著作物が公表されることを花笠さんは次のように説明する。

 「著作人格権は」「消滅しません」と書いたけど「消えないけど行使する人がいなくなる」が正確なんです。(略)(ということで年数経っちゃった人はサラッと無視される場合もあります)。

 (Twitterでの2018年12月23日付の発言)


 花笠さんの考えでは、著作者人格権の一部である公表権は著作者の死後も保護される。ただ、当然ながら、著作者自身は死後に自分の公表権を行使する手段を持たない。それゆえ、その意思に反して著作物を公表される場合もあり得る、ということだ。この通りだとすると、故人の意思に反してその著作物を公表することは、いかなる場合であっても法的に問題のある行為ということになる。

 もしこの考え方が広くみとめられるようになったら、伝記研究や文学研究は少なからずその影響を受けることになるだろう。作家の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等は通常、公表を前提に書き記されたものとは考えられない。したがって、それを公表し、研究の資料とすることはできないことになるのだ。小説好きの間で最近話題になっている日本近代文学館編『小説は書き直される:創作のバックヤード』(秀明大学出版会、2018年)などでも、法的な問題は残ることになろう。

 しかし、この考え方は妥当なのだろうか。作家の死後にその公表権が消滅するか否かの問題は、しばらく措く。いずれにしても著作物を公表するかしないかの作家本人の意思は尊重する必要があるのだが、前に述べた二つの疑問にもう一度戻ろう。第一に、その必要がある期間の問題。それは無期限なのか、それとも期間限定なのか。花笠さんは無期限説に賛同するだろう(注1)が、私は期間限定説も有力だと思う。

 著作権に関するベルヌ条約パリ改正条約は日本も批准したものだが、その条文には、著作者人格権は

 著作者の死後においても、少なくとも財産的権利が消滅するまで存続し、保護が要求される国の法令により資格を与えられる人又は団体によつて行使される。


とある(6条の2)。この故人に代わって著作者人格権を行使する資格を与えられる人とは、日本では著作物の公表の差止めを請求できる遺族、すなわち故人の配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹(著作権法116条)を指すと考えられる。したがって、前述の期間は「財産的権利が消滅する」著作者の死後五十年か七十年、もしくはそれら遺族が存命の期間と解することも可能と思うのだ(参考:三浦正弘「著作者人格権の保護期間」、『国士舘法学』2010年12月)。

 第二に、故人の権利を尊重する程度の問題。死亡した作家が生前に公表しないと決めていた著作物や公表を前提にしていなかった著作物は、その内容や性質を問わず、何であっても公表が許されないのか。前に引いた著作者の死後の人格権の保護に関する条文(著作権法60条)には、次の一文が付加されている。

 ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。


 専門家の間には、この条文の意図を比較的広く捉える見解もある。小倉秀夫「著作者人格権」(『現代知的財産法講座』Ⅱ、日本評論社、2012年)は、

 その著作者が、作家、画家、音楽家等として生前優れた業績を有している場合は、未公表の完成作品はもちろん、未完成作品やメモや草稿、素描や手紙等も高い文化的、資料価値を有しており、それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい。


と述べた上で、

 完成度に自分として納得していなかった未完成品については、それ以上完成度が高まることを期待できない以上、これを未完成品として公表する行為は当該著作者の意を害しないと認められる場合も多いであろう。


としている。この考え方によれば、著名な作家の創作ノートや推敲中の原稿の出版は、仮に遺族がその差止めを請求したとしても、認められる可能性があるということになるか。そうだとすれば、故人の公表権を尊重すべきことは当然としても、その程度は生前にその人が保持していた権利の場合より軽いことになる。

 もっとも、どの程度の行為が「著作者の意を害しないと認められる」のか、どうも分かりにくい。これまで、公表権をめぐる判例がほとんどないからだ。したがって、故人である著作者の未公表の著作物を公表しようとする者が「著作者の意を害しない」との判断を拠り所にしていても、それが否定され、法的に責任を問われる可能性は残りそうだ。

 なお、花笠さんは、

 有名人の書簡の公開をめぐって争われるのは、この公開の意思をめぐってであることが非常に多いです。


と言うが、著名な故人の書簡の公表権をめぐって争われた裁判としては、2000年に高等裁判所の判決が出たいわゆる「三島由紀夫手紙事件」しか私は知らない。花笠さんが「非常に多い」というのは訴訟にまで至らないトラブルかもしれないが、それについて詳しい方のご教示をいただければありがたいと思う。

 ここまでの検討結果をまとめよう。作家の著作物を公表するかしないかの意思をその死後も尊重すべきだ、との考えは正当だ。しかし、法的には、その尊重すべき期間は限定的である可能性がある。また、求められる尊重の程度も、作家の生前の権利に対するときより軽い可能性がある。ただし、それらの期間と程度について、現時点で具体的な基準が定まっているとは言いがたい。今後の判例や世上の議論を注視してゆく必要があるだろう。



 3 道義的な問題

 続けて、道義的な観点から検討しよう。花笠さんは、「永井さんの公開の意思の有無」および「どういう手続きを経て公開」したか、の説明が必要だというが、著作権法にそのような規定があるわけではない。道義的な問題意識に基づく主張だろう。

 私はこれに必ずしも賛成しない。仮に故人の未公表の著作物を出版するに際してその「公開の意思の有無」の説明が必要であるなら、存命の作家の新作出版でもそれは同じはずだ。しかし、あらゆる出版物にその添書きを求めることは現実的でない。

 また、「どういう手続きを経て公開」したかの説明が必要だとの主張はどうか。これはおそらく、故人にその著作物を公表する意思が無かった場合(あるいは、あったか無かったか不明の場合)、遺族の同意を得て公表したことを言明せよ、ということだろう(注2)。小倉秀夫「著作者人格権」によれば、

 著作者の遺族には、公表権の侵害となるべき行為の差止めを請求する権限はあっても(著作116条)、公表について同意を与える権限はないから、著作者の死後の未公表作品の公衆への提供・提示について「権利者から許諾ないし同意を得ることにより法的リスクを解消する」方法はない。


という。公表の差止めを請求できる遺族が公表に同意しても、非親告罪である刑事罰(著作権法120条)を受ける可能性は残るし、その遺族の死亡後に別の遺族が差止めを請求する権限を得てそれを行使する可能性も消えない。遺族の同意を得ることは、「法的リスク」を軽減はしても解消はしないのだ。それはむしろ、「当該著作者の意を害しない」かどうかの判断を遺族にゆだねることで道義的な問題を解消する方法と見るべきだろう。

 遺族の同意を得ること自体は、道義上、必要な手続きだと私も思う。遺族の同意を得ている旨を言明することが望ましいとも思う。ただ、実際にはその言明が難しいこともある。例えば、遺族が公表に積極的ではないものの、その意義は認めて暗に同意する場合などである(注3)。

 さて、花笠さんは、

 「未公開」「未発表」の意思が本人にあるならば、それを尊重してほしいです。


と言う。作家の著作物を公表するかしないかの意思は道義的にも無制限に尊重するのがよいという、(3)の主張である(注4)。出版社や研究者に向けた発言であると同時に、作家の遺族に向けた発言でもあろう。

 「三島由紀夫手紙事件」の判例から考えれば、作家が公表を前提としていない著作物は、「未公表」の意思のある著作物と同様に扱われそうだ。もしそうだとして、しかも花笠さんの(3)の願望が通るとしたら、どうか。作家の未公表の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等を公表し、研究の資料とすることは、やはりほとんど不可能になる。伝記研究や文学研究の場で従来認められてきた手法が認められなくなるのだから、それが今後の研究に与える影響は小さくない。前に引いた法律家の言葉をここにもう一度引いておこう——「それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい」。






1. その後、花笠さんは2019年1月2日付でウェブ記事「著作権についての考え方」を追加している。そこでは、作家の生前に未公表だった著作物を公表するのに、

 確実に問題がないのは、没後70年すぎていて、かつ関係者および権利者も全員がすでに死亡していると思われる年月が経っている場合。


とあり、期間限定説の立場に立っているようにも見える。ただ、12月23日付「永井さんの「未発表」作品について」での主張を撤回すると明記しているわけでもないので、読み手としては両者の齟齬をどう整理して理解すればよいか迷う。また、この1月2日付記事では「あくまでも個人の考えです」と念押ししたり、著作権に繰り返し言及しつつ「法律の話ではありません」と強調したりするなど、自説を強く主張しようとはしていない。私は差し当たり、12月23日付記事を議論の対象としつつ、1月2日付記事は注で触れるにとどめる。


2. 上記1月2日付記事には、遺族に

 「OKと言ってもらう」ことは商用利用でなければ、こだわることはないと思います。


とある。しかし、公表に至るまでの「手続き」というと、私などは遺族の同意を得る手続きしか思い付かない。ただ、同じく1月2日付記事には、

 発表の経緯というか興味本位ではないということの説明は必要と思います。


との見解も示されている。これをふまえれば、当該著作物を公表することに「文学的意義」(注4参照)があるかどうかの検討を花笠さんは「手続き」と呼んでいるのかもしれない。


3. 1月2日付記事には、

 権利者と関係者との力関係などもあり、OKとは言えない場合というのもあります


とある。これは著者の遺族と出版社との関係について述べたものだろう。場合によっては遺族の同意を言明できない、ということについては花笠さんと私の見解が一致しているようだ。


4. 1月2日付記事では「あくまでも私の考え」であると断りつつ、

 発表に文学的意義があること、他の文献に記載がないものであること


が確かであるなら故人の未公表の著作物でも公表してかまわない、との基準を示している。「法律の話ではありません」との言葉の通り、道義的な基準の提案だろう。花笠さんは12月23日付記事の(3)の主張を一旦撤回したのかもしれない。



(2019.1.4 記)



 特集の中のエッセイから印象に残った言葉を引こう。

 十二月号発売時、無事出産できている保証はなく、自分の経験を総括したり、時代と照らし合わせたりできる心境にはない(略)。(石川美南「ぴんとこなさ」)


 他の九編は回想記。石川のエッセイだけが現在妊娠中の心境を語ったもので、迫真性の度合いが違う。

 バイトをして一人の家に帰ってくると、食欲がなく、(略)子供が生まれてしまえば、しばらくは働けなくなるから、夜は装幀の仕事を一生懸命やった。(花山周子「二〇一一年夏のこと。」)


 生活するにはお金が必要、子育てにはさらに必要。きれいごとでないことまでちゃんと書いてある。

 息子を抱いて私は幸せだった。(棚木恒寿「ガラガラポン」)


 この短い一文が醸し出す不穏な空気に驚いた。


(2018.12.10 記)

 先月中に買っておいたのを、今日ようやく読み始めた。特集は「妊娠・出産をめぐる歌」。吉川宏志の総論、本多稜による関係歌五十首選のほか、十名の歌人のエッセイを載せている。その十名は若手・中堅の人たちのようで、エッセイを見ると、うち五名が出産経験のある女性、四名が配偶者に出産経験のある男性、一名が妊娠中の女性であるらしい。

 それで自分の感想だが、何というか、歌人の誰がそのような条件に合致するのかを調べた編集者が恐い。


(2018.12.9 記)


 1940年10月24日付中河与一宛太田水穂書簡は拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」に新資料として引用したものだが、その書簡に実はまだ判読に迷っている箇所がある——ということを一年ほど前、当ブログの記事に書いた。

 些かも不自然に無し、世人に必然観を与ふることと存じ……


と読んだ箇所だ。その「不自然に無し」辺りに違和感が残っていたのだった。

 ところが先日、そこは「不自然に無之」(フシゼンニコレナク)と読めるのではないか、と近代出版史が専門の浅岡邦雄氏から指摘された。私の蒙を啓く教えでとてもうれしく、いささか興奮した。

 以下、理由を述べて、当該箇所の読み方を氏の指摘の通りに訂正する。これはもちろん私の責任ですることであり、ご批判等は私が受けるものだ。


     §


 私が当該箇所に引っ掛かっていたのは、フシゼンニナシがどうも聞き慣れない言い回しであったからだ。その点、フシゼンニコレナクには違和感がない。

 では、字形はどうなのか。その箇所の画像を見よう。

 31 些かも不自然に無之 2 s47
 (画像a
  些かも不自然に無?、世人に必然観を)
 (ほぼ原寸大、以下同)

 「無」に続く一字は平仮名の「し」のように見える。しかし、「し」は元々「之」を崩した形なのだから、当然「之」とも読めるわけだ。

 ところで、この書簡には、ほかに平仮名の「し」および「じ」が延べ十六例ある。内訳は次の通り。

 「し」9例
  1 いたし 5例
  2 もし  3例
  3 せしめ 1例 

 「じ」7例
  4 存じ  6例
  5 信じ  1例


 この1から5まで、各一例の画像を見よう。

 06 お送いたしたく s47(画像b お送いたしたく)

 01 もし未だにて s47(画像c もし未だにて候はば)

 03 介在せしめ s47(画像d 介在せしめをり)

 24 存じますが s47(画像e 存じますが)

 00 信じます s47(画像f 信じます。)

 これらの「し」「じ」には注意すべき特徴が二つある。まず、起筆からほぼ真下に線を下ろしていること。これは十六例の全てに共通する。ついで、直前の字と連綿になっていること。こちらは「信じ」一例を除く十五例に共通する。また、「信じ」の場合も、「信」の末筆から「じ」の起筆までを連絡させる意識のあることは見て取れる。

 対して、問題の一字には、これらの特徴が明確にはみとめられない。線は起筆から直ちに右下へ流れる。直前の「無」の末筆から連絡させる意識も希薄なようだ。

 11 完膚無く s47(画像g 完膚無く)

 同じ書簡に「無」はもう一例ある(画像g)が、これを見ると必ずしも「無」以下が連綿にならないわけでもない。問題の箇所は、「無」とその次の字を意識的に単体に分けて書いたように見える。

 これらのことを併せ考えるに、その一字は平仮名の「し」とは区別して書いた字、すなわち漢字の「之」とみとめてよいのではないか。

 なお、この書簡の文字遣いは比較的平易で、返読を要する表記はほかに見当たらない。その中に一箇所だけ、返読を要する表記が紛れ込むものかどうか、若干気になるところだ。しかし、そのことを考慮しても、「不自然に無し」より「不自然に無之」と見る方が穏当だと思われる。

 以上の理由から、拙稿での読み方「不自然に無し」を取り下げ、「不自然に無之」に訂正したい。ご指摘をくださった浅岡邦雄氏に感謝します。


     §


 尚々、拙稿では画像bの箇所を「お送りいたしたく」としていたのだが、見ての通り、私の誤写だった。「お送いたしたく」に訂正する。


(2018.12.1 記)

 斉藤斎藤さんが昨日付の日経に市川保子『日本語誤用辞典』(スリーエーネットワーク、2010年)のブックレビューを寄稿し、平岡直子の一首、

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

(斉藤さんの文章からの孫引きです)


について次のように述べている。

 「悲しかった」と書くと、悲しい気持ちはもう過去で、今となってはいい思い出みたいだ。対して「悲しいだった」は、悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しいということだろう。文法的には間違いだけど、気持ち的にはこれが正解なのだ。


 「悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しい」というのは、気の利いた比喩だと思う。ほんとうにそうだな、と納得させられる。

 一方、「文法的には間違い」との指摘はどうか。たしかに、「……悲しいだった」はあまり聞かない言い回しではある。もしかすると、これはネットスラングの借用なのかもしれないし、作者としては幼児語のつもりで使ったものかもしれない。しかし、文法上、正しいか正しくないかといえば、これは正しい。もう完全に。

 いちいち説明するような野暮なことはしたくないが、まさに「フリーズドライ」的な言い回しなのだ。

 斉藤さんの今回のコラムで、平岡直子という歌人の名を初めて知った。この一首は名歌だと思う。三越のライオンという歌枕風の素材の選び方。それが見つけられない、といった余白の多い表現が読む者の想像を誘うところ。「悲しいだった」という独特の言い回し。その繰り返しが生み出す調子。

 そして、鍵括弧等を付ければ分かりやすくなるところを、あえて付けない表記の工夫。それで「悲しいだった」の独特さもより際立つ。

 現代短歌、やるね。


(2018.11.11 記)

 川本千栄編「澤辺元一年譜」の1968年の条に、

 前衛短歌の影響が濃厚な高安の歌集『虚像の鳩』が出版され、高安を経由してその影響を受ける。


とある。しかし、「澤辺元一100首選」を見ても、それらしい歌はなかなか見出せない。1992年の第一歌集『晩夏行』の一首だという、

ある日われに天降りしシャイな死神はきっと藤色 髪なびかせて


などは確かに非合理的な内容で、土屋文明調の初期作とは作風が異なる。ただ、前衛短歌かと言われると、それも少し違う気がする。「シャイな」という形容句、髪を「なびかせて」といった表現が幾分通俗的に感じられるのだ。

 「100首選」の中で明らかな前衛風は、私見では次の一首のみ。

モノクロのフィルムに血は黒かりき献血車「昭和」とどまる木陰


 これも『晩夏行』所収の由。名詞が多く、助詞がない下句の文体。結句の体言止め。比喩として深読みを誘ってやまない「献血車」の車名。そこに濃厚に感じられる批評の意識。塚本邦雄に学んだ跡をみとめてよいだろう。

 『塔』同号掲載の吉川宏志のエッセイ「青蟬通信:澤辺元一と「民」」がこの歌に言及している。吉川によれば、初出は『塔』1988年11月号だという。昭和天皇崩御の二ヶ月前である。

 下の句は難解だが、「昭和」という時代とは、若者に血を捧げさせる献血車のようなものだったのではないか、という思いがあるのだろう。昭和が終わる感動を詠んだ歌が沢山作られた中で、この一首には不気味な独特の手ざわりがあった。(吉川)


 献血車「昭和」は人々に血を捧げさせた時代の比喩、ということだろう。的確な解釈だと思う。

 この歌には「不気味な独特の手ざわり」がある、と吉川は記す。私も同じように感じた。では、その不気味さはどこから生まれてくるのか。

 一つは、上句の血の色だろう。献血車を前に、かつて見たモノクロの映画か写真の中の血を連想する、というのがこの歌の基本的な内容だ。作者自身は昭和の戦争を直接体験した世代。それなのに、わざわざモノクロのフィルムを通して過去を振り返っている。その過去と献血車の見える眼前の風景とを明確に区別して表現したかったためでもあろうが、同時にまた血の色に黒を配する効果を計算したためでもあろう。

 そして、不気味さの原因のもう一つは、献血車がいまだ木陰に駐車中との設定。人々に血の供出を求める政治はなおひそかに残存し、機会を窺っている——。その示唆は、なるほど、気味が悪い。

 塚本邦雄や岡井隆をもってしても、昭和の終わりを記念するにふさわしい一首を残すことはできなかった。中央歌壇では無名のままだった歌人に、その一首はあった。そのことを私は記憶しておこう。

 
(2018.11.6 記)

ガンジスの河岸に貧しき農夫らの汗混りいん我が選る綿に

(大木恵理子「『燎火』は孤独の魂を照らす灯り」の引用歌)


 「ガンジスの河岸に」の「に」に確かな技術がみとめられる。この「に」の働きによって、農夫らの活動しているさまが見えてくるのだと思う。仮に「ガンジスの河岸の貧しき農夫ら」としてみると、その動きが止まってしまう。

 ところで、短歌を読むとはどういうことか、この歌を知ってあらためて思うところがあった。一首の大意は、

 日本の私がいま選別している綿に、ガンジス川の岸辺で働く貧しい農夫の汗が混じっているだろう——


 しかし、私はこの歌を読むとき、こんなふうには読まない。また、「日本の私がいま選別している綿に」を単純に倒置した形で読むわけでもない。

 どう読むかというと——まず、ガンジス川が見える。次に、その川沿いに綿花畑が見え、質素な身なりで汗を垂らして立ち働く農夫の姿が見えてくる。最後に日本の工場だか倉庫だかで人が綿を手にしているさまが見え、それとガンジス川辺りの農夫との関連が理解される——と、こんな感じ。読む途中で想起されるあれこれのイメージは、確かに文脈によって「今、ここ」を中心に再配置される。しかし、同時に、それらは再配置される以前のまま、互いに等価のイメージでもあり続ける。私はこの歌の文脈を追う一方で、それぞれのイメージをただ純粋なイメージとして味わい、楽しむのだ。


(2018.11.2 記)

年稚き君らに残業を強うる我の論理は既にブルジョア経済学のもの

 (澤辺元一100首選)


 同じく、『遊水池』所収の由。マルクスの思想を知りながら会社経営に従事する葛藤——に取材した歌だ。結句の字余りがその葛藤の苦しさと共鳴する。必然性のある破調と言ってよいと思う。

 字余りの句とそうでない句の按配にも注意したい。「年稚き」の五音に続けて「君らに残業を」の九音、「論理は既に」の七音の後に「ブルジョア経済学のもの」の十三音。定型通りの句と破調の句を組み合わせるのは、これもやはり土屋文明の影響に違いない。そのようにして、破調が破調であることを保証するのである。

君達を搾取し我が身をも酷使しゆく小企業の現実というは厳しく

 (澤辺元一追悼座談会の引用歌)


 もう一首、題材の似た歌。字余りの効果も同様。そして、こちらもまた「君達を」の五音の後に「搾取し我が身をも」の句割れの九音、「小企業の現実と」の十一音に続けて「いうは厳しく」の七音といった具合である。

 なお、前の歌もそうだが、経営者の側にいて(澤辺は寝具等を製造する会社の役員だったという)社員に対して「君」と呼びかけているところに、作者の心の優しさが表れているようだ。もちろん、一首の内容は相手に直接伝えるべきものではない。心の中でひそかにこうつぶやいた、ということだろう。

 伝統和歌の「君」は、まず相聞の相手だった。では、近代以降の短歌の「君」は誰を指してきたのか。多様な「君」が、あるいはいたのかもしれない、と澤辺の歌を見て思う。


(2018.10.19 記)


なるべくは京都附近にて死にたしとつつましかりき兵われの願い

(「澤辺元一100首選」)


 1959年刊行の合同歌集『遊水池』所収とのこと。この一首の内容について、黒住嘉輝は「フィクション」とし、

 兵隊に行ってないもの、彼は実際はね。学徒動員は行ってるけど。


と発言している(「澤辺元一追悼座談会」)。「学徒動員」は勤労動員の意。しかし、川本千栄編「澤辺元一年譜」の1945年の条に、

 召集令状を受け、大隅半島に派遣されたがすぐ敗戦。十月、復員。


とある。同年譜によれば、澤辺は1926年1月生まれで、45年当時は神戸商業大学予科に在籍。同年1月に満十九歳になって、間もなく召集されたと考えられる。学徒出陣である。したがって、掲出歌は実体験に基づいていると見なしてよいのだろう。

 「附近」が散文風の単語だ。また、「死にたし」を助詞「と」で受けて、ただちに「つつましかりき」とつなぐ言い回しが幾分変わっていて、注意される。仮に倒置を元に戻して、表記を補えば、

「なるべくは京都附近にて死にたし」と。兵われの願い、つつましかりき。


となるか。軍では日記を付けることが奨励されていた。「なるべくは京都附近にて死にたし」は入隊直後、大隅半島に到着する以前の日記に残された一文で、それを戦後に読み返した感想が「つつましかりき」だったと私は推測する。

 もしも京都近辺で死ぬとしたら、それは本土決戦の終盤で、もはや敗戦間近だ。しかし、十九歳の彼の言葉に、そこまで深い意味はなかったかもしれない。生き残ることを当然のように断念し、ただ生まれ育った土地への愛着だけをわずかに示す。そのつつましさには迫真性があり、戦後の刻印は感じられない。心にとどめるに値する一首だと思う。


(2018.10.14 記)

 「澤辺元一100首選」ほか、この特集中に引かれた歌を私はこれまで全て知らなかった。何より印象的なのは、よい歌のあることだ。

若かりし父の放蕩もやや理解して日々綿塵の中に働く

(「澤辺元一100首選」)


 真中朋久「晩夏の挽歌」の指摘の通り、「綿を加工して布団などを作る会社は(略)家業を継ぐということであった」ことが一首の内容から推測される。工場の経営に苦労を重ねる中で、若き日に「放蕩」した父の心持ちも少し理解できるようになった、というのだ。

 そうだ。「理解できる」や「分かる」とする方がより自然な発想だろう。そこをあえて能動的に(?)「理解する」と言う。みずからの心の働きを、外部の少し離れたところから観察しているようでもある。このクールさが、作者の生活感情に対する読者の共感を可能にするのだと思う。

 なお、『塔』2013年1月号掲載のインタビューによれば、澤辺は『塔』参加以前に『アララギ』の文明選歌欄に出詠していた由。第二句の散文調がその選歌欄の直伝の作法と見られる。ことさらに「やや」などを付け、大幅に字を余らせるのである。

 第三句に「理解して」を置く形も高安国世などに先例がないか、調べてもよいかもしれない。


(2018.10.10 記)


 『塔』9月号の澤辺元一追悼特集に感銘を受けた。全二百四十六頁の二割、五十頁近くをこの特集に当てている。しかも、分量が多いだけではない。回想文・作品論から百首選・年譜・写真・故人をよく知る人のインタビューまで、完全版の趣がある。これを通読すれば、一人の歌人の全体像、つまりその作品・人柄・人生などがありありと迫ってくる。私はそれらに実に魅了された。

 澤辺はこの結社の創刊時からの同人にして元選者、「名誉会員」でもあったが、主宰者や代表者であったわけではない。そして、中央歌壇で名の通った人でもなかった。『塔』の編集長を務める松村正直さんがブログ「やさしい鮫日記」に次のように書いている。

こうした追悼の特集というのは、結社誌ならではのものだと思う。
総合誌には有名な歌人の追悼しか載らないし、同人誌でもあまり見ない。

結社とは何かという話がしばしば議論になるが、こうした追悼特集を組むところに、私は結社の特徴が滲んでいるように感じる。それは、システムや合理性という観点だけからは摑めない結社の本質であろう。

(9月13日付「「塔」2018年9月号 」)


 短歌の結社誌は遠く大正の頃から同人の追悼号を出してきた。松村さんの見方は、たしかに結社本来の姿を言い当てているかもしれない。


(2018.10.9 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の四つ目。川野芽生「私達が聴かなかった声」について。

 当ブログの8月14日付の記事で取り上げた北村早紀の文章に続き、高島裕の時評「抵抗の拠点」(『未来』7月号)に反論しようとしたものだ。しかし、この川野の文章もまた、反論としては成立していない気がした。高島は元財務次官のセクハラ疑惑の一件をめぐって次のように記していた。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。ここに露呈しているのは、言語観の貧しさである。生きた会話の中で出てきた言葉を、一切の文脈抜きで一義的に意味づけ、「セクハラ」の定義に照合するという手続きの過程では、言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性が、すべて切り捨てられてしまう。誰も反対できない正義の名において、生きた言葉が殺されてゆく。


 このうち〈会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまった〉の主語が省略されているが、この引用箇所の前を読むと、報道と報道に押された財務省が、ということだろう。こうした高島の主張に対して、川野は次のように述べる。

 しかし「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。ハラスメントはむしろ、言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈を最大限利用して振るわれる暴力だからであり、その文脈に見ぬふりをしての、「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまうのがこの社会だからだ。


 高島のいう「生きた言葉」を「聞こえのよい言葉」と捉える川野は、明らかに高島を批判しようとしている。しかし、高島と川野の文章を何度読み返しても、私には両者が遠く隔たっているようには思えなかった。「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈」を見る必要があるという点では、両者は一致しているのだ。

 だから、高島に対する川野の批判には無理があると私には思われる。

「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。


といった言い方は論理を超越している。川野自身の立場に徹するなら、「生きた言葉」の検証を通して差別や暴力を糾弾することになるはずだ。また、高島は常識的にはセクハラ発言としか思えない元次官の言葉について「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場」などを考慮してセクハラか否かを認定すべきだと主張したのだが、川野の

「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまう……


は、その一言だけではセクハラ認定の判断が分かれるかもしれない○○発言について述べており、高島への反論にはなっていない。

 川野はいわゆるMe Too 運動を考える上で注意すべき点として、司法などの制度に頼れない現状が背景にあること、その分世論の支持を得る必要があるが、そのためには「理想の被害者」でなければならないこと、の二点を挙げつつ、文章全体の結語として「文学の役目」に言及する。

 制度でもポピュラリティでもない言葉をどこに求めればよいのか。それこそが文学の役目だろう。(略)自分の足元の深淵を覗き込む覚悟で、他者の言葉に耳を傾けること、文学の未来はその先にしかない。


 まっとうな文学論だと思う。ただ、元次官をも、またその告発者の職業倫理を問う者をもまずは「他者」として遇するべきだ、というのが高島の意見なのだ。とすれば、川野の文学論は、やはり高島への反論にはなっていない。

 思うに、両者の間にあるのは文学論の対立ではない。その件では、二人の言葉は奇妙なまでによく似ている。では、何の対立か。結局のところ、川野は元次官のセクハラ認定に賛成であり、高島がその認定に消極的であるということが許せないのだろう。


(2018.9.5 記)

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