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 『現代短歌』11月号掲載の拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」で新資料として中河与一宛太田水穂書簡を引用したが、この書簡の文字の判読には正直、苦労した。ペン書きでほぼ型通りに崩していて、比較的読みやすい字ということになるのだろう。しかし、そもそも自分などには、字が崩してあったり変体仮名であったりする時点で何かの暗号にしか見えない。そこで、かなりの部分は文脈から推測して読んでいくことになる。最後まで迷って、今でも引っ掛かっているのは、

些かも不自然に無し、世人に必然観を与ふることゝ存じ


云々と読んだ箇所だ。


  ninashi.jpg(書簡原本の該当部分)


 字の形を見ると、私にはそうとしか読めないのだが、「に無し」という言い方はどうなのだろう。口語なら「不自然で無い」であるし、文語なら普通は「不自然に有らず」などと書きそうなところだ。「不自然に無し」という言い方もあり得るのだろうか。

 あるいは「に無し」と読んだことが誤りなのだろうか。


(2017.11.4 記)


 考えられる可能性はただ一つ、篠の記憶違いである。ブラックリストに類するものを閲覧し、そこに前川佐美雄の名を発見した件と、1963年に内務省警保局の資料を入手した件とは、とくに関係がないのだろう。

 リストをめぐる篠の発言の根拠は何か、結局分からない。篠はいつ、どこで、何を見たのか。


     §


 『現代短歌』7月号で篠と対談し、発言を引き出したのは吉川宏志である。篠に対して、吉川が問い合わせをしてくれないものだろうか。さらに、その結果については、『現代短歌』が掲載頁を提供してくれないだろうか。対談相手にも、対談の掲載誌にも、それくらいの責任はあるはずだ。

 また、吉川や『現代短歌』編集部が本心から篠の話に興味を持っているのであれば、その根拠が気になるだろうし、きっと篠に質問したいだろうと思う。

 ともかく、問題のリストが存在したことの確認は、現時点では取れていないと言わざるを得ない。斎藤瀏はことさらに虚偽を書き連ねるような人物ではなさそうであるし、ありもしないリストをあったと言う理由もないはずなので、私はリストの存在を積極的に否定しようとは思わない。ただ、それがかつて確かにあり、こんな内容だったと言い切るには、まだ証拠が不十分なのである。


(2017.8.13 記)

 篠はいつ、どこで、何を見たのだろうか。上の発言の続きはこうである。

 後年、「角川短歌」に「体制派から見た昭和歌壇」というのを三回にわたって連載したことがありますが、それはアメリカに渡った情報局のデータがあって、そのコピーを小田切進さんを代表とする近代文学研究者五人で金を出し合って手に入れたんです。それを見ると前川佐美雄が入っているんで、びっくりしたことがある。
 その後調べてみたら、白秋も狙われていたことをひそかに知って、ブラックリストが思わぬものだったのを痛感しました。


 これによると、アメリカで保存されていた情報局の資料を小田切進・篠らの研究グループが入手した。その資料の中に前川佐美雄の名があった。篠はそれを「体制派から見た昭和歌壇」と題する論考で報告した。また、白秋の名は、それとは別の機会に、別の資料で見た、ということのようだ。

 私はその論考を知らなかったので、『短歌』のバックナンバーを探した。1963年7月号から9月号まで、その論考は連載されていた。それを読んで、私はまた驚いた。

 私は、それを読む前にはこんなふうに想像していた。つまり、情報局の資料中に例のブラックリストに類するものがあり、そこに佐美雄の名が載っていて、そのことを「体制派から見た昭和歌壇」は報告した、と。

 ところが、「体制派から見た昭和歌壇」にそのような記述はまるでなかったのである。一部を引いてみよう。

 今回ここに新しい資料として旧内務省警保局編の『社会運動の状況』を提出する(略)。
 この『社会運動の状況』は、じつは敗戦直後にすっかり処分されてしまったと思われてきたものである。ところが、たまたまアメリカに戦後に一部いっていることがわかり、マイクロフィルムに収めて日本にもちかえられたものから、とくに文学と関係のある「共産主義運動」「プロレタリア文化運動」の部分を、小田切進の口添えでわたしども近代文学懇談会の数人あまりが、その紙焼きを手に入れたのである。


 要するに、この論考は、内務省警保局編『社会運動の状況』から短歌に関する記事を抜き出して考察したものである。抜き出しだけでも手間のかかる作業で、これが貴重な仕事であることは間違いない。

 ただ、私が想像していた内容とは様々な点で食い違っている。

 第一に、「体制派から見た昭和歌壇」で紹介されているのは内務省警保局の資料であって、情報局の資料ではない。第二に、「体制派から見た昭和歌壇」では、歌人のブラックリストに類するものは一切紹介されていない。第三に、そもそも篠が「体制派から見た昭和歌壇」をまとめる際に閲覧したのは「共産主義運動」「プロレタリア文化運動」に関する資料であり、それらはモダニズム系の文学活動に言及しそうなものではない。

 そして第四に、「体制派から見た昭和歌壇」が紹介する『社会運動の状況』に前川佐美雄の名が登場するのは、1929年の項の一箇所だけである。同年設立のプロレタリア歌人同盟の役員として掲載されているのである。これは、例のリストに佐美雄の名があるといった話とは随分と違う。ちなみに、佐美雄は1929年のうちにプロレタリアのグループから離反した。その結果として、1930年以降の『社会運動の状況』に佐美雄の名は一度も出てこないわけである。

 「体制派から見た昭和歌壇」に関する私の当初の想像がそれほど見当外れだったとも思えない。しかし、実際の内容は大きく違った。これは一体、どうしたことか。


(続く)

(2017.8.12 記)

 日米開戦前夜、歌人の「ブラックリスト」なるものが存在した、という話がある。軍が「プロレタリア」短歌のメンバーや「芸術至上主義的な思想」を持つ歌人の動向を注視し、「黒点印」付きの歌人リストを作成していた、というのである。

 斎藤瀏の戦後の随想(「回想:歌人協会解散の経緯」、『短歌研究』1950年5月)によれば、1940(昭和15)年以前に知人の憲兵司令官からそのような軍の情勢を知らされ、リストについては「或る所で親しく視た」、という。また、作家の中河与一が同じ軍の情報を得ていた、ともいう。

 1940年11月6日に開かれた大日本歌人協会の臨時総会で、瀏と太田水穂がこのリストの存在をほのめかし、歌壇の組織を時局に合わせて刷新するということを理由に、協会の解散を主張した。そして、この主張が通って、協会は解散した。瀏には、歌壇が自主的に軍に恭順の姿勢を見せることにより歌人の検束を回避するねらいがあったともいう。しかし、他の多くの歌人からすれば、この一件は瀏らが軍と通じて歌壇の組織と思想を思うがままに統制しようとし、歌壇がそれに屈したものだった。後年の短歌史家もまた、これを短歌史上の汚点と評した。


     §


 さて、問題のリストのことである。戦後の研究者はリストの原本も写しも実見できておらず、その存在の真偽を確認できていない、と私は思っていた。たとえば、三枝昂之『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店、2005年)は、1941年春に「文士のブラックリスト」の写しを見た、という中島健蔵の言葉(『昭和時代』岩波書店、1957年)も引きつつ、

 ……どうやらその種の名簿は存在していた。(104頁)


としている。つまり、三枝自身はリストを見ておらず、他の研究者の報告にも接していないのである。

 だから、『現代短歌』7月号の篠弘の発言(「平和と戦争のはざまで歌う:戦時下の歌人の良心とは何か」、当ブログの先月の記事参照)に、私は驚いた。

 ……ブラックリストが本当にあったかどうかという点ですが、実際あったらしいんだね。それも意外な人たちがマークされていた。
 これは確信をもって言うんだけど、渡辺順三や坪野哲久ら「短歌評論」のメンバーがすぐに検挙されたりするから、そういう人たちがブラックリストに載っているのかと思うと、それは決まりきったこととしてあえてブラックリストに載せてはいなかったわけね。
 載っていたのは誰かというと、北原白秋とか前川佐美雄とか。つまりモダニズム。


 「あったらしい」とか「確信をもって言うんだけど」とかいった言い方から考えると、篠もリストの原本に近いものを見たわけではないようだ。しかし、リストに渡辺順三・坪野哲久といったプロレタリア系が載らず、北原白秋・前川佐美雄などのモダニズム系が載っている、というのは瀏の証言内容とも幾分異なる具体的な情報であり、何らかの根拠に基づく発言だと思わせる。


(続く)

(2017.8.11 記)

 先月、四回にわたって山田航の時評の感想を書いたのをきっかけに、山田の著作にあらためて関心を持ち、最近の文章をいくつか読んでみた。

 その範囲で言えば、山田の文筆家としての特徴は(1)穂村弘を信奉し、(2)現代短歌は口語であるべきだとの信念を持ち、(3)学究肌でありながら、(4)歌壇や学界の外部への発信に意欲的、といったところだと思う。

 「俵万智が切り拓いたもの」(『文芸別冊』総特集俵万智、2017年6月)は、その四つが揃っている。例えば、次の箇所は(2)(3)。

 短歌に縁のなかった大半の人々にとって俵万智の短歌は旧態依然の世界に突如出現した突然変異のように見えたかもしれないが、実は明治大正昭和と長きにわたって沢山の歌人たちがこつこつとトライ・アンド・エラーを繰り返してきた末に、ようやく達成されたものであった。そして俵万智が二八〇万部もの部数を出して拡散させた口語短歌の技術は、まるで最初からあったもののように当たり前に受け入れられるようになった。


 口語だけで歌を作る歌人なら、今はもうたくさんいる。しかし、「口語短歌の技術」を論じる人は少ない。明治までさかのぼってそのルーツを探る人はもっと少ない。それをしている点で、山田の仕事は貴重だ。

 歌人以外には意外と知られていないのだが、俵万智と穂村弘はともに一九六二年生まれの同い年である。


 こちらは(1)。俵と穂村が同年生まれであることが「歌人以外には意外と知られていない」というが、それは当たり前だろう。穂村の方はそもそも、コアな本好き以外にその名を知られていない。俵の場合は違う。そこらのオッチャンでも、俵万智の名前くらいは覚えている。二人を同列に考えること自体、ちょっと無理だと私は思った。

 兄の戦死の歌を作るも、実際は兄がいなかったために批判されたというびっくりするようなエピソードがある。


 平井弘に付けた註の一文。「びっくりするような」に私は(4)を感じた。学者が使わないような主観的な表現を、山田はむしろ好んで使う。

 山田としては、「短歌の我=生身の作者」という約束事が過去の遺物であることをおもしろく印象付けるために、ことさらに驚いてみせたのだろう。それにしても、「びっくりするような」は筆が滑り過ぎたのではないか。そのエピソードに含まれているのは、単に私性をめぐる問題だけではない。

 今日の目から見ても、平井の歌が批判された状況は容易に想像できる。兄弟の戦死を実際に経験した人が日本中に大勢いた時代である。知りもしないのに知ったふりをして……と、当時感じた人がいたとしても、それほど「びっくりするような」ことではないという気がする。その人に賛成する、しない、はまた別の話だろう。


     §


 山田航が編纂する明治・大正・昭和の口語短歌のアンソロジーを、私は読みたい。今はまだ存在しないが、そのうちきっと出版されることと思う。


(2017.8.5 記)

 『歌人クラブ』について、私は多くを知らない。短歌史関係の本に情報が載っていたという記憶もない。稀覯の資料といってよいものだろう。

 私はその21号(1953年1月25日付)だけ、見たことがある。タブロイド版の月刊紙で、紙名の下に「総合短歌紙」と銘打ってある。今の『現代短歌新聞』や『うた新聞』のようなものだろう。発行元は「歌人クラブ社」、編集兼印刷発行人は福田栄一である。

 2面に「歌壇でまでまさろん」という無署名の記事がある。当代の著名歌人について、三、四行の会話形式で作り話をする。漫才のように可笑しくて、しかもその歌人の本質らしきものを穿っている——と読者に思わせることができれば成功。マジメ一方の現代歌壇では、まずあり得ない内容である。

 ただ、これを楽しむには、歌人に関する知識が要る。当時の歌壇関係者には常識だったことをこちらは知らないので、どこでどう笑えばよいのか悩むことになる。

 前川佐美雄

「なかなか東京へ出て来ないね」
「あの男はお山の大将だからね」


 「前川佐美雄」がお題。これは分かりやすい。奈良住まいの話にかこつけ、佐美雄が早くから自分中心の歌誌を持っていたことについて悪口を言っている。

 近藤芳美

「更年期だつてナ」
「誰が?」
「近藤がよ。自分で宣伝してゐるのだから間違ひはなかろう」
「一種のエイタンだね」

  (いちいち注記をしないが、仮名遣いは原本通り。以下同)


 とくにおもしろいとも感じないが、意味はまあ分かる。

 葛原妙子

「みんな忘れるさうだね、区別を…」
「何の区別さ?」
「例へば、大内豊子が山口茂吉の妻君で、四賀光子が…、と、いうやうなことを、ね」
「何の話かね、何かの話だろ」


 これが分からない。何の話かね。


(2017.8.1 記)

 『歌壇』8月号掲載の川本千栄「聖戦という幻想」が佐藤完一という人の歌を取り上げている。佐藤は真珠湾攻撃に参加した航空母艦の乗組員で、『アララギ』1942年2月号に載った歌はその体験に基づくものだという。その存在は従来からよく知られていたのかもしれないが、私は川本の引用で初めて知った。歴史の実体験者による作品というわけで、ちょっと驚いた。

 当時の『アララギ』はまさに社会の縮図で、日本のあらゆる地域・職業・立場の人間が集まっていた。こんな文芸誌はほかに『ホトトギス』が思い浮かぶだけで、小説や詩の専門誌には全然見当たらない。商業誌にももちろん無い。


     §


 佐藤完一について、ウェブ上で調べてみた。今年初めに亡くなった児童小説の作家佐藤さとるの実父だという。横浜の書店有隣堂のサイトに、佐藤さとるを招いた2005年の座談会の記録がある。父について語ったくだりが印象深い。

……昭和17年の5月末、僕は旧制中学3年でした。
戸塚駅は、当時は島式ホームが1本あって、両側に横須賀線が着くだけでした。 どういうわけか、その日は父親と一緒に出かけたんです。 私は横浜に行きますから上り、父は横須賀軍港に行くので下りを待っていた。 上りが先に来たので乗って敬礼した。 昔の中学生は帽子をかぶっているときは、友だち同士でも全部敬礼ですから、何ということはないんです。
そうしたらガラスの向こうで、いつもはうなずくだけの父が、さっと靴を引きつけ、白い手袋で、海軍式の敬礼を返してくれた。 でも、あれ、珍しいな、と思っただけでした。


 「昭和17年の5月末」というから、『アララギ』に真珠湾攻撃の作品が載ってからまだ四ヶ月も経っていない。

 旧制中学の生徒の敬礼は非民主的な規則によって強制されたもののように語られることもあるが、佐藤さとるの回想はまことに淡々としている。当時の中学生からしたら、「何ということはない」当たり前の習慣だったのだろう。

 そして、父の答礼の意味を、子はのちに知ることになる。


     §


 川本が引いている佐藤完一の一首、

戦闘部署に非直の兵を寝かしめて乏しくなりし水飲み下す


は、どんなふうに解釈すればよいのだろうか。川本はとくに何の説明も加えていないが、私などは知識がないので、この一首の意味がよく分からない。

 出撃から時間が経って、水筒の水も減った。緊急事態に即応できるように、非直の者まで戦闘部署の現場に寝かせ、上官である自分は残り少ない水を飲んだ——といった具合に、一応解釈しておく。

 なお、「寝かしめ」は文法が間違っているようだが、そのまま土屋文明の選を通過したのが不思議だ。
 

(2017.7.23 記)

 そして、4について。

 文体は表象なのだから、いくらでも変わってゆくものだ。(略)文体に囚われて自縄自縛になるのは愚かしい。


という。山田は、今日の「時事詠や社会詠」については、今日の一般的な文体を欲しているのである。必ずしも口語体という特定の文体、新かなという特定の表記法に執着しているわけではない。

 ただ、そうは言っても、今日の一般的な文体とは、実際に口語新かなである。

 表現したい内容に合わせて文体を自在に使いこなせる歌人こそ、プロフェッショナルといえる……


というが、この「自在に」とは、個々の歌人の自由な選択によって、ということではない。山田の考えでは、ある内容にふさわしい文体はあらかじめ決まっている。内容が変われば、それにふさわしい文体も変わる。歌人は一首ごとに選び取るべき文体を確実に選び取っていかなければならない。その選択の確実さが「自在」ということなのである。

 しかし、どうだろう。逆に個々の歌人の自由な選択を貴ぶ立場もあるのではないか。

 たとえば今、日本列島が未曾有の災禍に襲われたとして、歌人たちが皆(日ごろは文語旧かな派であった人までが)右にならえで口語新かなの作品を発表したとしたら、私はむしろ気持ちが悪い。

 その右にならえの理由として被災者の「気持ち」を挙げるに至っては、文芸の死であると思う。この言い方を大仰とは思わない。


(2017.7.20 記)

 続いて、について——。山田は、

 もはや文語旧かなは、いかんともしがたい忘却とともに思想としての体系を保つことが出来なくなってしまった。


と言い、

 だから、現実社会を描く方法論としてもはや文語も旧かなも適していない。


と主張する。私にはまず、ある文法・語彙・表記法が「思想としての体系」を持つ、という考え方がよく分からない。したがって、なぜ「思想としての体系」を持たない文法・語彙・表記法では「現実社会を描く」ことができないのか、も分からない。

 ところで、上の二つの引用文には、

 文語という文体、そして旧かなという表記には、かつてはそれを用いる歌人の思想性そのものだった。国家が規定した文体・表記をあえて否定するのだから、そうなるのも当然である。


という前置きが付いている。現代仮名遣いは1946年に内閣によって公布され、初めて国民の間に定着した。まさしく「国家が規定した」表記法と言える。他方、口語体を「国家が規定した」ものと見なすことには違和感がある。たしかに同じ1946年から全ての公用文が口語体で書かれるようになったのだが、民間ではもっと早くからごく普通に口語文が使用されていた。


     §


 前の前の記事に、

 たぶん短歌を読まない人間にとって文語や旧かなは、今や「昔の人の文体」というよりも「中二病の文体」というイメージの方が強いはずだ。


という一文を引いた。本文を読み進めると、後になって、

 特に現実問題として被害者がいるようなセンシティブな事件に取材する場合、自分が現実として巻き込まれた状況が「中二病の文体」で表記される気持ちをしっかり想像した方がいい。


と書いてある。目黒哲朗の歌に対する批判である。

 先の文では、「文語や旧かな」は「中二病の文体」である、などと断定していなかった。「たぶん……というイメージの方が強いはずだ」と、いかにも自信無さそうに推測していただけだ。それを後の文では、あたかも証明済みの定理のように取り扱っている。

 山田は、怪しい論法で自作を批判される歌人の気持ちを「しっかり想像した方がいい」。


(2017.7.19 記)
 前の記事ですでににも言及しているが、その続きを少し。

 山田は現代における文語旧かなを「コスチューム」、すなわち言葉をキッチュに装うものと捉え、それを使用する短歌を「言葉のコスプレ」と呼びつつ、次のように記す。

 文語旧かなで書かれた時事詠や社会詠には(略)違和感をずっと覚え続けてきた。作者の「本気」が薄まっているように思えてならなかった。文語あるいは旧かなの文体を採用していながら今この時代のリアルを表現することは、もはや不可能になってしまったのではないか。


 「今この時代のリアルを表現することは、もはや不可能」という主張は、明治以来の「短歌滅亡論」や戦後の桑原武夫「第二芸術」を思い出させる。だから、次のような反応が出るのは当然の展開だ。

 山田は文語旧かなは「言葉のコスプレ」だと言うが、それを言うなら、そもそも五七五七七という定型に言葉を乗せている時点で、間違いなくコスプレだろう。同様に、俳句も詩もコスプレだろう。普段着の言葉ではないことはたしかなのだから。それを、いきなり短歌というジャンル内の文語旧かなと口語新かなの間で「コスプレ」か否かの線引きをしようというのは、いささか了見が狭いのではないか。(「五七五七七というコスプレ」)


 ウェブ上で見付けた文章だが、誰が筆者か、私は知らない。ともかく、短歌定型自体が古びた修辞法である以上、この反論に山田が再反論することは難しいだろう。

 そもそも、批評家が古い技術をけなすのはヤボだと思う。もしもモノクロ写真をけなしてカラー写真を褒める批評家がいたとしたら、滑稽だ。劣勢の方をわざわざ批判しても仕方がない。

 山田は短歌における文語旧かな使用から口語新かな使用への移行は時代の必然で、「もはや抗えない」と主張する。本当にそうであれば、時評に取り上げる意味はない。しかし、山田は意味があると考えた。

 だから、「もはや抗えない」というのは錯覚、もしくは意図的な嘘であって、山田の主張はいまだ強い抵抗にさらされているのだ。


(2017.7.18 記)


 「五七五七七というコスプレ」の筆者は『短歌人』の斎藤寛さんである旨、村田馨さんからお教えいただきました。また、斎藤さんご本人からも連絡をいただきました(ともに下のコメント欄)。村田さん、斎藤さん、ありがとうございました。


(2017.7.23 追記)

 『短歌』6月号掲載の山田航の時評「もはや抗えないもの」は論旨が行きつ戻りつし、読んでいて頭がこんがらがった。もう少し平易に書けばよいのにと、つい思ってしまう。

 せっかくがんばって読んだので、前半の感想を残しておこう。


     §


 私の理解では、大体こんな内容だ。

1 目黒哲朗「生きる力」への違和感
 文語旧かなで「現実の体験を描こうとしていること」が現実の事件とその当事者の存在から「目をそらしているようで無責任に感じられてしまった」。

2 文語旧かなは「言葉のコスプレ」
 文語旧かなは「非リアリズムの歌であれば」許容されるが、その文体で「今この時代のリアルを表現することは、もはや不可能になってしまった」。

3 文語旧かなの思想性の消滅
 文語旧かなはかつては「国家が規定した文体・表記」である口語新かなを「あえて否定する」思想的意義を持っていたが、今では口語新かなも「成熟」し、文語旧かなは「思想としての体系を保つことが出来なくなってしまった」。

4 文体の硬直化への反対
 「表現したい内容に合わせて文体を自在に使いこなせる歌人こそ、プロフェッショナル」。


     §


 まずについて。目黒哲朗「生きる力」(『歌壇』2月号)は実際の傷害事件を題材に、容疑者の知人という立場から詠んだ一連の歌で、山田は、

「悩むことが限界になりやけになつて人を刺した」と供述せりき
「物静かな普通の女性。会へばいつも挨拶をする人だつた。」われは


といった歌を引き、

 気になったことがある。それは文語旧かな表記である。(略)この文体で現実の体験を描こうとしていることが、(略)たとえるならば、アナウンサーがアニメキャラのコスプレをしてニュースを読んでいるようなものに見えた。扱っているニュースの内容によってはそれが許容されることもあるだろうが、何の説明もなくそれだとやはり説得力を感じず、「ふざけているのか」と思ってしまうだろう。


と言う。ここでは「いつも」と「そのとき」の関係を考慮する必要があると私は思う。「アナウンサーがアニメキャラのコスプレをして」ニュースを読むことと歌人が文語旧かなで「現実の体験を描こう」とすることでは、その関係が違う。

 アナウンサーは、いつもそれなりの服装をしている。そのアナウンサーがいきなりセーラー服を着て登場したら、それは視聴者は「ふざけているのか」と思うだろう。しかし、女子高生がセーラー服でテレビ画面に登場し、深刻な事件についてコメントをしても、もちろんだれも「ふざけているのか」とは思わない。

 歌人の「文語旧かな」もこの女子高生のセーラー服のようなものだ。日本で義務教育を受けた人なら、短歌は今でもしばしば昔の言葉遣いで作られる、くらいの知識は一応持っている。だから、歌人が実際に起こった傷害事件を題材にして、「文語旧かな」で短歌を作ったとしても、読者が「ふざけているのか」と反発する理由はない、と私には思える。山田は、

 たぶん短歌を読まない人間にとって文語や旧かなは、今や「昔の人の文体」というよりも「中二病の文体」というイメージの方が強いはずだ。


とも言うが、「ある言葉を、誰が、どんな場面で使ったか」という視点をもっと意識した方がよいのではないか。

 誰かが自身の心象風景を延々とツイッター上に書き付けたとする。片言の「文語旧かな」で、だ。それを読んだ高校生が「中二病」などと感じることはありそうだ。しかしまた、同じ高校生が授業で習った「文語旧かな」の短歌に対しては「中二病」と感じなかったとしても、特に不思議はない。前者と後者とでは「文語旧かなを、誰が、どんな場面で使ったか」が違うからだ。


(続く)


(2017.7.17 記)

吉川 前川佐美雄の歌は難解で、わかりにくいところがありますからね。比喩的に何か別のことを言っているんじゃないか、と(当局に——引用者註)疑われたんでしょうか。
 おそらくそう読んだでしょうね。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」なんてね。
吉川 (当局には——引用者註)多義的な表現に対する警戒があったんですね。日米開戦のころになると、すごく単純な表現しか許されなくなってしまう。権力は多義性を嫌うんでしょうね。
 「日本歌人」は昭和十七年に廃刊になっちゃうよね。前川さんが察知したのか、あるいは圧力があったのか。


 このお二人にこんなふうに言われるといかにもそれらしく聞こえるが、実は何の裏付けもない話では?

 吉川の一つ目の発言「比喩的に何か別のことを言っているんじゃないか、と疑われたんでしょうか」というのは、もちろん単純な疑問に過ぎない。ところが、これに誘導されるように、篠は「おそらくそう読んだでしょうね」と答えてしまう。そして、これを受けた吉川の二つ目の発言「多義的な表現に対する警戒があったんですね」云々が断定的な言い回しである。いつの間にか、そうであったことになっている。

 口頭のやりとりが精密さを欠くのは、仕方がない。しかし、誌上掲載の際に手直しをすることはできないものだろうか。

 なお、この会話の流れから見ると、篠の二つ目の発言「前川さんが察知したのか、あるいは圧力があったのか」は、『日本歌人』廃刊の原因と佐美雄自身の歌とを関連付けようとしているようだ。しかし、これも不用意な推測だろう。

 石原深予によれば、『日本歌人』が1941年8月号限りで廃刊になった原因は、同号掲載の島戸徳雄の次の二首が削除処分になったことだという(『前川佐美雄編輯『日本歌人』目次集(戦前期分)』2010年)。

九重の内におはせど天皇の御心如何に常ならぬ世に
交尾待つ間も堪へぬがに種馬の足がき勇みぬ松の下かげ


 要するに「天皇」と種馬の「交尾」を並べたのが不敬だというのである。佐美雄本人の文章だったか、他の研究者の論考だったか、この間の事情についてより詳しく説明したものを読んだことがある(何だったか忘れてしまった……)。


(2017.7.14 記)


 文章を少し書き直しました。全体の論旨に変更はありません。


(2017.7.15 追記)


 この対談中で気になったこと、一つ。二・二六事件のときには言論統制は強くなかったという意味のことを篠弘が言い、吉川宏志もそれにとくに異論は述べていない。日中戦争の開戦以後に比べれば相対的に——ということかもしれないが、それにしても本当にそうだったのだろうか。

 篠はまず『アララギ』1936年4月号に載っている土屋文明の文章を引く。

 我々は国民の一人として、又社会の一員として、この度の如き重大事に関心を持たないわけにはいかないし、又持つべきものであると思ふが、本誌は時事を論ずることの出来ない出版法に依る雑誌であるから、此の度の事件を直接扱つて、時事の論評に亙るやうな作品は遺憾ながら掲載することが出来ない。(「編輯所便」)


 これに対する二人の発言は以下の通り。

吉川 時局を論ずることができないくらい、出版法が強かったんですかね、当時は。
 いや、昭和初期に出版法はできてますが、この時期はまだそんなに強くなかったと思うんですね。十三年に日中戦争が始まると、いっそう出版に対する言論弾圧とか事前検閲とかが出てきますが、二・二六は前の年でしょう。


 出版法制定は1893(明治26)年なので、「昭和初期に出版法はできてますが」というのは正確でない。それはともかく、文明の真意は言論統制への対処の仕方といったところにはない、と篠は考えているのである。では、その真意はどこにあるというのか。篠はこんなふうに説明する。

 二・二六事件に対してアララギの会員が歌を出しますよね。思いつきだけのろくでもない歌、新聞やラジオからの限られた範囲の情報で作るわけでしょう、どうせ時代の本質を突くわけじゃなし、愚にもつかない歌がドッと出てくるんじゃないかと。(略)会員には安直に作るなと戒めた。


 なるほど、そういうことなら、いかにも文明らしい指導ではある。しかし、そういうことだったのだろうか。

 二・二六事件関連の言説に対する統制が「強くなかった」というのは、事実認識として間違っていると私は思う。田中綾『権力と抒情詩』(2001年)はすでに次のように指摘していた。

 「二・二六事件」に関連して、出版法雑誌である歌誌にも〈発禁〉処分が及んでいた。杉浦翠子主宰の「短歌至上主義」六月号や、前川佐美雄主宰の「日本歌人」九月号、また、この年の年鑑『短歌年鑑 第一輯』(柳田新太郎編)では、事件に関するかなりの数の作品が「削除」されたと後記で伝えている。
 事件後の七月、特高警察の拡張によって各警察署に特高係が置かれるようになり、そして「内閣情報委員会」も設置されるなど、言論統制はさらに強化されることになった。従来の言論統制史研究では、日本の言論・出版統制の画期を「支那事変開始時点」に置いているのだが、私は、「二・二六事件」直後こそ言論統制史上重要な転換期だと考えている。(32〜33頁)


 田中は『日本歌人』を出版法による雑誌に含めているが、後述の佐美雄の書簡によれば同誌は新聞紙法による雑誌、つまり保証金をその筋に納める代わりに時事に関する記事等を掲載できる雑誌、であったようだ。短歌雑誌はどれも出版法に拠っているというのが田中の見立てのようだが、必ずしもそうではないらしいことに注意しておこう。

 ともかく、複数の短歌雑誌が発売禁止処分になったという事実を前にして、言論統制が「強くなかった」とは言えないだろう。『日本歌人』1936年9月号の発禁処分については、荒波力『よみがえる"万葉歌人"明石海人』(新潮社、2000年)が詳しく言及している。それによれば、処分の理由になったのは主に明石海人の次の二首であったという。

  二・二六事件
叛乱罪死刑宣告十五名日出づる国の今朝のニュースだ
死をもつて行ふものを易々と功利の輩があげつらひする


 二首ともに犯罪を「曲庇」し犯罪人を「賞恤」していると判断されたのだろう。新聞紙法第二十一条違反である。荒波の新著『幾夜の底より:評伝・明石海人』(白水社、2016年)は、当時佐美雄から海人に宛てた書簡(1936年11月28日付)の全文を紹介している。これを見ると、処分の具体的内容とそこに至る過程がよく分かる。一部を引こう。

 発禁の件に就いてですが、これは申上げぬつもりでゐましたが、問題が却々解決せず、たうたう罰金刑といふ事に決定しさうです。平田伯をはじめ、知りあひの弁護士や、又、もとの奈良県知事などにも運動もしてもらひましたが、内務省からの通達なので如何ともならず、結局、警察に三回、前の特高課に二度、検事局に二度、呼ばれて、正式の命令は来月上旬下る事になりました。罰金の方はずゐぶん同情して低くしてくれましたが、結局、前科一犯といふ事になつて、どうもこれには困つてゐます。(略)とにかく新聞紙法によつたものであり、殊に最近は変に神経が過敏なので、こんな事になつたのです。(256頁)


 新聞紙法第二十一条に違反した場合、編輯人が禁固刑か罰金刑に処せられるが、『日本歌人』編輯兼発行人である佐美雄は罰金刑であった。当局に何度となく呼び出された上に前科一犯となるのであるから、編輯人の負担は重く、その後の雑誌編輯に重大な影響を及ぼした。その痕跡は『日本歌人』誌上に明確な形で残っている。佐美雄は9月号発禁以前には、

 二月二十六日の大事件(略)に関しては、今は批評も何も出来ない。それらを歌つた作品さへ余り露はなものは載せられないのを遺憾とする。(「四月号後記」、『日本歌人』1936年4月号)


と書いていた。すでに言論統制の効果がみとめられるが、「それらを歌つた作品さへ余り露はなものは載せられない」というところは、直接的表現でない歌ならば掲載可能と見ていた、とも読める。ところが、発禁処分の直後には、

 今後は政治や、或ひは例へば二・二六事件に関したやうな種類のものは絶対に投稿を遠慮して貰ひたい。歌として、どんなに価値があらうとも一切抹殺する方針である。人情にほだされるとつひ採りたくないものも採るやうになるがあれは私としてよくない事であつたと思ふ。(「十月号後記」、『日本歌人』1936年10月号)


と書いている。「絶対に投稿を遠慮して貰ひたい」ということに変化したわけである。

 さて、先の文明の引用文に戻ろう。文明の真意がどこにあったかということだが、「此の度の事件を直接扱つて、時事の論評に亙るやうな作品は遺憾ながら掲載することが出来ない」という言葉はそのまま素直に受け取ってよいと私は思う。『短歌至上主義』『日本歌人』の処分前に書いた文章ではあるが、歌壇随一の有名雑誌の編輯兼発行者たる文明が当局の方針に無知であったはずがない。会員向けの方便と解する篠説は修正の余地がある。

 なお、篠が実見した情報局作成のブラックリストに佐美雄の名が載っていた、という話を前の記事で取り上げた。篠は「びっくりした」とのことだが、『日本歌人』が発禁処分を受けていたことを考えれば、その編輯人のリスト入りはさほど不思議でもないだろう。


(2017.7.10 記)


 私が知らなかったのは、篠弘がかつて角川の『短歌』に「体制派からみた昭和歌壇」と題する論考を連載した、ということ。今回の対話中ではその時期に触れていないが、1960年代初めのことのようだ。これはぜひ読みたい。論考の内容は、

 (略)アメリカに渡った情報局のデータがあって、そのコピーを小田切進さんを代表とする近代文学研究者五人で金を出し合って手に入れたんです。それを見ると前川佐美雄が入っているんで、びっくりしたことがある。
 その後調べてみたら、白秋も狙われていたことをひそかに知って、ブラックリストが思わぬものだったのを痛感しました。


といったものだったらしい。

 1940(昭和15)年、太田水穂・吉植庄亮・斎藤瀏による文書「大日本歌人協会の解散を勧告す」をきっかけとし、職能団体である大日本歌人協会が解散に至った。「ブラックリスト」というのは、その勧告書の背後に存在したとされるものだ。当時の軍が作成し、元軍人の瀏が内容を知っていたという。戦後、瀏本人が次のように言及している。

 ここで軍の睨みが歌人に向けられ歌人協会に向けられた。ここには嘗ての「プロレタリヤ」短歌のメンバーが中堅として活躍して居る。そして芸術至上主義的な思想も可なり持たれて居る。国家総動員を必要とする情勢に歩調を乱すのみでなく、寧ろ或は離反し、脱落するものが此の方面にあつて、それが短歌といふ簡易手軽な武器を持つて居る。「要視察」は更に厳密になり、黒点は歌人協会員に更に増加されて印せらるるに至つた。(略)これ等の人々の中には、最早や一歩で職場を失ひ、又は何かの理由で拘束される所まで進展して居たものもある。(「回想:歌人協会解散の経緯」、『短歌研究』1950年5月)


 協会を解散に追い込んだのは、歌人たちが弾圧されないように当局に対し芝居を打ったもので、善意の行動だ、というのが瀏の弁解の要点である。瀏の証言中の「軍」と篠の言う「情報局」が食い違っているようだが、軍の集めた情報が情報局に渡ったということか。

 さて、大日本歌人協会の解散が決まった1940年11月の同会臨時総会で、瀏はその「最早や一歩で職場を失ひ」そうな歌人をめぐって、次のように発言していた。

 それを多数決なり少数決でやるといふならば、それを止して、今日暴露をやります。その暴露によつて職業を失つて名誉を傷つけられるものが二名出る。それでもいいですか。責任を持ちますか。(『短歌新聞』1940年11月15日付、「協会臨時総会記録」)


 篠はリストに載っていた歌人として北原白秋と前川佐美雄を挙げている。前の引用文で瀏が「芸術至上主義的な思想」に触れているから、この二名がリストに載っていた可能性は十分に考えられる。しかし、「職業を失つて名誉を傷つけられるものが二名」の、その二名が白秋・佐美雄だという意味なら、それは違うだろう。白秋はともかく、佐美雄はあり得ない。

 瀏の娘、斎藤史は佐美雄に兄事していた。瀏本人もまた、『心の花』の先輩格として佐美雄と親しく交流し、佐美雄の歌風の理解者でもあった。瀏が佐美雄のことを念頭に置いて「今日暴露をやります」などと言い放つことは、たとえ非常時の「芝居」でも、まず考えられない。

 なお、戦後の瀏の弁解には冷淡な意見がほとんどである。たとえば、小池光は、

 大日本歌人協会解散は時局便乗というより瀏の信念に基づく断固たる行動である。(略)仮に、いわれるように「ブラックリスト」が作られておりそれを瞥見した瀏に歌人を保護する気持ちがあったとしても、いわばそれは一石二鳥ということであり、しかも二羽の鳥はそこでは同じ重さではなかっただろう。(「斎藤瀏、歌人将軍の昭和」、『昭和短歌の再検討』74〜75頁)


と述べている。しかし、もし「ブラックリスト」に佐美雄の名があったということが事実であれば、瀏の証言にももう少し耳を傾ける価値があるように思う。


(2017.7.4 記)

 『現代短歌』2017年7月号のことを松村さんから教えられたのでいくつか書店をまわったが、どこにも置いていない。そこで版元から送ってもらったのだが、びっくりした。表紙のデザインが古色蒼然(?)たるものから洒落た感じに変わっていて、手触りまで違う。まるで別の雑誌のようだ。

 知り合いに尋ねたら、ちょっと前からそうなったそうで、今ごろ驚くのは遅い由。「総合誌とか全然見てないでしょ」と言われた。私は近代短歌の読者ですから……。


     §


 目当ては篠弘・吉川宏志「平和と戦争のはざまで歌う:戦時下の歌人の良心とは何か」(連続対話VOL.13)。新情報や私の知らなかった情報があった。

 新情報は例の「桐谷侃三」を中河与一の変名だと篠が書き、のちに取り消したことについて、篠が中河宅に出向いて謝罪していたということ。

 (略)ところがね、調べれば調べるほど、中河与一でないことがわかってきて、とうとう成城のお宅に煙草の「ケント」を一カートン持って謝罪に行ったことがあるんです。もののみごとに氷解しましたがね、(略)


 「もののみごとに氷解」の意味がよく分からないが、篠の心中の疑念が晴れたということか、あるいは中河の怒りが収まったということか。

 いずれにしても、誌上での訂正と謝罪だけで済まなかったのは、それが人の名誉に直結する話であったからだ。中河宅に「ケント」を一カートン持って行った篠は、それをよく自覚していた。

 「桐谷侃三は誰それだ」と名指しすれば、その誰それの名誉が傷つく。確実な証拠もないのにしてよいことではない。そのことをあらためて確認しておこう。

 歌人の良心を問うなら……、研究する側の良心も問うべきだろう。


(続く)


(2017.7.3 記)

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Author:和爾猫
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