最新の頁   »  短歌一般
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 朝日新聞一面の連載「折々のことば」が毎朝の楽しみなのだが、今月5日の内容には「はて……」となった。佐藤真由美『きっと恋のせい』(2003年)の三首、

許されて何かをするのは好きじゃない すぐに「いいよ」と君は言うけど

あの人が困ると満足 怒ったらもっと満足 いつからだろう

なぐさめてほしかったんだ そうなんだ 呼べば出てくるだけの女に


を引き、鷲田さんは

 甘えたいが軽く見られたくない。もたれたいが自分の足を確と感じてもいたい。恋の距離感ってややこしい。


と書く。「甘えたい」「もたれたい」という「私」の感情が一体どこから読み取れるのか、が分からない。

 ひょっとして、鷲田さんは三首目の「なぐさめてほしかったんだ そうなんだ」を「私」の「甘えたい」気持ちの表明と取ったのだろうか。つまり、「私は君になぐさめてほしかった」という解釈だ。もっとも、その場合、下句「呼べば出てくるだけの女に」は意味不明になってしまう。ほかに、「甘えたい」が読み取れる箇所があるのだろうか。

 ちなみに、私は三首目を「呼べば出てくるような従順な女に君はなぐさめてほしかったんだね、そうなんだね、ふーん、私はあいにくそんな女じゃないんだけど」と読んだ。これだと「甘えたい」女ということにならない。

 ついでにいうと、私は歌人佐藤真由美の存在を今の今まで知りませんでした。ゼロ年代以降の短歌の知識が自分にないことをあらためて確認……。はずかしい。


(2020.3.7 記)

 考えられる可能性はただ一つ。私たちが「ても」にいまだ辞書に採用されない意味を付与したということだ。その意味とは、順接の仮定条件の提示だ。例えば、「煮たり焼いたりしたら食える」という、何の芸もない成語もどき。「煮たり焼いたり」の仮定条件を受けて、あまりに当然の「食える」が来る。これが順接で、「たら」は順接の仮定条件を提示する役割を担っている。注意すべきは、このとき既定の事柄と仮定条件に対して予想される結果とが逆になることだ。元々は「食えない」のに対して、「煮たり焼いたりしたら」の予想は「食える」のだ。

 この「たら」と同じ意味を「ても」にも与えるというのだから、にわかには信じられない。しかし、そうとでも考えないと、私たちの言語感覚を説明することはできないだろう。「花水木の道があれより」長かったり短かったりしたら——順接で「愛を告げられなかった」。このとき、既定の事実は? そう、仮定条件に対して予想される結果とは逆の「愛を告げることができた」だ。花水木の道が愛を告白するのにちょうどよい長さだったから、「私」は肩を並べて歩く人に愛を告白できたのであり、その道がもう少し長かったり、もう少し短かったりしたら別の結末になっただろう、というわけだ。

 そして、もう一つ注意すべきこと。今のように考える場合、「ても」の意味は逆接と順接の二つから選択できることになる。個々の読者は自分が日頃どちらの意味に慣れ親しんでいるか、そのときどちらの意味を期待して読んでいるか等々の個人的事情に依拠して選択権を行使することも可能になる。掲出歌の解釈をめぐって、「愛を告白できた」と主張する人がいたり「いや、できなかった」と主張する人がいたりする原因である。


     §


 奇妙なことに、「ても」を繰り返す場合に限って、その「ても」は新しい意味で取っても違和感がない。つまり、「ても」を一度だけ使用する文では、その「ても」は新しい意味には取れない。「花水木の道があれより長くても愛を告げられなかった」という例文ならば、道の長さがどうであれ私は結局愛を告白できなかった、との解釈に反対する人はいないだろう。「ても」を繰り返す場合、「も」が並列を意味するように感じられ、逆接の意味が後退するのかもしれない。

 そして、「ても」を繰り返すようには「たら」や「なら」を繰り返すことはできない。「あれより長かったら短かったら」とは、日本語の話者は言わないのだ。どうしても言いたければ、「あれより長かったら、もしくはあれより短かったら」などと言うことになるが、どうもくだくだしい。「ても」の繰り返しの方が簡潔で、短歌定型に載せやすいことは明白だ。

 なお、「ても」を繰り返すとき、それを新しい意味と従来の意味のどちらで使用しているかを判断する根拠は、文脈以外に何かあるか。少し考えてみたが、よく分からない。例えば、「泣いても笑っても最後の勝負だ」はどういう結果になろうが最終決戦というわけで、従来の意味。西濃運輸の荷札の画像を貼ったツイートを見たが、これもおもしろい。

 必ず12/18〜12/21までに配達してください。早くても遅くてもだめ!!


と書いてあるのだが、新しい意味の「ても」だ。二者の間に表現上の違いはあるだろうか。もし何かあるのだとすると、読者が逆接か順接かを選んで解釈する自由は全然ないか、あるいはかなり狭まることになる。


     §


 新説のように解すべき歌であるなら、「愛を告げられなかった」でなく「愛は告げられなかった」であってほしい、という意味のことを寺井龍哉がツイートしていた。私も同様に感じるが、それはなぜだろうか。説明しようとすると、これも難しい。なお、この一首の場合は、「私は」を省略していると考えれば、「は」の疑問を回避できる。この疑問だけで新解釈を否定することはできないはずだ。


     §


 掲出歌の「ても」を通説が新しい意味で取っており、新説が従来の意味で取っているのは不思議だ。素朴に考えるなら、若い人こそ新しい意味で言葉を取り扱いそうなものだ。ところが、掲出歌の解釈ではそれが逆になっているという。そうであるなら、ここに現代やら若い世代やらの特徴を見ようとすることも一概に否定すべきでないという気がする。


(2020.1.14 記)

 花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

   吉川宏志『青蟬』(1995年)



 土岐友浩のウェブ上のコラム「リアリティの重心」(1月1日付)が掲出歌の解釈の問題を紹介していて、おもしろく思った。一方、このコラムの内容がウェブ上で話題になっていることは、花笠海月がツイッターの関連ツイートをまとめているのを見て知った。そこに転載されている無数のツイートを私は一応読み通したが、こちらは一種の苦行だった。私の知りたいことの大方は誰も教えてくれないのだが、もしかしてこの後誰かが教えてくれるかも知れないと思うと、途中で読むのを止めるわけにもいかなかったからだ。


     §


 土岐によれば、この一首の内容は従来、花水木が立つ道で愛を告白したと解されてきた。ところが、「いまの若い人」は正反対の解釈、つまり愛を結局告白できなかった歌として受け取るのだという。土岐自身はやはり通説の通りに解していたようで、次のように述べている。

 告白の場面と読んで誰も疑わなかった吉川の歌に、そもそも「愛を告げていない」という新しい解釈が登場し、広まりつつあるのはなぜか。/それは「若者」の読解力の問題だろうか。/そうでなければ、何か大きな、とても大きな変化が、短歌に起きているのではないだろうか。


 実を言うと、私もまた、これまで通説のように読んでいた。『青蟬』は刊行直後に読んで大いに刺激を受けた本だが、以来二十五年、私は新解釈のような読み方が成立し得ることに初めて気付かされたのだ。非常におもしろいと思った。

 では、花笠が採集したツイートは、どのようなものだったか。多くの発言はその客観的根拠を示しておらず、そういう読み方をする人がいるというサンプルとして貴重ではあるものの、一首の解釈の当否を考える上で参考になるものではなかった。その中で、救済(さちこ)と中島裕介の発言が数少ない例外と思われた。

 前者のツイート、およびnote「花水木の歌の意味論」は論理学の知見を用いて解釈の揺れる原因を説明しようとするものだった。私は論理学の知識を持たないので、その論旨を正確に理解できているか、今一つ自信がない。ただ、あくまで一編の説明文として読むとき、「運動会は中止だった」が偽になる文例の説明を済ませる前に「愛を告げられなかった」が偽になる結論に移るのは相当強引なように感じられた。読者のほとんど全員が論理学の門外漢に決まっているのだから、説明の手順を省かないでほしいと思った。

 後者はただ一人、原歌の言葉の辞書的意味に言及しつつ、それを解釈の基礎とする手法を示唆したものだった。その手法自体はもちろん初歩的かつ一般的ではあるが、ここでは非常に有力であるように私には感じられた。ただし、

 文法的には「ても」が事実的逆説(告げた。「長かったら/短かったら」)と仮定的逆説(告げられなかった。「煮ても焼いても食えぬ」的な、「長かろうが短かろうが」)の両方に用いられる点が大きそう。


という発言のうち、「ても」の用法を「事実的逆説」と取って「愛を告げた」との解釈を肯定するところは、国語辞典の誤読だろう。中島がリンクを貼ったコトバンクの「ても」の項を全て読んでみたが、そのような解釈を許容する記述はどこにもない。したがって、この発言内容の全体について首肯することはできなかった。


     §


 辞書に載る語意の通りに読むとしたら、おそらく——驚くべきことに通説は誤りで、新説の方が正しい。接続助詞「ても」は、

 逆接の仮定条件を示す。(『日本国語大辞典』第二版)


とあらゆる国語辞典が説明する。例えば、「煮ても焼いても食えない」という成語。そのままでは食えないものを煮たり焼いたりしたら——普通は「食える」となるところを「食えない」につながる。逆接とはそういうことだ。そして、注意すべきは、このとき既定の事柄と仮定条件に対して予想される結果とが一致することだ。元来「食えない」のであり、「煮たり焼いたりしたら」の予想も同じく「食えない」のだ。

 「ても」がこのような言葉だとすると、掲出歌はどうか。「花水木の道があれより」長かったり短かったりしたら——「愛を告げることができた」となるべきところを、逆接で「愛を告げられなかった」。そして、このとき、既定の事実は? そう、仮定条件に対して予想される結果と同じ、「愛を告げられなかった」だ。「私」は肩を並べて歩く人に愛を告白できなかったのであり、その花水木の道がもう少し長かったらとか、もう少し短かったらとか想像してはみるが、結局のところ、その場合も同じ結末になったとしか思えない、というのだ。


     §


 ところで、日本語を母語として使用してきた私の言語感覚は、通説に抵抗を覚えない。それもまた確かなことだ。私だけではない。土岐が引用する東直子の文章も、土岐本人も、通説の側に立っているのだ。通説が辞書の記述に反するというのに、これは一体どうしたことか。


(つづく)


(2020.1.13 記)

 『現代短歌』10月号掲載の寺井龍哉「歌論夜話」第26回が示唆に富んでいて、とてもおもしろいと思った。

 話はまず、井上靖の自伝風小説『夏草冬濤』(1966年)の一場面を紹介するところから始まる。大正末頃、沼津の海岸で中学生たちが石川啄木の「東海の小島の磯」の歌を唄うのだ。

 ついで、寺井の話題は荷田在満『国歌八論』に跳ぶ。在満は「うたふ」ことと「詞花言葉を翫ぶ」ことを区別したという。すなわち、記紀歌謡は「ただうたふためにする」質朴なもので、古今集の時代に至って「文意兼美なる体」になった。また、その間に当たる万葉の時代は前者から後者へ次第に変化していったのだが、古歌の朗詠の習慣はその末期まで残っていたというのだ。

 寺井はこの万葉以前の朗詠の習慣と『夏草冬濤』の中学生の間に時代を超えた共通性を見ようとする。自分で新作を作るのとは別に、片や古歌を唄い、片や啄木の歌を唄うのだ。寺井いわく、

 大伴氏の縁者たちも沼津の中学生たちも、それほど違う感覚で声を出していたわけではないのではないか。自分の感覚や状況が歌になる、というよりも、歌が自分の感覚やそのときそのときの状況にあわせて用意されており、そこに自分の音色や調子を乗せて発信する。人が言葉を用いているようで、言葉もまた人を用いて姿を現わしているのである。


 おもしろい。以下は寺井の文章に触発された私見だ。

 アララギの歌人たちは、アララギの流儀が大正年間に歌壇を制覇したと自認していた。短歌史家もまた、それを追認してきた。しかし、同じ時代にいわゆる歌壇とは別のやり方で短歌に親しむ人たちがいたことを井上の小説は伝えている。歌壇人が「詞花言葉を翫ぶ」とすれば、沼津の中学生たちは「ただうたふ」ことをしたのだ。登場人物の一人の自作という設定で、次のような歌が出てくる。

なにがなし人を罵るそのことのよかれあしかれわれら若しも


 井上靖『青春放浪』(1962年)によれば、実際には登場人物のモデルになった友人の作の由。それを小説に借りたわけだが、初句からして明らかな啄木調だ。

いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む目に甘き山は青空にあり


 こちらも同じ登場人物の自作との設定。ただ、上句が若山牧水の歌と同一だ。自作というより、むしろ古歌の朗詠に近いものと解してよいのだろう。沼津の中学生が牧水に親近感を持つのは、単に牧水が沼津在住だったからというだけではない。唄う歌の選択にも、当時の歌壇の主流派とは異なる好みが表れているのだ。

 『夏草冬濤』が作者の自伝風の作品であるとはいえ、大正時代の中学生の短歌趣味を窺い知る資料としてこれを用いてよいものかどうか、注意を要することはもちろんだ。しかし、この小説を完全な作り話と見なして切り捨てるとしたら、それも乱暴だろう。既存の大正短歌史は中央歌壇の動向を記述したものであって、必ずしも短歌に関係する諸相を俯瞰したものではない。新たな角度から短歌史を構想する余地はまだ残っていると私は思う。


(2019.9.17 記)

 町内の会合で、

 知らない家の呼び鈴、押しちゃったよ。エレベーターのボタンと間違えたの。


とか言っている人がいた。そういうことあるんだねー、やっぱり。


     §


 ツイッター向きの話題かな、ツイッターよく知らないけれど。


(2019.9.3 記)

 鼓直氏が亡くなったことを人づてに聞いたのは、4月4日のことだった。同じ日、御葬儀がとり行われたという。それから毎日、新聞の社会面を注意して見ていたが、訃報はなかなか出なかった。したがって、ウィキペディアの「鼓直」の項も、没年月日の記載が無いままだった。

 結局、訃報が新聞各紙に一斉に載ったのは29日になってからだ。なぜこの日だったのか、分からない。

 後で調べてみると、神戸市外国語大学のウェブサイトには、氏の死去を知らせる文章が15日付で掲載されていた。同大には氏の薫陶を受けた関係者がいるから、新聞報道より情報が早かったものと思われる。なお、ウィキペディアの編集履歴を確認したところ、26日に同大の情報を典拠として没年月日が追記されていた。

 さて、ここに不審なことが一つある。同大ウェブサイトも新聞各紙も一様に氏の亡くなった日付を「4月2日」としたことだ。私が伝え聞いている日付は「4月2日」ではない。それは御葬儀で喪主の御挨拶を直接聴いた方から私まで伝わってきた情報だから、まず間違いのないものだろう。

 そこで思うのは、新聞報道の正確性とはこの程度かもしれないということだ。しかしまた、こうも思う。世間がみとめる「事実」とは「4月2日」の方であって、過去の事柄の調査も、あるいは「4月2日」を発見した時点で完了するのではないか。


(2019.7.17 記)

 『現代短歌新聞』6、7月号に続けて小文を書かせてもらった。押切寛子『石川信夫の中国詠』(鶫書房)、それから松村正直『戦争の歌』(笠間書院)のブックレビューだ。どちらも編集部から指示された仕事だが、たまたまなのかどうか、この二冊の本には共通項があった。石川信夫の歌の背景は当然日中戦争。そして、松村さんの本もまた、日中戦争に関係する歌を何首も掲出しているのだ。

 小文を書くため、私はしばらくこの戦争について勉強しなければならなかった。その際、一つ分かったことがある。ウェブ上にはこの戦争の諸相を直接知らせてくれるような資料が少ない、ということだ。

 たとえば、作戦に関する細々とした事柄について検索してみる。よく引っかかるのは、平和祈念展示資料館のサイト。ここに元兵士らの手記が多数掲載されているのだ。そして、ここ以外にこれと思うページが見当たらない、ということが珍しくない。

 そこで、私は平和祈念展示資料館の元兵士らの手記をかなり読んだ。どれも戦争を直接体験した人たちの貴重な証言と思われ、興味深かった。

 ところが、である。あるとき、気付いてしまった。それらの手記は、注意深く読まなければ間違える。そこには信頼できる情報とできない情報が混在している……。

 もちろん、回想談に部分的に誇張や隠蔽があることは想定の範囲内。記憶違いがあることも不思議ではない。しかし、なかには、それにとどまらない例もあるようなのだ。次に引くのは、1939年に応召し、42年の召集解除まで砲兵として数々の作戦を体験したという、河越三治郎氏の手記「靖国行きの片道切符:第一次長沙作戦」

 私は召集を受けてから満三年半、中国大陸の中支といわれる戦地で勤務し、内地での初年兵時代、外地での迫撃砲第一大隊での訓練、警備、作戦と、連続した軍務に服し、宜昌作戦、長沙作戦等を体験した。


 このように軍務の概要を述べた後、「第一次長沙作戦の前期での体験を記す」と前置きをして具体的な体験談に入るのだが、それがおかしいのだ。

 八月の声を聞くと、大作線の噂が広まった。正式には何の指示もなかったが、兵隊は耳利きして電波のように伝わる。
「軍は岳州地区に弾薬、食糧等々の集積を始めた。負傷者の収容に備えて兵站病院は患者を退院させるか後送しているそうだ。恐らく長沙に違いない」とまことしやかに触れるのだ。連隊長に伺うと「そんなことを言っているのか。具体的には知らんが、何があっても良いように準備しておけ」と驚かれた。戦場では何事でも生死に直結するから、機密中の機密が兵の五感で察知され口コミで電波のように伝わった。


 手記の筆者は当時迫撃砲第一大隊の上等兵だったようだが、その一兵士が連隊長と親しく言葉を交わしている。常識ではあり得ないことだろう。実は、この引用箇所には種本があるのだ。次に引くのは、佐々木春隆『長沙作戦』(図書出版社、1988年)の一節である。

 やがて、落雀の候に入り、八月の声を聞くと、大作線の噂が広まった。正式には何の指示もなかったが、兵隊さんが「軍は岳州地区に弾薬の集積を始めた。負傷者の収容に備えて兵站病院は患者を退院させるか後送しているそうだ。恐らく長沙に違いない」とまことしやかに触れるのだ。連隊長に伺うと「そんなことを言っているのか。具体的には知らんが、何があっても良いように準備しておけ」と驚かれた。戦場では何事でも生死に直結するから、機密中の機密が兵の五感で察知され、口コミで電波のように伝わるのである。


 先の手記とほぼ同文だ。佐々木氏はこのとき陸軍士官学校を卒業して一年ほどの少尉で、連隊旗手だった。だから、連隊長と接する機会も多かった。当然ながら、佐々木氏の記述に違和感は一切ない。先の手記の引用箇所は、佐々木氏の著書を引き写したものにほかならない。

 しかし、平和祈念展示資料館は手記を掲載した上に、もっともらしい解説まで付けている。私などは知識がないのだから、まず信じてしまう。注意を要するということだ。


(2019.7.15 記)

     §


 上野さんの話を聞いたのとちょうど同じ頃のこと。深夜、友人の運転する車の助手席に私は座っていた。車は横須賀市内の国道16号の下り車線を走り、折から安浦付近に差しかかっていた。両側は古い商店街で、歩道の上にアーケードの屋根を張っている。時間が遅いので大半の店がシャッターを下ろし、人通りもない。どういう話の流れだったか、友人が「***の看板の下にお婆さんが立ってて、それ、客引きなんだって」と言った。「ふーん」と相づちを打つや否や、照明付きの小さな看板が目に飛び込んできた。左側の建物の二階から突き出ていたと記憶するが、おそらくそこだけアーケードが切れていたのだろう。とっさに看板の真下に注目すると、それらしい老女が立っていたから驚いた。だって、一応国道だから。

 当の家は裏通りにあり、***はその家とは特に関係もない店か何かだという。友人ももちろん、確かなことは何も知らなかったに決まっている。年頃の男が興味を持つ都市伝説の類を、ただちょっと話題にしただけだ。


     §


 『俳壇』3月号の特集「わがこころの駅」に柴田千晶氏が「京急安浦駅」というエッセイを寄せている。この京浜急行の駅は、十数年前に神奈川県立保健福祉大学の開学に合わせて「県立大学」に改称された。今はない駅名をエッセイのタイトルに採った理由はよく分かる。地元の人には、安浦はあくまで安浦なのだろう。

 ついでに言うと、ここの駅舎は元々は小さくてかわいらしい洋風建築で、昭和初年の開業当初からあったものだと伝えられていた。しかし、駅名改称と同時にそれもあっさり取り壊され、跡に駅舎とも呼べない安っぽい箱が建った。京急は電車のデザインにはそれなりに配慮しているものの、駅名と駅舎の伝統は大事にしない。実利一辺倒のつまらない社風だ。

 さて、柴田氏は、

 映画館は、安浦駅から伸びる細い路地が、国道16号線にぶつかる辺りにあった。
 国道の向こう側は、海を埋め立てて造った土地、安浦三丁目になる。子供が近寄ってはいけない色街があった場所だ。(略)二〇〇〇年あたりまで、住宅街の中で二、三軒が細々と営業していたという。


と記し、

ポン引きの老女も居りぬ花曇


という一句を書き付けている。あの夜、「ポン引きの老女」の最後の一人を私は見たのかも知れない、と想像してみる。


     §


 つい先日、同じ国道16号の下り車線を一人でドライブした。二十三時頃だった。安浦の辺りを通り過ぎるときにあの看板を目で探したが、見当たらなかった。老女もいなかった。


(2019.6.17 記)

 一度だけ、結社みぎわの歌会に誘われて参加したことがある。、二十年以上前の話で、場所は東京駅構内のどこかの喫茶店だった。上野久雄さんがいて、河野小百合さんがいた。このときのことをよく憶えているのは、私の出したつまらない一首を上野さんが褒めてくれたことともう一つ、上野さんの別の話に私には馴染みの三浦半島の地名が多く出てきたからだ。細かい内容はさすがに忘れてしまった。戦時中、入院していた衣笠の病院を抜け出し、安浦まで行ってちょっと酒を飲んだとかいう話だった。軽妙な語り口で、おもしろかった。誤解されると困るが、本当にちょっと飲酒しただけとのことだった。ただ、「安浦は色っぽい街でね」という言葉を記憶している。

 上野さんは1927年、山梨県の生まれの由だが、みぎわのサイト掲載の沢井照江編「上野久雄略年譜」を見ると、

 1941年 14歳 横浜市神奈川区青木町に住む開業医の叔父を頼って転居。


とあり、さらに、

 1944年 17歳 8月、喀血して肺結核の発病を知る。


とある。また、三省堂版『現代短歌大事典』の上野久雄の項には、

 横浜専門学校(現、神奈川大学)を、一九四四(昭19)年に肺結核のため中退。


ともある。私が聞いたのは、つまりこの時期の話だったようだ。


(2019.6.15 記)

 それにしても、「日」の字が電車の窓を想起させると平岡直子が書くと、本当にそう見えてくるのが不思議だ。この人の言説は何となく教祖めいていて恐い。ただし、時代考証をきっちりするなら「電車の窓」説は苦しいだろう、というのが前回の記事の主旨。ああ、われながら野暮だ。華やかな弁論術の真似は、私にはできない。

 引き続き、佐藤佐太郎の代表歌、

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く

 (『帰潮』1952年)


に関する話である。

 この歌を読むときに、迷わず昼間の電車を思い浮かべなかっただろうか。夜の電車でも歌意は通る。窓からさす街の灯りかもしれないし、あるいは床を垂直に照らす車内灯かもしれない。それでもこの電車に昼の光を感じ(略)てしまうのは、「秋分の日」によって決定していたことなのだ。わたしはこの歌の「日」の字なら飽きずにずっと眺めていられる。


 前回も取り上げた平岡直子「一首鑑賞:日々のクオリア」の、これは末尾の記述。私はこれにも虚を突かれ、問題の一首を何度も読み返すことになった。たしかに「床にさす光」が日光だとはどこにも明示されていない。そして、そうであるにも関わらず、読者は昼の電車を思い浮かべるという。言われてみれば、その通り。しかし、なぜ昼の電車を思い浮かべてしまうのだろう。

 平岡は、「秋分の日」の「日」の一字が日光を連想させるからだという。おもしろい指摘だと思う。ただ、「夜の電車でも歌意は通る」というのは、筆がやや走り過ぎたのではないか。車内灯が照らす床の上にさらに「街の灯り」が重なって見えることなど、現実にはあり得ない。たとえあり得たとしても、街の明かりはたちまち流れ去り、あるいは明滅を繰り返すはずだ。

 電車が疾走して外景がどんどん移るのに日ざしは動かずにおかれたもののように床に照っているというのである。(佐藤佐太郎『短歌指導』短歌新聞社、1964年、133頁)


という佐太郎本人の注記を待つまでもない。動かないように見える光だから「ともに運ばれて行く」となるわけだ。昼の日光以外でそのような光があるかというと、まあ、ないだろう。読者が「迷わず昼間の電車を思い浮かべ」ることができる第一の理由はこれだと私は思う。なお、動詞「さす」の原義は、「ある現象や事物が直線的にいつのまにか物の内部や空間に運動する」(広辞苑)。車内灯が車内の床を照らすことについて、「さす」とは言わない気がする。

 ところで、大辻隆弘『佐藤佐太郎』(コレクション日本歌人選、笠間書院、2018年)は同じ一首を取り上げて、

 作者は休日の朝、人の少ない電車に揺られていたのだろう。座席に座っている作者の足下を窓から入った秋の日差しが照らす。(48頁)


と述べている。これまた、興味をそそる。なぜ朝だと限定できるのだろう。なぜ作者は座席に座っていると? 大辻が歌の言葉を離れて自由気ままに想像を膨らませるはずがない。つまり、こういうことだろう。床に差す日光が観察できるくらいだから、吊り革につかまって立っている客はおらず、作者も座席に座っている。休日で電車がすいている時間帯は朝だ——。

 大辻のこの本は、歌を読み解くことの楽しさをよく伝えてくれる。一読者としてそのことをありがたく思いつつ、さらに考えてみる。朝の日の光は電車の床に落ちるだろうか。日差しの角度から考えて、それは昼前か昼過ぎの情景ではないか。


(2019.6.9 記)

 季節外れのタイトルですみません。2018年10月24日付の平岡直子「一首鑑賞:日々のクオリア」を最近になって読んだもので。

 佐藤佐太郎の代表歌の一つ、

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く


を取り上げた回である。平岡はこう書いている。

 電車の床に着眼するのも、実際には運ばれているわけではない光をあえて主観的に「運ばれて行く」と描写するのも、それなりに巧みな表現なのかもしれないけれど、そんな巧さが名歌を生むわけじゃない。この歌の奇跡は「秋分の日」という言葉のおそろしいほどの効き方にある。


 おそろしいほど効いているのは平岡の筆力であって、こんな有名過ぎる歌に対して独創的な解釈を繰り広げながら説得力があり、読んでいてすごくおもしろい。ただ、子細に検討してみると疑問点もあるにはあるので、後々の研究のために一応メモしておこう。

 その「日」の先に「電車」があらわれるとき、わたしたちが思い出すのはこの漢字のかたちの窓である。電車の窓。ローカル線でみたことがある、上げ下げすることで開閉できる窓だ。


 「上げ下げすることで開閉できる窓」は今日の目にはただ古い電車の窓というように見えるわけだが、どうだろう。この歌を収録する歌集『帰潮』は1952年の刊行。そして、「日」の形に似たその電車の窓は、実はそれよりも後の時代に登場したのではなかろうか。

 等分というイメージを図形的にあらわしたかのような漢字「日」……


と平岡はいうのだが、私は当時の写真でそんな形の窓が写ったものを見た記憶がない。電車の歴史をよく知らないから、間違っていたら申し訳ないことだが。


(2019.6.5 記)

 こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   山中智恵子『神木』(1986年)



 鼓直氏が亡くなったと聞いた。例の通り、ウェブ上に知りたい情報は何もない。代わりに『伝奇集』の鼓訳を揶揄的に非難するページを見付けて、腹が立った。学問を批判の対象とすることは当然だ。しかし、篠田一士訳や鼓訳が存在しなければ、こやつはボルヘスの名すら知らないままだったに決まっている。先学への敬意を欠く者は常に下品だと思う。

 昨秋、鼓編『ラテンアメリカ怪談集』(河出文庫、新装版、2017年)収録のエクトル・アドルフォ・ムレーナ『騎兵大佐』をたいそうおもしろく読んだ私は、鼓氏にファンレターのような手紙を書いた。氏はその手紙を確かに読んでくださったそうだ。これも伝え聞くところによると、氏がラテンアメリカ文学の翻訳を志したのは、この『騎兵大佐』の原文に感銘を受けたのがきっかけだった由。

 山中智恵子の一首を当ブログの記事に引いたのは、ちょうど五年前のことだった。今、同じ四月に再びこの歌を思い、日本の伝統詩人と詩人気質だった翻訳家との縁を思う。というのは、山中もまた鼓訳の本で『百年の孤独』を読んだに違いないから。


(2019.4.6 記)


 加藤治郎がツイッターで水原紫苑を「ニューウェーブのミューズ」と呼んでいたという。そのことを批判する川野芽生の時評「うつくしい顔」(『現代短歌』2019年4月)を読んで、私は初めてそのことについて知った。川野によれば、加藤は

 水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった/穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった/凄みのある美しさが、彼らを魅了した


と記していたそうだ(「うつくしい顔」からの孫引き、元のツイートは加藤本人がすでに削除した由)。また、シュールレアリストたちの「ミューズ」を踏まえているといった付言もあったという。なるほど、いろいろと批判を受けそうな内容ではある。後の付言はみずから墓穴を掘っている気もする。ただ、川野の文章の一部が加藤の発言への批判にとどまらず、川野自身の信奉する思想の宣伝になっていること、には注意した方がよいと感じた。

 権力のある人間に容姿を評価されることと、それを利用させろと要求され(つまりは、性的に迫られ)、拒絶すれば多くのものを失う危険との距離はあまりに近い。容姿を褒められた瞬間にその相手の脳裏をよぎる恐怖を想像する手間を省きたいなら、他人の容姿になんか口出ししないことを強くおすすめする。


という箇所の前半はどこかの国の男性高級官僚と女性記者との関係には当てはまっても、加藤と水原の関係には当てはまらない。もちろん川野もそれはよく理解しているに違いないが、そうであるにも関わらずことさらに言い立てるのは川野の文章の主目的が思想の宣伝に移りかけているからだと思う。

 憧れるというのは、蔑んでも唾を吐きかけても殴っても、相手は痛みを感じない存在だから、なにかよくわからないすごいものだから、自分とは違って大丈夫なのだと思い込むことに過ぎない。


と主張する川野であっても、加藤が水原を「殴っても」いいと実際に思い込んでいるなどとはさすがに主張できない。当該箇所は「憧れる」行為一般を対象とした意見表明なのだ。

 さて、川野が引くホイットニー・チャドウィック『シュルセクシュアリティ』(PARCO出版局、1989年)の男性シュールレアリスト批判を加藤は未見だったと思われるが、その後、本を手に取ってみただろうか。


(2019.3.17 記)

 『ねむらない樹』vol.2(2019年2月)の特集「ニューウェーブ再考」の白眉は何と言っても平岡直子「ほかでもなく」である。この一頁の批評文だけでも、ムック一冊の定価千四百円を差し出すのに値する。

 昨年6月のシンポジウム「ニューウェーブ30年」で荻原裕幸や加藤治郎、穂村弘がニューウェーブの歌人に女性は含まれないとか、彼ら自身を含む「四人」だけがニューウェーブだとか断定したのだったが、平岡の文章の目的はそれへの異議申し立てにほかならない。その一番言いたいところは結局、

 会場から東直子が挙手をして、東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人を挙げながら、彼女たちが「ニューウェーブ」に入らない理由を質問した。むろん愚問であり、ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない。


の「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」というところであり、それをわざわざ文章化した動機はもちろん、加藤によるところの、

 「女性は自由に天翔ける存在だから」という、神秘化の体で女性を疎外するほとんど典型的な性差別発言……


に対する反感だろう。

 瞠目すべきはこの異議申し立てをそのまま理屈っぽく述べるのでなく、怪しげな寓話仕立てでもってしたことだ。老いも若きも真っ正直な人たちが揃う(?)歌壇にあって、このような論争術の持ち主は得がたい。しかも、その寓話を作り出す想像力や構想力が卓越している。

 荻原らは東直子やその他「何人かの女性歌人」をニューウェーブから除外した。それは実際のところ、ニューウェーブが秘密の「塚本邦雄のファンクラブ」だからだ——と平岡は言うのだが、このたとえ話はニューウェーブをまことにうさん臭く、滑稽な小集団として印象付けることに成功している。

 なるほど、荻原はニューウェーブを自称し始めた当時、塚本邦雄が主宰する結社玲瓏の会員であったし、穂村は塚本の影響を受けたことをたびたび公言してきた。このように虚構に真実を紛れ込ませるのもまた、虚構にもっともらしさを与える論争術の一種であり、

 後進の才能も精力的に発掘し、枯らせたり咲かせたりした。


という一文や、

 次第に「ニューウェーブ」という名称は一人歩きをはじめ、それを政治集団だと思う者も、方法論だと思う者も(略)いたけれど、彼らはあえて誤解されるままに任せた。


という箇所もその類であって、その冴えた技巧は修辞の妙も兼ね備えて見事なものだ。

 彼らが開発した軽くあかるく空虚なポエジーは短歌史上にきらめく雲のようにぽっかりと浮かんでおり、それを目印にして多くの人が短歌の扉を叩いてきた。


というのも、平岡としては虚構の中の真実のつもりで書いたものだろう。そして、きわめつけが末尾の歌の引用である。

萬緑の毒の緑青なにゆゑにどの山もみな男名前か

  塚本邦雄


 正直に言えば、私はこの一首を知らなかった。塚本のちょうど九十年代の歌集か、あるいは何かの選集で目にした気もするが、とにかくはっきりとした記憶がない。いやもちろん、私がそうだというだけで、現代短歌の読者にはよく知られた歌なのかも知れないが、少なくとも私のような者に平岡の読書量のとてつもなさを恐れさせる役目をこの歌の引用は果たした。

 なおまた、塚本歌集では塚本歌集なりの文脈で読まれるに違いない一首を、それとは異なる自分一人の文脈に引き付けて利用し、しかもその字句との間に少しの矛盾もない点、本音は自分の言葉でなく他人の言葉に語らせる点も平岡の論争術の一部であり、それをさりげなく使いこなすさまはほとんど老獪と言ってもよいほどだ。

 あの塚本邦雄のファンクラブとしては、装飾的な漢字の組み合わせによる煌びやかな、そしてどこか呪詛的な名前がもちろんふさわしかったけれど、「ニューウェーブ」という間延びしたカタカナの名称があえて選ばれたのは、それがファンクラブであることを世間の目から隠すためであった。表向きはほかの結社に所属し、ほかの前衛歌人に師事している隠れキリシタンのような会員もいたためである。


とは前半の一節。伝え聞くところによると、加藤が最近、ツイッターで「私は、岡井隆です/ファンクラブなんて生易しいものでもない」云々とつぶやいていたそうだ。平岡の文章への抗議だろう。しかし、全てはニューウェーブ四人説に皮肉を言うためのたとえ話であり、笑い話なのだ。加藤がニューウェーブ四人説を撤回できない以上、その抗議も無効に終わるほかないと思う。

 もちろん、肝心かなめの「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」なる主張の根拠は、平岡は全然示していない。その意味で、ここでの平岡の主張の中身は真偽不明の思い付きに過ぎない。また、彼女たちがニューウェーブに入れない理由のパロディーたる「ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない」においては「作風」への言及が抜け落ちており、寓話の論理に若干無理が混じりかけてもいる。しかし、だからといってこの批評文全体に対しフェイクだなどと真っ当に過ぎる判定を下す人が仮にいるとしたら、平岡の論争術と修辞に学ぶことを私はその人に奨めたい。

 終わりに一つ、私が納得の行かなかったところに触れておこう。西田政史は玲瓏の元会員ながら昨年のシンポジウムでみずから「塚本邦雄のファンクラブ」の一員であることを否定していたはずだが、その西田をも平岡が執拗にファンクラブの一員に数えようとするのはなぜなのか。

 しかし、その信仰の神聖さを説明する用意のなかった壇上の四人は慌ててしまい、いくつかの失言をした。


というのは「ほかでもない」平岡自身の言葉だが、平岡からして「四人」と決め付ける辺りに私はいささか気色の悪さを感じた。


(2019.3.9 記)

 佐藤佐太郎の第一歌集『歩道』(1940年)に、

電車にて酒店加六(しゆてんかろく)に行きしかどそれより後は泥のごとしも


という著名な一首がある。秋葉四郎氏が銀座四丁目の居酒屋「酒の穴」を紹介するついでに、

 「加六」も、田村元氏の調査に拠ると、この「酒の穴」の筋向かいで、


云々と書いている(「銀座「酒の穴」」、『歌壇』2018年11月号)のを読み、驚いた。「加六」については未詳と思っていたが、田村元さんがすでに調査済みで、その所在地も突き止めているというのだ。

 田村さんはいつ、どこでそれを発表したのか。新刊『歌人の行きつけ』(いりの舎、2018年12月)を読んで分かった。巻末に秋葉四郎氏との対談の記録があり、そこで田村さんが加六について詳しく考証しているのだ。初出の記載がないので、この単行本が初収なのだろう。つまり、対談で田村さんが話したことを秋葉氏が先に随筆に書いてしまい、その後で対談記録を収める『歌人の行きつけ』が刊行された、という順序である。

追記(2019.1.30)—この対談記録の初出は『うた新聞』2015年4月号とのこと、松村正直さんからコメントをいただいた。正しい順序は、対談(2015年2月)、記録初出(『うた新聞』2015年4月)、秋葉氏の随筆(『歌壇』2018年11月)、『歌人の行きつけ』(2018年12月)となる。下のコメント欄をご参照ください。秋葉さん、失礼なことを書いてすみません。

 さて、その考証がとてもおもしろい。田村さんは佐藤佐太郎『互評自註歌集:歩道』(1948年)に「加六は銀座にある飲屋で、菊正宗の上等なのを飲ませた」とあるのを出発点に銀座関係の資料に当たり、まず明治生まれのジャーナリスト松崎天民の『銀座』(1927年)を見出だす。同書によれば、国木田独歩『号外』の舞台である「正宗ホール」が加六だという。さらに今和次郎『大東京案内』(新版、1929年)を参照して、クロネコなる店にトンネルがあり、加六に通じているとの記述があることも発見する。

 そして、最後の決め手は1935年発行の地図『躍進:大銀座街之図』(東京商工案内社)。『歌人の行きつけ』の見開き二頁分を使って、該当部分を掲げている。それを見ると、銀座二丁目の「クロネコ」の裏手に確かに「嘉六」との記載があるのである。

 考証の信頼性は複数の証拠を組み合わせることで生まれる。田村さんの加六の調査はその手本のようだ。当時の地図や書物で固有名詞の漢字表記に異同があることは、さほど珍しくもない。佐太郎の言う「銀座にある」加六と1935年の銀座の地図の嘉六は同じ店と考えてよいだろう。『号外』は1906(明治39)年初出で、佐太郎の掲出歌は1937年1月初出だから、加六は少なくとも銀座で三十年以上続いた店ということになる。

 なお、田村さんは触れていないが、銀座二丁目のクロネコは1927年に開業したカフェーの有名店。ウィキペディアの「カフェー」の項には1930年頃のクロネコの店内の写真二枚(『大東京写真帖』忠誠堂、1930年)が掲載されている。モガとモボが闊歩していた時代の銀座である。カフェーと言っても、今日のスターバックスではない。その業態は風俗営業の一種で、女給が接待して洋酒を飲ませ、男客は飲食代を払うほか、女給にチップを渡すなどするのである。

 佐太郎が掲出歌を詠んだ1936年頃のクロネコは、どんな営業の仕方だったのか、私の手元には資料がない。しかし、まだ「支那事変」の前である。警視庁の取締りもあったとはいえ、それほど大きな変化はなかったと思われる。

 東京都の中央区立図書館のサイトで、1934年の絵葉書とおぼしいクロネコの外観の写真を見ることができる。夜の闇にネオンサインがまばゆく、華やかだ。佐太郎が加六の手前で目にした光景と考えてよいだろう。田村さんの考証に教えられる以前、私は「酒店加六」をもっと違った風景として、勝手に想像していた。銀座でもややはずれのさびしい裏通りの小さな店というように。なぜだろう。佐太郎の顔写真の地味な印象が先入観として働いたものか。実際のところ、加六の客は歓楽街の灯をいっぱいに浴びながら店に通ったのだ。掲出歌の「電車」は東京市電だろうが、市電にわざわざ乗って酒を飲みに行くところに格別の欲求を読み取るべきなのかもしれない。

 興味をそそるのは、クロネコのトンネルの話である。それはまるで異界につながる通路のようではないか。掲出歌の主体がそのトンネルを通って加六に入ったとすれば、加六はまさに泥酔にふさわしい異界ということになる。私はここまで考えて、しばし想像の世界に遊んだ。佐太郎が加六の客となった頃にトンネルがまだ残存していたことが確認できればよいのだが、どうだろう。

 残念ながら、その確認はなかなかできないようだ。今和次郎の著書と同じ、1929年刊行の『東京銀座商店建築写真集』(吉田工務所出版部、国立国会図書館のサイトで全編閲覧可)という本がある。その11頁の「黒猫、オリムピツク」という見出しの写真を見ると、『歌人の行きつけ』掲載の『躍進:大銀座街之図』にあるような並び方でその二店舗が写っている。ところが、次頁の「クロネコの新装」という見出しの写真では、カフヱークロネコの外観が一新され、オリムピツクとは逆側に一区画分増築されたように見える。その説明文はこうだ。

 これは前図の旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造して面目を一新した、カフヱークロネコの新装、鎖までぶらさげての汽船模造、銀座航行曲の尖端を行かうと云ふ戦術。


 写真を見る限り、店舗の間口が二倍の広さになり、その横長の外観を真横から見る汽船のような装いに仕立てたようだ。どうして「旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造」するというようなことが簡単にできたかというと、立派な西洋建築に見えて、実はいわゆる看板建築だからである。

 しかし、『躍進:大銀座街之図』によれば、オリムピツクとクロネコの先には細い横丁が一本ある。だから、クロネコはそちら側には店舗を拡張できないはずでは……? そう、これこそ「トンネル」の存在理由だろう。横丁をふさぐわけにはいかないので、トンネルにしたのである。そんなことが容易にできるのも看板建築ゆえで、表から見たら横長の間口の一棟でも、看板の後ろは二棟ということだったのだ。

 ただし、このトンネルの設置期間はごく短かったとも推測される。クロネコは、翌30年にはもう、横丁より向こう側の増設分を手放している。当時、大阪のカフェーがエロ・グロの奇抜なサービスを売りに、次々に東京進出を果たしていた。クロネコが手放した区画には大阪道頓堀のカフェー赤玉が入り、「銀座会館」となった(石川偉子「文学からみる近代日本におけるカフェ空間形成 」、第8回嗜好品文化フォーラム、2010年)。『躍進:大銀座街之図』でもオリムピツク、クロネコ、横丁を挟んで銀座会館の順で並んでいる。そして、少なくとも地図上では横丁の入口付近にトンネルがあるようには見えない。銀座会館はクロネコと一体化した外装を廃し、トンネルもなくなったと推測するのが自然だろう。

 せっかく楽しく想像したトンネルであるが、あきらめようか。
 

(2019.1.30 記)

ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031