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なるべくは京都附近にて死にたしとつつましかりき兵われの願い
(「澤辺元一100首選」)


 1959年刊行の合同歌集『遊水池』所収とのこと。この一首の内容について、黒住嘉輝は「フィクション」とし、

 兵隊に行ってないもの、彼は実際はね。学徒動員は行ってるけど。


と発言している(「澤辺元一追悼座談会」)。「学徒動員」は勤労動員の意か。しかし、川本千栄編「澤辺元一年譜」の1945年の条に、

 召集令状を受け、大隅半島に派遣されたがすぐ敗戦。十月、復員。


とある。同年譜によれば、澤辺は1926年1月生まれで、45年当時は神戸商業大学予科に在籍。同年1月に満十九歳になって、間もなく召集されたと考えられる。学徒出陣である。したがって、掲出歌は実体験に基づいていると見なしてよいのだろう。

 「附近」が散文風の単語だ。また、「死にたし」を助詞「と」で受けて、ただちに「つつましかりき」とつなぐ言い回しが幾分変わっていて、注意される。仮に倒置を元に戻して、表記を補えば、

「なるべくは京都附近にて死にたし」と。兵われの願い、つつましかりき。


となるか。軍では日記を付けることが奨励されていた。「なるべくは京都附近にて死にたし」は入隊直後、大隅半島に到着する以前の日記に残された一文で、それを戦後に読み返した感想が「つつましかりき」だったと私は推測する。

 もしも京都近辺で死ぬとしたら、それは本土決戦の終盤で、もはや敗戦間近だ。しかし、十九歳の彼の言葉に、そこまで深い意味はなかったかもしれない。生き残ることを当然のように断念し、ただ生まれ育った土地への愛着だけをわずかに示す。そのつつましさには迫真性があり、戦後の刻印は感じられない。心にとどめるに値する一首だと思う。


(2018.10.14 記)

 「澤辺元一100首選」ほか、この特集中に引かれた歌を私はこれまで全て知らなかった。何より印象的なのは、よい歌のあることだ。

若かりし父の放蕩もやや理解して日々綿塵の中に働く

(「澤辺元一100首選」)


 真中朋久「晩夏の挽歌」の指摘の通り、「綿を加工して布団などを作る会社は(略)家業を継ぐということであった」ことが一首の内容から推測される。工場の経営に苦労を重ねる中で、若き日に「放蕩」した父の心持ちも少し理解できるようになった、というのだ。

 そうだ。「理解できる」や「分かる」とする方がより自然な発想だろう。そこをあえて能動的に(?)「理解する」と言う。みずからの心の働きを、外部の少し離れたところから観察しているようでもある。このクールさが、作者の生活感情に対する読者の共感を可能にするのだと思う。

 なお、『塔』2013年1月号掲載のインタビューによれば、澤辺は『塔』参加以前に『アララギ』の文明選歌欄に出詠していた由。第二句の散文調がその選歌欄の直伝の作法と見られる。ことさらに「やや」などを付け、大幅に字を余らせるのである。

 第三句に「理解して」を置く形も高安国世などに先例がないか、調べてもよいかもしれない。


(2018.10.10 記)


 『塔』9月号の澤辺元一追悼特集に感銘を受けた。全二百四十六頁の二割、五十頁近くをこの特集に当てている。しかも、分量が多いだけではない。回想文・作品論から百首選・年譜・写真・故人をよく知る人のインタビューまで、完全版の趣がある。これを通読すれば、一人の歌人の全体像、つまりその作品・人柄・人生などがありありと迫ってくる。私はそれらに実に魅了された。

 澤辺はこの結社の創刊時からの同人にして元選者、「名誉会員」でもあったが、主宰者や代表者であったわけではない。そして、中央歌壇で名の通った人でもなかった。『塔』の編集長を務める松村正直さんがブログ「やさしい鮫日記」に次のように書いている。

こうした追悼の特集というのは、結社誌ならではのものだと思う。
総合誌には有名な歌人の追悼しか載らないし、同人誌でもあまり見ない。

結社とは何かという話がしばしば議論になるが、こうした追悼特集を組むところに、私は結社の特徴が滲んでいるように感じる。それは、システムや合理性という観点だけからは摑めない結社の本質であろう。

(9月13日付「「塔」2018年9月号 」)


 短歌の結社誌は遠く大正の頃から同人の追悼号を出してきた。松村さんの見方は、たしかに結社本来の姿を言い当てているかもしれない。


(2018.10.9 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の四つ目。川野芽生「私達が聴かなかった声」について。

 当ブログの8月14日付の記事で取り上げた北村早紀の文章に続き、高島裕の時評「抵抗の拠点」(『未来』7月号)に反論しようとしたものだ。しかし、この川野の文章もまた、反論としては成立していない気がした。高島は元財務次官のセクハラ疑惑の一件をめぐって次のように記していた。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。ここに露呈しているのは、言語観の貧しさである。生きた会話の中で出てきた言葉を、一切の文脈抜きで一義的に意味づけ、「セクハラ」の定義に照合するという手続きの過程では、言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性が、すべて切り捨てられてしまう。誰も反対できない正義の名において、生きた言葉が殺されてゆく。


 このうち〈会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまった〉の主語が省略されているが、この引用箇所の前を読むと、報道と報道に押された財務省が、ということだろう。こうした高島の主張に対して、川野は次のように述べる。

 しかし「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。ハラスメントはむしろ、言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈を最大限利用して振るわれる暴力だからであり、その文脈に見ぬふりをしての、「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまうのがこの社会だからだ。


 高島のいう「生きた言葉」を「聞こえのよい言葉」と捉える川野は、明らかに高島を批判しようとしている。しかし、高島と川野の文章を何度読み返しても、私には両者が遠く隔たっているようには思えなかった。「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈」を見る必要があるという点では、両者は一致しているのだ。

 だから、高島に対する川野の批判には無理があると私には思われる。

「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。


といった言い方は論理を超越している。川野自身の立場に徹するなら、「生きた言葉」の検証を通して差別や暴力を糾弾することになるはずだ。また、高島は常識的にはセクハラ発言としか思えない元次官の言葉について「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場」などを考慮してセクハラか否かを認定すべきだと主張したのだが、川野の

「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまう……


は、その一言だけではセクハラ認定の判断が分かれるかもしれない○○発言について述べており、高島への反論にはなっていない。

 川野はいわゆるMe Too 運動を考える上で注意すべき点として、司法などの制度に頼れない現状が背景にあること、その分世論の支持を得る必要があるが、そのためには「理想の被害者」でなければならないこと、の二点を挙げつつ、文章全体の結語として「文学の役目」に言及する。

 制度でもポピュラリティでもない言葉をどこに求めればよいのか。それこそが文学の役目だろう。(略)自分の足元の深淵を覗き込む覚悟で、他者の言葉に耳を傾けること、文学の未来はその先にしかない。


 まっとうな文学論だと思う。ただ、元次官をも、またその告発者の職業倫理を問う者をもまずは「他者」として遇するべきだ、というのが高島の意見なのだ。とすれば、川野の文学論は、やはり高島への反論にはなっていない。

 思うに、両者の間にあるのは文学論の対立ではない。その件では、二人の言葉は奇妙なまでによく似ている。では、何の対立か。結局のところ、川野は元次官のセクハラ認定に賛成であり、高島がその認定に消極的であるということが許せないのだろう。


(2018.9.5 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の三つ目。染野太朗「異化について」について。

 嵯峨直樹『みずからの火』(KADOKAWA、2018年)のブックレビュー。これを読んで嵯峨直樹という歌人の名を初めて知った。ウィキペディアを見たら四十代半ばの人で、『みずからの火』以前にすでに二冊の歌集があるとのこと。自分に現代短歌の知識が無いことを再認識する。引用歌がとてもいい。

枝ふとく春夜をはしる絶叫をあやうく封じ込めて静寂

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く


 言葉のつなげ方が上手。『未来』所属の由だが、近代短歌(戦後短歌?)の修辞法をしっかり学んで自己のものとしているように感じられる。枝が太く「はしる」とか、「〜て静寂」で止めるところとか。あるいは、花の群落全体のイメージを出した後に助詞「の」をはさんで「ところどころ」の部分に転じる、その「の」の使い方とか。

 染野は、

 ことばによる現実空間の異化、ということをつよく意識させる。対象をめぐる〈異化以前/以後〉という二段構えが見えてくる。


という。また、

 おもしろいのは、しかし、その異化に至った動機の部分が見えにくいこと。


とし、「歌があらわすのは、情や批評ではなくあくまでも景だ」と指摘する。写実派のよき後継者ということになろうか。

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

内側にしおれて四肢はあかつきの光をかえす湖水のようだ


 こちらの歌について染野は、

 「家具」「四肢」をめぐる二段構えが見えにくい。このとき、ことばはもはや異化のための〈道具〉ではない。


という。前の二首などの発展形として、後の二首の方をより高く染野は評価しているようだ。しかし、「異化以後」と二重写しで「異化以前」の景も想像できる前の二首の方が、私にはおもしろい。この辺りは好みの問題だろうか。
 

(2018.9.4 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の二つ目。瀬戸夏子「デザインの書」について。

 手に取る雑誌などに瀬戸夏子の文章があれば、喜んで読むのが近ごろの私だ。文中に必ず何かの主張があり、しかもその主張に借り物っぽさがないので、読んでいてまず単純におもしろい。行儀の良さ、悪さのバランスも取れている。俗な言い方をすれば短歌の世界にはあまり見かけない、お金の取れる文章だと思う。

 これは加藤治郎の最新歌集『Confusion』のブックレビュー。しかし、今どきの歌集評には珍しく、一首の歌も引用しない。もちろん、意図してそうしたのものだろう。瀬戸は、

 みずからが選ぶレイアウト(引用者注—たとえば、どこで改行するか)そのものが、詩が詩である所以を露呈してしまうのが現代詩である……


と規定した上で、現代詩よりも「加藤の短歌のほうが圧倒的にプレーンなテキストだ」とする。そして、それゆえに「いぬのせなか座」によるブックデザインが映えるのだという。加藤のテキストは何だが、「いぬのせなか座」のデザインはよい……と言っているようにも見える。たぶんこれは辛口というか、悪口なのだが、適度にぼかしが入っているので、読んだ後味はそれほど悪くならない。

 さて、この歌集は、詩人野村喜和夫との対談「詩型融合のクロニクル」が全体の三分の一以上の頁を占める。巻末には「詩型融合」の年表まで付いていて、そこには与謝野鉄幹『東西南北』(1896年)から江田浩司『想像は私のフィギュールに意匠の傷をつける』(2016年)に至る四十四点の本が記載されている。そして、タイトルは融合をひっくり返した「混乱」。ところが瀬戸は、

 この本は《詩型融合》の書ではない、というのが私の認識だ。


という。「加藤の念頭に置かれている相手は現代詩」だが、加藤の短歌は「プレーンなテキスト」であり、

 現代詩の生命線であるレイアウトに、加藤は参加していない。


というのが理由だ。ここは断言調で、爽快。ただ、断言の内容には疑問が残った。「詩型融合」の定義を加藤は、こう明示している。

 1冊の著作/作品に、複数の詩型を融合。(132頁)


 かつ、詩型としては音数律詩・自由詩・短歌・長歌・旋頭歌・俳句に加え、散文・挿絵・講演録までを挙げる。この定義によれば、短歌のほかに俳句・エッセイ・時評・対談の記録まで含む『Confusion』は明らかに「詩型融合」の範疇に入るだろう。

 瀬戸は加藤とは異なる「詩型融合」の定義を立てて、加藤の歌集はそれに当てはまらないと主張しているように思われる。そうだとすれば、それは瀬戸自身以外には関心の持ちにくい話題だ。

 また、別の疑問もある。仮に瀬戸の定義に従うとしても、『Confusion』は「詩型融合」の範疇に入ってしまうのではないか。短歌・俳句・散文の混在はただそれだけでも——つまり「いぬのせなか座」によるレイアウトが無かったとしても——、それ自体がレイアウトの結果ということになるのではないのか。
 

(2018.9.3 記)

 『現代短歌新聞』78号(2018年9月5日付)を一見しての感想をいくつか。まず大井学「浜田到の百年」について。

 浜田到生誕百年だという。没後も作品が読み継がれる歌人は多くない。到の作品にそれだけの力があるということ、そして到に言及し続けた人たちの言葉に力があったということだろう。

 これは『浜田到:歌と詩の生涯』(角川書店、2007年)の著者が到を紹介する記事。塚本邦雄の「多様な喩法による歌の拡張」と到の詩性は「相似であっても、相同ではない」とした上で、

 塚本、浜田から時代を経た現在において、両者を統合した方法論が受容、展開されているようにも思われる。


と述べ、現代の若手歌人の作二首、

すいみんと死とのあはひに羽化の蟬。翅のみどりに透いてあるはも
  吉田隼人


わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘鋭からむに
  睦月都


を挙げているところに興味を引かれた(私は現代短歌の知識がないので、この二首の出典がわからない。大井の文章からの孫引きです)。「すいみんと死とのあはひに」「わが生まぬ少女薔薇園を」といった世界の把握の仕方、あるいは世界の作り方がどこか浜田到に似ている気がする。しかし、では具体的にどこが似ているのかというと、私には説明できない。大井のもっと詳しい解説を読みたいと思った。


(2018.9.2 記)


 2 東直子 VS 加藤治郎 

 加藤さんのなかではニューウェーブの歴史というのは、この4人の作品を考えるということですか。
加藤 はい、そうです。
 4人一人ひとりは違うのかなと思うんですが。
加藤 今の段階ではそうですけど、今後もっと議論すべきところですね。
 そうだと思います。穂村さんはどうですか。

 (『ねむらない樹』vol.1、80頁)


 この辺りは、当ブログの過去の記事に載せた私のメモと重複する箇所だが、比較してみるとそれぞれの言い回しが少しずつ違う。私のメモは当然、東や加藤の発言の一言一句を漏らさず拾えているわけではない。一方、『ねむらない樹』の記録の方もあちらこちらに細かな省略はあるようだ。座談会の記録とはそういうものだろう。

 加藤の「今の段階ではそうですけど」の「そう」は、文字で読み返してみると、その指示対象が何なのかが分かりにくいようだ。しかし、会場で聴いていたときにはそれほど分かりにくく感じなかった。「今の自分はニューウェーブ=四人と考えているが、今後も議論を続けるべきだ」といった意味なのだろう。

 なお、末尾の「穂村さんはどうですか」は司会の荻原の発言だった気がする。東がそこまで話の進行を取り仕切っていたわけではない。


 3 穂村弘 VS 東直子

穂村 冒頭にあったお話ではニューウェーブは同人誌「フォルテ」発で荻原さんが書かれた「現代短歌のニューウェーブ」経由という定義が先にあったんでしょう。そこにあげられた人たちが、偶然性に乗ってエスツープロジェクトをつくり、『岩波現代短歌辞典』に項目ができたという。だからこの質問はやっぱり、ニューウェーブの定義の問い直しってことだと思う。個別の人の価値評価に関しては、僕すごく一人ひとり論じているよね。
 そうですよね。
穂村 でもこれらをニューウェーブと呼びましょうと誰かが言っても、いままでの歴史的な経緯から見直さないと変になるんじゃない? ニューウェーブ世代を私は「わがまま」という言葉で捉え直そうとしたけど、それは一人ひとり信じているものが違いすぎて運動体ではありえない、という意味合いを持っていたと思う。

 (同頁)


 『ねむらない樹』の記録で、実際の発言と最も大きく違っているのはこの場面の穂村の言葉だろう。当ブログの記事に掲載済みの私のメモを再掲しておこう。

 穂村 ここで言っているニューウェーブって、先に荻原さんの新聞記事発の定義があったんでしょ? それで、そこに推された人たちが偶然性に乗って……。だから、その質問は何となくニューウェーブの定義返しみたいなところがあると思うんだけど。今名前が出た一人一人の女性の価値評価に関しては、僕、すごく論じてるよね。でも、じゃあそれをニューウェーブと呼びましょう、と僕らの間で言っても、今までの歴史的な経緯があるから、それは変になるんじゃないの?


 ここは、私のメモの方が実際の発言に近いはずだ。『ねむらない樹』の記録は、校正段階でかなり加筆されたのだろう。主な変更は四点。

(1)「荻原さんの新聞記事発の定義」→「同人誌「フォルテ」発で荻原さんが書かれた「現代短歌のニューウェーブ」経由という定義」

(2)「定義返し」→「定義の問い直し」

(3)「いままでの歴史的な経緯があるから、それは変になる」→「いままでの歴史的な経緯から見直さないと変になる」

(4)末尾「ニューウェーブ世代を私は」以下を追加。


 元々の発言の主旨は明確だった。つまり、荻原の記事がニューウェーブを定義した。それ以後、同時期の女性歌人はニューウェーブとは呼ばれてこなかった。だから、今になってそれら女性歌人をニューウェーブと呼ぶのも変だ——といったところで、ニューウェーブは荻原・加藤・西田・穂村の四人との説を肯定しているのだ。

 ところが、まず(1)記録に「フォルテ」の名を追加したことで、ニューウェーブの定義の根拠はいくらか曖昧になった。次に(2)「定義返し」は再定義の意で、東を「従来の定義を否定する者」、つまり従来の定義を肯定する自分にとっての論争相手と見なしていたのだが、「定義の問い直し」はせいぜい再定義の検討程度の意味だ。東との対立の度合いは弱まった。さらに(3)元々の発言は「歴史的な経緯があるから定義の変更は不可能」との意味だった。記録の方は「歴史的な経緯から見直すなら定義の変更も可能」との含意があるように思われる。

 (4)は「ニューウェーブの再定義は変になる」ということの論拠であるべきだが、それにしては飛躍がある。その飛躍を埋める作業は不可能ではなさそうだが、それをするのはひどく面倒に感じられる。なんだかよく分からない話にしてしまうのが真意ではないかと勘ぐりたくなる。

 いずれにせよ、ニューウェーブ四人説から穂村はひそかに離脱しようとしているのではないか。一方でニューウェーブの人数を増やして考える立場とも距離を置いている。自分の見解を巧妙にぼやかそうとしているように私には見える。


(2018.8.16 記)

 知人にすすめられて高島裕の時評に対する北村早紀の反論を読んだが、反論としてはうまく成立していない気がした。双方の話題の中心は、前財務次官のセクハラ疑惑である。高島「抵抗の拠点」(『未来』7月号)の主旨をごく簡単にまとめると、次の三点。

(1)現時点ではセクハラを認定できない。
(2)次官を一方的に断罪する報道は課題解決にはつながらない。
(3)短歌は一方的な物語の生産・消費に抵抗する手段になる。


 このうち(1)は暗示にとどまり、(2)(3)が話の過半を占める。対する北村「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」(ブログ「「詩客」短歌時評、8月2日付)の主旨は次の二点だろう。

(a)現時点でセクハラを認定できる。
(b)高島の(3)には同意する。


 つまり、北村は(1)の暗示への反論に精力を傾け、(2)には言及しないのだ。例を挙げよう。高島は、

 報道は、次官本人と財務省を断罪し、麻生大臣の責任と不見識を言い立てるばかりで、テレビ局側が、かねてから嫌がっていたという女性記者をあえて次官の取材に差し向けた理由や、取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させたことの職業倫理上の是非を問う声はかき消されてしまった。「セクハラは許せない」という、誰にも反対できないお題目の前に、すべての疑問が封殺された形だ。こんな粗雑な手法が、ジェンダーとセクシュアリティをめぐるさまざまなコンフリクトを風通しの良い方向へ導きうるとは到底思えない。(「抵抗の拠点」)


と書いている。ここは、被害者とされる記者が「取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込ん」だ後の新聞やテレビの報道について、(2)を主張していると見るのが自然だろう。ところが北村は、

 上記の文章からは高島さんが、今回の事件の対応は強引であったと考えていることがわかります。(略)今回の対応は確かに強引だったかもしれません。しかし、どんなことにも最初があり、続けていくうちに内容が洗練されていくのだと私は思います。むしろ、今回に関して言えば、強引な方法をとることでしか状況を動かすことができなかったのではないでしょうか。最初にこの事件について知ったとき、私も多少強引だと感じましたが、それ以上にこれは正当防衛だとも思いました。(「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」)


と記す。被害者である記者が「取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させた」行為は「正当防衛」だ、ということだろう。つまり、北村は高島の引用文をもっぱら(1)の主張と捉え、それへの反論として(a)を出すだけなのだ。これでは議論が噛み合わない。高島としては(2)を乗り越える一手段として(3)を述べているので、(2)とは無関係のまま(3)にだけ同意されても困るだろう。

「セクハラは許せない」ということを「お題目」と表現したことも気になります。(「「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」)


と批判するくだりも同様だ。「お題目」の「お」は「皮肉やからかいの気持ちを表す」(大辞林)ものだが、高島は一方的な報道に反対する(2)の立場からことさらにこの「お」を使用しているのだから、(2)の中身を取り上げることなくその言葉遣いだけを取り上げても仕方がないと思う。

 ところで私自身は記者の職業倫理等は別に考えるべき問題だと思うものの、前次官のセクハラ自体は認定できるのではないかと思っている。では、高島とはどう対話すればよいのか。

 私なら(a)を表明しつつも、一旦は高島が(1)の立場に立つことを受け入れる。そうしなければ、(2)について議論する段階に進めないからだ。

 その上で、仮に前次官のセクハラを完全に認定すべき状況になったとしても(2)の立場を保持すること——すなわち多様な言葉を許容すること——が可能かどうか、それが可能であるとしたら、たとえばどのような言葉を想定できるか、を問う。

 そして、私もまた文芸の世界が一方的な言論によって覆い尽くされる事態は御免被りたいので、自分でもそれらの問いの答えを考える。


(2018.8.14 記)

 「ニューウェーブ30年」の記録で、ほかに気付いたことをいくつか挙げておこう。


 1 西田政史 VS 穂村弘

(佐々木朔の歌の「埠頭で鍵を拾った」という内容について、穂村が「いいところでいいものを拾いすぎている」と批判したところ、寺井龍哉から「そういう批評は今は無しなんですよ」と逆に批判されたという話題を受けて)

西田 いいところでいいものを拾いすぎというのはそもそも穂村さんがやっていたことじゃないですか。そんな人がどうしてこんなこと言うのかなと思いますけど。
穂村 うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないかと。

 (『ねむらない樹』vol.1、76頁)


 西田のこの発言は、西田が穂村の初期の作風をどう見ていたかを窺わせる。加藤・荻原が穂村に切り込む場面が全然見られなかったこともあって、私には当日、最も印象深い場面の一つだった。

 私のメモでは、西田に答えた穂村の言葉は、

 いや、だから、この作者はさりげなく拾ってるんだよ。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないか。僕、全然さりげなくないでしょ。


 自分が「さりげなくない」ことを、穂村はたしか、このような言い方で強調した。「いや、だから」という受け方や「さりげなく」の連発は、虚を突かれてよろめいた姿勢を強引に立て直した、といった印象を与えた。会場は大いに沸いた。ライブのおもしろみが出た場面だから、当然の反応だったと思う。

 記録中の「うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの」は、私の記憶にはない。『ねむらない樹』の校正中に追加したものなのだろう。その追加によって発言の意図まで変わるというわけではないようだ。ただ、ここでもやはりライブ感は失われた。「うん」「これでもくらえ」には虚を突かれた感じがない。

 ただ、記録を読んであらためて気付いたことがある。歌の傾向を判断する基準「さりげないか否か」は、この場面より前の穂村の「埠頭で鍵を拾った」評には出てこない。西田と穂村のこの問答中に初めて出てくるのだ。ただおもしろおかしいだけでない、意義のある問答だった。


(つづく)


(2018.8.12 記)

 今月1日創刊のムック『ねむらない樹』(書誌侃侃房)を買って、先々月のシンポジウム「ニューウェーブ30年」の記録を読んだ。編集部による前書きに、

 討議の内容は極力記載した……(『ねむらない樹』vol.1、62頁)


とあるのは本当だ。まず、全体の構成は組み直すことなく、当日の流れのまま記している。また、個々の発言も、大半は省略せずに収めている。ことに女性歌人をめぐる加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘の発言をカットしなかったことは、この記録の、記録としての価値を保証するものだと思う(それはいかにも批判を招きそうな内容だったから、カットした方が無難との考え方もあったはずだ)。

 ただ一つ残念なことは、当日の現場のライブ感が誌上の記録からは失われていることだ。たとえば、加藤の発言「女性歌人は(略)自由に空を翔けていくような存在なんじゃないかと思う」に対して、東直子が

 空を翔ける天女のような存在ということですか。(同、80頁)


と返す場面。文字で読むと、東が静かに問い質しているかのようだ。しかし、「天女のような」は、私の記憶では一オクターブ上の笑いを含んだ声で、その場では「エエッ、加藤さん、そんなこと言うの!?」という東の気持ちがよく感じ取れた。

 また、このシンポジウム屈指の重要な問答、

 (略)4人でニューウェーブは完成されているということでよろしいんですか。加藤さんのなかではということなんですけど。
加藤 はい、それはもう4人です。

 (同頁)


 これも文字で読むと、加藤が冷静に言い切っているように感じられる。しかし、実際の加藤の発言は「はい……それはもう……4人……」というような具合で、東に責め立てられてしどろもどろ(?)な様子が会場の笑いを誘っていた。私などはむしろ加藤の無防備さに好感を持ったほどだ。その感じを誌上に再現するのが難しいことは分かるが、残念。


(2018.8.11 記)

 このように考証をしてみると、田中の「四十町という具体に感銘がある」との評価はやはり誤読に基づいているような気がする。掲出歌の下句で重要なのは四十町の実体などではなく、四十町という言葉そのものだ。その言葉の選択が掲出歌の眼目なのだ。

 そして、そう考えてこそ田中の

 ……「立ち」「砂町」の「chi」の連続から、さらに近似の「四十町」の「chyo」へ伸びて調べを形成している。これは隠れた修辞と言える。


との見解も生きると私には思われる。


(2018.7.29 記)


 砂町四十町について、土屋文明本人は、

 あれは砂町四十町という地名なんです。実際の、区役所に載った正式の行政区画じゃないかもしれませんがね、あのへんの俗称なんですね。(『歌あり人あり:土屋文明座談』片山貞美編、角川書店、1979年)


と説明している。その後、近藤芳美はこの一首の鑑賞文中で、

 砂町は東京湾につづく城東区の一地劃の地名。(『土屋文明』、おうふう、1980年)


とだけ記して「四十町」には触れていない。

 新貝雅子も上記の文明の発言を引くだけで、それ以上に詳しい考証に踏み込んでいない(「土屋文明短歌研究」12、『アララギ』1992年10月)。

 鎌田五郎『土屋文明秀歌評釈』(風間書房、1999年)は「模範新大東京全図」(九段書房、訂正29版、1936年)を見たものの、

 " 四十町 " の地名は発見し得なかった……


という。

 さて、砂町は元々南葛飾郡下の町だった。それが1932(昭和7)年10月に東京市に編入され、城東区となった。同時に大字も再編されて四十町の区域は南砂町七丁目となり、地図上から四十町の名が消えたのである。

 次の地図1は、1931年5月発行の高岡正次「東京近郊地図」(訂正八十二版、龍王堂、部分)。旧葛西橋の南側に「四十町」の三字が見える。

 (地図1)
IMG_1125.jpg

 一方、次の地図2は、1934年8月発行の小林又七「大東京市地図」(川流堂、部分)。前の地図の四十町を含む区域に「七丁目」とある。

 (地図2)
IMG_1129.jpg

 掲出歌の初出は『短歌研究』1933年1月号。城東区の新設直後の作で、砂町四十町はすでに「正式の行政区画」ではなくなっていた。だが、土地の言葉はそう簡単には変わらない。住民は従来通り、その区域を「四十町」と呼び続けていたのだった。

 『短歌研究』同号の企画「大東京競詠短歌」は、東京市の周辺五郡編入を記念したものだった。変貌する大東京の現在を歌に詠ませる意図が編集部にはあったことだろう。しかし、文明は現代的な風物とともに、旧来の風物や言葉も歌に取り込んだ。「砂町四十町」はその一例だ。

 ついでに言えば、同時に発表された歌に次の一首がある。

砂村の火葬場近くなりてより葱に漬菜に青き家したし
  (歌集本文とは異同がある)


 この「砂村の火葬場」は四十町の北に位置しており、地図1にも載っている。旧砂村が砂町に移行したのは大正年間の1921年。ところが、火葬場はその後も変わらず「砂村」と呼ばれていた。この古い呼び名もまた文明によって記録されたことになる。


(つづく)


(2018.7.28 記)

 『短歌往来』7月号掲載の田中教子「短歌と修辞の本来の関係」が土屋文明の高名な一首、

小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
  (『山谷集』1935年)


を引き、

 「小工場」「溶接」のウの連続、「立ち」「砂町」の「chi」の連続から、さらに近似の「四十町」の「chyo」へ伸びて調べを形成している。これは隠れた修辞と言える。


と記しているのは穏当な指摘だと思う。しかし、

 この歌は、近代科学の発達から機械化の進む町と、人の営みを壮大なアングルから捉え、今しも夕闇の手が砂町の四十町めに届いたことをあらわしている。アングルと四十町という具体に感銘がある。


としているところはよく理解できなかった。「壮大なアングル」というほど、これは壮大な景色の表現だろうか。

 小市巳世司もかつて「上句の鮮明な微視的な影像と、それを包み込む下句の巨視的な大らかな影像」と発言していた(「土屋文明短歌研究」12、『アララギ』1996年10月)。「微視的」も「巨視的」も「壮大」も大仰に過ぎるように、私には思われる。

 「四十町という具体」なる評言も難解だ。実在する町に取材しているのだから「具体」には違いないが、ことさらに「四十町」の語を抜き出してそのように言う理由が分からない。

 もし私の勘違いだったら申し訳ないことだが、ひょっとして田中は江戸八百八町というのと同じように、「四十町」を多数の街路くらいに解しているのではないか。「砂町の四十町め」の「め」も衍字のようで衍字でなく、実は四十番目の街路というほどの意味で使っているのではないか。それなら、「壮大」の一語も腑に落ちる。

 ただ、もちろん「四十町」はそんな意味の言葉ではない。それは砂町の大字の名に過ぎない。しかし、少し調べてみて、気が付いた。先行研究も案外この「四十町」の考証に手を付けていないようなのだ。


(つづく)


(2018.7.27 記)


 鈴木竹志氏の6月29日付のブログ記事「島成郎のこと」

島成郎の母親は、高安綾子という。
こう書けば、誰しも高安国世の縁戚ではないかと思うだろう。
実際に高安綾子は、国世の長姉である。
つまり、島は、高安国世の甥である。
このことは、
松村正直の『高安国世の手紙』にも書かれている。


とある。私は島成郎という人物のことをよく知らないが、短歌界隈では松村正直『高安国世の手紙』(六花書林、2013年)が初めて高安国世とこの島成郎との関連をきちんと指摘したのではないのか。

『高安国世の手紙』にも書かれている。


といった言い方(にも、って何さ!)は、研究の場でのプライオリティーを軽視しているように聞こえる。また、当該記事には

松村は島について、
「全学連の書記長」と書いているが、
私は、ひょっとして、
松村は、島がブント(共産主義者同盟)の指導者であったことを
知らないのではないかという気がしてきた。


との記述もある。しかし、『高安国世の手紙』の参考文献(405頁)に

島成郎記念文集刊行会編『ブント書記長 島成郎を読む』情況出版 二〇〇二


があり、その一節を本文でも引用している(315頁)のだから、松村さんは「島がブント(共産主義者同盟)の指導者であったこと」を知っていた、と見るのが自然だろう。鈴木氏はさらに、

私の説は、
高安は、甥の島がブントの指導者として、
安保闘争に中心にいることを当然承知していた。
だから、「塔」に高安にしては、
珍しい政治的な内容に関わる歌も文章も載せたのではないかというものだ。


とも書くが、「高安は、甥の島が」「安保闘争の中心にいることを当然承知していた」というのは松村さんがすでに推測していたところであるし、「だから」以下の思い付きは『高安国世の手紙』の論証の堅実さとは比べようもないと思う。


(2018.6.30 記)

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Author:和爾猫
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