最新の頁   »  短歌一般
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
     §


 上野さんの話を聞いたのとちょうど同じ頃のこと。深夜、友人の運転する車の助手席に私は座っていた。車は横須賀市内の国道16号の下り車線を走り、折から安浦付近に差しかかっていた。両側は古い商店街で、歩道の上にアーケードの屋根を張っている。時間が遅いので大半の店がシャッターを下ろし、人通りもない。どういう話の流れだったか、友人が「***の看板の下にお婆さんが立ってて、それ、客引きなんだって」と言った。「ふーん」と相づちを打つや否や、照明付きの小さな看板が目に飛び込んできた。左側の建物の二階から突き出ていたと記憶するが、おそらくそこだけアーケードが切れていたのだろう。とっさに看板の真下に注目すると、それらしい老女が立っていたから驚いた。だって、一応国道だから。

 当の家は裏通りにあり、***はその家とは特に関係もない店か何かだという。友人ももちろん、確かなことは何も知らなかったに決まっている。年頃の男が興味を持つ都市伝説の類を、ただちょっと話題にしただけだ。


     §


 『俳壇』3月号の特集「わがこころの駅」に柴田千晶氏が「京急安浦駅」というエッセイを寄せている。この京浜急行の駅は、十数年前に神奈川県立保健福祉大学の開学に合わせて「県立大学」に改称された。今はない駅名をエッセイのタイトルに採った理由はよく分かる。地元の人には、安浦はあくまで安浦なのだろう。

 ついでに言うと、ここの駅舎は元々は小さくてかわいらしい洋風建築で、昭和初年の開業当初からあったものだと伝えられていた。しかし、駅名改称と同時にそれもあっさり取り壊され、跡に駅舎とも呼べない安っぽい箱が建った。京急は電車のデザインにはそれなりに配慮しているものの、駅名と駅舎の伝統は大事にしない。実利一辺倒のつまらない社風だ。

 さて、柴田氏は、

 映画館は、安浦駅から伸びる細い路地が、国道16号線にぶつかる辺りにあった。
 国道の向こう側は、海を埋め立てて造った土地、安浦三丁目になる。子供が近寄ってはいけない色街があった場所だ。(略)二〇〇〇年あたりまで、住宅街の中で二、三軒が細々と営業していたという。


と記し、

ポン引きの老女も居りぬ花曇


という一句を書き付けている。あの夜、「ポン引きの老女」の最後の一人を私は見たのかも知れない、と想像してみる。


     §


 つい先日、同じ国道16号の下り車線を一人でドライブした。二十三時頃だった。安浦の辺りを通り過ぎるときにあの看板を目で探したが、見当たらなかった。老女もいなかった。


(2019.6.17 記)

 一度だけ、結社みぎわの歌会に誘われて参加したことがある。、二十年以上前の話で、場所は東京駅構内のどこかの喫茶店だった。上野久雄さんがいて、河野小百合さんがいた。このときのことをよく憶えているのは、私の出したつまらない一首を上野さんが褒めてくれたことともう一つ、上野さんの別の話に私には馴染みの三浦半島の地名が多く出てきたからだ。細かい内容はさすがに忘れてしまった。戦時中、入院していた衣笠の病院を抜け出し、安浦まで行ってちょっと酒を飲んだとかいう話だった。軽妙な語り口で、おもしろかった。誤解されると困るが、本当にちょっと飲酒しただけとのことだった。ただ、「安浦は色っぽい街でね」という言葉を記憶している。

 上野さんは1927年、山梨県の生まれの由だが、みぎわのサイト掲載の沢井照江編「上野久雄略年譜」を見ると、

 1941年 14歳 横浜市神奈川区青木町に住む開業医の叔父を頼って転居。


とあり、さらに、

 1944年 17歳 8月、喀血して肺結核の発病を知る。


とある。また、三省堂版『現代短歌大事典』の上野久雄の項には、

 横浜専門学校(現、神奈川大学)を、一九四四(昭19)年に肺結核のため中退。


ともある。私が聞いたのは、つまりこの時期の話だったようだ。


(2019.6.15 記)

 それにしても、「日」の字が電車の窓を想起させると平岡直子が書くと、本当にそう見えてくるのが不思議だ。この人の言説は何となく教祖めいていて恐い。ただし、時代考証をきっちりするなら「電車の窓」説は苦しいだろう、というのが前回の記事の主旨。ああ、われながら野暮だ。華やかな弁論術の真似は、私にはできない。

 引き続き、佐藤佐太郎の代表歌、

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く

 (『帰潮』1952年)


に関する話である。

 この歌を読むときに、迷わず昼間の電車を思い浮かべなかっただろうか。夜の電車でも歌意は通る。窓からさす街の灯りかもしれないし、あるいは床を垂直に照らす車内灯かもしれない。それでもこの電車に昼の光を感じ(略)てしまうのは、「秋分の日」によって決定していたことなのだ。わたしはこの歌の「日」の字なら飽きずにずっと眺めていられる。


 前回も取り上げた平岡直子「一首鑑賞:日々のクオリア」の、これは末尾の記述。私はこれにも虚を突かれ、問題の一首を何度も読み返すことになった。たしかに「床にさす光」が日光だとはどこにも明示されていない。そして、そうであるにも関わらず、読者は昼の電車を思い浮かべるという。言われてみれば、その通り。しかし、なぜ昼の電車を思い浮かべてしまうのだろう。

 平岡は、「秋分の日」の「日」の一字が日光を連想させるからだという。おもしろい指摘だと思う。ただ、「夜の電車でも歌意は通る」というのは、筆がやや走り過ぎたのではないか。車内灯が照らす床の上にさらに「街の灯り」が重なって見えることなど、現実にはあり得ない。たとえあり得たとしても、街の明かりはたちまち流れ去り、あるいは明滅を繰り返すはずだ。

 電車が疾走して外景がどんどん移るのに日ざしは動かずにおかれたもののように床に照っているというのである。(佐藤佐太郎『短歌指導』短歌新聞社、1964年、133頁)


という佐太郎本人の注記を待つまでもない。動かないように見える光だから「ともに運ばれて行く」となるわけだ。昼の日光以外でそのような光があるかというと、まあ、ないだろう。読者が「迷わず昼間の電車を思い浮かべ」ることができる第一の理由はこれだと私は思う。なお、動詞「さす」の原義は、「ある現象や事物が直線的にいつのまにか物の内部や空間に運動する」(広辞苑)。車内灯が車内の床を照らすことについて、「さす」とは言わない気がする。

 ところで、大辻隆弘『佐藤佐太郎』(コレクション日本歌人選、笠間書院、2018年)は同じ一首を取り上げて、

 作者は休日の朝、人の少ない電車に揺られていたのだろう。座席に座っている作者の足下を窓から入った秋の日差しが照らす。(48頁)


と述べている。これまた、興味をそそる。なぜ朝だと限定できるのだろう。なぜ作者は座席に座っていると? 大辻が歌の言葉を離れて自由気ままに想像を膨らませるはずがない。つまり、こういうことだろう。床に差す日光が観察できるくらいだから、吊り革につかまって立っている客はおらず、作者も座席に座っている。休日で電車がすいている時間帯は朝だ——。

 大辻のこの本は、歌を読み解くことの楽しさをよく伝えてくれる。一読者としてそのことをありがたく思いつつ、さらに考えてみる。朝の日の光は電車の床に落ちるだろうか。日差しの角度から考えて、それは昼前か昼過ぎの情景ではないか。


(2019.6.9 記)

 季節外れのタイトルですみません。2018年10月24日付の平岡直子「一首鑑賞:日々のクオリア」を最近になって読んだもので。

 佐藤佐太郎の代表歌の一つ、

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く


を取り上げた回である。平岡はこう書いている。

 電車の床に着眼するのも、実際には運ばれているわけではない光をあえて主観的に「運ばれて行く」と描写するのも、それなりに巧みな表現なのかもしれないけれど、そんな巧さが名歌を生むわけじゃない。この歌の奇跡は「秋分の日」という言葉のおそろしいほどの効き方にある。


 おそろしいほど効いているのは平岡の筆力であって、こんな有名過ぎる歌に対して独創的な解釈を繰り広げながら説得力があり、読んでいてすごくおもしろい。ただ、子細に検討してみると疑問点もあるにはあるので、後々の研究のために一応メモしておこう。

 その「日」の先に「電車」があらわれるとき、わたしたちが思い出すのはこの漢字のかたちの窓である。電車の窓。ローカル線でみたことがある、上げ下げすることで開閉できる窓だ。


 「上げ下げすることで開閉できる窓」は今日の目にはただ古い電車の窓というように見えるわけだが、どうだろう。この歌を収録する歌集『帰潮』は1952年の刊行。そして、「日」の形に似たその電車の窓は、実はそれよりも後の時代に登場したのではなかろうか。

 等分というイメージを図形的にあらわしたかのような漢字「日」……


と平岡はいうのだが、私は当時の写真でそんな形の窓が写ったものを見た記憶がない。電車の歴史をよく知らないから、間違っていたら申し訳ないことだが。


(2019.6.5 記)

 こととへば秋の日は濃きことばにてわれより若きガルシア・マルケス

   山中智恵子『神木』(1986年)



 鼓直氏が亡くなったと聞いた。例の通り、ウェブ上に知りたい情報は何もない。代わりに『伝奇集』の鼓訳を揶揄的に非難するページを見付けて、腹が立った。学問を批判の対象とすることは当然だ。しかし、篠田一士訳や鼓訳が存在しなければ、こやつはボルヘスの名すら知らないままだったに決まっている。先学への敬意を欠く者は常に下品だと思う。

 昨秋、鼓編『ラテンアメリカ怪談集』(河出文庫、新装版、2017年)収録のエクトル・アドルフォ・ムレーナ『騎兵大佐』をたいそうおもしろく読んだ私は、鼓氏にファンレターのような手紙を書いた。氏はその手紙を確かに読んでくださったそうだ。これも伝え聞くところによると、氏がラテンアメリカ文学の翻訳を志したのは、この『騎兵大佐』の原文に感銘を受けたのがきっかけだった由。

 山中智恵子の一首を当ブログの記事に引いたのは、ちょうど五年前のことだった。今、同じ四月に再びこの歌を思い、日本の伝統詩人と詩人気質だった翻訳家との縁を思う。というのは、山中もまた鼓訳の本で『百年の孤独』を読んだに違いないから。


(2019.4.6 記)


 加藤治郎がツイッターで水原紫苑を「ニューウェーブのミューズ」と呼んでいたという。そのことを批判する川野芽生の時評「うつくしい顔」(『現代短歌』2019年4月)を読んで、私は初めてそのことについて知った。川野によれば、加藤は

 水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった/穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった/凄みのある美しさが、彼らを魅了した


と記していたそうだ(「うつくしい顔」からの孫引き、元のツイートは加藤本人がすでに削除した由)。また、シュールレアリストたちの「ミューズ」を踏まえているといった付言もあったという。なるほど、いろいろと批判を受けそうな内容ではある。後の付言はみずから墓穴を掘っている気もする。ただ、川野の文章の一部が加藤の発言への批判にとどまらず、川野自身の信奉する思想の宣伝になっていること、には注意した方がよいと感じた。

 権力のある人間に容姿を評価されることと、それを利用させろと要求され(つまりは、性的に迫られ)、拒絶すれば多くのものを失う危険との距離はあまりに近い。容姿を褒められた瞬間にその相手の脳裏をよぎる恐怖を想像する手間を省きたいなら、他人の容姿になんか口出ししないことを強くおすすめする。


という箇所の前半はどこかの国の男性高級官僚と女性記者との関係には当てはまっても、加藤と水原の関係には当てはまらない。もちろん川野もそれはよく理解しているに違いないが、そうであるにも関わらずことさらに言い立てるのは川野の文章の主目的が思想の宣伝に移りかけているからだと思う。

 憧れるというのは、蔑んでも唾を吐きかけても殴っても、相手は痛みを感じない存在だから、なにかよくわからないすごいものだから、自分とは違って大丈夫なのだと思い込むことに過ぎない。


と主張する川野であっても、加藤が水原を「殴っても」いいと実際に思い込んでいるなどとはさすがに主張できない。当該箇所は「憧れる」行為一般を対象とした意見表明なのだ。

 さて、川野が引くホイットニー・チャドウィック『シュルセクシュアリティ』(PARCO出版局、1989年)の男性シュールレアリスト批判を加藤は未見だったと思われるが、その後、本を手に取ってみただろうか。


(2019.3.17 記)

 『ねむらない樹』vol.2(2019年2月)の特集「ニューウェーブ再考」の白眉は何と言っても平岡直子「ほかでもなく」である。この一頁の批評文だけでも、ムック一冊の定価千四百円を差し出すのに値する。

 昨年6月のシンポジウム「ニューウェーブ30年」で荻原裕幸や加藤治郎、穂村弘がニューウェーブの歌人に女性は含まれないとか、彼ら自身を含む「四人」だけがニューウェーブだとか断定したのだったが、平岡の文章の目的はそれへの異議申し立てにほかならない。その一番言いたいところは結局、

 会場から東直子が挙手をして、東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人を挙げながら、彼女たちが「ニューウェーブ」に入らない理由を質問した。むろん愚問であり、ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない。


の「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」というところであり、それをわざわざ文章化した動機はもちろん、加藤によるところの、

 「女性は自由に天翔ける存在だから」という、神秘化の体で女性を疎外するほとんど典型的な性差別発言……


に対する反感だろう。

 瞠目すべきはこの異議申し立てをそのまま理屈っぽく述べるのでなく、怪しげな寓話仕立てでもってしたことだ。老いも若きも真っ正直な人たちが揃う(?)歌壇にあって、このような弁論術の持ち主は得がたい。しかも、その寓話を作り出す想像力や構想力が卓越している。

 荻原らは東直子やその他「何人かの女性歌人」をニューウェーブから除外した。それは実際のところ、ニューウェーブが秘密の「塚本邦雄のファンクラブ」だからだ——と平岡は言うのだが、このたとえ話はニューウェーブをまことにうさん臭く、滑稽な小集団として印象付けることに成功している。

 なるほど、荻原はニューウェーブを自称し始めた当時、塚本邦雄が主宰する結社玲瓏の会員であったし、穂村は塚本の影響を受けたことをたびたび公言してきた。このように虚構に真実を紛れ込ませるのもまた、虚構にもっともらしさを与える弁論術の一種であり、

 後進の才能も精力的に発掘し、枯らせたり咲かせたりした。


という一文や、

 次第に「ニューウェーブ」という名称は一人歩きをはじめ、それを政治集団だと思う者も、方法論だと思う者も(略)いたけれど、彼らはあえて誤解されるままに任せた。


という箇所もその類であって、その冴えた技巧は修辞の妙も兼ね備えて見事なものだ。

 彼らが開発した軽くあかるく空虚なポエジーは短歌史上にきらめく雲のようにぽっかりと浮かんでおり、それを目印にして多くの人が短歌の扉を叩いてきた。


というのも、平岡としては虚構の中の真実のつもりで書いたものだろう。そして、きわめつけが末尾の歌の引用である。

萬緑の毒の緑青なにゆゑにどの山もみな男名前か

  塚本邦雄


 正直に言えば、私はこの一首を知らなかった。塚本のちょうど九十年代の歌集か、あるいは何かの選集で目にした気もするが、とにかくはっきりとした記憶がない。いやもちろん、私がそうだというだけで、現代短歌の読者にはよく知られた歌なのかも知れないが、少なくとも私のような者に平岡の読書量のとてつもなさを恐れさせる役目をこの歌の引用は果たした。

 なおまた、塚本歌集では塚本歌集なりの文脈で読まれるに違いない一首を、それとは異なる自分一人の文脈に引き付けて利用し、しかもその字句との間に少しの矛盾もない点、本音は自分の言葉でなく他人の言葉に語らせる点も平岡の弁論術の一部であり、それをさりげなく使いこなすさまはほとんど老獪と言ってもよいほどだ。

 あの塚本邦雄のファンクラブとしては、装飾的な漢字の組み合わせによる煌びやかな、そしてどこか呪詛的な名前がもちろんふさわしかったけれど、「ニューウェーブ」という間延びしたカタカナの名称があえて選ばれたのは、それがファンクラブであることを世間の目から隠すためであった。表向きはほかの結社に所属し、ほかの前衛歌人に師事している隠れキリシタンのような会員もいたためである。


とは前半の一節。伝え聞くところによると、加藤が最近、ツイッターで「私は、岡井隆です/ファンクラブなんて生易しいものでもない」云々とつぶやいていたそうだ。平岡の文章への抗議だろう。しかし、全てはニューウェーブ四人説に皮肉を言うためのたとえ話であり、笑い話なのだ。加藤がニューウェーブ四人説を撤回できない以上、その抗議も無効に終わるほかないと思う。

 もちろん、肝心かなめの「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」なる主張の根拠は、平岡は全然示していない。その意味で、ここでの平岡の主張の中身は真偽不明の思い付きに過ぎない。また、彼女たちがニューウェーブに入れない理由のパロディーたる「ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない」においては「作風」への言及が抜け落ちており、寓話の論理に若干無理が混じりかけてもいる。しかし、だからといってこの批評文全体に対しフェイクだなどと真っ当に過ぎる判定を下す人が仮にいるとしたら、平岡の弁論術と修辞に学ぶことを私はその人に奨めたい。

 終わりに一つ、私が納得の行かなかったところに触れておこう。西田政史は玲瓏の元会員ながら昨年のシンポジウムでみずから「塚本邦雄のファンクラブ」の一員であることを否定していたはずだが、その西田をも平岡が執拗にファンクラブの一員に数えようとするのはなぜなのか。

 しかし、その信仰の神聖さを説明する用意のなかった壇上の四人は慌ててしまい、いくつかの失言をした。


というのは「ほかでもない」平岡自身の言葉だが、平岡からして「四人」と決め付ける辺りに私はいささか気色の悪さを感じた。


(2019.3.9 記)

 佐藤佐太郎の第一歌集『歩道』(1940年)に、

電車にて酒店加六(しゆてんかろく)に行きしかどそれより後は泥のごとしも


という著名な一首がある。秋葉四郎氏が銀座四丁目の居酒屋「酒の穴」を紹介するついでに、

 「加六」も、田村元氏の調査に拠ると、この「酒の穴」の筋向かいで、


云々と書いている(「銀座「酒の穴」」、『歌壇』2018年11月号)のを読み、驚いた。「加六」については未詳と思っていたが、田村元さんがすでに調査済みで、その所在地も突き止めているというのだ。

 田村さんはいつ、どこでそれを発表したのか。新刊『歌人の行きつけ』(いりの舎、2018年12月)を読んで分かった。巻末に秋葉四郎氏との対談の記録があり、そこで田村さんが加六について詳しく考証しているのだ。初出の記載がないので、この単行本が初収なのだろう。つまり、対談で田村さんが話したことを秋葉氏が先に随筆に書いてしまい、その後で対談記録を収める『歌人の行きつけ』が刊行された、という順序である。

追記(2019.1.30)—この対談記録の初出は『うた新聞』2015年4月号とのこと、松村正直さんからコメントをいただいた。正しい順序は、対談(2015年2月)、記録初出(『うた新聞』2015年4月)、秋葉氏の随筆(『歌壇』2018年11月)、『歌人の行きつけ』(2018年12月)となる。下のコメント欄をご参照ください。秋葉さん、失礼なことを書いてすみません。

 さて、その考証がとてもおもしろい。田村さんは佐藤佐太郎『互評自註歌集:歩道』(1948年)に「加六は銀座にある飲屋で、菊正宗の上等なのを飲ませた」とあるのを出発点に銀座関係の資料に当たり、まず明治生まれのジャーナリスト松崎天民の『銀座』(1927年)を見出だす。同書によれば、国木田独歩『号外』の舞台である「正宗ホール」が加六だという。さらに今和次郎『大東京案内』(新版、1929年)を参照して、クロネコなる店にトンネルがあり、加六に通じているとの記述があることも発見する。

 そして、最後の決め手は1935年発行の地図『躍進:大銀座街之図』(東京商工案内社)。『歌人の行きつけ』の見開き二頁分を使って、該当部分を掲げている。それを見ると、銀座二丁目の「クロネコ」の裏手に確かに「嘉六」との記載があるのである。

 考証の信頼性は複数の証拠を組み合わせることで生まれる。田村さんの加六の調査はその手本のようだ。当時の地図や書物で固有名詞の漢字表記に異同があることは、さほど珍しくもない。佐太郎の言う「銀座にある」加六と1935年の銀座の地図の嘉六は同じ店と考えてよいだろう。『号外』は1906(明治39)年初出で、佐太郎の掲出歌は1937年1月初出だから、加六は少なくとも銀座で三十年以上続いた店ということになる。

 なお、田村さんは触れていないが、銀座二丁目のクロネコは1927年に開業したカフェーの有名店。ウィキペディアの「カフェー」の項には1930年頃のクロネコの店内の写真二枚(『大東京写真帖』忠誠堂、1930年)が掲載されている。モガとモボが闊歩していた時代の銀座である。カフェーと言っても、今日のスターバックスではない。その業態は風俗営業の一種で、女給が接待して洋酒を飲ませ、男客は飲食代を払うほか、女給にチップを渡すなどするのである。

 佐太郎が掲出歌を詠んだ1936年頃のクロネコは、どんな営業の仕方だったのか、私の手元には資料がない。しかし、まだ「支那事変」の前である。警視庁の取締りもあったとはいえ、それほど大きな変化はなかったと思われる。

 東京都の中央区立図書館のサイトで、1934年の絵葉書とおぼしいクロネコの外観の写真を見ることができる。夜の闇にネオンサインがまばゆく、華やかだ。佐太郎が加六の手前で目にした光景と考えてよいだろう。田村さんの考証に教えられる以前、私は「酒店加六」をもっと違った風景として、勝手に想像していた。銀座でもややはずれのさびしい裏通りの小さな店というように。なぜだろう。佐太郎の顔写真の地味な印象が先入観として働いたものか。実際のところ、加六の客は歓楽街の灯をいっぱいに浴びながら店に通ったのだ。掲出歌の「電車」は東京市電だろうが、市電にわざわざ乗って酒を飲みに行くところに格別の欲求を読み取るべきなのかもしれない。

 興味をそそるのは、クロネコのトンネルの話である。それはまるで異界につながる通路のようではないか。掲出歌の主体がそのトンネルを通って加六に入ったとすれば、加六はまさに泥酔にふさわしい異界ということになる。私はここまで考えて、しばし想像の世界に遊んだ。佐太郎が加六の客となった頃にトンネルがまだ残存していたことが確認できればよいのだが、どうだろう。

 残念ながら、その確認はなかなかできないようだ。今和次郎の著書と同じ、1929年刊行の『東京銀座商店建築写真集』(吉田工務所出版部、国立国会図書館のサイトで全編閲覧可)という本がある。その11頁の「黒猫、オリムピツク」という見出しの写真を見ると、『歌人の行きつけ』掲載の『躍進:大銀座街之図』にあるような並び方でその二店舗が写っている。ところが、次頁の「クロネコの新装」という見出しの写真では、カフヱークロネコの外観が一新され、オリムピツクとは逆側に一区画分増築されたように見える。その説明文はこうだ。

 これは前図の旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造して面目を一新した、カフヱークロネコの新装、鎖までぶらさげての汽船模造、銀座航行曲の尖端を行かうと云ふ戦術。


 写真を見る限り、店舗の間口が二倍の広さになり、その横長の外観を真横から見る汽船のような装いに仕立てたようだ。どうして「旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造」するというようなことが簡単にできたかというと、立派な西洋建築に見えて、実はいわゆる看板建築だからである。

 しかし、『躍進:大銀座街之図』によれば、オリムピツクとクロネコの先には細い横丁が一本ある。だから、クロネコはそちら側には店舗を拡張できないはずでは……? そう、これこそ「トンネル」の存在理由だろう。横丁をふさぐわけにはいかないので、トンネルにしたのである。そんなことが容易にできるのも看板建築ゆえで、表から見たら横長の間口の一棟でも、看板の後ろは二棟ということだったのだ。

 ただし、このトンネルの設置期間はごく短かったとも推測される。クロネコは、翌30年にはもう、横丁より向こう側の増設分を手放している。当時、大阪のカフェーがエロ・グロの奇抜なサービスを売りに、次々に東京進出を果たしていた。クロネコが手放した区画には大阪道頓堀のカフェー赤玉が入り、「銀座会館」となった(石川偉子「文学からみる近代日本におけるカフェ空間形成 」、第8回嗜好品文化フォーラム、2010年)。『躍進:大銀座街之図』でもオリムピツク、クロネコ、横丁を挟んで銀座会館の順で並んでいる。そして、少なくとも地図上では横丁の入口付近にトンネルがあるようには見えない。銀座会館はクロネコと一体化した外装を廃し、トンネルもなくなったと推測するのが自然だろう。

 せっかく楽しく想像したトンネルであるが、あきらめようか。
 

(2019.1.30 記)

 永田和宏『現代秀歌』(岩波新書、2014年)が春日真木子『北国断片』(1972年)から

憐れまるより憎まれて生き度し朝々に頭痛き迄髪ひきつめて結う


という一首を採ったことについて、私は当ブログで否定的な意見を述べたことがある。春日自選の『自解100歌選春日真木子集』(牧羊社、1988年)にその歌が見えないことを指摘し、それを選ばれるのは春日本人も不本意だろう、とも書いた。

 ところが、『現代短歌』2月号の特集「第一歌集の頃」を見ると、春日の『北国断片』自選五首のうちにその一首が入っている。ということは案外、作者本人にも愛着のある歌だったか。あるいは、永田の評価を知って、本人の評価も少し変わるところがあったか。

 いずれにしても『北国断片』にはもっとよい歌があるというのが私の意見で、たとえ作者本人に反対されても、それは変えようもない。


(2019.1.13 記)

 朝日新聞が元旦以来、一面トップに繰り返し昭和天皇の歌稿発見の記事を載せていた。ずっと以前から用意し、検討を重ねてきた記事に決まっているのだから、速報の体裁など取らず、一本のしっかりとした内容の記事にまとめればよかったのにと思う。

 ただ、7日付朝刊の記事「昭和天皇 和歌磨いた跡」には考えさせられた。昭和天皇の晩年の歌は御自身で推敲、側近が清書、相談役の岡野弘彦がそれに朱書きで助言を書き入れる、といった過程を経て完成したという。

 記事に引かれている例歌は二首で、一首目は、

うれはしき病となりし弟をおもひかくしてなすにゆきたり


 発見された清書原稿では、この「おもひかくして」に朱書きで「「(おもひつつひめて)」「秘」との書入れがあり、朝日の記者は相談役の助言と推定している。昭和天皇御製集『おほうなばら』(読売新聞社、1990)には、この書入れの通りに改めた形で載っているとのことだ。

 この助言の意図は分かりやすい。原歌では「弟を」と「おもひかくして」のいわゆる係り受けがうまくいっていないので、そこを手直しする案を出したのだ。

 では、二首目、

國民の祝ひをうけてうれしきもふりかへりみればはづかしきかな


はどうか。在位六十年記念式典の際の歌だそうで、清書原稿では「はづかしき」に朱書きで「おもはゆき」との書入れがあるという。この一首が後に公表されたかどうか、記事では不明。こちらの方は幾分疑問の残る助言と言ってよいかもしれない。ハヅカシの主な意味は、

 過ち・罪などを意識して面目ないと思う。(広辞苑、以下同)


 もしくは、

 何となくてれくさい。


 後の意味では「ふりかへりみれば」(=過去を振り返ってみると)とつながらず、一首が空中分解する。だから、ここは前の意味に取るほかない。一方、オモハユシは、

 てれくさい。きまりがわるい。


の意味で、ハヅカシの後の意味とほぼ同じ。この単語をハヅカシの前の意味のように解するのは難しい。したがって、助言通りに「ふりかへりみればおもはゆきかな」としてしまったら、この一首は意味が通らなくなる。

 思うに、それをも承知の上での助言であったか。


(2019.1.11 記)


 1 花笠説の要旨


 もしも花笠海月さんが法律の専門家だとしたら、私は全くの素人なのだからちょっと困る。しかし、ことは作家と作品について調べて書くときにしばしば突き当たる問題であり、私自身の拙い旧稿とも無関係ではない。だから、私も気になるところを書き付けておこう。

 それは、故人の未公表の著作物をどう取り扱えばよいか、という問題である。折しも『短歌往来』2019年1月号が永井陽子の作品を「未発表稿」として掲載している。また、これ以前に『短歌』2014年5月号が「永井陽子高校時代の未公開作品」なるものを掲載したこともあった。花笠さんの2018年12月23日付のウェブ記事「永井さんの「未発表」作品について」はこの二誌の企画を取り上げたもので、私の理解では、主に次の三点を主張する。


(1)作家には著作者人格権の一部として公表権が法的に認められている。作家に公表の意思がない著作物を他の者が公表することはできない。

(2)作家の死後に誰かがその未公表の著作物を公表するときは、作家本人に公表の意思があったことを明らかにする必要がある。また、その意思がなかったと判断される場合は、どのような手続きを経て公表に至ったのかを説明する必要がある。

(3)作家本人に公表の意思がなかった著作物は、作家の死後も公表しないでほしい。



 このうち、作家の生前の権利に関わる(1)は当然の指摘だ。他方、作家の死後の権利に関わる(2)(3)には、まだ議論の余地があるのではないかと思う。理由は主に二つある。第一に、その権利の有無や程度、保護期間については、専門家の間でも見解が分かれているように見えるということ。第二に、その主張は従来の伝記研究や文学研究の手法に見直しを求める内容を含んでいるが、それにしては従来の研究手法への言及がないことである。

 なお、上記二誌のうち、『短歌往来』掲載の作品が「未発表稿」と見なすべきものでないことは、松村正直さんのブログ「やさしい鮫日記」の2018年12月17日付の記事「「短歌往来」2019年1月号」が指摘している。また、花笠さんも『短歌』の掲載作品が「未公開作品」とはいえないことを指摘する。どちらもその通りと思う。ただ、私が考えたいのは特定の作家でなく、故人一般の公表権の問題だから、ここではそれらの指摘に詳しく触れることはしない。



 2 法的な問題


 まず法的な観点から検討しよう。花笠さんは、

 もし角川や往来の掲載されたものが本当に「未発表」であるのなら、まず永井さんの公開の意思の有無、ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要です。(同記事。以下の引用は、特に断らない限り同記事より)


と言う。(2)の主張である。永井陽子の「公開の意思の有無」を問うているのは、永井の死後もその意思を尊重すべきだと花笠さんが考えているからだ。この考え自体はまず正当なものだろう。ただし、

 発表をする・しないの決定を含む著作人格権は、没後50年経とうと、70年経とうと消滅しません。


と断言するのはどうか。確かに学界の一部には同様の見解もあるようだ。しかし、一方で著作権法の条文には

 著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない。(59条)


とあり、かつ民法には「被相続人の一身に専属した」権利は相続の対象にならないとの規定がある(896条但書)。そのことを重く見て、著作者人格権は著作者の死亡により消滅すると解する専門家も多く、文化庁はその見解を採っている。簡単に決められることではないのだ。

 もちろん、だからと言って故人の著作物を誰でもただちに自由に公表できるというわけでもない。著作権法の条文には次のような文言もある。

 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなった後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。(60条)


 したがって、自分の著作物を公表するかしないかということに関する作家本人の意思は、作家の死後であってもやはり尊重されるべきなのだろう。

 では、それはいつまで、どの程度、尊重されるべきなのか。花笠さんは、永井に作品公表の意思が「ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要」という。これはつまり、作家に自分の著作物を公表する意思がなかったとしても、その死後に公表されることは従来あったし、今後もあると見ているのだ。そのようにして故人の著作物が公表されることを花笠さんは次のように説明する。

 「著作人格権は」「消滅しません」と書いたけど「消えないけど行使する人がいなくなる」が正確なんです。(略)(ということで年数経っちゃった人はサラッと無視される場合もあります)。

 (Twitterでの2018年12月23日付の発言)


 花笠さんの考えでは、著作者人格権の一部である公表権は著作者の死後も保護される。ただ、当然ながら、著作者自身は死後に自分の公表権を行使する手段を持たない。それゆえ、その意思に反して著作物を公表される場合もあり得る、ということだ。この通りだとすると、故人の意思に反してその著作物を公表することは、いかなる場合であっても法的に問題のある行為ということになる。

 もしこの考え方が広くみとめられるようになったら、伝記研究や文学研究は少なからずその影響を受けることになるだろう。作家の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等は通常、公表を前提に書き記されたものとは考えられない。したがって、それを公表し、研究の資料とすることはできないことになるのだ。小説好きの間で最近話題になっている日本近代文学館編『小説は書き直される:創作のバックヤード』(秀明大学出版会、2018年)などでも、法的な問題は残ることになろう。

 しかし、この考え方は妥当なのだろうか。作家の死後にその公表権が消滅するか否かの問題は、しばらく措く。いずれにしても著作物を公表するかしないかの作家本人の意思は尊重する必要があるのだが、前に述べた二つの疑問にもう一度戻ろう。第一に、その必要がある期間の問題。それは無期限なのか、それとも期間限定なのか。花笠さんは無期限説に賛同するだろう(注1)が、私は期間限定説も有力だと思う。

 著作権に関するベルヌ条約パリ改正条約は日本も批准したものだが、その条文には、著作者人格権は

 著作者の死後においても、少なくとも財産的権利が消滅するまで存続し、保護が要求される国の法令により資格を与えられる人又は団体によつて行使される。


とある(6条の2)。この故人に代わって著作者人格権を行使する資格を与えられる人とは、日本では著作物の公表の差止めを請求できる遺族、すなわち故人の配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹(著作権法116条)を指すと考えられる。したがって、前述の期間は「財産的権利が消滅する」著作者の死後五十年か七十年、もしくはそれら遺族が存命の期間と解することも可能と思うのだ(参考:三浦正弘「著作者人格権の保護期間」、『国士舘法学』2010年12月)。

 第二に、故人の権利を尊重する程度の問題。死亡した作家が生前に公表しないと決めていた著作物や公表を前提にしていなかった著作物は、その内容や性質を問わず、何であっても公表が許されないのか。前に引いた著作者の死後の人格権の保護に関する条文(著作権法60条)には、次の一文が付加されている。

 ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。


 専門家の間には、この条文の意図を比較的広く捉える見解もある。小倉秀夫「著作者人格権」(『現代知的財産法講座』Ⅱ、日本評論社、2012年)は、

 その著作者が、作家、画家、音楽家等として生前優れた業績を有している場合は、未公表の完成作品はもちろん、未完成作品やメモや草稿、素描や手紙等も高い文化的、資料価値を有しており、それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい。


と述べた上で、

 完成度に自分として納得していなかった未完成品については、それ以上完成度が高まることを期待できない以上、これを未完成品として公表する行為は当該著作者の意を害しないと認められる場合も多いであろう。


としている。この考え方によれば、著名な作家の創作ノートや推敲中の原稿の出版は、仮に遺族がその差止めを請求したとしても、認められる可能性があるということになるか。そうだとすれば、故人の公表権を尊重すべきことは当然としても、その程度は生前にその人が保持していた権利の場合より軽いことになる。

 もっとも、どの程度の行為が「著作者の意を害しないと認められる」のか、どうも分かりにくい。これまで、公表権をめぐる判例がほとんどないからだ。したがって、故人である著作者の未公表の著作物を公表しようとする者が「著作者の意を害しない」との判断を拠り所にしていても、それが否定され、法的に責任を問われる可能性は残りそうだ。

 なお、花笠さんは、

 有名人の書簡の公開をめぐって争われるのは、この公開の意思をめぐってであることが非常に多いです。


と言うが、著名な故人の書簡の公表権をめぐって争われた裁判としては、2000年に高等裁判所の判決が出たいわゆる「三島由紀夫手紙事件」しか私は知らない。花笠さんが「非常に多い」というのは訴訟にまで至らないトラブルかもしれないが、それについて詳しい方のご教示をいただければありがたいと思う。

 ここまでの検討結果をまとめよう。作家の著作物を公表するかしないかの意思をその死後も尊重すべきだ、との考えは正当だ。しかし、法的には、その尊重すべき期間は限定的である可能性がある。また、求められる尊重の程度も、作家の生前の権利に対するときより軽い可能性がある。ただし、それらの期間と程度について、現時点で具体的な基準が定まっているとは言いがたい。今後の判例や世上の議論を注視してゆく必要があるだろう。



 3 道義的な問題

 続けて、道義的な観点から検討しよう。花笠さんは、「永井さんの公開の意思の有無」および「どういう手続きを経て公開」したか、の説明が必要だというが、著作権法にそのような規定があるわけではない。道義的な問題意識に基づく主張だろう。

 私はこれに必ずしも賛成しない。仮に故人の未公表の著作物を出版するに際してその「公開の意思の有無」の説明が必要であるなら、存命の作家の新作出版でもそれは同じはずだ。しかし、あらゆる出版物にその添書きを求めることは現実的でない。

 また、「どういう手続きを経て公開」したかの説明が必要だとの主張はどうか。これはおそらく、故人にその著作物を公表する意思が無かった場合(あるいは、あったか無かったか不明の場合)、遺族の同意を得て公表したことを言明せよ、ということだろう(注2)。小倉秀夫「著作者人格権」によれば、

 著作者の遺族には、公表権の侵害となるべき行為の差止めを請求する権限はあっても(著作116条)、公表について同意を与える権限はないから、著作者の死後の未公表作品の公衆への提供・提示について「権利者から許諾ないし同意を得ることにより法的リスクを解消する」方法はない。


という。公表の差止めを請求できる遺族が公表に同意しても、非親告罪である刑事罰(著作権法120条)を受ける可能性は残るし、その遺族の死亡後に別の遺族が差止めを請求する権限を得てそれを行使する可能性も消えない。遺族の同意を得ることは、「法的リスク」を軽減はしても解消はしないのだ。それはむしろ、「当該著作者の意を害しない」かどうかの判断を遺族にゆだねることで道義的な問題を解消する方法と見るべきだろう。

 遺族の同意を得ること自体は、道義上、必要な手続きだと私も思う。遺族の同意を得ている旨を言明することが望ましいとも思う。ただ、実際にはその言明が難しいこともある。例えば、遺族が公表に積極的ではないものの、その意義は認めて暗に同意する場合などである(注3)。

 さて、花笠さんは、

 「未公開」「未発表」の意思が本人にあるならば、それを尊重してほしいです。


と言う。作家の著作物を公表するかしないかの意思は道義的にも無制限に尊重するのがよいという、(3)の主張である(注4)。出版社や研究者に向けた発言であると同時に、作家の遺族に向けた発言でもあろう。

 「三島由紀夫手紙事件」の判例から考えれば、作家が公表を前提としていない著作物は、「未公表」の意思のある著作物と同様に扱われそうだ。もしそうだとして、しかも花笠さんの(3)の願望が通るとしたら、どうか。作家の未公表の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等を公表し、研究の資料とすることは、やはりほとんど不可能になる。伝記研究や文学研究の場で従来認められてきた手法が認められなくなるのだから、それが今後の研究に与える影響は小さくない。前に引いた法律家の言葉をここにもう一度引いておこう——「それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい」。






1. その後、花笠さんは2019年1月2日付でウェブ記事「著作権についての考え方」を追加している。そこでは、作家の生前に未公表だった著作物を公表するのに、

 確実に問題がないのは、没後70年すぎていて、かつ関係者および権利者も全員がすでに死亡していると思われる年月が経っている場合。


とあり、期間限定説の立場に立っているようにも見える。ただ、12月23日付「永井さんの「未発表」作品について」での主張を撤回すると明記しているわけでもないので、読み手としては両者の齟齬をどう整理して理解すればよいか迷う。また、この1月2日付記事では「あくまでも個人の考えです」と念押ししたり、著作権に繰り返し言及しつつ「法律の話ではありません」と強調したりするなど、自説を強く主張しようとはしていない。私は差し当たり、12月23日付記事を議論の対象としつつ、1月2日付記事は注で触れるにとどめる。


2. 上記1月2日付記事には、遺族に

 「OKと言ってもらう」ことは商用利用でなければ、こだわることはないと思います。


とある。しかし、公表に至るまでの「手続き」というと、私などは遺族の同意を得る手続きしか思い付かない。ただ、同じく1月2日付記事には、

 発表の経緯というか興味本位ではないということの説明は必要と思います。


との見解も示されている。これをふまえれば、当該著作物を公表することに「文学的意義」(注4参照)があるかどうかの検討を花笠さんは「手続き」と呼んでいるのかもしれない。


3. 1月2日付記事には、

 権利者と関係者との力関係などもあり、OKとは言えない場合というのもあります


とある。これは著者の遺族と出版社との関係について述べたものだろう。場合によっては遺族の同意を言明できない、ということについては花笠さんと私の見解が一致しているようだ。


4. 1月2日付記事では「あくまでも私の考え」であると断りつつ、

 発表に文学的意義があること、他の文献に記載がないものであること


が確かであるなら故人の未公表の著作物でも公表してかまわない、との基準を示している。「法律の話ではありません」との言葉の通り、道義的な基準の提案だろう。花笠さんは12月23日付記事の(3)の主張を一旦撤回したのかもしれない。



(2019.1.4 記)



 特集の中のエッセイから印象に残った言葉を引こう。

 十二月号発売時、無事出産できている保証はなく、自分の経験を総括したり、時代と照らし合わせたりできる心境にはない(略)。(石川美南「ぴんとこなさ」)


 他の九編は回想記。石川のエッセイだけが現在妊娠中の心境を語ったもので、迫真性の度合いが違う。

 バイトをして一人の家に帰ってくると、食欲がなく、(略)子供が生まれてしまえば、しばらくは働けなくなるから、夜は装幀の仕事を一生懸命やった。(花山周子「二〇一一年夏のこと。」)


 生活するにはお金が必要、子育てにはさらに必要。きれいごとでないことまでちゃんと書いてある。

 息子を抱いて私は幸せだった。(棚木恒寿「ガラガラポン」)


 この短い一文が醸し出す不穏な空気に驚いた。


(2018.12.10 記)

 先月中に買っておいたのを、今日ようやく読み始めた。特集は「妊娠・出産をめぐる歌」。吉川宏志の総論、本多稜による関係歌五十首選のほか、十名の歌人のエッセイを載せている。その十名は若手・中堅の人たちのようで、エッセイを見ると、うち五名が出産経験のある女性、四名が配偶者に出産経験のある男性、一名が妊娠中の女性であるらしい。

 それで自分の感想だが、何というか、歌人の誰がそのような条件に合致するのかを調べた編集者が恐い。


(2018.12.9 記)


 1940年10月24日付中河与一宛太田水穂書簡は拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」に新資料として引用したものだが、その書簡に実はまだ判読に迷っている箇所がある——ということを一年ほど前、当ブログの記事に書いた。

 些かも不自然に無し、世人に必然観を与ふることと存じ……


と読んだ箇所だ。その「不自然に無し」辺りに違和感が残っていたのだった。

 ところが先日、そこは「不自然に無之」(フシゼンニコレナク)と読めるのではないか、と近代出版史が専門の浅岡邦雄氏から指摘された。私の蒙を啓く教えでとてもうれしく、いささか興奮した。

 以下、理由を述べて、当該箇所の読み方を氏の指摘の通りに訂正する。これはもちろん私の責任ですることであり、ご批判等は私が受けるものだ。


     §


 私が当該箇所に引っ掛かっていたのは、フシゼンニナシがどうも聞き慣れない言い回しであったからだ。その点、フシゼンニコレナクには違和感がない。

 では、字形はどうなのか。その箇所の画像を見よう。

 31 些かも不自然に無之 2 s47
 (画像a
  些かも不自然に無?、世人に必然観を)
 (ほぼ原寸大、以下同)

 「無」に続く一字は平仮名の「し」のように見える。しかし、「し」は元々「之」を崩した形なのだから、当然「之」とも読めるわけだ。

 ところで、この書簡には、ほかに平仮名の「し」および「じ」が延べ十六例ある。内訳は次の通り。

 「し」9例
  1 いたし 5例
  2 もし  3例
  3 せしめ 1例 

 「じ」7例
  4 存じ  6例
  5 信じ  1例


 この1から5まで、各一例の画像を見よう。

 06 お送いたしたく s47(画像b お送いたしたく)

 01 もし未だにて s47(画像c もし未だにて候はば)

 03 介在せしめ s47(画像d 介在せしめをり)

 24 存じますが s47(画像e 存じますが)

 00 信じます s47(画像f 信じます。)

 これらの「し」「じ」には注意すべき特徴が二つある。まず、起筆からほぼ真下に線を下ろしていること。これは十六例の全てに共通する。ついで、直前の字と連綿になっていること。こちらは「信じ」一例を除く十五例に共通する。また、「信じ」の場合も、「信」の末筆から「じ」の起筆までを連絡させる意識のあることは見て取れる。

 対して、問題の一字には、これらの特徴が明確にはみとめられない。線は起筆から直ちに右下へ流れる。直前の「無」の末筆から連絡させる意識も希薄なようだ。

 11 完膚無く s47(画像g 完膚無く)

 同じ書簡に「無」はもう一例ある(画像g)が、これを見ると必ずしも「無」以下が連綿にならないわけでもない。問題の箇所は、「無」とその次の字を意識的に単体に分けて書いたように見える。

 これらのことを併せ考えるに、その一字は平仮名の「し」とは区別して書いた字、すなわち漢字の「之」とみとめてよいのではないか。

 なお、この書簡の文字遣いは比較的平易で、返読を要する表記はほかに見当たらない。その中に一箇所だけ、返読を要する表記が紛れ込むものかどうか、若干気になるところだ。しかし、そのことを考慮しても、「不自然に無し」より「不自然に無之」と見る方が穏当だと思われる。

 以上の理由から、拙稿での読み方「不自然に無し」を取り下げ、「不自然に無之」に訂正したい。ご指摘をくださった浅岡邦雄氏に感謝します。


     §


 尚々、拙稿では画像bの箇所を「お送りいたしたく」としていたのだが、見ての通り、私の誤写だった。「お送いたしたく」に訂正する。


(2018.12.1 記)

 斉藤斎藤さんが昨日付の日経に市川保子『日本語誤用辞典』(スリーエーネットワーク、2010年)のブックレビューを寄稿し、平岡直子の一首、

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

(斉藤さんの文章からの孫引きです)


について次のように述べている。

 「悲しかった」と書くと、悲しい気持ちはもう過去で、今となってはいい思い出みたいだ。対して「悲しいだった」は、悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しいということだろう。文法的には間違いだけど、気持ち的にはこれが正解なのだ。


 「悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しい」というのは、気の利いた比喩だと思う。ほんとうにそうだな、と納得させられる。

 一方、「文法的には間違い」との指摘はどうか。たしかに、「……悲しいだった」はあまり聞かない言い回しではある。もしかすると、これはネットスラングの借用なのかもしれないし、作者としては幼児語のつもりで使ったものかもしれない。しかし、文法上、正しいか正しくないかといえば、これは正しい。もう完全に。

 いちいち説明するような野暮なことはしたくないが、まさに「フリーズドライ」的な言い回しなのだ。

 斉藤さんの今回のコラムで、平岡直子という歌人の名を初めて知った。この一首は名歌だと思う。三越のライオンという歌枕風の素材の選び方。それが見つけられない、といった余白の多い表現が読む者の想像を誘うところ。「悲しいだった」という独特の言い回し。その繰り返しが生み出す調子。

 そして、鍵括弧等を付ければ分かりやすくなるところを、あえて付けない表記の工夫。それで「悲しいだった」の独特さもより際立つ。

 現代短歌、やるね。


(2018.11.11 記)

ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930