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線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く

  竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』


 この歌について、もう少し。線香を手に取る場面でソフトクリームを連想するような、ずれた「私」とその「未決定の浮遊感」を述べ表すこと自体が、もしかするとこの歌の主題なのかもしれない。そうだとすると、結句の語形もまた、その主題追求のためには不可欠のものなのかもしれない。

 だから、以下は歌の解釈から一旦離れる覚書。結句の

  砂利道を行く



  砂利の道行く

に替えてみると、どうだろう。出来事感が格段に増すように私には感じられる。これは、松村さんが指摘したことと同じではないか。

 あくまで印象の話ですが、出来事感の比較を考えた場合、「夏草に汽缶車の車輪が来て止る」と「が」が入ると散文的になって、弱くなる気がします。

  (松村さんのコメント)


 「砂利道を」「車輪が」の方は、どちらも現代文風で散文的。

 対して、助詞「を」「が」をそれぞれ抜いた場合は、古文風だ。韻文であることをより強調した形とも言えるだろう。

 古文風だから出来事感が増すのか。韻文的だから、そうなるのか。あるいは、「砂利の道」「車輪」で一度切れる感じがあって、そこでモノのイメージが印象付けられるから、なのか。


(2015.8.10 記)

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 東郷氏から二度目のコメントをいただいた。叙述において出来事感を作るものは何か、という問題については東郷氏、松村さん、私の見方が大体一致したと考えてよいと思う。

 私とて、短歌における「出来事感」のすべてがル形のせいで決まるなどと考えているわけではありません。最近の口語短歌に見られる未決定性・浮遊性を醸成する一因として、結句のル形の多用があるのではないかと感じているにすぎません。

 その意味では、松村さんがおっしゃっているように、時や場所の副詞とか、固有名などの「濃い」言葉など、一首において出来事感を左右する要因はたしかに複数あると思います。また、動詞の意味によっても、出来事感の強い動詞と薄い動詞があるようです。

  (東郷氏のコメント)


 したがって、動詞終止形による文末表現を含みながら「出来事」を強く感じさせる短歌作品や俳句作品は存在する。

 引用された山口誓子の句「夏草に汽缶車の車輪来て止る」の例はおもしろいですね。この句については、私もお二人と同様に、出来事感が強いと思います。

  (同上)


 もちろん、私もまた、文末の語形が出来事感に影響しないと考えているわけではない。それはしばしば、他のいくつかの要素とともに、出来事感に影響している。

線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く

  竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』


 線香の火に注意しながら歩く姿勢と、コーンの上に巻いたクリームを倒さないように注意しながら歩く姿勢の類似。その発見が一首のモチーフだろう。本来しみじみとした気分になりそうな場面に、それとはほど遠い消費社会の生活感情が紛れ込む。

 結句が仮に「砂利道を行った」であったとしたら、ある特定の日の出来事を回想することになり、その消費社会の生活感情がしみじみとした気分、ないしはより深刻な感情に再度反転したかもしれない。しかし、特徴的な描写に乏しく、時間を指定する語句もないまま「砂利道を行く」と結ぶとき、これを毎年の墓参で繰り返される行動パターンの紹介と解する読者もいるだろう。


(2015.8.6 記)

 宮柊二『山西省』の著名な一首、

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す


について、第三句に過去の助動詞があるから結句がル形でも「宙ぶらりん」にならない、といったふうに松村さんが判定するのは理解できる。文末の語形を含む一首全体の表現が出来事感に影響するというのが松村さんの考え方だからだ。しかし、文末の語形と出来事感の有無により密接な関係をみとめようとする東郷氏が、

「刺ししかば」ですでに過去の表示があるため、「伏す」はそれを受けての結果となり、かえって迫真性が増しています。


と記す(6月30日付記事へのコメント)のは、よく分からない。


     §


 私は以前から高村光太郎の「智恵子飛ぶ」は何か不思議な言い方だと思っていたが、東郷氏の「スポーツ中継のル形」という解釈ですっきりした。確かにその解釈でよさそうだ。


(2015.7.19 記)

 何を状態動詞とし、何を動作動詞とするかの区別に自信がないので、とりあえずその辺りは気にせず、動詞の終止形で言い切る短歌作品を思い付くまま挙げてみよう。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

  石川啄木

椎の葉にながき一聯の風ふきてきこゆる時にこころは憩ふ
  佐藤佐太郎

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ
  中城ふみ子


 停車場にふるさとの訛を聴きに行くのは、習慣的動作のようだ。風音が聞こえるときに緊張を解くのも習慣かもしれない。胎児らが闇の中で蹴り合う幻想は、この女の脳裏から常に去らなかったものだろう。

枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
  土屋文明

沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
  斎藤茂吉

金の眼をしたる牝猫が曇りつつ寒き昼すぎの畳をあるく
  佐藤佐太郎

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
  山中智恵子

一夏(いちげ)過ぐその変遷の風かみにするどくジャック・チボーたらむと
  小池光


 だが、汽船が速力をおとすのは? 百房の葡萄に雨が降りそそぐのは? 私には現在進行の出来事のようにも感じられるが、よく分からない。牝猫が畳をあるくと言い、鳥髪に雪が降ると言う。習慣的動作とも未来の動作とも思われないが、どうだろう。夏が過ぎるのは季節の循環かもしれないが、一夏が過ぎるのは?


(2015.7.17 記)

 東郷説の「未決定の浮遊感」も松村説の「宙ぶらりん」も、現実味に欠けて物足りない印象、を意味する言葉として私は受け取った。もしそれで間違いないとすれば、その印象は「ル形」だけから来るものか。「ル形」を含む作品の表現全体から来るものではないか、というのが私の一番の疑問だ。

夏草に汽缶車の車輪来て止る

  山口誓子『黄旗』(1935年)


 この「止る」を私は一度限りの出来事のように感じていたのだが、仮に循環する季節の中で繰り返される事柄だとしよう。それでも、この一句が喚起するイメージの鮮烈さに「未決定の浮遊感」や「宙ぶらりん」といった評言がそぐわないことは、東郷氏も松村さんもみとめるのではないか。


(2015.7.15 記)

 東郷氏の言を再度引けば、

 「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(略)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。(『橄欖追放』第164回)


とのことだ。現代日本語の話者の一人として、「動作動詞」の終止形止めが反復・習慣や未来を表わすことは私ももちろん知っている。ただ、その上で、そうでない場合もあるのではないかと疑っている。

 東郷氏の説明は、現代語に限定したもののようにも思える。漢文訓読の肯定文の文末は一般に終止形だ。和文でも終止形の文末が頻出する文学作品がある。たまたま手元にある『雨月物語』の「菊花の約」から引こうか。

 いひもをはらず抜打ちに斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立騒ぐひまに、はやく逃れ出で、跡なし。



 この「一刀にてそこに倒る。」の末尾を「倒れけり。」にしたら出来事感がより濃くなる、などと考えてみても無益だという気がする。もっとも、「菊花の約」には「十日を経て富田の大城にいたりぬ。」といった言い回しもあって、その使い分けについて考える必要はあるだろう。

 なおまた、詩的言語は同時代の一般的語法に制限されなければならないものか。


(2015.7.14 記)

 松村正直さん、ならびに東郷雄二氏から前の記事に丁寧なコメントをいただいた。お二人に感謝しつつ、あらためて私の疑問を整理することにしたい。


     §


 東郷説はあくまで《ル形は基本的に「未然・習慣」の出来事を表す》という一点から出発しているように見える。その基礎理解が揺るがないので、

 引用された土岐善麿の歌で、もし結句を「いひき」か「いひにき」としたら、それは過去の一度きりの出来事になります。(6月30日付の記事へのコメント


といった説明になる。

 一方、松村説は東郷説に賛意を示しつつも、実際の表現からその解釈を考えるという立場のようだ。それで次のような言い方になるのだろう。

 「落ちる」と「落つ」、「食べる」と「食ぶ」を比較した場合、その出来事感には明確な差があるように感じる。(「口語短歌の課題」、『現代短歌新聞』40号)

 出来事感については、もちろん、動詞の「ル形」(略)だけの問題ではなく、歌の中に時を限定する言葉があるかどうか、固有名詞などの「濃い」(?)言葉が使われているかどうか、といったことも関係していると思います。(6月30日付の記事へのコメント


 東郷氏は「落ちる」と「落つ」の差をみとめないのではないか。


(2015.7.13 記)

 東郷雄二『橄欖追放』第164回(5月18日付)が「口語短歌」の結句について問題提起をしている。ただ、その内容は興味深いものの、精密とは言えない。松村正直「歌壇時評」(『現代短歌新聞』40号、7月5日付)は東郷に概ね賛成しているが、私はもう少し議論の余地があると思う。

 東郷は竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』(2015年)の

線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く
海水の透明な水射すひかり大きな鳥が陸を離れる


といった歌を引きつつ、次のように述べている。

 「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す (ex. 僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。口語短歌の多くが未決定の浮遊状態に見えるのはこのためかもしれない。


 不勉強な私は「ル形」という言い方を初めて知ったが、これは用言の終止形を表すもののようだ。「動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す」というのが学界の定説なのかどうか、それも私は知らないが、日本語の話者の一人としてどうも不思議に感じる。「彼は将来きっと東京に行く」は意思未来ではないだろうし、年譜の記述の「この年、初めて東京に行く」は?

 東郷は「ル形の終止は出来事感が薄い」と言い、

水苑のあやめの群れは真しづかに我を癒して我を拒めり
  高野公彦『水苑』(2000年)


などについては、

 完了の助動詞「り」が使われているため、きっぱりと何かが起きた感がある。


という。ならば、

あなたは勝つものとおもつてゐまたしたかと老いたる妻のさびしげにいふ
  土岐善麿『夏草』(1946年)

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
  宮柊二『山西省』(1949年)


といった歌はどうか。短歌ではないが、高村光太郎「風にのる智恵子」の一節、

もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ


の「智恵子飛ぶ」は? 私はそれらについて「出来事感が薄い」とまでは感じない。

 「伏す」は「伏しき」よりも一度限りの「出来事感が薄い」という判定を仮に認めるとしよう。その場合、動詞の終止形で言い切る効果は、それを口ずさむたびに何度でもありありと場面が現前するところにある——という説明の仕方はどうだろう。少なくとも「未決定の浮遊状態」よりは宮柊二の一首に合った説明だろうと私は思う。

 「未決定の浮遊状態」とは結局、引用した竹内の歌全体から来る印象ではないか。そもそも東郷の今回の問題提起は、竹内歌集を論じる中で、追記のように短く言及したものだ。いずれ本格的な再論があるだろう。

 
(2015.6.30 記)


 指摘をいただき、誤りを訂正しました。『タルト・タタンと炭酸水』の歌は孫引きです。

(2015.7.9 追記)

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Author:和爾猫
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