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 岡野弘彦の代表歌としては、/ うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし 『冬の家族』/ すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり 『滄浪歌』/ などをあげるべきであろうが、個人的には…… (16頁〜)


といって本書が取り上げるのは、

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

  岡野弘彦『飛天』(1991年)


である。永田は、

 「ごろすけほう」がわずか三十一文字のなかに三度も繰りかえされる。じつに思いきった用法であり、端正な歌を多く作る岡野弘彦であるが、ときにこのような思い切った力業を敢えてするのである。


という。穏当な評だと思う。

 藤井常世の直話によれば、この歌がまだ歌集に入らないころ、「ちょっとおもしろい歌ができたよ」と岡野がうれしそうに話していたそうだ。高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫、1991年)の自選歌のなかにも、この歌がしっかり収まっている。永田がこの一首を採ったことを、岡野は案外喜ぶだろうと思う。

 私見を付け加えるなら、「ほう」と「ほほ」が同音の繰り返しで音楽的な効果を上げていること、「しんじつ」というやや古風な話し言葉が非日常の世界へ読者をいざなうこと、に注意しておきたい。

 なお永田の解釈では、人が心ほおけて「しんじついとしい」と思う、となるようだ。異論を唱えるわけではないが、梟が……という解も成り立つのでは? あるいは、両方の意味が曖昧に溶け合っているのでは?


(2015.2.18 記)

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 本書の「旅」と題された章を読んで、永田和宏という人は邪気のない人なのだなあと感じ入った。邪気がないから自分の考えていることを素直に文章にする。他の人なら用心深く隠しそうなことでも。

 私がアメリカに留学したのは昭和五九年(一九八四)のことであったが、その頃はまだ外国というのは遠い存在であった。

(略)斎藤茂吉のヨーロッパ留学(当時は洋行と言った)の際には、「アララギ」の主要歌人が集まって壮行会(壮行歌会)を催したことが記録に残っているが、実は私たち家族が旅立つ時にも、北海道や九州からも、世代を越えて、数十名もの歌人たちが集まって、送別会をしてくれたのである。たぶん歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例だと思っている。そのくらい外国というハードルは高かった。

 しかし、現在、年間一千万人を超える人たちが、観光のため、ビジネスのため、あるいは勉強のため外国へ出てゆく時代になった。隔世の感があると言うべきだが、当然のこととして外国への旅行詠が多く作られるようになる。

  (160頁〜)


といった話を枕に安永蕗子『冬麗』(1990年)の一首、

薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃


を取り上げているのだが、どう読んでも、セレブやエリートでない庶民が簡単に海外に出かけ、海外詠を大量生産するようになった代表例として安永を挙げているとしか読めない。永田は実際、安永の歌についてそんなふうに考えているのだろう。しかし、もう少し心のねじ曲がったエリートなら、そう考えたこと自体を恥じて、何も書かないものだ。

 上の引用文の内容は、全くもって正しい。安永の一首は1988年の作で、永田のアメリカ留学からわずか数年遅れているに過ぎないが、その間にプラザ合意とバブル景気があり、海外に渡航する日本人が激増していたのである。そうなっていなければ、安永の中国旅行も実現していなかったかもしれない。

 『冬麗』の海外詠には、実は、

遠国にウラルアルタイ手をあげて人呼ぶことも狼煙(のろし)のごとし
砂のほか何も見えねばゴビ砂漠こころづくしの蜃気楼
(かいやぐら)立つ


といったように、いくらか解説を要する歌もある。しかし、庶民による海外詠の例としてはもっと平明なものが望ましく、永田の選歌はまことに適切だ。

 そういうわけで私に言えることはほとんど何もないのだが、ただ一点、「歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例」というのは正しくない。2011年の初め頃だったか、黒瀬珂瀾氏の洋行の際に「数十人」が集う送別会があった。このときは歌人だけでなく、小説家や詩人も出席した。

 考えてみれば、ある年に一千万人以上の日本人が海外に渡ったとして、次の年に別の一千万人が海外に渡るわけではない。永田のようなリピーターがいる一方で、パスポートすら持っていない者もいる。後者から見れば、外国留学や外国旅行は今日でも格別のものだ。


(2015.2.14 記)

 春日真木子『北国断片』(1972年)から、本書は次の一首を採る(214頁)。

憐れまるより憎まれて生き度し朝々に頭痛き迄髪ひきつめて結う

  『北国断片』「寡婦の章」


 この歌は春日自選の『自解100歌選春日真木子集』(牧羊社、1988年)に見えず、所属結社水甕の会員がまとめた『春日真木子101首鑑賞』(ながらみ書房、2007年)にも入っていない。従来の評価に関わらず、とくに永田の好みで採った一首ということになろうか。

 しかし、初句「憐れまるより」は助動詞の活用がおかしい。あえてこの歌を引っ張り出してこなくてもよいのに、と思う。作者本人も不本意だろう。

 第二句以下にも注意すべきところがある。「憎まれて生き度し」は中城ふみ子に先例がある。

大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生きたし

  『乳房喪失』(1954年)


 「頭痛き迄髪ひきつめて結う」は、

こめかみがきしめるほどに梳きし髪こころもはらに涼しからねば

  葛原妙子『飛行』(1954年)


の類想句だろう。春日の自筆年譜(『短歌』2006年6月号)によれば、『乳房喪失』と『飛行』が刊行された1954年に、

 夫が癌により闘病の末死去。夫の死がきっかけとなり作歌を始める。


 そして、久々湊盈子『インタビュー集 歌の架橋』(砂子屋書房、2009年)には、

 中城ふみ子の歌に触発された……


という春日本人の発言も記録されている。要するに、永田が採った春日の一首は、同時代の女性歌人からの影響を色濃く受けた作なのである。「寡婦」の歌であるはずなのに、どこか離婚した女の歌を思わせるのは、中城ふみ子の表現に学んだためでもあろうか。

 影響を受けること自体は自然なことで、単純に批判されるべきでない。しかし、影響関係がこれほどあからさまな一首を、わざわざアンソロジーに収載するのはいかがなものか。

 『北国断片』から採るなら、ほかにいくらでも候補を挙げられそうだ。

垂直に麦穂たつ畝走る子の母が希う程には俊敏ならず


はどうだろう。母の愛とエゴのつつましさに現実味がある。もっと強いインパクトを求めるなら、

髪の根迄も風は曝せり芯強き女と云われつつ株買いに行く


はどうか。株を買う女の珍しさだけを評価するのではない。経済的自立こそ、精神的自立の基盤だ。その真実に照明を当てた作は現代短歌に案外少なく、記憶に値する。

 
(2015.2.10 記)

 六〇年安保闘争詠として、本書は岸上大作の歌とともに、清原日出夫の一首、

何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ


を採る。清原の作風を評して、

 岸上とは対照的に、自己の思想表現を厳しく抑えつつ、客観的に社会の動きを詠む……(139頁)


としているのは大方の賛成するところだろうが、上の一首について、

 ここではいっさいの感情を交えず、車の薄闇のなかに「無電に話す口」が見えたことだけが詠われる。(140頁)


と読み解くのはどうか。よいもの、うれしいもの、ありがたいものを主語にして「つきまとう」とは言わない。

 デモの周辺で警察が警備に当たるのは、その限りでは公共の安全と秩序の維持のために当然のことだろう。まして現場の警官一人一人は、職務命令に従ってそこに来たに過ぎない。それを「何処までもデモにつきまとう」と見るのはデモ参加者の側の視点であって、その表現には彼らの感情が入り込んでいるように思える。

 当時の状況から、デモ参加者が警察を敵視したであろうことは理解できる。他の学生歌人の歌と並べてみるとき、この一首が比較的客観描写に傾いていることも確かだろう。しかし、「いっさいの感情を交えず」は、作品の解釈としてどうか。


(2015.2.8 記)

 福島泰樹の省線電車の歌でよく分からないのは、「左折」の意味である。

 「左折」には当然「左翼」という場合の「左」、すなわち「革新」という意味が含まれていよう。(140頁)


という永田の解釈にとくに異論はない。しかし、そもそも電車の左折とはどんな動きを表わしているのか。自動車の左折は交差点を左に曲がることで、左カーブの道を進むことではない。とすると、この「左折」は、電車としては本来あり得ない動きを表わそうとしているのか。


(2015.2.6 記)

 福島泰樹の歌から本書は、

ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車

  『バリケード・一九六六年二月』(1969年)


を採る。これも著名な一首。永田の評は、

 若い学生である福島にあって、「省線電車」などという明治時代の呼び名が出てくるところがおもしろいが、彼が江戸っ子であることにもかかわっていよう。(140頁)


 アラ探しをするようで恐縮だが、「明治時代の呼び名」はひどい。鉄道省は1920(大正9)年発足で、その前身は鉄道院だから、省線が明治時代の呼称であるはずはない。かつ、国有鉄道が省の直轄でなくなったのは1949(昭和24)年からで、それまでは名実ともに省線であったわけだから、全く耳遠い言葉ということでもなさそうである。呼び名は新しい「国電」より使い慣れた「省線電車」の方がしっくりくるという人も、60年代にはまだいたのではないか。

 そう考えると、「江戸っ子」の指摘がむしろ興味深い。福島の周辺に「省線電車に」云々とおしゃべりをする大人たちのいたことが推測できるからである。「若い学生」である福島自身が日常会話のなかでこの語を使っていたわけではないだろう。この語の使用には、時代遅れか何かの気取りを読み取ってもよいのかもしれない。


(2015.2.1 記)

 「てのひらに」の歌について解説するなかで、皇后陛下の歌をもう一首、永田は引いている。

かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ

  『瀬音』


 平成七年の文化の日の題詠とのことだが、これもまた背景に物語を想像できる歌である。永田は、

 当然のことながら、それは皇太子妃になるかどうかという選択であったことだろう。(15頁)


と推測する。なるほど、そう解するとまことに印象深い歌になる。

 なお、「分去れ」について永田は、

 広辞苑には「別され」として、分家、わかれの意味をあげているが、私は、文字通りの分かれて去っていく道ととっておきたい。(同頁)


と説明している。後の解釈はもちろん正しいが、前の広辞苑云々は、あらら……。私の狭い部屋にはないが、永田家か塔事務所の書架には『日本国語大辞典』があるはずだ。その第二版第十三巻の1255頁に、方言で

 追分。


の意味だと書いてある。

 想像を広げれば、この語の向こう側には軽井沢の記憶がひそんでいるのではなかろうか。かの「テニスコートの出会い」をした町には中山道と北国街道の追分があり、その追分をとくに「分去れ」と呼ぶ。関西に生まれ育った永田は、軽井沢になじみが薄いのかもしれない。

 「いづこ行きけむ」が惜しい。副詞として「どこへ」の意味で使うなら、「いづこ」より「いづち」の方が自然だ。


(2015.1.29 記)

 本書は現代百首のうちに皇后陛下の一首を採っている。文春新書『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(2013年)などが皇后陛下の歌を最初に採ったアンソロジーかと思うが、永田和宏はその選者の一人でもあったので、二書に採られたと単純に数えることはできない。アンソロジーに定着するかどうか、今後さらに別の選者の選を経ておのずから定まってゆくだろう。


     §


 本書が採った歌は、

てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて

  『瀬音』1997年


 実際には小さくて軽い桑の実一粒を「重み」のあるものとしたところが眼目である。御成婚の年の作とのことだから、背景に物語を想像することもできる。つまり、記憶に残る詩歌の条件を備えているのである。ただし、永田は

 美智子皇后の歌には、常に韻律が強く意識されている……(13頁)


というが、「重みのありて」の「の」の辺りは調べがやや緩んでいないだろうか。実を言うと、『新・百人一首』が採った歌についても、私は同様のことを感じた。そちらは、

帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず

  平成二十四年歌会始


というのだが、「季のなく」の「の」でやはり調べが緩んでいるようだ。同書に載る別の一首、

(こと)の葉(は)となりて我よりいでざりしあまたの思ひ今いとほしむ

  『瀬音』


の韻律にそのような瑕はない。選者の意見を聞いてみたい。


(2015.1.27 記)

 1890年代、つまり明治22年からの十年間だが、この年代生まれはそもそもどのような顔触れなのか。『名歌名句大事典』から生年順に抜き出してみよう。

・今井邦子(1890年) ・植松寿樹(1890年)
・土屋文明(1890年) ・杉浦翠子(1891年)
・水町京子(1891年) ・芥川龍之介(1892年)
・斎賀琴(1892年)  ・西村陽吉(1892年)
・大熊信行(1893年) ・望月麗(1893年)
・結城哀草果(1893年)・岡山巌(1894年)
・小泉苳三(1894年) ・橋本徳寿(1894年)
・渡辺順三(1894年) ・土田耕平(1895年)
・松倉米吉(1895年) ・松田常憲(1895年)
・山下陸奥(1895年) ・岡野直七郎(1896年)
・川上小夜子(1896年)・館山一子(1896年)
・宮沢賢治(1896年) ・中村正爾(1897年)
・早川幾忠(1897年) ・藤沢古実(1897年)
・鹿児島寿蔵(1898年)・五島美代子(1898年)
・高田浪吉(1898年) ・阿部静枝(1899年)
・筏井嘉一(1899年)


 専門歌人でない芥川龍之介や宮沢賢治らはしばらく措く。直前の1880年代生まれに斎藤茂吉・北原白秋・若山牧水・石川啄木・吉井勇・釈迢空といった面々が揃っているのに比べると、およそ地味な印象であることは否めない。土屋文明だけは別格だが、世代としてはむしろ1880年代組の掉尾に加えるべき人か。


     §


 さて、なぜ1890年代生まれの歌人にいわゆる大物がいないのだろうか。推測するに、1880年代組の茂吉・白秋らがあまりに偉大であったため、1890年代生まれは先達を敬愛すること厚く、自身は結局小さくまとまってしまったものか。また、彼らが新進・中堅であった時期にプロレタリア文学運動が盛んになったこと、それがほどなく弾圧されたことも影響しているのかもしれない。


     §


 それにしても、『現代秀歌』に1890年代生まれが二人のみとは、他のアンソロジーと比べてもことに少ないようだ。選者によっては、例えば1940年代生まれの歌人を永田が好むほどには好まず、代わりに永田の選ばない結城哀草果や筏井嘉一を選ぶだろう。


(2015.1.25 記)

 例えば『名歌名句大事典』(明治書院、2012年)の収録歌の作者で、生誕が1860年以降の者は247人。『近代秀歌』『現代秀歌』の合計人数の二倍弱を選んでいることになる。その内訳を見ると、

 1860年代生まれ:5人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:43人
 1890年代生まれ:31人
 1900年代生まれ:26人
 1910年代生まれ:19人
 1920年代生まれ:31人
 1930年代生まれ:26人
 1940年代生まれ:29人
 1950年代生まれ:29人
 1960年代生まれ:17人
 1970年代生まれ:6人
 1980年代生まれ:1人

である。ここでは1890年代生まれの歌人はむしろ多い。

 『日本名歌集成』(学灯社、1988年)で同じ条件の作者は204人。その内訳は、

 1860年代生まれ:5人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:39人
 1890年代生まれ:34人
 1900年代生まれ:34人
 1910年代生まれ:24人
 1920年代生まれ:26人
 1930年代生まれ:18人
 1940年代生まれ:8人

 
 1890年代生まれの歌人は、ここでも決して少なくない。

 では、『近代秀歌』『現代秀歌』の二編とほぼ同じ人数を選ぶアンソロジーではどうか。『現代の短歌』(高野公彦編、講談社学術文庫、1991年)は105人を収載。昭和まで生きた歌人が対象で、それ以前に亡くなった子規や啄木、赤彦らは対象外なので、これまでに言及したアンソロジーとは条件が若干異なるものの、結果に影響するほどではないだろう。105人の内訳は、

 1870年代生まれ:5人 
 1880年代生まれ:11人
 1890年代生まれ:3人
 1900年代生まれ:12人
 1910年代生まれ:10人
 1920年代生まれ:19人
 1930年代生まれ:13人
 1940年代生まれ:13人
 1950年代生まれ:15人
 1960年代生まれ:4人

 なんとここでは、1890年代生まれが前後の年代よりも明らかに少ない。永田和宏の選とほぼ同じ結果である。

 もう一つ、『短歌俳句川柳101年』(『新潮』1993年10月)は収載歌集101冊、その著者101人。明治から平成までの各年1冊ずつ歌集を選ぶという趣向のものである。内訳は、

 1860年代以前の生まれ:6人
 1870年代生まれ:16人
 1880年代生まれ:18人
 1890年代生まれ:6人
 1900年代生まれ:11人
 1910年代生まれ:8人
 1920年代生まれ:14人
 1930年代生まれ:7人
 1940年代生まれ:8人
 1950年代生まれ:4人
 1960年代生まれ:3人

 前後の年代に比べ、1890年代生まれの人数がやはり少ない。収載人数が200人を超えるアンソロジーでは前後の年代とあまり変わらず、100人から130人程度のアンソロジーでは前後の年代より少なくなるということだろうか。つまり、人数は揃っているが、大物は少ないということか。


(続く)


(2015.1.23 記)


 岩波新書、2014年刊。同じ著者による既刊『近代秀歌』(岩波新書、2013年)の姉妹編。

 歌人の生年に注目して前書と本書の収載の範囲を見ると、前書は落合直文(1861年生まれ)から明石海人(1901年生まれ)までの31人、計100首。本書は五島美代子(1898年生まれ)から梅内美華子(1970年生まれ)までの100人、計100首を選んでいる。この二冊でもって、永田和宏の選による明治・大正・昭和の短歌のアンソロジーということになろう。


     §


 では、永田が選んだ歌人はどんな顔触れか。生年順に並べてみよう。


『近代秀歌』(括弧内は生年)

1860年代生まれ
・落合直文(1861年) ・伊藤左千夫(1864年)  
・正岡子規(1867年)
 
1870年代生まれ
・佐佐木信綱(1872年)・与謝野鉄幹(1873年)
・太田水穂(1876年) ・尾上柴舟(1876年) 
・島木赤彦(1876年) ・窪田空穂(1877年)
・与謝野晶子(1878年)・長塚節(1879年)  
・山川登美子(1879年) 
 
1880年代生まれ
・会津八一(1881年) ・川田順(1882年)  
・斎藤茂吉(1882年) ・前田夕暮(1883年)  
・北原白秋(1885年) ・北見志保子(1885年)  
・土岐善麿(1885年) ・若山牧水(1885年)  
・石川啄木(1886年) ・木下利玄(1886年)  
・古泉千樫(1886年) ・吉井勇(1886年)  
・釈迢空(1887年)  ・原阿佐緒(1888年)  
・岡本かの子(1889年)・中村憲吉(1889年)  
・松村英一(1889年)
 
1890年代生まれ
・土屋文明(1890年)  
 
1900年代生まれ
・明石海人(1901年)
  


『現代秀歌』

1890年代生まれ
・五島美代子(1898年)
 
1900年代生まれ
・山田あき(1900年) ・前川佐美雄(1903年)
・木俣修(1906年)  ・坪野哲久(1906年)
・真鍋美恵子(1906年)・葛原妙子(1907年) 
・窪田章一郎(1908年)・渡辺直己(1908年) 
・斎藤史(1909年)  ・佐藤佐太郎(1909年)
 
1910年代生まれ
・宮柊二(1912年)  ・近藤芳美(1913年) 
・高安国世(1913年) ・大野誠夫(1914年) 
・前田透(1914年)  ・山崎方代(1914年) 
・岡部桂一郎(1915年)・加藤克巳(1915年) 
・清水房雄(1915年) ・森岡貞香(1916年) 
・田谷鋭(1917年)  ・宮英子(1917年)  
・浜田到(1918年)  ・武川忠一(1919年) 
 
1920年代生まれ
・竹山広(1920年)  ・塚本邦雄(1920年) 
・安永蕗子(1920年) ・中城ふみ子(1922年)
・上田三四二(1923年)・岩田正(1924年)  
・大西民子(1924年) ・岡野弘彦(1924年) 
・玉城徹(1924年)  ・相良宏(1925年)  
・山中智恵子(1925年)・春日真木子(1926年)
・富小路禎子(1926年)・前登志夫(1926年) 
・尾崎左永子(1927年)・岡井隆(1928年)  
・馬場あき子(1928年)・高瀬一誌(1929年) 
 
1930年代生まれ
・石田比呂志(1930年)・田井安曇(1930年) 
・来嶋靖生(1931年) ・石川不二子(1933年)
・篠弘(1933年)   ・皇后美智子(1934年)
・志垣澄幸(1934年) ・寺山修司(1935年) 
・奥村晃作(1936年) ・小野茂樹(1936年) 
・清原日出夫(1936年)・秋葉四郎(1937年) 
・小中英之(1937年) ・春日井建(1938年) 
・佐佐木幸綱(1938年)・浜田康敬(1938年) 
・岸上大作(1939年) ・辺見じゅん(1939年)
 
1940年代生まれ
・玉井清弘(1940年) ・柏崎驍二(1941年) 
・高野公彦(1941年) ・成瀬有(1942年)  
・村木道彦(1942年) ・伊藤一彦(1943年) 
・佐藤通雅(1943年) ・福島泰樹(1943年) 
・大島史洋(1944年) ・小高賢(1944年)  
・三枝昂之(1944年) ・沖ななも(1945年) 
・河野裕子(1946年) ・香川ヒサ(1947年) 
・小池光(1947年)  ・道浦母都子(1947年)
・池田はるみ(1948年)・花山多佳子(1948年)
 
1950年代生まれ
・阿木津英(1950年) ・島田修三(1950年) 
・永井陽子(1951年) ・今野寿美(1952年) 
・栗木京子(1954年) ・内藤明(1954年)  
・松平盟子(1954年) ・渡辺松男(1955年) 
・小島ゆかり(1956年)・坂井修一(1958年) 
・加藤治郎(1959年) ・川野里子(1959年) 
・谷岡亜紀(1959年) ・水原紫苑(1959年) 
・米川千嘉子(1959年)  
 
1960年代生まれ
・大辻隆弘(1960年) ・俵万智(1962年)  
・穂村弘(1962年)  ・東直子(1963年)  
・吉川宏志(1969年) 
 
1970年代生まれ
・梅内美華子(1970年)


 なお、永田本人も各種アンソロジーの常連の歌人だが、さすがに自分で自分を選ぶことはしていない。


     §


 各年代の人数を二書で合算してみると、

1860年代生まれ:3人
1870年代生まれ:9人
1880年代生まれ:17人
1890年代生まれ:2人
1900年代生まれ:11人
1910年代生まれ:14人
1920年代生まれ:18人
1930年代生まれ:18人
1940年代生まれ:18人
1950年代生まれ:15人
1960年代生まれ:5人
1970年代生まれ:1人

となる。


     §


 各年代の人数がまずまず揃っているところが多いのを見ると、やはり年代ごとに選ぶ人数を調整しているようだ。また、その中では1920年代、30年代、40年代生まれの歌人——つまり1947年生まれの永田から見て、二回りほど年長から同年代まで——を比較的高く評価していることが見て取れる。

 その分、それより上の年代、例えば1900年代生まれの歌人などはやや割を食った形か。この年代の著名歌人で選ばれていないのは吉野秀雄(1902年生まれ)・柴生田稔(1904年生まれ)・生方たつゑ(1905年生まれ)等だが、選者が違えば選に入ってもおかしくない。

 注意されるのは、1890年代生まれの歌人をわずか2人しか選んでおらず、前後の年代に比べ突出して少ないことだ。これは他のアンソロジーでも同様なのだろうか。それとも、永田の評価が独特ということなのだろうか。


(続く)


(2015.1.19 記)

 私は森本平さんのものの考え方だとか、その歌の読み方だとかを信頼していて、雑誌などで森本さんの文章を見つけたら何をおいてもまず読むことにしている。ただ、今回の選後評はどうか。

 「世評が高くても私は認めていない人」とか「人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人」とか、いったい誰のことだろうと想像する楽しみはあるし、
 

 それで短歌観が変わるなら、しょせんその人はそのレベルで短歌と付き合っていたということである。



という一文には勇気付けられる思いがした(「それ」とは東日本大震災のこと)。しかし、全体としては、この選後評の文章はうまくないと思う。
 

 とりあえず言い訳、もしくは選歌基準から記しておこう。(略)今回は公正で配慮ある、誰もが納得するような百人、百首などというものは、一切心掛けていない。



 「一切」心掛けていないとは、相当思い切っている。この言葉を裏付けるように、今回の「平成百人一首」には、よく引用される歌、つまり私でも知っているような歌が少ない。どの歌も、森本さんが幾多の歌集を読んで、そこから自分の手で採ってきたものだと思える。

 しかし、どうだろう。「一切」とまで言い切るのはたしかに突出していると思うが、公正でないこと自体はもともと当然のことではないか。いまだかつて、だれもが納得できる選歌などあったためしはない。ところが、この文章は「とりあえず言い訳……から」と言いながら、結局大半をこの言い訳に費やしてしまうのだ。

 公正で客観的な選歌などあり得ないということを心のうちで思いつつも、そうは言わずに公正、客観を装うのが正しいやり方だと思う。そうであってこそ、私たちはその選歌を褒めたりけなしたり、あれこれ言って楽しむことができる。公正でないと開き直るのは、要するに選者のほうが先手を打って、読者の楽しみを封じているわけだ。そうするくらいなら、初めに原稿依頼を断ればよいのに。今回の百人一首の選を喜んで引き受ける人(口では、ヒドいなどと言いながら)はいくらでもいるだろう。

 それともう一つ、選後評を書くなら、選んだ理由を書くべきだと思う。選んだ理由が明示されていれば、私たちはより一層「あれこれ」言いやすくなる。今回の文章には、この理由が書かれていない。

 私一人の意見ではないはずだ。同じ掲載誌に関悦史撰「平成百人一句」もあって、その選後評は私が望むような形になっているのである。

 森本さんは
 

 要は楽しみたい、楽しませてくれ。



と言うが、一人遊びなら自分のノートのなかで楽しむのがよいと思う。


(2014.4.20 記)

 特輯「平成に詩は在ったか?」のなかに、森本平撰「平成百人一首」が載っている。平成以前に亡くなっていた寺山修司から、いまだ歌集を持たない人まで含む。初めて知る名がいくつもある。百人の氏名だけ写しておこう。

 青井 史   青柳千萼   阿木津英
 雨宮雅子   石井辰彦   石川美南
 一ノ関忠人  伊藤一彦   岩田 正
 梅内美華子  江田浩司   大口玲子
 大島史洋   大田美和   大滝貞一
 大谷和子   大貫ふみ子  大野道夫
 岡井 隆   岡野弘彦   小黒世茂
 恩田英明   香川ヒサ   春日真木子
 春日井建   片山貞美   加藤克巳
 加藤治郎   加藤英彦   来嶋靖生
 喜多昭夫   黒瀬珂瀾   小池 光
 小暮政次   小守有里   近藤芳美
 三枝昂之   佐佐木幸綱  佐藤夏子
 佐藤通雅   島田修二   島田修三
 清水房雄   鈴木英子   鈴木八重
 仙波龍英   高島 裕   高田流子
 高瀬一誌   高橋みずほ  高柳蕗子
 竹下洋一   竹山 広   辰巳泰子
 田中晶子   玉井清弘   田村広志
 塚本邦雄   寺山修司   内藤 明
 中島裕介   永田和宏   棗 隆
 成瀬 有   西村美佐子  野樹かずみ
 野間亜太子  馬場あき子  花山多佳子
 原田 清   林 和清   林 安一
 菱川善夫   平井 弘   福島泰樹
 藤田 武   藤原龍一郎  古谷智子
 穂村 弘   前登志夫   前川佐重郎
 前田芳子   槙弥生子   蒔田さくら子
 水原紫苑   三井 修   水野昌雄
 光栄堯夫   光森祐樹   三宅勇介
 森井マスミ  森山晴美   八木博信
 山田消児   柚木圭也   吉田 純
 吉野裕之   吉村明美   依田仁美
 渡辺松男

 さて、森本による選後評「楽しませろ」には、次のような一節がある。

 何分百首しかないので、あとになって抜けた歌、抜けた人が思い浮かんだのはいささか心残りだが、まあ仕方がない。その代わり、世評が高くても私は認めていない人、人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人、等は心置きなく外させてもらった。



 誰がそうかは、もちろん書いていない。この百人に入っていない有名どころは、

 荻原裕幸   奥村晃作   河野裕子
 栗木京子   今野寿美   小島ゆかり
 斎藤史    俵 万智   玉城 徹

などなど、挙げ始めるときりがない。「人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人」とは、河野裕子のことか。

 私がいちばん不思議に思ったのは玉城徹が入っていないことだ。「あとになって」玉城のことを思い出すなどということはないだろうから、森本さんにとっての玉城は「私は認めていない人」なのだろう。その理由を聞きたいものだ。あるいは案外、玉城の歌集を読んでいないのか。

 ゼロ年代では斉藤斎藤や永井祐が外れ、石川美南、中島裕介、光森祐樹が入っているのが注意される。このあたりにも森本さんの好みが表われているわけだ。


(2014.4.19 記)


 河野裕子は「世評が高くても私は認めていない人」のほうで、俵万智が「人気はあるが個人的にはまったく眼中にない人」であるような気がしてきた。いや、俵さんはそれほど人気はないのだっけ? そういえば、大辻隆弘、小高賢、高野公彦、吉川宏志も入っていない。私なら西田政史は必ず入れるが。

(2014.4.20 追記)


 誰のどの歌を選ぶか。時代によって、選者によって、選の方針によって、企画の趣旨によって変わるものだ。今回の『新・百人一首』が選んだ歌人は、平成以降の類似の企画とどの程度共通し、どの程度違うのか、次の2編と比較してみよう。

------------

●『短歌俳句川柳101年』(『新潮』1993年10月臨時増刊。三枝昂之選。1892年から1992年までの101年間の歌集について、各年1冊、歌人1人につき1冊のルールで、合同歌集3冊のほかに98人分を選んでいる。)

●『名作の表現〈実例〉鑑賞』(朝倉書店、2012年6月。明治から平成初年までの歌人100人を選び、1首鑑賞をおこなう。)

------------

さて、『新・百人一首』では、

a群:『短』『名』の両方と重なる
 ——65人
(50音順、以下同)

・会津八一  ・阿木津英  ・石川啄木
・伊藤左千夫 ・上田三四二 ・大西民子
・岡井隆   ・岡野弘彦  ・岡本かの子
・落合直文  ・小野茂樹  ・尾上柴舟
・春日井建  ・加藤治郎  ・金子薫園
・川田順   ・河野裕子  ・岸上大作
・北原白秋  ・木下利玄  ・葛原妙子
・窪田空穂  ・窪田章一郎 ・小池光
・古泉千樫  ・五島美代子 ・近藤芳美
・斎藤史   ・斎藤茂吉  ・佐佐木信綱  
・佐佐木幸綱 ・佐藤佐太郎 ・島木赤彦
・釈迢空   ・高安国世  ・俵万智  
・塚本邦雄  ・土屋文明  ・坪野哲久  
・寺山修司  ・土岐善麿  ・中城ふみ子  
・永田和宏  ・長塚節   ・中村憲吉  
・馬場あき子 ・福島泰樹  ・穂村弘
・前登志夫  ・前川佐美雄 ・前田夕暮  
・正岡子規  ・道浦母都子 ・宮柊二  
・武川忠一  ・森岡貞香  ・安永蕗子  
・山川登美子 ・山崎方代  ・山中智恵子  
・与謝野晶子 ・与謝野鉄幹 ・吉井勇  
・吉野秀雄  ・若山牧水
 

b群:『短』『名』のいずれか1つと重なる
 ——16人


・明石海人  ・伊藤一彦  ・栗木京子  
・小中英之  ・今野寿美  ・三枝昂之  
・坂井修一  ・高野公彦  ・竹山広  
・玉城徹   ・富小路禎子 ・永井陽子  
・花山多佳子 ・原阿佐緒  ・三ヶ島葭子  
・水原紫苑


c群:『短』『名』のいずれとも重ならない
 ——19人


・秋葉四郎  ・石川不二子 ・岩田正  
・大島史洋  ・岡部桂一郎 ・尾崎左永子  
・皇后美智子 ・河野愛子  ・小島ゆかり  
・小高賢   ・篠弘    ・島田修三  
・清水房雄  ・浜田到   ・松平盟子  
・村木道彦  ・明治天皇  ・米川千嘉子  
・渡辺松男


選外:『短』『名』共通の入選歌人を選ばない
 ——12人


・青山霞村  ・新井洸   ・太田水穂  
・片山広子  ・加藤克巳  ・木俣修  
・島田修二  ・田谷鋭   ・服部躬治  
・樋口一葉  ・宮沢賢治  ・森鴎外



 比較したのが2編と少ないからあくまで参考程度のグループ分けだが、『新・百人一首』の傾向を判断する1つの材料にはなるだろう。100人中81人がa・b群に入ることをもって、穏当な選と見るか。あるいは19人がc群であること、選外が12人にのぼることをもって、別の見方をすべきか。

 私は新味のある選だと思う。それは、「近代歌人と現代歌人の割合」が「三対七」という同書の方針のためかもしれない。20年後に同種の企画を別の選者でおこなったとして、このc群から入選する歌人はいるだろうか。もし少なからぬ人数が再び入選するようであれば、それが今回の選者の眼力の証明になる。もし1人も入選しないとなれば、それは……いや、そんなことにはなるまい。

 なお、3編に共通して選ばれたa群65人は、今日まで作品が読まれ続けている歌人と見なしてよいだろう。岡井隆は本書の座談会記録で、

 まあ、プロの歌人なら誰が選ぼうと九五パーセントは一致すると思いますね。



と発言しているが、上の「65」という数字が示唆するように、「一致する」割合は実際には「95%」をかなり下回るのではないかと思う。

 ほかに私が関心をもつのは、選外になった歌人である。従来の各種アンソロジーからまず外れることのなかった太田水穂、加藤克巳、木俣修、島田修二、田谷鋭といった人が、今回の『新・百人一首』からは外れている。これらの人たちの歌は今後次第に読まれなくなっていくのか、あるいはそうでもないのか。短歌への関心を失わないかぎり、私自身は田谷さんの歌をずっと愛唱すると思う。

 
生活に面伏すごとく日々経つつセルジュリファールの踊りも過ぎむ

子をもちて二十三年わが得たる慰藉限りなし与ふるは無く
 



(2014年1月11日 記)

 選者4名は当然「百人」のなかに入る。馬場あき子の「一首」は次の歌。

夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん



 永田和宏による解説は、

 花が散るという儚いはずの時間が、結句「とどまらざらん」によって、永遠に続く時間であるかのように思われる。



というもので、なるほどなあと思わせる。

 この歌は古歌の

しののめにおきて見つれば桜花まだ夜をこめて散りにけるかな

  大中臣頼基(『続後拾遺和歌集』)



とほぼ同じ道具立てだが、具体的なイメージを喚起する「しらじらと」、永田さんも注目する「とどまらざん」、に馬場さんの工夫があるのだろう。


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