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工兵の支ふる橋を渡るとき極まりて物をいふ兵はなし

  山口茂吉『赤土』(1941年)


 本書の口語訳は、

工兵が肩で支える橋を渡る時に思いは極まって、ものを言う兵は誰もいない。


 原歌にない「肩で」を補っているのが著者の工夫で、これ自体が適切な解釈の提示だと思う。鑑賞欄にも、

 昭和十二年七月の盧溝橋事件により始まった日中戦争は、八月の第二次上海事変以降、上海から南京にかけての揚子江下流のデルタ地帯が主な戦場となっていた。このあたりはクリークが多い場所として知られており、掲出歌はクリークを渡る際に工兵が仮橋を渡して、それを水の中に入って肩で支えている場面である。


とある。「肩で支えて」と解する根拠を示していないが、しかるべき史料を確認済みなのだろう。私などの想像の及ばない前線の模様だが、軍事の分野では「肩で」というのは常識的な事柄なのだろうか。また、当時の日本では「肩で」とことさらに説明しなくても通じたのだろうか。


(2019.5.12 記)


 一部の記述を改めました。全体の要旨は変えていません。(同日追記


鏡なす月夜和多津美(つくよわたつみ)はてなくて翔(と)ぶ機の影ぞ澄み移るのみ

  穂積忠『雪祭』(1939年)


 日中戦争初期のいわゆる「渡洋爆撃」に取材した連作「月夜南京空爆之歌」のうちの一首。本書鑑賞欄には、

 満月の照らす海の上を飛んでいく飛行機の姿が美しく描かれている。(略)「鏡なす」「和多津美」「澄み移る」といった古風な言い回しを用いて、戦争を美しく詠んでいるところに特徴がある。


とある。「機の影」は字音語「機影」を大和言葉風に訓み下したものだろうし、機影の語意は「飛んでいる飛行機の姿」(大辞林)であるから、「海の上を飛んでいく飛行機の姿が美しく描かれている」という解釈も誤りとは言い切れない。ただ、月夜の海を「鏡なす」と表現していることを考えると、どうだろう。その設定を生かすには、海面に航空機の影が映っていて、それが移動してゆく、と解した方がよいと私は思う。

 ともあれ、上の引用箇所には重要な問題提起が含まれている。戦争に取材した詩歌の美をどう評価するか、である。当時の戦争記録画等の問題とも重なるものだろう。

 引用文の指摘の通り、掲出歌は美しい。一点の人工物を置くことで、月夜の海の美はより一層強調されていると思う。「和多津美」の表記の効果も見逃せない。これについて、引用文が「古風な言い回しを用いて……美しく」といった評価にとどめているのは、むしろ物足りなく思われる。『雪祭』は釈迢空の影響を受けた特異な文字遣いが散見される歌集ではあるが、万葉仮名の使用はこの一箇所だけだ。その一種異様な文字の連なりは、それが述べ表す情景にロマンチシズムの彩りを加える効果がある。

 ところで、なぜ夜間の飛行なのか。取材先が現実の戦争である以上、そこには明確な理由があった。戦史によれば、日中戦争における日本軍の都市空爆は当初中国軍の迎撃を受けて多大な損害を被ったので、より安全な夜間に高高度から行うことになったというのだ。しかし、そのような戦法を採りつつ軍事施設等の限定された区域に確実に目標を定めることは、当時の技術では困難だった。そのため、多数の民間人が死傷することとなったのである。

 本書鑑賞欄がこれも正しく指摘する通り、穂積忠は掲出歌のような光景を実際に「見たわけではなく、新聞等のニュースから想像した」のだった。そして、空襲にさらされた中国の各都市の模様を、当時の報道はもちろん正確には伝えていなかった。したがって、穂積が空爆の実態を作中に全然取り込まなかったのも、やむを得ないといえばやむを得ない。しかし、知識のある現代の読者がこの歌の美を美として享受することをためらうとしたら、それもまた自然な反応だろう。

 概念的で平凡な戦意高揚歌なら採らなければよいというだけだが、掲出歌は歌としておもしみがあるから困る。本書の筆者は必ずしもこの歌を高く評価しているわけではないだろう。ただ、それをアンソロジーの一首に選ぶことで一石を投じたのだと思う。


(2019.4.5 記)

 『現代短歌』4月号の特集「花のうた」では、瀬戸夏子選のアンソロジーが楽しい。一歌人一首の決まりで、明治以降の個人歌集から花を詠み込んだ歌を二百首選んでいる。歌人二百人となると、正岡子規から私の知らない最近の新鋭まで、とにかく色々な人と色々な歌が集まる。かつては有名だったが今はほとんど言及されない歌人の一首があるかと思うと、つい二、三ヶ月前に出たばかりの歌集の一首がある。それらを隣り合わせるような、網羅主義と選者の個人的好みを掛け合わせたような、何と言えばよいか、大網羅主義で圧巻。

 こういった企画は選歌に偏りがあるとつまらなくなる。有名歌人の有名歌ばかりだと退屈。かといって選者の特殊な好みだけが目立つと、私などは「そう?よかったね」としか思わない。瀬戸選のアンソロジーはその辺りの匙加減がうまいのだろう。

 大御所を追ってゆくと、

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

  釈迢空『海やまのあひだ』(1925年)


のように有名過ぎるのがある一方、

泡青と薔薇いろのあぢさゐの玉を配す花は配材のためにゆめみる

  葛原妙子『朱霊』(1970年)


はあまり知られていない一首。この「そうだよね」と「ほーーそうくるか」の行き来が楽しいのだ。選がしっかりしているから、その選に漏れた歌を探すおもしろみも出てくる。自分の気付いたところでは、

君こそ淋しがらんか ひまわりのずばぬけて明るいあのさびしさに

  佐佐木幸綱『群黎』(1970年)


とか、

サンチョ・パンサ思ひつつ来て何かかなしサンチョ・パンサは降る花見上ぐ

  成瀬有『游べ、櫻の園へ』(1976年)


とかがない。瀬戸さんはどちらにもよい評価を与えなかったということか。

もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに

  加藤治郎『サニー・サイド・アップ』(1987年)


も選んでいない。近ごろの加藤さんの問題発言「女性歌人は……自由に空を翔けていくような存在」「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズ」が影響したわけでもないだろうけど。

 会津八一も入ってないなー、と思いつつ『南京新唱』(1924年)を読み返してみると、奈良の歌篇には

はるきぬといまかもろびとゆきかへりほとけのにはに花さくらしも


以外にほとんど花の歌がないのだった。今まで気が付かなかった。選ばれなくて惜しいと自分が思う一首は、

みどりごの夜半(よは)おのづから眼をあきてポリアンサスの白きかがやき

  柴生田稔『春山』(1941年)


 これが選に入らないのは、瀬戸さんが「いつ読んでも新鮮に鳥肌が立つ」(「白手紙紀行」vol.12、同誌同号)と激賞する、

みどりごは泣きつつめざむひえびえと北半球にあさがほひらき

  高野公彦『汽水の光』(1976年)


と印象が幾分重なってしまうからか。しかし、柴生田の歌の方がずっと早い時期の作であるし、当時としては嬰児と花の取り合わせも、その花の幻想的印象も、またその印象を生み出している結句の句法も斬新な気がするので、やはり惜しい。

 私の知らない歌人が何人もいた中では、

水深をもらえば泳ぎだす犬に花降りそそぐ季節があるの

  宇都宮敦『ピクニック』


がよいと思った。「水深をもらえば」と「季節があるの」は限りなく無意味に近い。こういった、韻律に奉仕するような、はかない歌が好きだ。


(2019.3.24 記)

みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる

  石上露子、『明星』1904年7月号


 佐々木幹郎による評伝『河内望郷歌』(五柳書院、1989年)を高校時代に手に取って以来、石上露子の名は私の心に刻み付けられ、掲出歌も早くから暗唱していたが、その歌碑があることは『戦争の歌』を読んで初めて知った。ということで富田林まで出掛けて、実物を見てきました!

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 碑の前に雑草が生い茂って、字が読みにくい。それほどきちんと管理はされていない感じ。左横に説明文を刻んだ碑も並び、そこに

 この戦いに大阪第四師団が参加、富田林及びその周辺の村落にも多くの戦死者を出した。この時、戦死者とその遺族の身の上を按じ、国の行末を思い、言い知れぬ深い不安と悲しみにおそわれて詠まれた……


などとある。露子の唯一の歌碑になぜこの一首が選ばれたのか、やや不思議に思っていたのだが、地域の慰霊碑としての意味もいくらか兼ねているのかも知れない。

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 こちらは歌碑が立つ本町公園から徒歩数分のところにある露子の生家(国の重要文化財、旧杉山家住宅)。裕福な造り酒屋だったという。この界隈は、国が重要伝統的建造物群保存地区に指定している。私が訪れた週末はちょうど「じないまち雛めぐり」というイベントが開かれ、よく賑わっていた。


(2019.3.10 記)

廟行鎮はきさらぎさむき薄月夜おどろしく三人(みたり)(は)ぜにたるはや

  北原白秋『白南風』(1934年)


 引き続き同じ歌。『戦争の歌』の鑑賞を読んであらためて思ったのは、連作中の一首だけを引いて鑑賞することの難しさだ。『白南風』では、掲出歌を含む十一首を「鉄兜」なるタイトルで括っている。その一連の文脈の中に置いてみると、掲出歌の印象もまた変わってくる気がするのだ。「鉄兜」冒頭歌は、

菜の花に眼のみうかがふ鉄兜童なりけり敵はあらぬに


 タイトルの「鉄兜」はこの歌から採っている。この歌が一連の中心をなすと見てよい。菜の花の間に小さな鉄兜と目だけが現れる構図が印象的で、美しい。子どもの目に焦点を絞り、背後はぼかした一枚の写真のようだ。それに加えて時代背景をよく取り込んでいて、よい歌だと思う。

 この歌の直後に「爆弾三勇士を憶ふ」との詞書が入り、これは残りの十首全てにかかるとおぼしい。その一首目が掲出歌。ほかに

ますらをはかねて期(ご)したれ行きいたり火と爆(は)ぜにけり還る思はず


突撃路あへてひらくと爆藥筒いだき爆(は)ぜにき粉雪ちる間(ま)


といった歌が並ぶ。これらを一首ずつ個別に見れば、そこに確かに「彼らの勇気を讃える心情」を読み取れるかもしれない。ただ、鉄兜の一首と関連付けて読むならどうか。菜の花畑で兵隊ごっこをして遊んだ子どももやがて成長し、本物の兵士となって出征し、戦死する。そのあわれさに主題が移ったように感じられないだろうか。

 一連の最後は次のような歌である。

兵士(つはもの)はしかく死すべししかれども煙はれつつその影も無し


 この歌意はやや読み取りにくい。兵士はこのように死ぬのが使命ではあるけれども、硝煙が次第に晴れてゆき、そこに兵士の生きた証は何も残らないのだ——というふうに、一応解しておく。軍国主義風の上句で擬装しつつも、下句で無常観を強調しているのは間違いないところだろう。そうだとすると、これ以前に置かれた掲出歌などは最後の一首の「しかく」につながり、それでもって「その影も無し」の思想に奉仕するもののようにも思われる。それを「軍国美談と同じく彼らの勇気を讃える心情が表れている」とだけ取るのは、やはり一面的な理解ではないだろうか。

 本書の鑑賞は、

 作者は大正期に「揺籃のうた」「ペチカ」「からたちの花」など今も人口に膾炙する童謡を数多く作詞したが、晩年は「万歳ヒットラー・ユーゲント」「ハワイ大海戦」「愛国行進曲」を作詞するなど、次第に時代の波に取り込まれていった。


と結ばれる。しかし、少なくともこの「鉄兜」十一首の白秋は詩人の心を失っていなかったと私には思われる。


(2019.3.5 記)

廟行鎮はきさらぎさむき薄月夜おどろしく三人(みたり)(は)ぜにたるはや

  北原白秋『白南風』(1934年)


 1932(昭和7)年の第一次上海事変のいわゆる「爆弾三勇士」を取り上げた一首。本書は三人の兵士の戦死が新聞報道等によって「たちまち軍国美談」にされたことに言及しつつ、

 掲出歌もそうした報道をもとに詠まれたものだろう。


とし、

 「三人爆ぜにたる」という直接的な表現には、軍国美談と同じく彼らの勇気を讃える心情が表れている。


と解している。著者のいう「よい歌」の条件——「その時々の作者の心情」をよく表現している——を備えているということになろうか。

 しかし、「軍国美談と同じく」云々ということは、報道に影響されて戦死を美化した歌と言い換えることもできるわけだ。今の私たちの常識に照らして、それを「よい歌」に認定することはなかなか難しい。結局、掲出歌もまた「歴史を知る」ための一首として本書に採られていると私は推測する。

 ところで、本書は各歌をおおむね初出順に排列しているが、白秋の一首より後にはその「よい歌」に認定しがたい歌が見えない。言うまでもなく、日米開戦以降にこそ戦争を賛美する歌はおびただしく作られた。本書はそれらを採ることはしないのだ。今日に至ってなお太平洋戦争は歴史として取り扱うには近すぎる過去であり、それに触れるのには一定の配慮を要するからだろう。


(2019.3.3 記)

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃
(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。


  与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」(『恋衣』1905年)より



 「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」との副題を持つ有名な新体詩の第一連。『戦争の歌』収録作の中で、短歌でも長歌でもないのはこれだけだ。凡例の一項「本書には(略)歌五十一首を載せた」にそぐわないようだが、歌人の作であり、七五調でもあるということで収録したものだろう。

 この詩は初出直後に大町桂月の激烈な批判を受けた。いわく、晶子の詩は「戦争を非とするもの」で、「皇室中心主義の眼」から見れば晶子は「国家の刑罰を加ふべき罪人」だ、というのである。本書の鑑賞欄はそのことを紹介するとともに、1945年の敗戦後は一転「天皇制反対や反戦の詩」として高く評価されたことも指摘し、いずれも「偏った見方」だとして否定している。この辺りの記述は非常に示唆的で、興味を引かれた。すでに引用した本書の解説の立場、

 「軍国主義的だから悪い歌」「反戦的だから良い歌」といった捉え方では歌を読んだことにはならない。それは、戦前に「軍国主義的だから良い歌」「反戦的だから悪い歌」とする考えが存在したのと同じことの繰り返しでしかない。


は、この晶子の詩の鑑賞に明確に表れていると見てよいだろう。桂月は「反皇室・反戦だから悪い詩」と評価し、1945年以後の論者は「反皇室・反戦だから良い詩」と評価したが、どちらも詩の言葉をよく読んでいなかったというわけだ。では、本書の著者自身はこの詩をどう捉え、評価するのか。本書中では珍しく、そのことがやや積極的に開示されている。

 原作を丁寧に読めば、晶子の主眼はあくまで弟の身を案じるところにあることがわかる(略)、戦場の弟を心配する晶子の一途な気持ちは時代を超えて確かに強く伝わってくるのである。


 これも解説に示されていた方針、すなわち、

 あくまで歌は歌として、その時々の作者の心情をどれだけ表現できているか、どれだけ読み手の心を打つ内容があるかといった観点で考えるようにしたい。


を実践したものだろう。もっとも、この著者の評価にも、私は疑問を感じてしまった。なぜかと言うと、著者は1932年の上海事件の際の歌、

凍る野に戦ひをらむ子を思へば暖かき飯に涙おつるも

  久保田不二子『手織衣』(1961年)


に対しても、

 子を思う母の気持ちが溢れた歌だ。


と述べている。これに従えば、晶子の詩と久保田不二子の歌は同類で同等ということになるのではないか。しかし、両者の印象はかなり違う。久保田の歌は、大町桂月のような否定者に付き従われる栄光には決して恵まれないのだ。この違いは、やはり評価に反映させたい。

 思うに、「その時々の作者の心情をどれだけ表現できているか」という基準だけでは、「君死にたまふことなかれ」の価値は測れないのではないか。ここから先は『戦争の歌』の感想から幾分脱線した私見。家族が戦場に赴けば、誰でも心配する。しかし、それにしても「親は刃をにぎらせて/人を殺せとをしへしや」という言葉の強烈さは凡百の詩歌から突出している。掲出されたのとは別の一連のうちの、

すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。


はどうか。すめらみこと御自身は戦場にはお出ましにならないけれど、大御心が深いので、皆慈しみ合って生きよと思し召しになるだろう——というのが大意であり、なるほど、これは反皇室ではない。だが、この詩の言葉の働きには大意にまとめ切れないものがある。末尾の二行によって打ち消される以前、私たち読者がまず受け取るのは、御自身が戦場にはお出ましにならないまま「互いに殺し合って獣のように死ね、それこそ名誉である……」と仰せになる図なのだ。浅はかな批評家が大意を読み誤って非難したり称賛したりしたことにも、理由がないわけではなかった。

 己の心情を表現するために発した言葉がその枠を突き抜けて、より過激な思想を形作り、より過激な幻影を出現させる。その言葉の働きこそ「君死にたまふことなかれ」の価値の過半を生むものだと思う。


(2019.2.19 記)

中垣のとなりの花の散る見てもつらきは春のあらしなりけり

  樋口一葉『一葉歌集』(1912年)


 「中垣のとなりの花」の口語訳を、本書は「垣に咲く隣家の花」としている。生け垣に咲く花のイメージだろうか。しかし、ここは「垣をはさんだ隣家の庭の花」といった辺りが穏当な解釈だと思う。また、春の山おろしに散る花は桜だろう。

中垣のとなりの桜風ふけばこなたに花の散らぬ日ぞなき


というのはたまたまウェブ上で見付けた歌で、明治天皇の御製の由だが、一葉の歌も同様の型をふまえていると見た方がよい。

 さて、この一葉の歌は1895年作。ちょうど日清戦争の折である。詞書に、

丁汝昌が自殺はかたきなれどもいと哀なり、さばかりの豪傑を失ひけんと思ふに、うとましきは戦なり


とある。丁汝昌は清国の艦隊の提督。戦史上有名な黄海海戦を経て降伏、自身は自決した。本書の鑑賞にある通り、歌は敵国の将である丁を「となりの花」に、戦争を「春のあらし」にたとえているのである。この一首を取り上げて、今井恵子は、

 敵将の武勇を讃える気風も一つの型であったかもしれないが、それだけでもなく、開明的な思考が見える。


と述べていた(「一首鑑賞:日々のクオリア」2017年9月30日付)。詞書の結び「うとましきは戦なり」や歌の下句「つらきは春のあらしなりけり」を「開明的」と評したもののようだ。一方、本書は、

 このニュースを聞いて、敵ながら哀れと思ったのだろう。そして、戦争さえなければ死なずに済んだものをという感想を抱いたのである。


とする。報道の影響を重視するのは著者の一貫した姿勢である。巻末の解説でも「「報道」によって歌を読む(ママ)難しさ」に言及している。ただ、この著者はみずからの評価を簡単には与えない。引用文のように単に評価の材料だけを提供することが多く、本書の特色となっている。

 そのことに物足りなさを感じる読者もいるかと思う。しかし、本書は専門家でない読者まで想定したシリーズの一冊だから、あまりに詳細で専門的に過ぎる論証などはなじまない。一般読者に向けて独自の説ばかり並べるわけにもいかないだろう。著者がその制約のもとにあって各作品に評価を下すのに慎重になることは理解できる。

 もっとも、ここでは、当時の報道の傾向と一葉の歌文の内容との比較まで、もう少し踏み込んでもよかったかもしれない。一葉は新聞から戦争の情報を得ていたはずだが、丁汝昌の死を惜しむことには新聞の論調の影響があるのか、ないのか。さらに、戦争を厭う気持ちについてはどうなのか。これらが明らかになれば、著者もさすがに評価の段階に進むことになっただろうし、今井の「開明的」という評言の当否も判断できただろうと思う。

 ところで、著者は「詞書がないと日清戦争の歌だとはわからない」ことを指摘した後、次のような記述で鑑賞を締めくくっている。

 和歌においては、基本的に雅語と呼ばれる言葉しか使うことができなかった。漢語や俗語、外来語などは使うことができず、そのため、時事的な内容を直接詠むには不向きな面があった。こうした制約を外したところに近代短歌が成立するのである。


 その通りだろう。しかし、一葉にとっては「こうした制約を外したところ」に小説があった、と考えてみることもできる。しかも、小説は樋口家の主たる収入源になるかもしれなかったのである。そうだとすると、和歌を近代化する必要性はどこにあっただろう。


(2019.2.16 記)

 本書から何首か抜き出し、著者の鑑賞等に関する感想を書き付けておこう。

からあやを大和錦にくらふれはしなくたりてもみゆるいろかな

  弾琴緒『桐園詠草』(1907年)


 弾琴緒は幕末生まれの旧派歌人とのことだが、私は不勉強で知らなかった。「日清戦争の時李鴻章の来りて和を乞ひけれは」との詞書を付けた一首の由。清の織物は日本のものより劣っているというのが表の意味であり、それが国柄の優劣の比喩になっている。また、「品下りても」は「支那降りても」との掛詞になっている。要するに、日清戦争の勝利を喜び、清を見下す歌を詠んだのである。

 この一首の選出と鑑賞の仕方にこそ、本書の特色が典型的に表れていると言ってよいだろう。鑑賞文中に、この一首を讃える言葉はただの一句もない。著者の選歌の狙いは、その文中の次の箇所に示唆されている。

 織物に限らず遣隋使・遣唐使の昔より日本は多くの文物や制度を中国から取り入れており、中国は長い間に渡ってアジアで最も進んだ国であった。
 その価値観がひっくり返ったのが、まさに日清戦争だったということだろう。明治維新以降の文明開化、富国強兵、ナショナリズムの興隆の中で、日本の方が中国よりも強い、優れているという意識が国内にも急速に広まっていったのである。


 このように、掲出歌から当時の日本人の中国に対する意識の変化を読み取っている。すなわち、歴史の一局面をよく浮かび上がらせる歌としてこの一首を評価し、選んでいるのである。

 なお、掲出歌の濁点を付けない表記は出典に従ったものだ。ただ、「高校生から大人まで、幅広い年代層が親しめるように配慮した」というのが版元の売り文句なのだから、ここは著者が濁点を補って「くらぶれば」「しなくだりても」とした方がよかったのではないかと思う。


(2019.2.12 記)

 そして、第三の点について。著者は巻末の解説に次のように記している。

 戦後七十年以上が過ぎた今、現在の価値観に基づいて戦前の歌を一方的に断罪することには慎重であるべきだろう。「軍国主義的だから悪い歌」「反戦的だから良い歌」といった捉え方では歌を読んだことにはならない。それは、戦前に「軍国主義的だから良い歌」「反戦的だから悪い歌」とする考えが存在したのと同じことの繰り返しでしかない。


 軍国主義的な歌にもよいものと悪いものがあり、反戦的な歌も同様だと言うのだ。ならば、よい歌の条件は何か。著者はこんなふうに言葉を続ける。

 「戦争の歌」といえども、やはり歌である。あくまで歌は歌として、その時々の作者の心情をどれだけ表現できているか、どれだけ読み手の心を打つ内容があるかといった観点で考えるようにしたい。


 「その時々の作者の心情」をよく表現していて「読み手の心を打つ内容がある」のがよい歌であり、戦争詠もそうした基準で評価したいということだろう。では、本書中に「軍国主義的」でなおかつ「良い歌」の実例は挙がっているだろうか。明快な例歌は挙がっていないように私には思われる。たとえば、日露戦争当時の好戦的な一首、

にくにくしロシヤ夷(えみし)を片なぎに薙ぎて尽さね斬りてつくさね

  伊藤左千夫『左千夫歌集』(1928年)


を採って、著者は次のように述べる。

 歌としては心情をそのまま吐き出したもので、言葉も大袈裟で単純ではあるが、思いの強さと勢いは感じられる。


 これは一見、「その時々の作者の心情」をよく表現した一首として肯定しているようでもある。しかし、その直後には、

 戦場に行って直接取材したわけではないので、その中身はどうしても抽象的で芝居がかったものであるのは否めない。


という否定的な言葉が付け足されている。本当のところ、著者はこの一首を「良い歌」と認定しているわけではないのだ。そういう歌をなぜ採るのだろうか。巻末の解説に見える、

 私たちは歌を通じて歴史を知ることができる。


との一節にその答えはあると思われる。つまり、左千夫の一首のようなものをも採るのは、著者が歌を通じて日本の戦争史を浮かび上がらせようと試みているからなのだ。

 大国ロシアを相手にした戦争に、いかに近代日本が沸き立ち、奮い立ったかがよくわかる歌といってよいだろう。


といった評価の仕方にこそ、本書の選歌の基準は端的に示されている。

 「良い歌」だけを見ていても歴史の全体を知ることはできない。「悪い歌」もまた歴史の一部であるからだ。歌を通じて歴史を浮かび上がらせようとすれば、「良い歌」とは認定しがたいものも選出することになる。短歌史の本なら、そのような歌を引くのも当然だ。しかし、アンソロジーの場合は秀作の集成と一般に考えられているから、本書のような選歌の方針は珍しい。本書を読むときには、著者の好みの歌を気ままに選んで書いた本ではないということを理解しておく必要があるだろう。


(2019.2.11 記)

 松村さんの新著(2018年12月)で、笠間書院の「コレクション日本歌人選」の一冊。「日清・日露から太平洋戦争までの代表歌」との副タイトルが付く。このシリーズは一歌人の名をタイトルにする本が大半を占めるが、それらに比べ、歌を選出するのに手間が掛かったに違いない。

 本書の選歌の特色は、主に次の三点だと思う。第一に、大正以前の戦争詠を含めていること。第二に、いわゆる旧派の作も選んでいること。第三に、著者自身がよいとは思っていない歌をもあえて採っており、それが必ずしも有名歌でもないということ。

 まず、第一の点について。従来、昭和の戦争詠はよく取り上げられ、論じられてきた。本書にも入っている、

頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

  渡辺直己『渡辺直己歌集』(1939年)


遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし

  土岐善麿『六月』(1940年)


などは有名であり、後者に至っては今なお問題作だ。一方、大正以前の戦争詠にはそのようなものが比較的少なかった。

たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり

  斎藤茂吉『赤光』(1913年)


は例外なのである。本書に掲出の五十一首のうち、昭和の作が三十二首。比較すれば大正以前の作はやはり少ないわけだが、それでも十九首は多く採った印象だ。明治大正に手厚いと言ってよいと思う。近代の戦争詠をまとめて読めることはありがたい。それらを俯瞰することによって昭和の有名歌の再評価も可能になるだろうし、戦争観の変遷などもかいま見ることができるだろう。

 次に、第二の点について。日清戦争の頃、新派和歌はまだ黎明期だった。日露戦争のときにはすでに東京新詩社も根岸短歌会も活発に活動していたものの、旧派の歌壇もなお勢力を保っていた。だから、新派だけを見ていては日清・日露戦争の歌を選べないという事情はある。ただ、新派以前の歌をも見ようとする理由はそれだけではないだろう。現代短歌は明治の新派の流れを汲んでいるため、明治以降の短歌の歴史を考える際には、旧派の歌を見ないのがずっと通例だった。ところが、近年、旧派と新派をともに視野に入れようとする短歌史家も現れている。たとえば、本書が参考文献に挙げている松澤俊二『「よむ」ことの近代:和歌・短歌の政治学』青弓社、2014年)などである。本書はそれに近い立場に立つものでもあるのだ。

この髪を染めてもゆかん老が身の残すくなき世のおもひ出に

  下谷老人、『征清歌集』


といった新派以前の歌と並べてみることは、新派の歌の特質、ひいては現代短歌の特質を探るために有効だろう。


(2019.2.10 記)

 岡野弘彦の代表歌としては、/ うなじ清き少女ときたり仰ぐなり阿修羅の像の若きまなざし 『冬の家族』/ すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひえびえとなりて立ちをり 『滄浪歌』/ などをあげるべきであろうが、個人的には…… (16頁〜)


といって本書が取り上げるのは、

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

  岡野弘彦『飛天』(1991年)


である。永田は、

 「ごろすけほう」がわずか三十一文字のなかに三度も繰りかえされる。じつに思いきった用法であり、端正な歌を多く作る岡野弘彦であるが、ときにこのような思い切った力業を敢えてするのである。


という。穏当な評だと思う。

 藤井常世の直話によれば、この歌がまだ歌集に入らないころ、「ちょっとおもしろい歌ができたよ」と岡野がうれしそうに話していたそうだ。高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫、1991年)の自選歌のなかにも、この歌がしっかり収まっている。永田がこの一首を採ったことを、岡野は案外喜ぶだろうと思う。

 私見を付け加えるなら、「ほう」と「ほほ」が同音の繰り返しで音楽的な効果を上げていること、「しんじつ」というやや古風な話し言葉が非日常の世界へ読者をいざなうこと、に注意しておきたい。

 なお永田の解釈では、人が心ほおけて「しんじついとしい」と思う、となるようだ。異論を唱えるわけではないが、梟が……という解も成り立つのでは? あるいは、両方の意味が曖昧に溶け合っているのでは?


(2015.2.18 記)

 本書の「旅」と題された章を読んで、永田和宏という人は邪気のない人なのだなあと感じ入った。邪気がないから自分の考えていることを素直に文章にする。他の人なら用心深く隠しそうなことでも。

 私がアメリカに留学したのは昭和五九年(一九八四)のことであったが、その頃はまだ外国というのは遠い存在であった。

(略)斎藤茂吉のヨーロッパ留学(当時は洋行と言った)の際には、「アララギ」の主要歌人が集まって壮行会(壮行歌会)を催したことが記録に残っているが、実は私たち家族が旅立つ時にも、北海道や九州からも、世代を越えて、数十名もの歌人たちが集まって、送別会をしてくれたのである。たぶん歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例だと思っている。そのくらい外国というハードルは高かった。

 しかし、現在、年間一千万人を超える人たちが、観光のため、ビジネスのため、あるいは勉強のため外国へ出てゆく時代になった。隔世の感があると言うべきだが、当然のこととして外国への旅行詠が多く作られるようになる。

  (160頁〜)


といった話を枕に安永蕗子『冬麗』(1990年)の一首、

薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃


を取り上げているのだが、どう読んでも、セレブやエリートでない庶民が簡単に海外に出かけ、海外詠を大量生産するようになった代表例として安永を挙げているとしか読めない。永田は実際、安永の歌についてそんなふうに考えているのだろう。しかし、もう少し心のねじ曲がったエリートなら、そう考えたこと自体を恥じて、何も書かないものだ。

 上の引用文の内容は、全くもって正しい。安永の一首は1988年の作で、永田のアメリカ留学からわずか数年遅れているに過ぎないが、その間にプラザ合意とバブル景気があり、海外に渡航する日本人が激増していたのである。そうなっていなければ、安永の中国旅行も実現していなかったかもしれない。

 『冬麗』の海外詠には、実は、

遠国にウラルアルタイ手をあげて人呼ぶことも狼煙(のろし)のごとし
砂のほか何も見えねばゴビ砂漠こころづくしの蜃気楼
(かいやぐら)立つ


といったように、いくらか解説を要する歌もある。しかし、庶民による海外詠の例としてはもっと平明なものが望ましく、永田の選歌はまことに適切だ。

 そういうわけで私に言えることはほとんど何もないのだが、ただ一点、「歌人が外国へ行くというので送別会(壮行会)が催された最後の例」というのは正しくない。2011年の初め頃だったか、黒瀬珂瀾氏の洋行の際に「数十人」が集う送別会があった。このときは歌人だけでなく、小説家や詩人も出席した。

 考えてみれば、ある年に一千万人以上の日本人が海外に渡ったとして、次の年に別の一千万人が海外に渡るわけではない。永田のようなリピーターがいる一方で、パスポートすら持っていない者もいる。後者から見れば、外国留学や外国旅行は今日でも格別のものだ。


(2015.2.14 記)

 春日真木子『北国断片』(1972年)から、本書は次の一首を採る(214頁)。

憐れまるより憎まれて生き度し朝々に頭痛き迄髪ひきつめて結う

  『北国断片』「寡婦の章」


 この歌は春日自選の『自解100歌選春日真木子集』(牧羊社、1988年)に見えず、所属結社水甕の会員がまとめた『春日真木子101首鑑賞』(ながらみ書房、2007年)にも入っていない。従来の評価に関わらず、とくに永田の好みで採った一首ということになろうか。

 しかし、初句「憐れまるより」は助動詞の活用がおかしい。あえてこの歌を引っ張り出してこなくてもよいのに、と思う。作者本人も不本意だろう。

 第二句以下にも注意すべきところがある。「憎まれて生き度し」は中城ふみ子に先例がある。

大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生きたし

  『乳房喪失』(1954年)


 「頭痛き迄髪ひきつめて結う」は、

こめかみがきしめるほどに梳きし髪こころもはらに涼しからねば

  葛原妙子『飛行』(1954年)


の類想句だろう。春日の自筆年譜(『短歌』2006年6月号)によれば、『乳房喪失』と『飛行』が刊行された1954年に、

 夫が癌により闘病の末死去。夫の死がきっかけとなり作歌を始める。


 そして、久々湊盈子『インタビュー集 歌の架橋』(砂子屋書房、2009年)には、

 中城ふみ子の歌に触発された……


という春日本人の発言も記録されている。要するに、永田が採った春日の一首は、同時代の女性歌人からの影響を色濃く受けた作なのである。「寡婦」の歌であるはずなのに、どこか離婚した女の歌を思わせるのは、中城ふみ子の表現に学んだためでもあろうか。

 影響を受けること自体は自然なことで、単純に批判されるべきでない。しかし、影響関係がこれほどあからさまな一首を、わざわざアンソロジーに収載するのはいかがなものか。

 『北国断片』から採るなら、ほかにいくらでも候補を挙げられそうだ。

垂直に麦穂たつ畝走る子の母が希う程には俊敏ならず


はどうだろう。母の愛とエゴのつつましさに現実味がある。もっと強いインパクトを求めるなら、

髪の根迄も風は曝せり芯強き女と云われつつ株買いに行く


はどうか。株を買う女の珍しさだけを評価するのではない。経済的自立こそ、精神的自立の基盤だ。その真実に照明を当てた作は現代短歌に案外少なく、記憶に値する。

 
(2015.2.10 記)

 六〇年安保闘争詠として、本書は岸上大作の歌とともに、清原日出夫の一首、

何処までもデモにつきまとうポリスカーなかに無電に話す口見ゆ


を採る。清原の作風を評して、

 岸上とは対照的に、自己の思想表現を厳しく抑えつつ、客観的に社会の動きを詠む……(139頁)


としているのは大方の賛成するところだろうが、上の一首について、

 ここではいっさいの感情を交えず、車の薄闇のなかに「無電に話す口」が見えたことだけが詠われる。(140頁)


と読み解くのはどうか。よいもの、うれしいもの、ありがたいものを主語にして「つきまとう」とは言わない。

 デモの周辺で警察が警備に当たるのは、その限りでは公共の安全と秩序の維持のために当然のことだろう。まして現場の警官一人一人は、職務命令に従ってそこに来たに過ぎない。それを「何処までもデモにつきまとう」と見るのはデモ参加者の側の視点であって、その表現には彼らの感情が入り込んでいるように思える。

 当時の状況から、デモ参加者が警察を敵視したであろうことは理解できる。他の学生歌人の歌と並べてみるとき、この一首が比較的客観描写に傾いていることも確かだろう。しかし、「いっさいの感情を交えず」は、作品の解釈としてどうか。


(2015.2.8 記)

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Author:和爾猫
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