NHKの朝ドラを『エール』以来久しぶりに観ている。『エール』は古関裕而、『ブギウギ』は笠置シヅ子と服部良一が人物のモデルだが、自分は人並みに音楽が好きだし、それ以上に昭和戦前期の文化に関心がある。もう、楽しい!! もちろん、ドラマはすでに戦時に入っているので、これからただ楽しいだけではなくなるのだろうが……。『エール』のときは、ドラマの内容について内野光子さんと手紙やメールで議論した。内野さん、『ブギウギ』は観てますか!?

     §

 11月8日(水)放映の『ブギウギ』第28回で、いよいよ羽鳥善一(服部良一)のレッスンが始まった。歌は『ラツパと娘』。1940(昭和15)年1月にレコードが発売された作品である。恥ずかしながら、このジャズソングを初めて聴いたのだが、福来スズ子(笠置シヅ子)役の趣里が歌う歌詞で気になるところがあった。

トランペット ナラシテ
スイング ダシテ
アフレバ ステキニ
ユカイナ アマイ メロディ


 NHKプラスで何度も聴き直し、字幕まで確認した。確かに「アフレバ」と歌っている。でも……アフレバって?

 「溢れる」と「ば」なら、アフレレバ、になるはずだ。もっとも、ここだけ古文調でいわゆる未然形プラス「ば」の形だとすると、アフレバ、になる。しかし、直前に出てくるウタエバは未然形プラス「ば」の形になっていない(古典文法で言うと、已然形プラス「ば」)のだから、「溢れば」はやはり不自然だ。

 そこでやっと気が付いた。昭和15年の歌だから、譜面に書かれた歌詞の仮名遣いは旧仮名だ。旧仮名表記の「あふれば」はアオレバ、つまり「煽れば」になる。

 考えてみると、「トランペット鳴らして、スイング出して、溢れれば」では、末尾の「溢れれば」の意味が分からない。「トランペット鳴らして、スイング出して、(みんなを)煽れば」ならよく分かる。

 趣里さんも制作スタッフもきっと旧仮名表記の譜面を読み間違えたのだ、原曲の笠置シヅ子はアオゲバと歌っていたにちがいない……と当たりを付け、YouTubeで笠置シヅ子のオリジナルを聴いたのだが、驚いた。なんと笠置さんも、アフレバステキニ、と発音しているではないか。これは一体……。



 この『ラッパと娘』は作曲に加え、作詞も服部良一だ。オリジナルの録音には作詞者も当然立ち会ったと考えるべきだろう。服部はうっかり笠置の読み間違えを聞き漏らしたのか。あるいは、もしかして服部先生ご自身、アフレバのつもりで作詞したとでも言うのか。不可解!!

 ついでに、YouTubeの検索に引っ掛かった他の歌手のカバーも聴いてみた。天地総子も神野美伽も奥田民生も、アフレバ、である。誰も疑問に思わないのかな、と。ところが、なんとなんと一人だけいたのだ、アオレバと歌っている人が。どうぞお聴きあれ。



 松浦亜弥さんがすごいのか、スタッフさんがすごいのか、知らないがすごいな。字幕もしっかり「あおれば」になってるよ。アフレバを不審に思い、正解を求めてしばし考えを巡らした人がここに確かに存在したわけだ。敬意を表したい。


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 それにしても、バドジズデジドダ、とかいう歌詞、その旋律。思い切りシャウトしてて、ジャズというよりロックに近いボーカル。カッコいいな服部良一、カッコよすぎるぞ笠置シヅ子。これを聴いた後に奥田民生を聴くと、奥田さんがめっちゃソフトロックに聞こえるのが笑える。


(2023.11.9 記)


 南九州市知覧の富屋食堂の敷地内に岡野弘彦の2015年作の一首、

わが心の深き據(よ)り所(ど)ぞ。ただ寡黙に若き命を去りゆきし友


の歌碑が建てられ、この4月8日に除幕式がおこなわれたという。それを伝える南日本新聞デジタルサービスの同月11日付記事と掲載写真を見て、式当日の様子などを知ることができた。

 富屋食堂は私も見学に行ったことがある。特攻隊員、上原良司のよく知られた遺書〈明日は自由主義者が一人この世から去つてゆきます〉云々の写しをそこで見て色々なことを思わされた。この地に現代短歌の石碑という組み合わせがよいのかどうか分からないが、富屋食堂を再訪することができたらこの歌碑も見てみようと思う。

 さて、除幕式には岡野門下でこの歌碑建立の発起人である川涯利雄氏のほか、

 歌人の伊藤一彦さん(宮崎市)ら約30人が出席し、完成を祝った。


とのことで(同記事)、『歌壇』10月号掲載の伊藤一彦の三十首連作「不眠の銀河」を見ると次の二首がある。

 知覧に岡野弘彦氏の歌碑「わが心の深き據り所ぞ。ただ寡黙に 若き命を去りゆきし友」。
特攻機の飛び立てるときいのち抱(だ)きされどたましひは残し行きけむ

 恋人と別れあるいは恋を知らず死に赴きし若きら。
歌碑除幕式に祝詞をあげたるは豊玉姫の神社(やしろ)の宮司



 前の歌は〈いのち〉と〈たましひ〉の対比が読み所である。ただ、〈たましひは残し行き〉と言ってしまうと、その宗教的な死生観の効果によって戦争の残酷さがいくらか中和されることにならないだろうか。評価の難しい一首だと思う。後の歌の〈豊玉姫の神社〉は知覧に実在する大きな神社のことで、〈祝詞をあげたる〉は事実をそのまま述べたとおぼしい。豊玉姫神社は安産祈願に御利益があるとされているので、そこから特攻隊員の恋に連想が働いたのかもしれない。

 ところで、鹿児島県内に『華』という短歌雑誌があった。川涯氏が創刊し、同じく岡野門下の森山良太さんが近年発行人を務めていた同人誌である。7月に終刊号を出したそうで、9月5日付『現代短歌新聞』にそれを報じる記事が載っているのだが、その文面が穏やかでないことにちょっと驚いた。

 ……季刊で発行を続けてきたが、突然の終刊を迎えた。森山代表および会員一同の「終刊の辞」によれば、四月八日、知覧の富屋旅館の庭に岡野弘彦氏の歌碑が建立されたが、「直前まで全く知らなかったとは申せ、この度の祝事に何の協力もできませんでした。私どもは、先生に恩返しができませんでした。このことを深く深く恥じ入り、翌四月九日をもって会を閉じることに決しました」という。


 岡野家は歌碑建立に必ずしも積極的ではなかったとある人からは聞いた。恩返しができなかったことを恥じ入ると言われても、先生ご本人は困惑するのではないかと思う。それにしても、川涯氏は同門の人々に協力を募ったはずで、森山さんが〈直前まで全く知らなかった〉というのは不思議だ。何か部外者には分からない事情があるのだろう。

 同記事が『華』終刊号の森山作品を四首引いている。どれも深い情念を感じさせて印象深い秀歌だと思う。孫引きになるが、下に写しておこう。

ひとつ葉の垣のみどりのあたらしさ 路ひとつ隔ててあれと言ふ者

祭文に師の名いくたびも聞こえ来ぬはつなつの陽に幣ひかる見ゆ

人の為しし多くは人に毀たれきイシュタル門の獅子の彫像

この歌誌にいのちの際を綴りける幾人
(いくたり)おもひ千々に乱るる


 私が特に感銘を受けたのはイシュタル門の一首。まるで歌碑に投げつけた呪いの言葉のようだ。華短歌会の人たちに対して誰かが〈路ひとつ隔ててあれ〉と言ったようだが、一体それは誰なのだろうか。

 新聞の写真で見ると、歌碑の姿かたちはさすがに見事だ。一方、関係者の人間模様はあまり美しいものではないらしい。


(2023.10.2 記)

 さて、ここから先は私見だが、本件が選者とその選を受ける会員の間に起きたことは、本件の本質を理解する上で忘れてはならないことだと思う。師弟間の権力関係が存在しなければ、そもそも本件のようなことは起こらなかったはずだ。したがって、これは個人の問題であると同時に〈未来短歌会の選者〉の問題であり、会の選歌体制に関係する問題と言ってよい。その意味では、未来短歌会は本件の当事者だろう。

 ところが、この四年間、未来短歌会が問題解決に向けて積極的に動いたといえるかどうかは疑わしい。たしかに同会の理事会は本件を取り上げて討議したし、ハラスメント委員会を発足させて事実確認を進めようともした。相談窓口を設置して新たなハラスメントを防止する姿勢も示した。しかし、肝心の問題は解決を見ないままだ。

 伝え聞くところによると、本件について未来短歌会が会としての見解と解決法を示すに至っていないのは、告発した側の聞き取りがある事情により実現していないからだという。部外者の私などには窺い知れない障害があるのかもしれないが、それにしても不可解な話だ。

 聞き取りの実現に向けて、思い付く限りの手段を試してみたのだろうか。また、元々の告発内容と選者側の聞き取りだけでハラスメントの事実を認定するのは困難だとしても、トラブル自体(性交渉とその後の一般会員側の抗議)の事実認定はできるのでは?

 トラブルの事実認定は、それのみでは関係者の尊厳ないし名誉の回復には繋がらないので、最終決着とはならない。しかし、少なくともそこまでできれば会として何らかの見解を表明することも可能になるのでは? そういったことをしようとしないのはどういうわけなのか。未来短歌会の理事会は本当の意味で事の重大さを認識できてはいないように見える。

 このままフェードアウト……にしてはいけない。


(2023.9.20 記)

 昨日の午後2時から5時過ぎまでZoomを利用し、中島裕介さん、内野光子さんと意見交換をした。テーマは加藤治郎氏に対する四年前の#MeTooである。まず本件の経緯について、中島さんが把握している限りのことを詳しく内野さんと私に説明した。その後、内野さんと私が中島さんに色々と質問したり意見を述べたりした。#MeTooを告発した側の主張は大筋で信頼できるということで内野さんと私の意見は一致した。


(2023.9.19 記)


 葛原妙子の第一歌集『橙黄』(1950年)は「霧の花」「橙黄」の二章から成っている。この章立てにどんな意味があるかというと、前者は1944年秋から翌45年秋までの疎開生活に取材した作品、後者は戦後五年間の生活に取材した作品ということである。

 では、この最初の歌集がなぜ疎開生活の歌から始まっているのか。それは著者本人が疎開で軽井沢に移り住んだ一年間を自分の人生の重要な画期と見なしていたからだ。のちに葛原はこの一年間を振り返って、

 今やそれ以前の生は消し飛んで無きが如くである。すべては此処から発し以後の私を作りあげた。


と語った(「戦後短歌の「方法」の推移とわが越し方」、『短歌』24巻8号、1977年7月臨時増刊)。また、別の随筆には、

 私はこの山で強くなって零下数十度の寒冷や飢餓に耐え、漆黒の闇にも慣れた。いまはどんな水溜でも自由に飛べたし、いなづまの差す道をおさな児や荷物もろともに走ることも出来た。/精神が自由になって……


云々とも記している(『孤宴』1981年、91頁)。東京府下の病院長夫人が一人で三人の幼い子どもたちを連れ、寒冷の僻地で冬を越して強く生きる自信を得たということだろう。そのことに葛原本人は重大な意義をみとめていた。葛原が潮音社に入り、本格的に短歌を作り始めたのは1939年だったが、それ以上に1944年の疎開を人生の節目として本人は重視していたわけである。

 ところで、ここに一つ問題がある。「霧の花」の歌は実際に44年秋から45年秋までに制作していたものか。通説によれば、そうではない。

 歌集の後書を見ると、

 昭和十九年の秋から翌終戦の二十年の秋迄、約一年間の疎開生活の記念として、「霧の花」が残された。紙数の都合上、これらの外に切捨てられた歌を加へて私の第一歌集とされる予定のものであつた。


とある。元々は一年間の疎開中に作った歌でもって歌集『霧の花』を編む計画だったが、それは実現しなかった、そこで今、その中から抄出した歌に戦後の作を加えて歌集『橙黄』を上梓する——というのだ。ところが、歌集刊行当初から、潮音社内ではその言葉が額面通りには受け取られていなかった。『潮音』1951年2月号が『橙黄』の書評を三本載せているが、そのうちの一本、赤松秀雄「歌集「橙黄」に寄せて:短歌に於ける感覚」に、

 試みに昭和十九年秋頃の潮音誌上に載つた氏の歌をみるがよい。この歌集に於て、それらの歌が如何に書き更められてゐるかをみるならば、この作者の胸中をおそつた嵐のやうな覚醒の跡がうかがはれるであらう。


とある。「霧の花」の歌は昭和十九年当時『潮音』誌上に載っていた歌とは違う、と認識されていたのだ。どうして違うのか。ずっと後年になって、藤田武がその事情を説明する重要な証言をした。

 疎開生活の記録的作品とされていた第一部「霧の花」の大半が、実は、昭和二十五年夏過ぎてからの一週間ほどの間の制作で、全体的に再構成され、逆に『橙黄』のなかの最も新しい部分でもあることは、従来、見逃されていたことである。(『短歌研究』1980年10月)


 「霧の花」の大半は、歌集刊行の目前の時期、ごく短時間のうちに集中的に制作されたものだというのだ。葛原本人もどこにも書き残していない内容の証言である。藤田は同じ潮音社の歌人で、葛原とも早くから親しい間柄だったから、葛原から直接その話を聞いたものと推測される。それで、寺尾登志子『われは燃えむよ:葛原妙子論』(2003年)川野里子『葛原妙子:見るために閉ざす目』(2019年)もこの藤田証言を採用し、「霧の花」の歌の大半の制作時期を50年夏と見なしてきたのである。

 さて、私もこの通説に異論を唱えようというのではない。ただ、藤田証言をよく読めば、「霧の花」の一部の歌は50年春以前に制作され、残りの歌が50年夏に制作されたと受け取れる。では、どの歌が50年春以前の制作なのか。その中には疎開中にすでに作っていたものもあるのか。先行研究は、そのような細かい検証には手を付けてこなかった。そこで思い立って、「霧の花」の歌の初出調査をしてみた。現時点で分かったところを近日中に整理し、報告する。


(つづく)


(2023.9.3 記)

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