こうして初対面から激論を交わした空穂と八一であったが、間に入った山口の人柄のゆえでもあろうか、その後は互いに一目置き合う仲になったようだ。早稲田出身で窪田門下の岩津資雄が『会津八一』(南雲堂桜楓社、1962年)に次のように記している。

 私が道人の存在を知ったのは、早稲田大学文学部の学生時代のことで、道人の親友山口剛教授から講義時間の挿話として、道人のうわさを聞いた時に始まる。それはたしかに大正十四年で、道人の「南京新唱」が出版された翌年、道人の大学における美術史の講義が始まる前年であったと思う。私は山口教授の話しを聞いて、早速「南京新唱」を手に入れて愛読した。一方やはりその頃、窪田空穂教授の家に伺うと、客間の壁間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が懸っていた。空穂教授はその額を指して、「これは弘法以来天下に書家なしと豪語している会津八一の字だヨ。ちょっと梯子をはずしたようなところがあるネ」といった。字の面白さはさりながら、その比喩のうまさに私は感心したものである。(177-178頁)


 『南京新唱』刊行が大正13年、八一が早大で東洋美術史の講義を始めたのが同15年。その間の同14年、つまり1925年の話ということで間違いないだろう。空穂宅の客間に「孤雲還 秋艸道人」と書いた扁額が掛かっていたという。「梯子をはずしたような」という空穂の評に岩津は感心しているが、情けないことに私にはこの比喩の意味が分からない。ともあれ、同じ額のことを篠弘も書いている。

 大学時代のわたしは、雑司谷にある空穂邸にしばしば出入りしていた。(略)その客間に、八一の書が掲げられていた。「乙丑七月」とあるから大正十四年に書かれたもので、「孤雲還」という作品である(略)
 あるとき空穂が、この書の来歴について語ってくれた。「これは会津さんが額に入れて、もってきてくれたものですよ。若いころの作品で、昭和のはじめごろだった。空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえるのではないか、と言ってね。案の定、吉江喬松や岩本素白らの諸君が、これで八一の書が好きになったよ」と、たのしげに話された。

(「「孤雲還」のイメージ」、十二巻本『会津八一全集』月報10、1983年1月)


 篠の大学時代というから、はるかに下って1950年代の初めだ。八一は「空穂さんの家に置いてくれるならば、多くの人たちに見てもらえる」と言って持ってきたという。空穂は「昭和のはじめごろだった」というが、「乙丑七月」との書入れと岩津の話を併せ考えると、八一が空穂宅に「孤雲還」の額を持ち込んだのは1924年7月か、そのすぐ後だったのだろう。そして空穂は八一の書が気に入った。その後二十数年、額がずっと同じ客間の壁に掛かっていたのが何よりの証拠だ。

 もっとも異伝もあって、窪田門下で砂子屋書房創業者の山崎剛平『老作家の印象』(砂子屋書房、1986年)には、

 空穂先生のところの二階に初め(大正年代)木堂の「楽性天」の額があった。それが秋艸道人の「孤雲還」に代り、後仝「廓寂」になった。(235頁)


とある。「廓寥」になったというのは八一が早稲田大学を辞する以前、つまり戦前戦中のことだろう。あるいは一度「廓寥」の額に掛け替えた後、再び「孤雲還」に掛け替え、それを戦後に篠が見たものか。そうだとしても、空穂が八一の書を好んだことに変わりはない。


(2018.9.18 記)

 ところで、八一の「私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた」という言葉はいやにアッサリとしているが、そこは八一のこと。「大いに論じた」というのは、つまり大声で激しく自説を主張したということにほかならない。植田前掲書に

 これはもうほんとうに会津伝説となってしまったことであるが、ある日、道人は山口剛の家にぶらりと遊びにいった。放談数時間おれが万葉集の講義をすれば日本で最高だなどと熱を吐いているところへ、窪田空穂が遊びにきて、歌について大激論を行なったらしい。延々数時間に及ぶ大論戦であった。空穂の弟子の山崎剛平が訪ねると、「今、会津八一と論争をしているが、どうもわしの方が歩がありそうだ。あと十五分もすれば、帰宅するから家で待っていよ」といって二階へ上がっていった。やがて、二人の大声がさかんにきこえてきたという。(365頁)


などとあって、植田は特に注記も付けていないが、これは八一の随筆と同じ出来事を伝えているのだろう。


(2018.9.17 記)

 というのも、村崎の文では空穂と八一がいかにも親しげに感じられる。しかし、八一本人の言によれば、二人は『南京新唱』刊行後に初めて顔を合わせたのだ。八一の随筆「凝つた小冊子」は『南京新唱』にまつわる思い出を記したものだが、そこにこうある。

 私はその頃まだ窪田空穂君と知り合つてゐなかつた。ある日山口剛君の宅で初めて会つた。そのまへに一冊寄贈しておいたので、自然その話になると、窪田君は改まつて、どうも私の歌が面白くない。つまりたいへん下手な歌だと批評してくれた。なるほど窪田君あたりから見たらそんなものであつたのであらう。しかし私も何か大いに論じたやうに覚えてゐるが、何をいつたか忘れてしまつた。するとそれから十日も経たないうちに相馬御風君が『早稲田文学』で、それから思ひもかけぬ斎藤茂吉氏が『女性』といふ雑誌でだいぶ褒めてをられたのを、わざわざ持つて来て見せてくれた人がある。(十二巻本『会津八一全集』巻七、中央公論社、1982年、156頁)



 御風「砂上漫筆:此の一篇を『南京新唱』の作者におくる」を掲載する『早稲田文学』は1925年4月1日発行、茂吉「痴人の痴語」を掲載する『女性』も同月同日発行である。したがって、『南京新唱』刊行の翌年、1925年の3月か4月のことだったのだろう。当時、空穂と山口の家は雑司ヶ谷で隣同士で、この二人も親しく交流していた。それで、山口宅で空穂と八一が初対面という次第になった。廓言葉の話は、おそらくその席上で空穂に披露された。それが後年になって村崎に伝わり、ああいった書き方になったものだろう。


(2018.9.16 記)

 会津八一の最初の歌集『南京新唱』(1924年)の書名は、原案では「南都新唱」だったという。植田重雄『秋艸道人会津八一の芸術』(恒文社、1994年)がその辺りの事情に触れている。

 春陽堂に原稿を渡して、一まずほっとしたところで、親友山口剛のもとにぶらりと遊びにいった。剛に跋も書いてもらっている間柄である。その歌集の名は何であるかたずねた。奈良にちなんで、「南都新唱」という本だと語った。すると、山口剛は即座に膝を打ってカラカラ笑い出したのである。何が可笑しいかと問いつめると、「『なんとしんしょう』は廓言葉では、お太夫さんが客に口説かれたとき、何と申し上げたらよいでしょう、どうしましょうとはじらう文句なのだよ。会津君、こりゃ困ったことになりんしたわえな」。あわてたのは道人である。脂汗を流し、巨体をゆすって、その足で春陽堂にかけつけ、「南京新唱」に改めたのである。(386頁)


 山口剛は近世文学の研究者で、八一と同じ早稲田大学出身。また明治末年から早稲田中学で、後には早稲田大学文学部で八一の同僚だった。この山口の指摘によって、書名を改めたというわけだ。また、植田の著書以前、村崎凡人『窪田空穂』(長谷川書房、1954年)には次のようにある。

 文学部で顔を合わせている会津八一が、今度、歌集が出たからといつて、一冊を空穂に贈呈した。四六長判、赤地に鹿の古瓦の拓本があつて『南京新唱』と題してある。春陽堂から出ている。八一が云つた。
「はじめ、奈良の歌だから『南都新唱』としてみたのだ。そうすると、ほら、なんとしんせう、というのは、歌舞伎の廓言葉だろう。それで『南京』にしたのさ。ははは」
と大きな體をゆすつて豪放に笑つた。(296頁)


 窪田空穂もまた早稲田出身で、1920(大正9)年から早稲田大学の教員となっていた。八一が同大に勤務するようになったのは1926年で、そこからこの二人も同僚の関係だった。

 さて、植田と村崎の文を並べると、八一が廓言葉の話を山口から教えられた後、空穂のところに行って同じ話をした、という風に解される。ところが、もう少し調べてみると、村崎の方はどうも誤伝が混じっているらしい。


(2018.9.16 記)

 『現代短歌新聞』78号(9月5日付)の感想の四つ目。川野芽生「私達が聴かなかった声」について。

 当ブログの8月14日付の記事で取り上げた北村早紀の文章に続き、高島裕の時評「抵抗の拠点」(『未来』7月号)に反論しようとしたものだ。しかし、この川野の文章もまた、反論としては成立していない気がした。高島は元財務次官のセクハラ疑惑の一件をめぐって次のように記していた。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。ここに露呈しているのは、言語観の貧しさである。生きた会話の中で出てきた言葉を、一切の文脈抜きで一義的に意味づけ、「セクハラ」の定義に照合するという手続きの過程では、言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性が、すべて切り捨てられてしまう。誰も反対できない正義の名において、生きた言葉が殺されてゆく。


 このうち〈会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまった〉の主語が省略されているが、この引用箇所の前を読むと、報道と報道に押された財務省が、ということだろう。こうした高島の主張に対して、川野は次のように述べる。

 しかし「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。ハラスメントはむしろ、言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈を最大限利用して振るわれる暴力だからであり、その文脈に見ぬふりをしての、「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまうのがこの社会だからだ。


 高島のいう「生きた言葉」を「聞こえのよい言葉」と捉える川野は、明らかに高島を批判しようとしている。しかし、高島と川野の文章を何度読み返しても、私には両者が遠く隔たっているようには思えなかった。「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場、雰囲気、社会通念といった膨大な文脈」を見る必要があるという点では、両者は一致しているのだ。

 だから、高島に対する川野の批判には無理があると私には思われる。

「生きた言葉」といった聞こえのよい言葉のもとに差別や暴力が温存されることこそ、私は警戒したい。


といった言い方は論理を超越している。川野自身の立場に徹するなら、「生きた言葉」の検証を通して差別や暴力を糾弾することになるはずだ。また、高島は常識的にはセクハラ発言としか思えない元次官の言葉について「言葉の多義性、言外の意味、当事者の関係性や立場」などを考慮してセクハラか否かを認定すべきだと主張したのだが、川野の

「ただ○○と言っただけで咎められるのか」といった言い抜けや擁護がしばしば通ってしまう……


は、その一言だけではセクハラ認定の判断が分かれるかもしれない○○発言について述べており、高島への反論にはなっていない。

 川野はいわゆるMe Too 運動を考える上で注意すべき点として、司法などの制度に頼れない現状が背景にあること、その分世論の支持を得る必要があるが、そのためには「理想の被害者」でなければならないこと、の二点を挙げつつ、文章全体の結語として「文学の役目」に言及する。

 制度でもポピュラリティでもない言葉をどこに求めればよいのか。それこそが文学の役目だろう。(略)自分の足元の深淵を覗き込む覚悟で、他者の言葉に耳を傾けること、文学の未来はその先にしかない。


 まっとうな文学論だと思う。ただ、元次官をも、またその告発者の職業倫理を問う者をもまずは「他者」として遇するべきだ、というのが高島の意見なのだ。とすれば、川野の文学論は、やはり高島への反論にはなっていない。

 思うに、両者の間にあるのは文学論の対立ではない。その件では、二人の言葉は奇妙なまでによく似ている。では、何の対立か。結局のところ、川野は元次官のセクハラ認定に賛成であり、高島がその認定に消極的であるということが許せないのだろう。


(2018.9.5 記)

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Author:和爾猫
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