次に第二の点、内容の一部が不適切であったことを編集部が認めたことについて。佐藤弓生と川野芽生の発言に対して、同じ読者某が

『短歌とジェンダー』と題した特集内で作者の性別を特定する発言は不適切である


と主張したという。そして、編集部はその主張を全面的に認めたわけである。こちらはどう評価すればよいか。結論から言おう。私の考えでは、読者某の主張こそむしろ適切でない。その主張を認めてしまった編集部の判断は不当だ。

 ここで注意すべきは、佐藤と川野のやり取りの文脈だろう。佐藤の、

 男性の短歌からは今回、適切なサンプルが見つからなかったということでしょうか。


という質問は、川野の選歌における性別の偏りに焦点を当て、その選歌の意図を問うている。〈男性歌人にはジェンダー問題について考えさせられる短歌がないのか〉というのである。これは〈男性歌人はフェミニズムについて語ってこなかったのか〉という問いにまで繋がる、十分に意義深い問題提起であったように思われる。これに対して川野は、

 今回は特に女性が女性をエンパワーメントする歌を選んだ形になりました。


と返答した。「今回は……形になりました」との言い方で、男性歌人にも「ジェンダー問題について考えさせられる短歌」が存在すること、そうであるにも関わらず自分はそれを選ばなかったこと、を認めたのである。一瞬緊張が走ったのが感じ取れて、私にはこの座談会で最も印象深い場面の一つだった。

 ところが、読者某はこの問答を不適切だと言うのだ。私には不可解極まりない主張のように思える。読者某はフェミニストのように想像されるが、実のところその主張はフェミニズム嫌いを喜ばせるものだろう。それがどうにも腑に落ちないのだ。

 たとえ話をしよう。病院の外科に診察を受けに行く。診察室の扉に在室の医師のネームプレートが掲示してある。その医師の性別の表示はない。当然だ。しかし、医学部入試合格者の男女の比率の偏りを問題にする場合はどうか。受験者の性別を特定しなければ、そもそも議論自体が成り立たない。偏りを温存したい人のほくそ笑む顔が目に浮かぶ。

 国会議員、キャリア官僚、会社役員、映画監督……言うまでもなく、あらゆるところにこの男女の比率の問題は存在する。瀬戸夏子が指摘した通り、短歌の世界も例外でないようだ(『現実のクリストファー・ロビン』書肆子午線、2019年、326-327頁)。そして、原則として医師のネームプレートに性別を併記する必要性がないこと、すなわち当該分野で性別をことさらに特定する必要性がないことを再確認するために、この再確認の場では一旦性別を特定する必要があるのだ。

 繰り返しになるが、佐藤と川野の話題が男女の比率であったことに注意したい。「ジェンダー問題について考えさせられる短歌」の作者群における男女の比率である。山城周はこう述べていた。

 フェミニズムを話しているから女性だと判断するのは誤りであるし、フェミニズムの持つ可能性を狭めるものだ。(「中立はすでに(フェミニストの訂正)」)


 示唆に富んだ一文だと思う。男性歌人に「ジェンダー問題について考えさせられる短歌」はあるのか、ないのか。もしもあるとしたら、その歌を川野が選ばなかったのはなぜか。これらの話題を前にして歌人の性別の特定を禁じるのはナンセンスだろう。読者某の主張こそ不適切で、その主張を認めた編集部の判断は不当だ、と私が考える理由である。

 今回事実誤認の指摘があったことからも分かる通り、性別の特定は困難を伴うこともある。また、山城が

 私が何者であるかを語らせられたくはない。(同上)


と述べていたように、性別を特定されたくない人もいるだろう。それでも、した方がよい場合はある。様々に配慮しつつ、無理のない範囲でするのがよいと私は思う。


(2021.1.22 記)

 座談会「短歌とジェンダー」の各出席者は、事前に「ジェンダー問題について考えさせられる短歌」を五首ずつ挙げていた。問題視されたのは、川野芽生の挙げた五首に関わる次の二つの発言だ。

佐藤 (略)男性の短歌からは今回、適切なサンプルが見つからなかったということでしょうか。
川野 今回は特に女性が女性をエンパワーメントする歌を選んだ形になりました。


 まず第一の点、事実誤認の指摘について。川野の挙げた五首は、それぞれ大森静佳・本多真弓・水原紫苑・山城周・山中千瀬の作だ。佐藤弓生はこの五名の中に男性がいないと判断して発言した。川野芽生はその判断に反論せず、五名全員が女性であることを前提として発言した。ところが、読者某は、

作者の性別について事実誤認がある


と指摘した。編集部もまたそれを是認した。これらをどう評価するか。結論から言えば、私は読者某の指摘も編集部の対応も半分正当で、半分不当だと思う。

 作者五名のうち仮に誰か一人でも女性でないとしたら、「女性が女性をエンパワーメントする歌」という川野の発言は事実誤認。しかし、そんなことがあり得るだろうか。私は当初、半信半疑だった。だが、少し調べてみて分かった。一人は確かに女性でないらしい。

 『ねむらない樹』vol.5に「前号の特集におけるお詫びと撤回」が載る以前に、山城周がウェブ上(「中立はすでに(フェミニストの訂正)」2020年5月14日付)で自身が女性でないことを表明していた。すなわち、佐藤と川野の上記の発言を引いた上で、

私は今から言いたくないことを言う。/私は女性ではない。/この一文を、載せなければならない。とてつもなく嫌だ。気分が落ち込む。/私が何者であるかを語らせられたくはない。/だけど載せなければならない。/フェミニズムのためであるし、私のためである。


と記し、

少なくとも、佐藤と川野は私が女性であることを承服していると読み取れる。


と述べ、

とても良くないことだと思う。恐ろしい。情報の正誤など。


と抗議していたのだ。本人の言葉を疑う理由もない。「女性が女性をエンパワーメントする歌」という発言に対して、「事実誤認」という読者某の指摘は正当ということになろう。

 では、佐藤の「男性の短歌からは今回、適切なサンプルが見つからなかったということでしょうか」という発言はどうだろうか。こちらは川野の発言ほど簡単ではない。

 山城の文章で見逃すべきでないのは、「私は男性だ」とは決して言っていないということだ。これと全く同様に、佐藤の発言の仕方にも注意すべきだと私は思う。佐藤はただ川野が男性の短歌を選ばなかったと言っているだけであって、女性の短歌しか選ばなかったなどとは言っていない。少なくとも、言葉の上ではそう解するほかない。

 だから、山城が佐藤と川野の発言を一括りにして「私が女性であることを承服していると読み取れる」(同上)と速断したことは、不当だ。なぜこんな判断になったのだろう。不可解だ。山城以外の人間はことごとく旧来の男女二元論者で、その者の「男性ではない」との発言は必ず「女性である」ことを意味する、とでも言いたいのだろうか。山城は自身の言葉の使い分けには非常に意識的であると思われるのに、佐藤の言葉の使い方には注意を払わない。

 この私の不審は、読者某に対する私の不審とほぼ重なっている。五名の作者のうちの誰かが男性であると認定し得る根拠は、おそらくどこにも存在しないだろう。したがって、佐藤の発言まで事実誤認と決め付ける点においては、読者某の指摘もまた不当と言わざるを得ない。そうであるのにその指摘を編集部が無批判に受け入れたことは、佐藤の発言に興味を感じた別の一読者として残念だ。


(続く)


(2021.1.20 記)

 買っていなかった『ねむらない樹』vol.5(2020年8月1日)をようやく買って読んだのだが、編集後記と同じ頁に載っている短い記事「前号の特集におけるお詫びと撤回」に驚いた。前号掲載の座談会「短歌とジェンダー」(川野芽生・黒瀬珂瀾・佐藤弓生・山階基)の中の発言をめぐり、

読者の方より「引用歌の作者の性別について事実誤認がある。また、『短歌とジェンダー』と題した特集内で作者の性別を特定する発言は不適切である」とのご指摘がありました。発行元として、編集の過程でチェックに甘さがありました。お詫びをして、上記発言を撤回させていただきます。


というのだ。私が驚いたのは、主に次の三点である。

 第一に、作者の性別について事実誤認があるとの指摘があったということ。また、編集部がその指摘を是認したこと。氏名の明らかな作者の性別を誌上の発言者が誤認し、それを読者に指摘されるなどというのは、ちょっとなかなか無い話ではないかと思う。

 第二に、内容の一部が不適切であったことを編集部が認めて謝罪していること。話は単に事実誤認を訂正するということにとどまらないのだ。これも短歌雑誌ではこれまであまり目にすることがなかった事例ではないかと思う。

 第三に、座談会の出席者の発言を編集部の名において撤回していること。これまた、従来あまり聞いたことがないやり方だ。

 しばし考えさせられた。第三の点については、編集部は非常にまずいことをしたと私は思う。編集の責任者はもちろん、当該箇所の掲載に対して謝罪することはできる。しかし、発言者を差し置いて発言自体を撤回する権利まで有するものではないだろう。

 一方、幾分検討を要するのは第一と第二の点である。


(続く)


(2021.1.18 記)

 お久しぶりです。歳晩に「来年したいこと」を記すのを自分に課していたのですが、昨年末は失礼してしまいました。毎年そのしたいことを実際にやった試しがないので——。

 最近下手ながら歌を作って結社の機関誌に載せてもらっているのですが、自分で作るのはとてもおもしろく、誌面に載るとまたうれしく、ついブログからは遠ざかるという次第で。

 色々とたいへんな状況ですが、皆さん、お変わりないでしょうか。本年もよろしくお願い申し上げます。


(2021.1.16 記)
 NHK連続テレビ小説『エール』はここ二週間ほど、太平洋戦争の時代に入っている。内野光子さんの論考「古関裕而はだれにエールを送ったのか」(『現代短歌』2020年11月号)に、

 戦時下の古関をどう描くのか、注視したい。


とあった。古山裕一(古関をモデルとする主人公)が即日召集解除されたことに負い目を感じて戦争協力に傾いたとの設定は史実と異なるし、現代の視聴者に分かりやすい解釈を安易に採用した気がして私は不満だ。ただ、全体的に見て、『エール』の制作者たちは古関の戦中の活動を丁寧にドラマ化しようとしていると思う。10月8日放送回(第84回)などはテレビの画面から目が離せなかった。土浦海軍航空隊を見学して帰宅した際の、

「予科練の若者はね、すばらしかった。感動した!」


との台詞、あるいは内弟子だった五郎から「戦争に行く人が増えれば、無駄に死ぬ人が増えるだけです」と意見されて、

「命を無駄というな!!」


と激高する場面等々、軍歌の覇王と呼ばれた作曲家の一面をよく表現できていると感じた。


     §


 ところで、その『エール』9月30日放送回(第77回)に出てきた古山音の妹、梅の台詞、

「こんなときまで大好きな歌ができるなんて幸せなことじゃん。戦争がはげしくなったらできんくなるかもしれん。」


 音と梅は豊橋出身で「じゃん」と「できんくなるかもしれん」はその地方の言葉との設定だろう。注目したいのは「できんくなる」だ。これは、(a)1940年前後の当該地域でそのような言い方がすでに定着していたとの考証に基づく台詞、なのだろうか。それとも、(b)時代劇の登場人物の台詞が現代語であるのと同様に現代の方言を借用しただけ、なのだろうか。はたまた、(c)単に制作陣が時代ごとの方言の違いを知らずにうっかり作ってしまった台詞、であろうか。

 (a)なら前の記事の私見がちょっと揺らいでしまう。しかし……まあ、やはり(b)か(c)なのだろう。ツイッターでも同様の指摘が放送後間もなくあったと聞いた。

 この『エール』の例に限らず、映画やテレビドラマを観て同じような疑問を持つことは時々ある。ネットフリックス制作のドラマ『全裸監督』(シーズン1:エピソード7)の舞台は1980年代後半の東京だが、いかにもその時代の髪形・服装をした女の登場人物に次のような台詞があった。

「わたし、そろそろ会社もどらないとだ。」


 「そろそろ会社もどらないと——」だけならずっと昔からある話し言葉だが、そこに「だ」を付けると新たなニュアンスが生まれる。自分のあり方をもう一人の自分が俯瞰して説明するような、少し醒めた言い方とでもいえばよいだろうか。

 私は今から数年前、こういった言い方をする人がいることに初めて気が付いた。これには色々なバリエーションがあって、例えば「そうなるかもだけど」などと使う。この手の言い方がいつごろからよく使用されるようになったのか知らないが、少なくとも私が学生生活を送った1990年代の東京ではほとんど聞かれなかったはずだ。『全裸監督』の登場人物の台詞は原則として、制作された2019年現在の話し言葉を使用しているのだろう。

 しかし、1980年代後半の東京に「わたし、そろそろ会社もどらないとだ」といった言い方をする人が一人もいなかったかというと、それは断定できない。細々と一部の人たちが使い続けた言葉がある時点から一般的になったと考えるのが自然だろう。だから、『エール』の「できんくなるかもしれん」にしろ、『全裸監督』の「そろそろ会社もどらないとだ」にしろ、時代考証に疑問符を付けることはできるが、ありえない台詞とまでいうことはできない。


(2020.10.10 記)

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Author:和爾猫
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