『現代短歌』11月号掲載の拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」で新資料として中河与一宛太田水穂書簡を引用したが、この書簡の文字の判読には正直、苦労した。ペン書きでほぼ型通りに崩していて、比較的読みやすい字ということになるのだろう。しかし、そもそも自分などには、字が崩してあったり変体仮名であったりする時点で何かの暗号にしか見えない。そこで、かなりの部分は文脈から推測して読んでいくことになる。最後まで迷って、今でも引っ掛かっているのは、

些かも不自然に無し、世人に必然観を与ふることゝ存じ


云々と読んだ箇所だ。


  ninashi.jpg(書簡原本の該当部分)


 字の形を見ると、私にはそうとしか読めないのだが、「に無し」という言い方はどうなのだろう。口語なら「不自然で無い」であるし、文語なら普通は「不自然に有らず」などと書きそうなところだ。「不自然に無し」という言い方もあり得るのだろうか。

 あるいは「に無し」と読んだことが誤りなのだろうか。


(2017.11.4 記)


八月廿九日善光寺詣

本堂の柱に長崎の旧友たれかれ八月廿八日詣るとしるしてありけるに、今は三十年余りの昔ならん、おのれ彼地にとどまりて一つ鍋のもの喰ひて笑ひののしりむつましき人達なり。あはれきのふ参りたらんには、面会してこしかた語りて心なぐさまむものを、互ひに四百余里の道程へだたりぬれば、ふたたび此世には逢ひがたき齢にしあれば、しきりにしたはしくなつかしくなむ、

近づきの楽書みえて秋の暮

 (一茶『文政句帖』)


 一茶は本堂の柱の落書を見て、前日に旧友たちがここを訪れたことを知り、たった一日違いでこの世での再会がかなわなかったことを嘆いた。私見では会津八一の一首、

ふるてらのはしらにのこるたび人の名をよみゆけどしるひともなし

 (『南京新唱』1924年)


は一茶の句をふまえており、その意は「友の名を見て嘆くことすら、自分にはない」というのである。

 8日午後4時半すぎ、長野市の善光寺に「落書きがある」と職員から警察に通報があった。(略)

 善光寺・若麻績信昭寺務総長「信仰に対する冒とくになるので、本当に悲しくもあり、憤りを強く感じる」

 (日テレNEWS24、10月9日19:47配信)


 人の道にも移り変わりがあるとか。今日、落書は信仰に対する……。


(2017.10.10 記)

 10月14日発売の雑誌『現代短歌』に拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」が掲載されます。図版も含め12頁分です。店頭販売をあまりしていないようなので、Amazon等のネット通販をご利用いただくか、版元・現代短歌社への直接注文をお願いします。

 
 現代短歌社
 info@gendaitankasha.com
 03-5804-7100


 8月末からブログを休止して「誰が桐谷侃三だったのか」を書いていましたが、ようやく書き終えたので、近々ブログも再開します。どうぞまたお付き合いをお願いいたします。


(2017.10.8 記)

 体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ

    穂村弘『シンジケート』(1990年)



 この一首は、歌集刊行直後からよく引かれていた記憶がある。穂村の「初期の代表作」(『世界中が夕焼け:穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年、152頁)という山田航の評価は妥当だと思う。

 ただ、「現代の相聞歌でもっとも知られている歌の一つ」(同書同頁)とまで言うのは、大げさな気がしないでもない。教科書によく載っているのは「回れよ回れ」「七月四日は」。「もっとも」という言葉を、もっと大事に使ってほしい。


     §


 ……「雪のことかよ」だけが主体の言葉で、そこまでは女性の描写だってことが伝わらないんじゃないかという危惧があったんだけど、意外と伝わっている。なんか短歌って(略)なかなかそのへんの見通しがつかないんですよね。(穂村の発言、同書154頁)


 日本語の表現として、「私はさわぐ」とはあまり言わない気がする。だから、読者は間違えないのだと思う。


     §


 突拍子もないことを言う女性に出会ったことはあるが、妖精性なるものを持つ女性に出会ったことが一度もない、自分は。

 僕は女性のエキセントリシティというか妖精性みたいなものに対する執着が強いので(略)突拍子もないことを言う女性像というものを繰り返し歌っています。(穂村の発言、同書154頁)


 次のように発言する穂村は、フェミニストではない。

 そういう女性が突拍子もない世界のカギを持っていると考えていて、そして、そっちに真実があるという発想だから。僕には男性が構築した株式と法律と自動車とコンピュータの世界に対する違和感があるから。だから、女性がいつも自分を違うところに連れていってくれる、そして、そのカギになるのはエキセントリックな発言だ、ということです。(穂村の発言、同書同頁)


 たとえば株式とコンピュータの世界とは異なる世界がある、という考え方は私にも分かる。そちらの世界のカギを持っている人も、きっとどこかにはいると思う。ただし、その人は男だ。男でない可能性も大いにあるが。


     §


吐き飛ばすガムの標的 金曜の警官(ポリ)人形は勲章まみれ
  (『ドライ ドライ アイス』)


 『ドライ ドライ アイス』(1992年)では、自動車を運転する「私」が祝福されていた。自動車はまるで魔法の道具だった。「私」が幼児期の全能感を取り戻すには、自家用車が必要だった。いつから自動車の世界に違和感を?


     §


 『シンジケート』では、女はときに「私」の期待通りに行動し、ときにその期待を裏切る。たとえば、

「クローバーが摘まれるように眠りかけたときにどこかがピクッとしない?」


パレットの穴から出てる親指に触りたいのと風の岸辺で


は前者だが、

何ひとつ、何ひとつ学ばなかったおまえに遥かな象のシャワーを


「まだ好き?」とふいに尋ねる滑り台につもった雪の色をみつめて


は後者だ。「ゆひら」の一首を、穂村自身は前者と見なしている(前掲書、155頁)。それが正しいかどうか、私にはよく分からない。


     §


金曜日 キスの途中で眼を開けて「巣からこぼれた雛は飛べるの?」
  (『ドライ ドライ アイス』)


 『シンジケート』には他者がいた。続く『ドライ ドライ アイス』には、その他者がいない。「私」の期待を裏切る女はすでに去り、戻って来なかった。


(2017.8.21 記)

 考えられる可能性はただ一つ、篠の記憶違いである。ブラックリストに類するものを閲覧し、そこに前川佐美雄の名を発見した件と、1963年に内務省警保局の資料を入手した件とは、とくに関係がないのだろう。

 リストをめぐる篠の発言の根拠は何か、結局分からない。篠はいつ、どこで、何を見たのか。


     §


 『現代短歌』7月号で篠と対談し、発言を引き出したのは吉川宏志である。篠に対して、吉川が問い合わせをしてくれないものだろうか。さらに、その結果については、『現代短歌』が掲載頁を提供してくれないだろうか。対談相手にも、対談の掲載誌にも、それくらいの責任はあるはずだ。

 また、吉川や『現代短歌』編集部が本心から篠の話に興味を持っているのであれば、その根拠が気になるだろうし、きっと篠に質問したいだろうと思う。

 ともかく、問題のリストが存在したことの確認は、現時点では取れていないと言わざるを得ない。斎藤瀏はことさらに虚偽を書き連ねるような人物ではなさそうであるし、ありもしないリストをあったと言う理由もないはずなので、私はリストの存在を積極的に否定しようとは思わない。ただ、それがかつて確かにあり、こんな内容だったと言い切るには、まだ証拠が不十分なのである。


(2017.8.13 記)

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Author:和爾猫
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