昨日、西村美佐子さん企画のシンポジウム(「短歌」はどういう「詩」か 第3回)に出掛けてきた。テーマは「玉城徹」、報告者は小池純代・永井祐・西村美佐子。質疑応答の時間に私も一つ質問したが、ほかにも尋ねてみたいことがあった。忘れないうちにメモしておこう。


     §


夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし
  (『樛木』1972年)


 著名な一首が話題に出たのはよかった。だれも知らない歌ばかり引かれるのは困る。ただ、永井さんはこれを簡単に「比喩」の歌と紹介したが、どんなことの比喩と解しているのかは説明しなかった。それを尋ねてみたかった。また、比喩とは解さないことも可能では? 夕暮れというのは、人々の姿が闇に紛れ、ただ皆の帽子だけが空中に浮かんでいるように見えるものだ——私はこちらの読み方が好きなのだが、そうすると地味な歌になってしまうか。


     §


春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるる横雲の空


 玉城は定家のこの歌について、

 「とだえして」から「峯にわかるる」と変化する、その継ぎ目のところが、いかにも軽薄に、繊弱にできています。(『短歌実作の部屋』1983年)


と批判する。一方、

よし野山さくらが枝に雪散りて花おそげなる年にもあるかな


という西行の歌については、

 「雪散りて」の「て」がきっぱりとよくはたらいているのが、定家の前掲歌と大違いなところ…… (同)


と好意的だ。二首の調子の違うことは、私も感覚的に理解する。しかし、「軽薄、繊弱」とは具体的にどんなところを指しているのか。きっぱりとよくはたらいている、とはなぜ言えるのか。小池さんに尋ねたい。


     §


 私は勉強不足で、森鷗外への玉城の讃辞は「晩年になるほど加速する」ということを西村さんの報告で知った。ただ、鷗外の歌は内容が明確で、玉城の歌論とは相容れないような感じもする。


     §


それぞれに生きこし方を言ふなれど面ざしはわが少年少女
  『香貫』(2000年)


 教職を退いた老人が同窓会に呼ばれた際の感慨だろう。理屈抜きに気持ちよく読める、こういった歌も玉城にはあるが、それがシンポジウムという場の話題から外れてしまいがちなのはやむを得ない。ただ、フラストレーションは溜まる。全体的に議論の内容が難しくなり過ぎるのは、何とかならないか。私など、後半の議論はほぼ理解できなかった。真摯に、熱心に傾聴を続けた参加者の知性の高さに私は驚嘆した。


     §


 『香貫』が刊行されたばかりのころに私は一冊購入して、楽しく読んだ。そのころ、玉城徹の歌文をテーマに論じようなどという人は稀だったと思う。敬して遠ざけるといった傾向が歌壇にあった気がする。

 生前歌壇の中心にいた人も、没後はあまり語られなくなるのが通例だろう。ところが、玉城の場合はむしろ没後によく語られるようになった。なぜだろう。シンポジウムの間、そのことをぼんやり考えていた。現代短歌とは一見距離のある玉城の歌を、今回のように皆で読んで語り合おうとする。他の忘れ去られる歌人と、何が違うのだろう。


(2018.4.8 記)

4 初出時の歌壇の状況


 単行本『現代短歌 美と思想』から再収の論文十一本のうち、六本の初出が1965(昭和40)年とその翌年だ。この時期の歌壇の状況がどんな具合であったかは、本文の端々からも窺い知ることができる。たとえば、「楯としての前衛歌集」に

 前衛短歌時代の終わりは何時か、と言えば、「短歌」の編集者が更迭になった、昭和三十九年のなかばごろまで、ということになるであろう。(98頁)


とある。また、65年初出の「ゆがめられた戦後短歌史」には

 前衛短歌退潮説は、いまや前衛短歌否定説にまで堕ちこんだ観がある。(159頁)


とある。65、66年頃、商業誌を中心に反前衛の動きが顕著になっていたということだろう。

 角川書店発行の専門誌『短歌』の編集長は63年12月以前が冨士田元彦、64年1月から6月までが神崎忠夫、7月以降が片山貞美、というように変遷した。「更迭」とは、直接的には神崎から片山への交替を指す。これを機に塚本邦雄や寺山修司ら、いわゆる前衛派が『短歌』に執筆する機会が減少した。当時、寺山は次のような発言を残している。

 歌壇では、この一年と言うものの「前衛狩り」が行われて来た。「前衛短歌は終った」と言うことばさえちらほら聞かれている。(略)今や『短歌』も『短歌研究』も、目次から前衛という活字をあっさりと消し去りつつあるというのが現状のようである。(「怪文書と歌壇の現状」、『図書新聞』1965年6月26日)


 「前衛短歌否定」の動きを寺山らしく「前衛狩り」という物語めいた物言いで表現したわけだ。65年版『短歌年鑑』(『短歌』増刊号、1964年12月)掲載の「短歌年表:昭和38年11月より昭和39年10月まで」には、

 総合雑誌「短歌」編集者交替、それに伴い「短歌」の編集方針が変わり、6月号より前衛短歌は同誌面からほとんど消え、それを機会に、前衛派の後退が云々されるに至った。


という注記が見える。『短歌』編集部の手になる年表だ。菱川の指摘(「編年戦後短歌史」昭和三十九年の項、『現代短歌 '78』1978年1月)の通り、前衛排除の編集方針をみずから明かしたことになる。商業誌が先頭に立って反前衛の運動を展開していたわけだ。そこには短歌論の対立があり、商業誌の誌面の争奪戦があり、商業の論理とナイーブな文学主義との衝突もまたあったのだが、今その詳細には立ち入らない。

 もともと誰の言葉だったか、菱川善夫を「前衛短歌の伴走者」などと呼ぶ。あるいは、「前衛短歌の理論的支柱」(篠弘、『日本文学』1991年7月)との位置付けもあった。次のような説明も同じ見方に沿ったものだ。

 この頃(1954年頃—引用者注)から歌壇にも新しい短歌活動が広がり、それが前衛短歌運動となる。菱川はその運動を強力に支え、理論的リーダーとして活躍。(三枝昂之、『現代短歌大事典』三省堂、2000年6月、菱川善夫の項)


 だが、どうだろう。前記の十一本中、「前衛短歌時代」の著作は「戦後短歌史論」の一本にとどまる。残りはすべて「前衛短歌時代の終わり」以後の執筆なのだ。それらはみな前衛否定への反論、および反論の基礎になる短歌史論の提示と見なすことができる。遅れて登場したと言ってはもちろん言い過ぎだが、「伴走者」という秀抜な名付けに対しては若干の解説が必要だ。

 そして、前衛擁護を前提とする文章は、その前提ゆえに、著者本来の主張よりもいくらか高く前衛を評価してはいなかったか。注意しておくべきだろう。


(2018.3.31 記)

3 初出の時期


 収録論文を初出順に並べ替えると、次のようになる。

1962年 9月 戦後短歌史論
1965年 3月 ゆがめられた戦後短歌史
     7月 短歌批評の可能性
1966年 3月 昭和十年代短歌史評価の問題
     6月 現代短歌史論序説
     7月 実感的前衛短歌論
     10月 続戦後短歌史論
1967年 1月 昭和短歌史
1968年 1月 美と思想
1969年 11月 楯としての前衛歌集
1971年 2月 現代短歌と近代短歌
1994年 1月 現代短歌における美と思想
1999年 11月 『新風十人』の美と思想
2000年 9月 昭和十年代の花(講演)

 
 このうち、1971年「現代短歌と近代短歌」以前が単行本『現代短歌 美と思想』からの再収録、1994年「現代短歌における美と思想」以降が新収録で、その間に二十余年の隔たりがある。前者と後者で論調に違いがあるのも当然なのかもしれない。

 ところで、本書を読むと、1960(昭和35)年に一つの画期をみとめる短歌史観がたびたび披瀝されている。たとえば、「続戦後短歌史論」には、

 安保以後五年を含む、戦後二十年という、やや息の長い視野で短歌史をかえりみた時、私は、やはり三十五年に、戦後短歌の一つの段落を感じとらざるを得ない。(77頁)


とある。『現代短歌 美と思想』の前著『敗北の抒情』は1958年刊行だった。そして、『現代短歌 美と思想』で初出の一番古い論文は、1962年の「戦後短歌史論」だ。同書には六十年安保改定前後の経験を踏まえない論考は収めなかった、と解してよいのだろう。


(2018.3.20 記)

 戦時中の『潮音』に登場する桐谷侃三と当時同誌を主宰していた太田水穂の関係について、私は昨年「誰が桐谷侃三だったのか」と題する小文にまとめた(『現代短歌』2017年11月)。『潮音』の今年の2月号に掲載の高木佳子「時評:他を見ること」がその小文を取り上げてくれている。

 今日の潮音社の人たちが拙稿にどのような感想を持ったか、正直なところ、気になっていた。高木の文章はありがたく、うれしい。

 さて、その内容を見ると、冒頭に「スリリングな論考だった」とあり、「緻密な調査と検証に基づき」云々とあるのは過褒とは言え、光栄で、これもうれしい。ただ、その後は拙稿への異論が続いている。私は中河与一宛水穂書簡を新資料として提出し、それを根拠に「水穂が桐谷である」と主張したのだが、高木は「本論考に提示された書簡の書面だけでは(略)決定打には欠ける」と言う。すなわち、

 この書面を精査すれば、書面の内容は自らが桐谷侃三であるという水穂本人の直接の告白がない、「桐谷の名をもって」などの水穂本人による確定的な記述が認められれば揺るがぬ資料であるわけなのだが、それがない。したがって、中河与一氏と太田水穂の親密さ、且つ水穂の血気盛んな戦争翼賛の度合いが改めて確認されるという事実のみがそこに認められるものの、それ以上でもそれ以下でもないことが惜しまれる。


と言うのだ。

 私自身はできるかぎりの論証を尽くしたつもりだ。だが、拙稿の内容が水穂の名誉に関わることは、もちろん理解している。だから、「決定打に欠ける」との指摘は、まず真摯に受け止めなければならないと思う。

 その上で一つ、高木への疑問を述べたい。確かに、水穂書簡の文面には、桐谷の名は一度も出てこない。しかし、土岐善麿の「反戦反国家思想」を「小生完膚無く剔抉いたし十一月号潮音に発表いたしおき候」とあり、「九ポ五頁(二段グミ)に候」ともあるのが「水穂本人による確定的な記述」だ、というのが拙稿の主張なのだ。書簡の一言一句をそのままの意味で素直に読めば、拙稿のように解されるのではないか。それを「確定的な記述」として認めないと言うのであれば、具体的に理由を示してほしいと思う。


(2018.3.17 記)

2 収録論文と章立て


 単行本『現代短歌 美と思想』(a)と本書(b)の章立ては、それぞれ次のようになっている。


a 『現代短歌 美と思想』


美と思想
実感的前衛短歌論:辞の変革をめぐって

戦後短歌史論
続戦後短歌史論
昭和短歌史

現代短歌史論序説:『新風十人』と危機時代の美意識をめぐって
現代短歌と近代短歌
昭和十年代短歌史評価の問題:主として太平洋戦争下の〈空白〉に関する序論的考察 

短歌否定論の考察:昭和短歌史への一視点
新歌人集団と戦後派
短歌滅亡論をめぐって
楯としての前衛歌集

ゆがめられた戦後短歌史:前衛否定説と近代短歌伝統の絶対化
短歌批評の可能性:「文学史とは何か」の問題にふれつつ再び玉城徹を批判する


b 『菱川善夫著作集』第四巻


美と思想
実感的前衛短歌論—辞の変革をめぐって

戦後短歌史論
続戦後短歌史論
昭和短歌史
楯としての前衛歌集

現代短歌史論序説:『新風十人』と危機時代の美意識をめぐって
現代短歌と近代短歌
昭和十年代短歌史評価の問題:主として太平洋戦争下の〈空白〉に関する序論的考察 

ゆがめられた戦後短歌史:前衛否定説と近代短歌伝統の絶対化
短歌批評の可能性:「文学史とは何か」の問題にふれつつ再び玉城徹を批判する

『新風十人』の美と思想—屈折表現の基盤と背景
昭和十年代の花(講演)—『新風十人』の美と思想
現代短歌における美と思想



 『現代短歌 美と思想』のうち、「短歌否定論の考察:昭和短歌史への一視点」「新歌人集団と戦後派」「短歌滅亡論をめぐって」の三本を本書は収録していない。戦後の比較的早い時期、つまり塚本邦雄台頭以前の時期を主に扱った論考だ。未収録の理由はよく分からない。単行本の他の論考に比べて、内容が劣っているわけではないと思う。いずれも著者の根源的な思考が現にその場で繰り広げられるような生々しさに満ちていて、読みごたえがある。単行本の他の論考にも共通する特徴である。

 この三本の代わりに本書が新たに収めたのは、『新風十人』と戦後短歌との関係に焦点を当てた論考三本。こちらは実のところ、やや物足りなく感じられた。その他の論考が刺激的で、期待が大きいためにそう感じてしまうのかもしれない。すでに「現代短歌史論序説:『新風十人』と危機時代の美意識をめぐって」等で提示した見方を平易に書き直し、具体的な作品分析で補強する。堅実な内容だが、逆に言えば予定調和的であるとも思う。

 これらの収録論文の違いは結局、著者が本書中で何に一番照明を当てたかったかを表しているのだろう。著者は目的は果たしたが、一冊の本としての価値は、残念ながら『現代短歌 美と思想』よりも若干後退したと私には思われる。


(2018.2.26 記)

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